安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府三代将軍・徳川家光の乳母である春日局(かすが の つぼね)が亡くなったのは今から370年前の寛永20年9月14日(1643年10月26日)のことである。
辞世の句は「西に入る 月を誘い 法(のり)をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」。法号は麟祥院殿仁淵了義尼大姉。東京都文京区の麟祥院に墓所がある(※1参照)。
又、京都市内にも春日局ゆかりの地がある。
京都市右京区妙心寺塔頭麟祥院(※2参照)は、春日局の菩提寺であり、ここの御霊屋(みたまや)には小堀遠州作春日局木像が安置されている。
冒頭の画像は、その小堀遠州作・春日局像である。妙心寺麟祥院蔵。画像は、『週刊朝日百科日本の歴史』30掲載分より借用。
本院は春日局が帰依していた碧翁愚完(肥前藩主鍋島勝茂の子)を開祖として寛永11年(1634 )に創建された。もとは、木辻菖蒲小路(現在の花園高校の辺り)に香華所(仏前に香や花を供える役割を担う寺院。菩提所)として建立されたのが起こりだそうだ。
春日局の御霊屋は仙洞御所釣殿であった建物を後水尾上皇が春日局の隠棲の場として下賜されて後、二条城に移築し、局在世中は、能舞台として使われていたらしいが、局の逝去後は当院に移し、祠堂となり、現今は御霊屋として保存されている。
明治30年(1897年),現在の花園学園の校地の位置から現在の地に移されたようだ。
徳川将軍家・初代徳川家康には11人の男子があったが、長男信康は織田信長から武田方に内通しているとの疑いをかけられて自殺したので、後嗣は、次男秀康ということになるが、実際には性格が素直で、家康の云うことをよく聞くだろうとの配慮から三男秀忠が二代を継いだ。
この秀忠には慶長6年(1601年)に誕生した長男・長丸がいたが、既に早世(慶長7=1602年9 月に死去)していたため世子として扱われていた次男(嫡男)竹千代(家光)は病弱で吃音、しかも愚鈍・粗暴の気味があったが、竹千代よりも容姿端麗・才気煥発(かんぱつ。すぐれた才能が外にあふれ出ること)な三男国千代(忠長)は立居振舞にも節度があったために、両親・家臣の多くが三代には国千代をと考えていた。
竹千代の乳母お福(春日の局)がこれを心配して、家康に直訴。これからの継嗣者は個人の資質より出生序列による方が政権が安泰とみて、竹千代を後嗣とした。
ここに将軍家の長男子継承のルールが確立して、「生まれながらの将軍」となったのが四代家綱である。
ところが彼は病弱で子がないまま死去、若干のトラブルがあったが五代には末弟の綱吉が継いだ。だが綱吉にも継嗣がないために、亡兄の子綱豊(家宣)が六代となる。
その後を継いだ七代家継は八歳で死亡したために、男系男子が途絶えると、八代を吉宗が継ぐことになった。(週刊朝日百科日本の歴史7-228P)
徳川将軍家の出自について、八代将軍吉宗(母:浄円院)を語るとき、よく聖母の素性が問題にされるが、江戸時代には「腹を借りもの」という考えがあり、男子の血のみを重視する習慣があったので、生母の賎しさは問題にならなかった。
四代家綱の生母お楽の方(宝樹院)は刑死した罪人の娘であり、五代綱吉の生母お玉の方(桂昌院)の出生には諸説はあるが、八百屋の出戻り娘であったともいわれている(『玉輿記』※3)。ただ、桂昌院がしばしば「玉の輿」の語源とされるが、これは俗説に過ぎないようである。
徳川十五代の将軍のうち(父親の)正室の子供は実に三人(家康・家光・慶喜)のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみで、あとは全部妾腹の出である。
三代将軍・家光の生母秀忠夫人である江(崇源院)は、織田信長に滅ぼされた近江小谷城主浅井長政の三女、その,母は信長の妹お市の方。長姉は豊臣秀吉の側室淀殿、次姉は若狭の大名京極高次夫人初(常高院)である。
