今日・7月12日は「日本のゴッホ」、「裸の大将」と呼ばれた放浪のちぎり絵画家・ 山下清の1971(昭和 46) 年の忌日である <49歳>。
山下清の私的なことを私はよく知らないので、wikipediaや、以下参考に記載の※1※2、※3他を参考に簡単に書くと以下のようである。
山下清は、1922(大正11)年3月10日、東京府東京市浅草区田中町(現:東京都台東区日本堤)に大橋家の長男として生まれる。
翌・1923(大正12)年の関東大震災で家が全焼。その1年後の3歳の頃に重い消化不良(消化能力の低下。※4参照)になり、3ヶ月間高熱にうなされ歩けなくなる程の重態となったが、運よく一命は取りとめたものの、その後遺症から、軽い言語障害、更に知的障害が進行したようだ。
そのような障害がある事から、1928(昭和3)年、小学校に入学するが、周囲の子供達から虐(いじ)められるようになった。更に、清が10歳の1932(昭和7)年には父が病死した後、母ふじは、再婚するが、母ふじは清を含む子供3人を連れてその再婚した夫とも別れ(理由は分からないが、2番目の父親は酒乱で暴力的だったとする説〔小沢信男著『裸の大将一代記』あり。※5)て、母親の手一つで育てられるが、生活が困窮し、すぐに杉並区方南町(現:杉並区方南)にある母子家庭のための社会福祉施設「隣保館」へ転居。このときから母ふじの旧姓である山下清を名乗るようになったという(wikipedia)。
隣保館から地元の小学校に通うものの、ここでも虐められ、子供たちからの虐めがエスカレートするようになると、温厚な性格の清も、ついに悔し紛れの暴力沙汰を起こすようになったようであり、1934(昭和)年、清12歳の時、そんな清の反抗的な行動に思い余った母は、彼を八幡学園(※5)という養護施設に入園させたが、その学園が教育の一環として園児に課していた「手工」作業のひとつ、鋏(はさみ)を使わずにちぎった紙を台紙に貼り付ける「ちぎり絵」(後に貼り絵と呼ばれる)に出会う。最初は、他児とあまり変わらなかったが、これに没頭していく中で才能を発揮するようになる。1936(昭和11)年から八幡学園の顧問医を勤めていた精神病理学者の式場隆三郎の目に止まり、彼の特異な才能が世に紹介されていくことになる。
1936(昭和11)年、早稲田大学心理学教室・戸川行男講師(助手とも、※6)は、同教室の学生を連れて特異児童の心理学的特性と、また園児の作品が日常生活の中においてどのように変化していくかを研究するために八幡学園を訪ね、その成果を、2年後の1938(昭和13)年11月、同大学の大隈小講堂において「特異児童労作展覧会」として発表。園児たちの作品は一躍、多くの人々の関心を呼んだという。無論その中に清の作品も含まれている。そして、同年12月に、東京・銀座の画廊(青樹社らしい)で清の個展が開催され、梅原龍三郎や、安井曽太郎ら 画壇の長老等が絶賛したことから大反響を呼んだが、この作品が特異児童(精神薄弱)により、特異児童収容所の一室をアトリエにして制作されたことが一層人気を煽ったようである(※7)。兎に角、これが、山下清が世に出た最初である。翌・1939(昭和14)年1月には、大阪の朝日記念会館ホールでも展覧会が開催され、清の作品が多くの人々から賛嘆を浴びた(※3参照)。
しかし、指でむしり取った小さな色紙をノリで貼り付けてゆく特異な手法を創造した彼の仕事も、彼の名も、間もなく始まった戦争(太平洋戦争)の大波に飲み込まれ、忘れ去られていった。
清の八幡学園での在籍期間は長かったものの、1940(昭和15)年11月18日、18歳の時に突如学園から姿を消したが、3年ばかりでふらっと帰ってきた。そして、また、出ていってしまうが、何年かすると帰ってくる。このような繰り返しで、約15年に及ぶ放浪を繰り返した彼は、行く先々の風景を、多くの貼絵に残している。これらの作品の殆どは放浪中に作成されたものではなく、放浪中に旅先で見たものの記憶をもとに、学園へ帰ってきてから作成されたものであり、その卓越した記憶力で日記も書かれた。
そんな彼は30歳となったとき、油絵にも独自の画風を創造し批評家の中には、ゴッホと山下清の作風の類似が指摘されていたようだ。
太平洋戦争後8年経った1953(昭和28)年、アメリカのグラフ雑誌『ライフ』に彼の貼絵が注目されるが、その時彼は、1951(昭和26)年夏以来、学園から出て行方が不明(放浪)中であったため、その行方を探し始めた。
