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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

南極の日

2005-12-14 | 記念日
1911(明治44)年の今日(12月14日)は「南極の日」
ノルウェーの探検家・アムンゼンと4人の隊員が人類で初めて南極点に到達した。19世紀末、探検家たちは永遠の名声を求め、雪と氷に閉ざされた未踏の地である「極点」への初到達を競ていた。先ず舞台となったのは、北極点である。
ノルウェーのローアル・アムンゼン(Roald Amundsen)は、少年の頃イギリスのジョン・フランクリン卿(探検家)の「北極探検記」を読んで影響を受け、極地の探検家になることを志し、オスロ大学卒業の後、捕鯨船などに乗って航海に熟練し、1897(明治30)年にベルギーの南極探検隊に加わったのが最初の極地探検であった。1903(明治36)年からは、帆船アユ号に乗って北極圏に入り、3年がかりの1906(明治39)年、北西航路を発見しベーリング海峡に達した。その後、北極点横断を計画し、準備を進めていたときにアメリカのピアリー(Robert Edwin Peary)隊が北極点初到達に成功した。(ピアリー隊北極点到達は1909年4月)。北極点初到達の目標を失ったアムンゼンは、ひそかに目標を南極に変更するが、アムンゼンは計画の変更を、周囲には、秘密にしていたという。理由は、北極行きとして資金を集めた手前、勝手に目標を変更することに対する支援者たちとの関係を慮ったためと、もう一つは、イギリスが国を挙げて大規模な南極探検計画を進行中であったためである。こうしてあくまで北極行き(科学的調査目的)と称して、1910年8月、アムンゼン一行を乗せたフラム号はオスロ(当時はクリスチャニア)を出港。フラム号がモロッコの西にあるマディラ島に寄港したとき初めて、隊員その他乗組員に南極行きを打ち明け、同時に、既に洋上を南極に向けて進んでいるイギリスのスコット(Robert Falcon Scott)隊に向けて「われ南極に向かわんとす」との電報を打つたという。アムンゼンからの電報で、南極を目指すのが自分たちだけではないと知ったスコット隊は、以後、アムンゼン隊とデッドヒートを繰り広げることとなる。
そして、スコット隊が、やっとの思いで1912(明治45)年1月18日に南極点に到達したときに見たものは、前年の1911(明治44)年12月14日、既に一番乗りを果たしたアムンゼン隊が残していた、ノルウェーの国旗であった。
アメリカのピアリー隊が北極点初到達に成功した後、次は、南極が「最後の未踏地」として国際的に話題になっていたことは推測できる。そして、南極点到達レースに世界中が熱狂していた時代、日本でも、イギリスのスコットが国を挙げて南極をめざすというニュースを知ると、南極探検の準備に取り掛かった者がいる。それは、白瀬矗(のぶ)である。秋田出身の白瀬は、幼い頃から探検に憧れていた。しかし、白瀬の南極探検は苦難の連続だった。集まった隊員は素人ばかり。国の援助が受けられなかったため資金も足りない。それでも、大隈重信などの呼びかけで、多くの義援金により、なんとか1910(明治43)年11月28日、出発することができたが、探検に使用した船は、18馬力の中古エンジンを取り付けたわずか204トンの木造船「海南丸」であった。翌(1911)年2月11日に、ニュージーランドのウェリントンから南極に向かったが、氷に阻まれ撤退。白瀬隊が再び南極を目指したのは1911(明治44)年11月19日のことである。そして、白瀬隊はロス棚氷(たなごおり)の北東端の鯨湾から上陸し、1912年(明治45年)1月28日に、南緯80度05分に到達。付近一帯を大和雪原(やまとゆきはら)と命名した。白瀬隊は南極点に到達することはできなかったが、無事に日本に帰還し、我が国に南極に関する多くの知識をもたらした。スコット隊は失意のうち、帰路の途中、猛吹雪に遭遇し全員死亡したそうだ。白瀬隊の船を見た、ノルウエーのアムンゼン隊から「こんな小さな船でよくここまでやってこられたものだ」と感心されたと言う。
今年(2005年)はそのノルウェーと日本との間に国交が結ばれてから100周年にあたるそうだ。 ノルウェーは1905(明治38)年9月にスウェーデンとの連合を解消し、独立。この独立交渉の最中から、ノルウェーより日本政府に対して、分離後には遅滞なく国交を結びたいとの申し出がなされ、日本政府はこの申し出を受け入れ、同年11月7日に、日本とノルウェーとの間に国交が樹立された。日本とノルウェーとの間に結ばれた最初の条約書が、1911(明治44)年の「日本、諾威( ノルウェー)間通商航海条約及び特別相互関税条約」だそうだ。
当時の日本は、イギリスとは同盟を結んで(1902年に締結)ロシアに対抗、やがて、日露戦争(1904~1905年)で勝利を収めたものの、帝国主義的傾向が強まっていた時代で、1911年と言えば、第一次世界大戦勃発(1914年)の3年前のことだな~。
(画像は、「日本、諾威間通商航海条約及び特別相互関税条約」調印書」。1911年(明治44年)。外務省・外交史料館HPより〉
参考:
南極観測のホームページ
http://www.nipr.ac.jp/jare/index.html
 南極地域観測事業外部評価書
http://www.nipr.ac.jp/jare/topics/gaibuhyouka/shiryou09.html
日本初の南極探検
http://www.tanken.com/nankyoku.html
外務省・外交史料館/レファレンス情報TOP
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/reference/index.html
2005年,日・ノルウェー国交樹立100周年
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/norway/jyuritsu100.html


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3 コメント

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南極越冬隊 (Linda)
2005-12-14 11:36:34
よーさん、お早うさんです。

僕の大学時代の生理学の教授は南極越冬隊と一緒に南極に行った人でした。10数ヶ国語を話す人でしたが、肝心の日本語が解りにくくて講義を聴くのが大変でした。
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南極越冬隊 (とんとん)
2005-12-14 12:15:35
今日は「南極の日」でしたか~ 頭に残っている12月14日は「忠臣蔵」でお馴染みの赤穂義士が吉良邸へ討ち入りのことでした。

南極の日で思い出したのが日本の越冬隊が悲しくも南極に残して帰ってきた「太郎と次郎」が極寒の南極で生き延び翌年の観測隊に感動を与えた出来事がありましたね

それを思い出しました。
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Lindaさん、とんとんさんへ (よーさん)
2005-12-15 18:19:05
Lindaさん、10数ヶ国語を話す人って凄いですね。そのくせ、日本語が良く分らない(^0^)

日本人なのに何を言っているのか分らない日本語をしゃべる人って結構多いんじゃ~ないかな?

とんとんさん、南極に残して帰ってきた「太郎と次郎」・・・本当に犬って可愛いね~。人間に放り出されたのに人になつくなんて・・・。犬って昔から人と共に生活しており、人にはよくなつくんですね。可愛がってやらなくっちゃ~ね。
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