りちぎ者(きまじめで義理堅い人。実直な人)という評の残る秀忠には、正夫人の他に側室を持たなかったとも言われるが、それは崇源院が嫉妬深かったという説がある。ただし、秀忠には、正夫人を迎える前に生まれた長男長丸の母(家女に産ませるが名前不明)や幸松丸(後の名君保科正之)の母女中の静(後の浄光院)の2名がいる。家を継ぐ側室は男子をもうけるためにもったものだが秀忠には9人の子がおり、このうち実に7人が正室、つまり崇源院の子であった。そのため秀忠には、無理に側室をもつ必要がなかったとも言える。
この崇源院は、そして、父親の秀忠も竹千代時代の家光を長子でありながら、余り可愛がらなかったようである。彼らの愛情はより強く弟の国松にそそがれており、徳川の家督も国松が継ぐと予測した向きもあったらしい。この形成を心配した乳母春日局が駿府の家康に直訴し、家康の計らいで竹千代の家督が再確認されたという逸話は余りにも有名である。
春日局、名は「ふく(福)」は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族斎藤利三の子であり名は「ふく」。母は稲葉良通(一鉄)の娘安。
斉藤氏は美濃守護代を代々務めた武家の名門だったが、ふくの実家の斉藤家も、この一門である。守護代斎藤氏が滅びると、一門であった斉藤家は明智氏に仕官。
ふくは、明智光秀の重臣であった父・斎藤利三の所領のあった丹波国の黒井城下館(興禅寺)で生まれ、城主の姫として、幼少期をすごした。
その後、父は光秀に従い、ともに本能寺の変で織田信長を討つが、羽柴秀吉に山崎の合戦で敗戦し、帰城後に坂本城下の近江国堅田で捕らえられて処刑され、他の兄弟は落ち武者となって各地を流浪していたと考えられている。
斉藤家が没落後、福は女であることから追われることはなく、母方の親戚に当たる三条西公国(織豊時代の公卿三条西実枝の子)に養育された(外祖父である一鉄の妻は三条西公条の娘であり、三条西家は母方の祖母の実家にあたる)。これによって、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけることができた。
その後、伯父の稲葉重通の養女となり、重通の養子で小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となる。正成は関ヶ原の戦いにおいて、平岡頼勝と共に主君・秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いた功労者である。
正成との間に正勝らを産み、後に将軍家の乳母となるために夫の正成と離婚する形をとり、慶長9年(1604年)に2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。
乳母となって以後の家光のへの局の献身は家光が疱瘡を患った時(種痘の発見されていない当時、疱瘡は貴賤ともに一生に一度はかかる恐ろしい病であった)、東照社に家光の無事平穏を祈り、その願いに自分の命をかけるあかしに以後医薬を絶つことを誓い、生涯それを守ったことなど、数々の逸話に示されている。
それに応えて家光も局を厚遇し、彼女を江戸城大奥を取り締まり、そこで生活する家光の側室や子女を保護・後見する役につけた。
先に述べたように、徳川将軍は世襲制であり、後継者が途絶えることは幕府存亡にかかわる一大事である。
そこで、 徳川のお世継ぎを誕生させるシステムとして君臨したのが大奥であったといえる。
大奥は、将軍の御台所(正室)や側室や生母、彼女らに仕える奥女中(御殿女中)の生活の場である。
大奥と呼ばれる区画は、初代将軍・徳川家康の時代から、江戸城に存在していた。しかし当時は、政治を行う場である「表」と、城主とその家族の私的な生活の場である「奥」の境界が存在していなかった。この境界が江戸城に現れたのは元和4年(1618年)に2代将軍・秀忠が「壁書」という触れで人々の行き来を制限することで厳密に区別した時である。以後、本丸は幕府政庁の「表」、将軍が政務を執る「中奥(奥)」、将軍の私邸「大奥」に区分された。
大奥は、その性格上、男子の出入りに制限があるのは当然である。しかし、一般に牡猫一匹入れないといわれるが、それは誇張しすぎである。
まず、大奥には広敷(大奥の玄関口)といわれる一角があり、男性職員が多数詰めている。この広敷と大奥御殿は自由に出入りができるわけではなく、御広敷御錠口によってのみしか出入りができず、厳重に管理されている。