上掲向かって、左画像は、山下清の貼り絵「自分の顔」。右画像は、「日本のゴッホいまいずこ?」(1954年1月6日付け朝日新聞)と、とマスコミでもその消息が騒がれていた清が、同年(1954=昭和29年)1月10日、2年8ヶ月ぶりに鹿児島県で発見され、東京駅で家族や関係者に出迎えられているところの写真である。(アサヒクロニクル『週間20世紀』1954年号より)。
山下清の名が大々的に取り上げられるようになったのは、この頃からである。
彼をモデルにした映画「裸の大将」(1958年。映画の内容は※8 goo 映画参照)も大ヒットしたが、この映画は、山下清が自ら放浪の半生を綴った「放浪日記」(※9、※10、※11参照)から水木洋子が脚本を書き堀川弘通が監督した喜劇であり、この作品で毎日映画コンクール主演男優賞を受賞した主演の小林桂樹は、演じるにあたって山下本人に直接取材したと言う。
又、1980(昭和55)年から1997(平成9)年にかけて芦屋雁之助主演の花王名人劇場(関西テレビ・フジテレビ系)「裸の大将放浪記」シリーズ(後にはタイトルから「放浪記」が削られ、「裸の大将」として放送されたこともあった)としても制作され、この作品は彼の代表作ともなったが、彼の風貌や生活スタイル、また、彼の作品が世間の人々に広くに知られるようになったのもこのような作品によるところが大きいのだが、このような1950年代に起きた山下清ブームは彼のよき理解者でもあった精神病理学者・式場隆三郎による、メディアを利用したプロモーションの影響が大きかったと言われている。
精神障害や知的障害のある人たちが生み出す、自由奔放な絵画などは「アウトサイダーアート」と呼ばれ、近年注目を集めるようになったようだが、山下清も、その一人に数えられている。
このブログ冒頭の画像、芦屋雁之助による「裸の大将」の舞台チラシで見られるように、まず、山下清像と言えば、ランニング姿にリュックサック、放浪先で描く色彩豊かな貼り絵作者の姿が浮かんでくるが、これはあくまでもドラマなどで誇張、脚色されたものなのであるが、本当はどのような人だったのであろうか?
日記などによるとかなりしっかりした考え方の基に行動していたことが窺えるという。
1940(昭和15)年11月彼が18歳の時、突如八幡学園から姿を消し放浪に出たのは、太平洋戦争(日本の真珠湾攻撃、1941年12月8日)に入る前には、八幡学園からも数人の応召者が出たようであり、それから間もなく清は悲惨な戦争の場面を貼り絵に描いて彼は学園を出たという。開戦により戦争が深刻化していくなか、翌々年には徴兵検査を迎える年齢(20歳)となっていたこともあり、“戦争に行って死んでしまうのが怖かった”ことから出征を回避し姿を消したものらしい。
その後21歳の時に学園の職員によって滞在先の食堂で発見され、強制的に徴兵検査を受けさせられたらしいが兵役免除となり、さらに放浪を続ける結果となったが、1943(昭和18)年10月学園に戻ってきたとき、彼の日記には戦争の恐怖でいたたまれなかった心境がこまごまと書かれていたと言う。しかし、もっと根底にあったものは、学園で貼り絵に没頭していたものの、次第に学園での拘束された中での作品制作のあり方を嫌ったからのようであり、それ以上に、あるがままに自由でいたいという願望が非常に強かったからのようである。又消えた彼は、空襲の犠牲になったとばかり思われていたら、食料のない時代に別人のように太って帰ってきた。田舎で農業の手伝いをしていたらしい。これを見ていても結構、世渡り上手な人間でもあったようで、逞しさを感じる。
その後もときどき放浪を続けるが、ドラマなどでは、彼は放浪先で絵を描き、さまざまな感動を残す展開となっているのだが、先にも書いたように、実際には放浪先では殆ど絵を描いておらず、旅先で見た風物を記憶しておき放浪後、概ね冬の前には学園や実家へ帰ってから、その記憶を基に制作に打ち込んだり放浪日記をつけたりしていたという。彼の天才は、そのような驚異的ともいえる「映像記憶力」にあったことから、彼はサヴァン症候群であった可能性が高いといわれているようだ。
彼の少年時代に描かれた素朴な作品と、1961(昭和36)年、39歳のとき、式場隆三郎らとともに約40日間のヨーロッパ旅行をした時の精密な作品を見比べると、貼絵の技術は、各段に進歩、発展しており、中年期の作品の、細密な表現への情熱、執念は驚くべきものがあるが、好き好きもあるが、美術的な面白みという点では、少年期の作品のユニークさを支持する人も少なくないようだ。