3代将軍徳川家光乳母・春日局によって組織的な整備がなされていき、こうして現在知られる形の大奥に整えられていった。
この大奥の内部での身分制度は厳格に守られていた。
将軍正室として大奥一の立場にあった御台所は、征夷大将軍となった時点で既に正室がいなかった初代将軍家康、幕府成立以前の豊臣秀吉存命中に正室(継室)江(江与)を迎えた2代将軍秀忠は別として、大奥の制度が確立されて以降、皇室や公家(摂家)から迎えるのが慣例となっていた。
11代家斉御台所の寔子と13代家定御台所の敬子は島津家出身であるが、両人とも近衛家の養女となった上で公家の姫として輿入れしている。これは、御台所に格式が求められたためなされた処置であると考えられる。
また、正式の側室を持たなかった2代秀忠の御台所江が3代将軍家光の生母となった以外、将軍生母となった御台所はいない。これは、皇室や公家の外戚を持つ将軍が生まれないよう、大奥が管理していたからともされている。
御台所は大奥の主宰者であるが、江戸時代前期の大奥における実権は御年寄や世継ぎを産んだ側室、将軍生母が握っていたため、御台所としての本来の立場を維持していた例は少ない。実際、実権を持っていた御年寄や側室たちには、女中たちの居住区「長局向」とは別に独立した住まいを与えられていた。
大奥女中の階級を、大きく分類すると「お目見以上」、「お目見以下」、「部屋方」に分類される。お目見以上は、将軍・御台所に謁見できる身分の女中であり、お目見以下は、謁見できない身分である。ただし、お目見以下であってもお目見え以上に出世することが可能であることは表役人と変わらない。 お目見以上の役職を見ると、
○上臈御年寄は、奥女中の最高位で、多くは、御台所の輿入れに随行してきた有職故実に長けた京の公家の娘で、通常は、将軍や御台所に近侍するが、大奥の中で実権を持つことはあまりなかったとされている。
○御年寄は、大奥女中の位の中では第2位に当たるが、奥向の万事を差配する大奥随一の権力者で、表向の老中に匹敵する役職であったという。老女・局(つぼね)などともいう。
○御中は、将軍、御台所の身辺の一切の世話を行う。大奥女中の中から家格や容姿の良い者が、御年寄などの推挙により選ばれた。通常、将軍の「お手つき」というのは将軍付きの御中から出るが、御台所付女中から将軍の目に止まった場合は、御台所から将軍に献上という形をとったという。お手つきとなると「内証の方」と呼ばれ、子が出来て、初めて独立した部屋がもらえる。子が女子であれば「御腹さま」、男子であれば「お部屋さま」と呼ばれた。御中より下位の女中が将軍に見初められた時は、御中に昇進した。
その他の階級や役職、その職務内容等は大奥女中また、以下参考の※4、※5を参照されるとよい。
家光の時期の大奥で春日局とともに権勢をもった婦人に英勝院がいる。彼女は関東の名族太田氏の出身で、太田道灌四代の孫にあたると言われている。家康の関東入国のとき名家の子弟ということで兄と共に家康に召し出され、後、側室となって「おかじの方」と呼ばれた(一女を生んだが幼死)。
家康の死によって髪を剃り、邸を与えられて江戸に住んだ。
家光が将軍となって以後は、水戸頼房の娘大姫の養母格となって加賀藩主前田光高に嫁がせるなど厚く信任された。家康の生前に、その側近にあった英勝院が、父母の愛のうすい家光を大切にしたからだと言われている。
甥の資宗も家光の側近として取り立てを受け、六人衆と呼ばれる後の若年寄に相当する地位に就いた。
取り立てと言えば、春日局の子稲葉正勝も家光の側近から取り立てられて老中相当の地位についている。
春日局にせよ、英勝院にせよ、家光の信任があればこそ一族までが取り立てを受けたのであるが、その前提にはいずれも没落した名家の出であったことがあるという。
幕府としては奥向きの運営にそうした家のしきたりを身に着けた女性を必要とした事情があったと考えられている。
類似の例として、秀吉に改易された宇都宮国綱の妻(小少将[佐竹義重養女、佐竹義久女])が入内した東福門院和子の付人として関東から京都の御所に赴いている。