彼は、世界でもよく知られている桁外れの才能を持った天才画家などとは違って、類(たぐい)まれなる純真さ、素朴さを持ち続けたが故に、普通の人には描けない作品が描けたという種類の「天才」であったということなのだろうか。
1956(昭和31)年の東京大丸での「山下清展」を始め、全国巡回展が約130回開かれ、観客は500万人を超えたと言われる。大丸の展覧会には当時の皇太子(今上天皇明仁)も訪れたというが、私なども、若い頃に一度だけ何処での展示会であったかは忘れたが見に行ったことはあるが兎に角その緻密な技巧と色彩感覚に驚かされた。その中には、戦争の場面を描いたものもあったように記憶している。
晩年には、東京都練馬区谷原に住み、『東海道五十三次』の制作を志して、東京から京都までのスケッチ旅行に出掛け、およそ5年の歳月をかけて55枚の作品を遺している。私はこの絵は見たことが無いが、検索しているとそんな絵をアップしているのを見つけた。以下参考の※13で見ることが出来るがその精密さに驚かされるであろう。
ただ、参考※7でも触れられているように、当初の戸川行男や式場隆三郎らによる学園の少年たちの作品紹介や情報の発信が「特異児童作品展覧会」として行なわれており、あくまで、純粋な芸術としての絵そのものの作品展としてというよりも、それ以上に精神医学者としての学問上や、精神薄弱児などを受け入れている学園の立場などから「精神薄弱児童」の啓蒙展であるといった色彩が強かったことはを否めない事実であったように思われる。
また、その少年たちの中から選ばれた山下清に関しての式場の作品紹介も、あくまでも式場が意欲を燃やしていたらしいゴッホ研究との兼ね合いから、障害児の「能力」的な発揮として情報が発信されていたようであり、それが、大衆的には、ある種通俗的な「天才と狂人は紙一重」という好奇心と関わりながら受け止められていったように感じられる。
それが、その後、奇妙な言動で笑いを誘う映画やドラマでも、知的障害者としての山下清像が先行し過ぎ、そのイメージのもとに絵画作品も批評されていることを、清の家族らが残念に思ったであろうことは察せられる。そのようなことから、清の家族が見た山下清像を語った本も出ている。以下参考の:※2:「家族が語る山下清」がそれであるが本の紹介の中でドラマなどでは見られない実際の清像が簡単に触れられているので、これを読むだけで大分、今までもっていたイメージが変わるのではないだろうか・・・・。
「裸の大将」「放浪画家」などと世の人々から親しまれた山下清は、大正に生まれ、戦前・戦後・そして高度経済成長期という慌しい時代を一気に駆け抜け、49歳の短い生涯を閉じるのたが、それは、まるで一瞬のきらめきを放って消える彼の大好きな花火を思わせる。
山下清の生涯を歌ったものがYouTubeにあった。以下がそれである。彼のことをよく表したなかなか面白い良い歌だと思うので、最後にこの歌を聴いて、在りし日の山下清を偲ぶことにしよう。
YouTube - 山下清のバラッド/GDBC
http://www.youtube.com/watch?v=4aDZ_etOVBs
(冒頭の画像は、コレクションのチラシより舞台公演「裸の大将」清の幸せ宅急便。主役山下清を演じるのは芦屋雁之助。サンケイホール)
※1:山下清の公式ページ
http://www.yamashita-kiyoshi.gr.jp/
※2:家族が語る山下清
http://www.namiki-shobo.co.jp/order10/tachiyomi/nonfict016.htm
※3:社会福祉法人 春濤会 知的障害児施設 【八幡学園】
http://www.yawatagakuen.or.jp/
※4:急性消化不良症 / 身近な病気の知識
http://www.byoki-syojyo.net/body/Child-51.html
※5:『裸の大将一代記 山下清の見た夢』 小沢信男 (著)
http://www.webdoku.jp/shinkan/0806/b_04.html
※6:戸川行男 とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E6%88%B8%E5%B7%9D%E8%A1%8C%E7%94%B7