これも彼女が、常陸の大名佐竹氏の出身であり、嫁ぎ先の宇都宮家が鎌倉以来の守護の家柄であったことによるようだ。(家光には何人かの姉妹があるが姉では豊臣秀頼に嫁いだ千姫が著名である。妹の和子が産んだ照子内親王の即位により、家光は天皇の伯父となった。)。
春日局や英勝院など、奥向きをとりしきる「老女」の重要な役割のひとつは、表の世界とは直接に交渉をすることのない将軍家御台所(関白鷹司信房の娘鷹司孝子)や側室、将軍の子女にかわって、外との取次ぎをすることであった。そしてその交渉の中で大きな比重をしめたのが、外部の宗教者の祈祷の以来であった。
崇源院は筑波山の修験者知足院(※6、※7参照)に帰依し江戸城の近くに寺を建立しているが、春日局と英勝院が深く信頼したのは言うまでもなく天海であった。
彼女たちは狐が騒いだといってはその吉凶を天海に問い合わせ、江戸城築城の落成に際しては御台所の寝間や御産の間の守り札を依頼している(※8)。
家光の娘千代姫(後尾張家に嫁ぐ、※9参照)誕生の時は、名付けを天海に頼み、初宮参りにも祈祷を依頼している。また、側室お楽の方(宝樹院)が家綱を懐妊したときは、妊婦の年齢、解任の時期などを詳しく知らせて安産の祈祷を頼みこんでいる。大奥の家光とその子女はこうした祈祷に守られて生活していたのだという(『週刊朝日百科日本の歴史』30)。
寛永3年(1626年)、家光生母・崇源院(江)の死後大奥の公務を取り仕切るようになった春日局は、家光の側室探しに尽力し、伊勢慶光院の院主であったお万(永光院)や、お楽、お夏(順性院)などの女性たちを次々と奥入りさせ、また将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握った。
上掲の画像が、マイコレクションより1997(平成9)年9月帝国劇場で公演のチラシ「徳川の夫人たち」。中央春日局役は故山田五十鈴。その右隣りお万の方役の片平なぎさ。また、山田の左隣は藤尾役の故池内順子、その隣男性は、徳川家光役の西郷輝彦である。
同舞台では、江戸城に三代将軍家光へ謁見のため、はるばる伊勢より訪れた尼僧・慶光院。その美貌と品位に心動かされる家光の意を察した春日局は、こともあろうに慶光院が将軍の側室になるようにと介護役・藤尾に命じる。そして、その三ヶ月後、慶光院あらためお万の方のお目見えの日、江戸城に晴れやかな空気が流れるが、しかし、それは春日局、藤尾、お万の方それぞれにとって大奥を舞台にした女たちの戦いの序幕であった・・・。
朝日新聞に連載の当初から爆発的な人気を呼んだ吉屋信子の同名小説を原作を舞台化したものである。
大奥では大きな力を持っていたを春日局(当時はまだふくを名乗っている)ではあるが、武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため、血族であり育ての親でもある三条西公国の息子・三条西実条と猷妹の縁組をし、公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得、三条西 藤原福子として寛永6年(1629年)10月10日、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と「春日局」の名号及び天酌御盃をも賜り、この時から「ふく」ではなく「春日局」を名乗るようになった。その後、寛永9年(1632年)7月20日の再上洛の際に従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比定する位階となった。
寛永11年(1634年)に正勝に先立たれ、幼少の孫正則を養育、後に兄の斎藤利宗が後見人を務めた。寛永12年(1635年)には家光の上意で義理の曾孫の堀田正俊を養子に迎えた。寛永20年(1643年)9月14日に死去した(享年64)。
春日局をドラマ化したものは多いが、一番記憶に残っているのが、1989年1月1日から12月17日にNHKで放映された大河ドラマ『春日局』(原作・脚本は橋田壽賀子)。
当ドラマは、明智家臣の娘という立場で戦国の乱世を生き抜き、その器量を徳川家康に見込まれて大奥の取り仕切りと後の三代将軍徳川家光の乳母を任された女性・春日局の生涯を描き、それまで「強い女」「烈女」のイメージが強かった春日局を、平和な世を希求し、献身的に家光の母代わりになろうと生きた女性として描かれていた。
ドラマは、おふくと対比する形で家光の母・お江与(崇源院)をもう一人の主人公のように位置付けている一方で、本来おふくや家光を語る上で欠かせないはずのお万の方(永光院)が登場することはなかった。
最後に、先に書いた天海という僧は、関ヶ原の戦いの後、突如、歴史の舞台に登場し、徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与したが、それ以前はどこで何をしていたのか全く不明、謎の多い人物でもある。
その素性は、本能寺の変で織田信長を討ち、山崎の戦いの後土民の落ち武者狩りに遭い自刃したとされる明智光秀と同一人物説がある。この説は無理としても、それに近い人物である可能性もあるという主張は現在も引き続きなされているようだ。
そして、この天海と春日局とは旧知の間柄であったという。そんな天海のことについては、Wikipedia-天海 特にその中の異説や「明智光秀#南光坊天海説」を参照されるとよい。
参考:
※1:春日局の墓 - 私立PDD図書館
http://pddlib.v.wol.ne.jp/photo/yushima/kasuga.htm
※2:臨済宗妙心寺派麟祥院
http://www.myoshinji.or.jp/k/index.html
※3:玉輿記
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0096-28102
※4 :大奥を知る
http://homepage1.nifty.com/SEISYO/oooku.htm
※5 :フナハシ学習塾/ためになる?ページ/64・徳川幕府 大奥 の なぞ
http://homepage3.nifty.com/funahashi/sonota/hoka64.html
※6:江戸時代の筑波山信仰と物見遊山 昔も今も変らぬ男女の遊び
http://blog.goo.ne.jp/htshumei/e/b891ecfa9ffcfdaffafe13b3ee5d4560
※7:筑波山中禅寺三重塔
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_tukubasan.htm
※8:江戸を大都市にした天海は、何を仕掛けたのか | 社会 | PHPビジネス Online
http://shuchi.php.co.jp/article/1389
※9:名古屋城と千代姫
http://hikaenochou.world.coocan.jp/18imagawa.html
「本能寺の変」のミステリー
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/honnnouji.htm
新説・日本の歴史第23弾/明智光秀と天海
http://home.att.ne.jp/banana/history/Dai23-Akechi.html
江戸城大奥を改新。女中3700人以上を解雇。
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/e00b53ced446843a10c7e6cabed491b0
春日局 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%B1%80
辞世の句は「西に入る 月を誘い 法(のり)をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」。法号は麟祥院殿仁淵了義尼大姉。東京都文京区の麟祥院に墓所がある(※1参照)。
又、京都市内にも春日局ゆかりの地がある。
京都市右京区妙心寺塔頭麟祥院(※2参照)は、春日局の菩提寺であり、ここの御霊屋(みたまや)には小堀遠州作春日局木像が安置されている。
冒頭の画像は、その小堀遠州作・春日局像である。妙心寺麟祥院蔵。画像は、『週刊朝日百科日本の歴史』30掲載分より借用。
本院は春日局が帰依していた碧翁愚完(肥前藩主鍋島勝茂の子)を開祖として寛永11年(1634 )に創建された。もとは、木辻菖蒲小路(現在の花園高校の辺り)に香華所(仏前に香や花を供える役割を担う寺院。菩提所)として建立されたのが起こりだそうだ。