※7:昭和 10 年代「特異児童作品展」と同時代の「能力」言説―試論〔PDF〕
http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/irwg10/jinshaken21-5.pdf#search='異常児の絵 式場隆三郎'
※8:裸の大将 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD3586/index.html
※9:文学にみる障害者像-『山下清の放浪日記』
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n314/n314018.html
※10:山下清の放浪日記(読書感)
http://www.synapse.ne.jp/~shinji/jyajya/hon/kiyoshi.html
※ 11:山下清の放浪日記:山下 清 (著), 池内 紀 (編集)
http://www.amazon.co.jp/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E6%B8%85%E3%81%AE%E6%94%BE%E6%B5%AA%E6%97%A5%E8%A8%98-%E5%B1%B1%E4%B8%8B-%E6%B8%85/dp/4772704760
※12:放浪の画家「山下清展」 丹波市立植野記念美術館 - 神戸新聞Web News
http://www.kobe-np.co.jp/rensai/cul/505.html
※13:山下清「東海道五十三次」
http://chasaru.s4.xrea.com/
山下清 作品一覧 | 銀座画廊おいだ美術(30点)
http://www.oida-art.com/buy/artistwork/150_1.html
wikipedia - 山下清
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E6%B8%85
日本のアウトサイダー・アート
http://puci.jp/article/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%88%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88/
山下清の私的なことを私はよく知らないので、wikipediaや、以下参考に記載の※1※2、※3他を参考に簡単に書くと以下のようである。
山下清は、1922(大正11)年3月10日、東京府東京市浅草区田中町(現:東京都台東区日本堤)に大橋家の長男として生まれる。
翌・1923(大正12)年の関東大震災で家が全焼。その1年後の3歳の頃に重い消化不良(消化能力の低下。※4参照)になり、3ヶ月間高熱にうなされ歩けなくなる程の重態となったが、運よく一命は取りとめたものの、その後遺症から、軽い言語障害、更に知的障害が進行したようだ。
そのような障害がある事から、1928(昭和3)年、小学校に入学するが、周囲の子供達から虐(いじ)められるようになった。更に、清が10歳の1932(昭和7)年には父が病死した後、母ふじは、再婚するが、母ふじは清を含む子供3人を連れてその再婚した夫とも別れ(理由は分からないが、2番目の父親は酒乱で暴力的だったとする説〔小沢信男著『裸の大将一代記』あり。※5)て、母親の手一つで育てられるが、生活が困窮し、すぐに杉並区方南町(現:杉並区方南)にある母子家庭のための社会福祉施設「隣保館」へ転居。このときから母ふじの旧姓である山下清を名乗るようになったという(wikipedia)。
隣保館から地元の小学校に通うものの、ここでも虐められ、子供たちからの虐めがエスカレートするようになると、温厚な性格の清も、ついに悔し紛れの暴力沙汰を起こすようになったようであり、1934(昭和)年、清12歳の時、そんな清の反抗的な行動に思い余った母は、彼を八幡学園(※5)という養護施設に入園させたが、その学園が教育の一環として園児に課していた「手工」作業のひとつ、鋏(はさみ)を使わずにちぎった紙を台紙に貼り付ける「ちぎり絵」(後に貼り絵と呼ばれる)に出会う。最初は、他児とあまり変わらなかったが、これに没頭していく中で才能を発揮するようになる。1936(昭和11)年から八幡学園の顧問医を勤めていた精神病理学者の式場隆三郎の目に止まり、彼の特異な才能が世に紹介されていくことになる。
1936(昭和11)年、早稲田大学心理学教室・戸川行男講師(助手とも、※6)は、同教室の学生を連れて特異児童の心理学的特性と、また園児の作品が日常生活の中においてどのように変化していくかを研究するために八幡学園を訪ね、その成果を、2年後の1938(昭和13)年11月、同大学の大隈小講堂において「特異児童労作展覧会」として発表。園児たちの作品は一躍、多くの人々の関心を呼んだという。無論その中に清の作品も含まれている。そして、同年12月に、東京・銀座の画廊(青樹社らしい)で清の個展が開催され、梅原龍三郎や、安井曽太郎ら 画壇の長老等が絶賛したことから大反響を呼んだが、この作品が特異児童(精神薄弱)により、特異児童収容所の一室をアトリエにして制作されたことが一層人気を煽ったようである(※7)。兎に角、これが、山下清が世に出た最初である。翌・1939(昭和14)年1月には、大阪の朝日記念会館ホールでも展覧会が開催され、清の作品が多くの人々から賛嘆を浴びた(※3参照)。
しかし、指でむしり取った小さな色紙をノリで貼り付けてゆく特異な手法を創造した彼の仕事も、彼の名も、間もなく始まった戦争(太平洋戦争)の大波に飲み込まれ、忘れ去られていった。
清の八幡学園での在籍期間は長かったものの、1940(昭和15)年11月18日、18歳の時に突如学園から姿を消したが、3年ばかりでふらっと帰ってきた。そして、また、出ていってしまうが、何年かすると帰ってくる。このような繰り返しで、約15年に及ぶ放浪を繰り返した彼は、行く先々の風景を、多くの貼絵に残している。これらの作品の殆どは放浪中に作成されたものではなく、放浪中に旅先で見たものの記憶をもとに、学園へ帰ってきてから作成されたものであり、その卓越した記憶力で日記も書かれた。
そんな彼は30歳となったとき、油絵にも独自の画風を創造し批評家の中には、ゴッホと山下清の作風の類似が指摘されていたようだ。
太平洋戦争後8年経った1953(昭和28)年、アメリカのグラフ雑誌『ライフ』に彼の貼絵が注目されるが、その時彼は、1951(昭和26)年夏以来、学園から出て行方が不明(放浪)中であったため、その行方を探し始めた。
上掲向かって、左画像は、山下清の貼り絵「自分の顔」。右画像は、「日本のゴッホいまいずこ?」(1954年1月6日付け朝日新聞)と、とマスコミでもその消息が騒がれていた清が、同年(1954=昭和29年)1月10日、2年8ヶ月ぶりに鹿児島県で発見され、東京駅で家族や関係者に出迎えられているところの写真である。(アサヒクロニクル『週間20世紀』1954年号より)。
山下清の名が大々的に取り上げられるようになったのは、この頃からである。
彼をモデルにした映画「裸の大将」(1958年。映画の内容は※8 goo 映画参照)も大ヒットしたが、この映画は、山下清が自ら放浪の半生を綴った「放浪日記」(※9、※10、※11参照)から水木洋子が脚本を書き堀川弘通が監督した喜劇であり、この作品で毎日映画コンクール主演男優賞を受賞した主演の小林桂樹は、演じるにあたって山下本人に直接取材したと言う。
又、1980(昭和55)年から1997(平成9)年にかけて芦屋雁之助主演の花王名人劇場(関西テレビ・フジテレビ系)「裸の大将放浪記」シリーズ(後にはタイトルから「放浪記」が削られ、「裸の大将」として放送されたこともあった)としても制作され、この作品は彼の代表作ともなったが、彼の風貌や生活スタイル、また、彼の作品が世間の人々に広くに知られるようになったのもこのような作品によるところが大きいのだが、このような1950年代に起きた山下清ブームは彼のよき理解者でもあった精神病理学者・式場隆三郎による、メディアを利用したプロモーションの影響が大きかったと言われている。
精神障害や知的障害のある人たちが生み出す、自由奔放な絵画などは「アウトサイダーアート」と呼ばれ、近年注目を集めるようになったようだが、山下清も、その一人に数えられている。
このブログ冒頭の画像、芦屋雁之助による「裸の大将」の舞台チラシで見られるように、まず、山下清像と言えば、ランニング姿にリュックサック、放浪先で描く色彩豊かな貼り絵作者の姿が浮かんでくるが、これはあくまでもドラマなどで誇張、脚色されたものなのであるが、本当はどのような人だったのであろうか?
日記などによるとかなりしっかりした考え方の基に行動していたことが窺えるという。
1940(昭和15)年11月彼が18歳の時、突如八幡学園から姿を消し放浪に出たのは、太平洋戦争(日本の真珠湾攻撃、1941年12月8日)に入る前には、八幡学園からも数人の応召者が出たようであり、それから間もなく清は悲惨な戦争の場面を貼り絵に描いて彼は学園を出たという。開戦により戦争が深刻化していくなか、翌々年には徴兵検査を迎える年齢(20歳)となっていたこともあり、“戦争に行って死んでしまうのが怖かった”ことから出征を回避し姿を消したものらしい。
その後21歳の時に学園の職員によって滞在先の食堂で発見され、強制的に徴兵検査を受けさせられたらしいが兵役免除となり、さらに放浪を続ける結果となったが、1943(昭和18)年10月学園に戻ってきたとき、彼の日記には戦争の恐怖でいたたまれなかった心境がこまごまと書かれていたと言う。しかし、もっと根底にあったものは、学園で貼り絵に没頭していたものの、次第に学園での拘束された中での作品制作のあり方を嫌ったからのようであり、それ以上に、あるがままに自由でいたいという願望が非常に強かったからのようである。又消えた彼は、空襲の犠牲になったとばかり思われていたら、食料のない時代に別人のように太って帰ってきた。田舎で農業の手伝いをしていたらしい。これを見ていても結構、世渡り上手な人間でもあったようで、逞しさを感じる。
その後もときどき放浪を続けるが、ドラマなどでは、彼は放浪先で絵を描き、さまざまな感動を残す展開となっているのだが、先にも書いたように、実際には放浪先では殆ど絵を描いておらず、旅先で見た風物を記憶しておき放浪後、概ね冬の前には学園や実家へ帰ってから、その記憶を基に制作に打ち込んだり放浪日記をつけたりしていたという。彼の天才は、そのような驚異的ともいえる「映像記憶力」にあったことから、彼はサヴァン症候群であった可能性が高いといわれているようだ。
彼の少年時代に描かれた素朴な作品と、1961(昭和36)年、39歳のとき、式場隆三郎らとともに約40日間のヨーロッパ旅行をした時の精密な作品を見比べると、貼絵の技術は、各段に進歩、発展しており、中年期の作品の、細密な表現への情熱、執念は驚くべきものがあるが、好き好きもあるが、美術的な面白みという点では、少年期の作品のユニークさを支持する人も少なくないようだ。
彼は、世界でもよく知られている桁外れの才能を持った天才画家などとは違って、類(たぐい)まれなる純真さ、素朴さを持ち続けたが故に、普通の人には描けない作品が描けたという種類の「天才」であったということなのだろうか。
1956(昭和31)年の東京大丸での「山下清展」を始め、全国巡回展が約130回開かれ、観客は500万人を超えたと言われる。大丸の展覧会には当時の皇太子(今上天皇明仁)も訪れたというが、私なども、若い頃に一度だけ何処での展示会であったかは忘れたが見に行ったことはあるが兎に角その緻密な技巧と色彩感覚に驚かされた。その中には、戦争の場面を描いたものもあったように記憶している。
晩年には、東京都練馬区谷原に住み、『東海道五十三次』の制作を志して、東京から京都までのスケッチ旅行に出掛け、およそ5年の歳月をかけて55枚の作品を遺している。私はこの絵は見たことが無いが、検索しているとそんな絵をアップしているのを見つけた。以下参考の※13で見ることが出来るがその精密さに驚かされるであろう。
ただ、参考※7でも触れられているように、当初の戸川行男や式場隆三郎らによる学園の少年たちの作品紹介や情報の発信が「特異児童作品展覧会」として行なわれており、あくまで、純粋な芸術としての絵そのものの作品展としてというよりも、それ以上に精神医学者としての学問上や、精神薄弱児などを受け入れている学園の立場などから「精神薄弱児童」の啓蒙展であるといった色彩が強かったことはを否めない事実であったように思われる。
また、その少年たちの中から選ばれた山下清に関しての式場の作品紹介も、あくまでも式場が意欲を燃やしていたらしいゴッホ研究との兼ね合いから、障害児の「能力」的な発揮として情報が発信されていたようであり、それが、大衆的には、ある種通俗的な「天才と狂人は紙一重」という好奇心と関わりながら受け止められていったように感じられる。
それが、その後、奇妙な言動で笑いを誘う映画やドラマでも、知的障害者としての山下清像が先行し過ぎ、そのイメージのもとに絵画作品も批評されていることを、清の家族らが残念に思ったであろうことは察せられる。そのようなことから、清の家族が見た山下清像を語った本も出ている。以下参考の:※2:「家族が語る山下清」がそれであるが本の紹介の中でドラマなどでは見られない実際の清像が簡単に触れられているので、これを読むだけで大分、今までもっていたイメージが変わるのではないだろうか・・・・。
「裸の大将」「放浪画家」などと世の人々から親しまれた山下清は、大正に生まれ、戦前・戦後・そして高度経済成長期という慌しい時代を一気に駆け抜け、49歳の短い生涯を閉じるのたが、それは、まるで一瞬のきらめきを放って消える彼の大好きな花火を思わせる。
山下清の生涯を歌ったものがYouTubeにあった。以下がそれである。彼のことをよく表したなかなか面白い良い歌だと思うので、最後にこの歌を聴いて、在りし日の山下清を偲ぶことにしよう。
YouTube - 山下清のバラッド/GDBC
http://www.youtube.com/watch?v=4aDZ_etOVBs
(冒頭の画像は、コレクションのチラシより舞台公演「裸の大将」清の幸せ宅急便。主役山下清を演じるのは芦屋雁之助。サンケイホール)
※1:山下清の公式ページ
http://www.yamashita-kiyoshi.gr.jp/
※2:家族が語る山下清
http://www.namiki-shobo.co.jp/order10/tachiyomi/nonfict016.htm
※3:社会福祉法人 春濤会 知的障害児施設 【八幡学園】
http://www.yawatagakuen.or.jp/
※4:急性消化不良症 / 身近な病気の知識
http://www.byoki-syojyo.net/body/Child-51.html
※5:『裸の大将一代記 山下清の見た夢』 小沢信男 (著)
http://www.webdoku.jp/shinkan/0806/b_04.html
※6:戸川行男 とは - コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E6%88%B8%E5%B7%9D%E8%A1%8C%E7%94%B7
※7:昭和 10 年代「特異児童作品展」と同時代の「能力」言説―試論〔PDF〕
http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/irwg10/jinshaken21-5.pdf#search='異常児の絵 式場隆三郎'
※8:裸の大将 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD3586/index.html
※9:文学にみる障害者像-『山下清の放浪日記』
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n314/n314018.html
※10:山下清の放浪日記(読書感)
http://www.synapse.ne.jp/~shinji/jyajya/hon/kiyoshi.html
※ 11:山下清の放浪日記:山下 清 (著), 池内 紀 (編集)
http://www.amazon.co.jp/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E6%B8%85%E3%81%AE%E6%94%BE%E6%B5%AA%E6%97%A5%E8%A8%98-%E5%B1%B1%E4%B8%8B-%E6%B8%85/dp/4772704760
※12:放浪の画家「山下清展」 丹波市立植野記念美術館 - 神戸新聞Web News
http://www.kobe-np.co.jp/rensai/cul/505.html
※13:山下清「東海道五十三次」
http://chasaru.s4.xrea.com/
山下清 作品一覧 | 銀座画廊おいだ美術(30点)
http://www.oida-art.com/buy/artistwork/150_1.html
wikipedia - 山下清
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E6%B8%85
日本のアウトサイダー・アート
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