春日局の御霊屋は仙洞御所釣殿であった建物を後水尾上皇が春日局の隠棲の場として下賜されて後、二条城に移築し、局在世中は、能舞台として使われていたらしいが、局の逝去後は当院に移し、祠堂となり、現今は御霊屋として保存されている。
明治30年(1897年),現在の花園学園の校地の位置から現在の地に移されたようだ。
徳川将軍家・初代徳川家康には11人の男子があったが、長男信康は織田信長から武田方に内通しているとの疑いをかけられて自殺したので、後嗣は、次男秀康ということになるが、実際には性格が素直で、家康の云うことをよく聞くだろうとの配慮から三男秀忠が二代を継いだ。
この秀忠には慶長6年(1601年)に誕生した長男・長丸がいたが、既に早世(慶長7=1602年9 月に死去)していたため世子として扱われていた次男(嫡男)竹千代(家光)は病弱で吃音、しかも愚鈍・粗暴の気味があったが、竹千代よりも容姿端麗・才気煥発(かんぱつ。すぐれた才能が外にあふれ出ること)な三男国千代(忠長)は立居振舞にも節度があったために、両親・家臣の多くが三代には国千代をと考えていた。
竹千代の乳母お福(春日の局)がこれを心配して、家康に直訴。これからの継嗣者は個人の資質より出生序列による方が政権が安泰とみて、竹千代を後嗣とした。
ここに将軍家の長男子継承のルールが確立して、「生まれながらの将軍」となったのが四代家綱である。
ところが彼は病弱で子がないまま死去、若干のトラブルがあったが五代には末弟の綱吉が継いだ。だが綱吉にも継嗣がないために、亡兄の子綱豊(家宣)が六代となる。
その後を継いだ七代家継は八歳で死亡したために、男系男子が途絶えると、八代を吉宗が継ぐことになった。(週刊朝日百科日本の歴史7-228P)
徳川将軍家の出自について、八代将軍吉宗(母:浄円院)を語るとき、よく聖母の素性が問題にされるが、江戸時代には「腹を借りもの」という考えがあり、男子の血のみを重視する習慣があったので、生母の賎しさは問題にならなかった。
四代家綱の生母お楽の方(宝樹院)は刑死した罪人の娘であり、五代綱吉の生母お玉の方(桂昌院)の出生には諸説はあるが、八百屋の出戻り娘であったともいわれている(『玉輿記』※3)。ただ、桂昌院がしばしば「玉の輿」の語源とされるが、これは俗説に過ぎないようである。
徳川十五代の将軍のうち(父親の)正室の子供は実に三人(家康・家光・慶喜)のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみで、あとは全部妾腹の出である。
三代将軍・家光の生母秀忠夫人である江(崇源院)は、織田信長に滅ぼされた近江小谷城主浅井長政の三女、その,母は信長の妹お市の方。長姉は豊臣秀吉の側室淀殿、次姉は若狭の大名京極高次夫人初(常高院)である。
りちぎ者(きまじめで義理堅い人。実直な人)という評の残る秀忠には、正夫人の他に側室を持たなかったとも言われるが、それは崇源院が嫉妬深かったという説がある。ただし、秀忠には、正夫人を迎える前に生まれた長男長丸の母(家女に産ませるが名前不明)や幸松丸(後の名君保科正之)の母女中の静(後の浄光院)の2名がいる。家を継ぐ側室は男子をもうけるためにもったものだが秀忠には9人の子がおり、このうち実に7人が正室、つまり崇源院の子であった。そのため秀忠には、無理に側室をもつ必要がなかったとも言える。
この崇源院は、そして、父親の秀忠も竹千代時代の家光を長子でありながら、余り可愛がらなかったようである。彼らの愛情はより強く弟の国松にそそがれており、徳川の家督も国松が継ぐと予測した向きもあったらしい。この形成を心配した乳母春日局が駿府の家康に直訴し、家康の計らいで竹千代の家督が再確認されたという逸話は余りにも有名である。
春日局、名は「ふく(福)」は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族斎藤利三の子であり名は「ふく」。母は稲葉良通(一鉄)の娘安。
斉藤氏は美濃守護代を代々務めた武家の名門だったが、ふくの実家の斉藤家も、この一門である。守護代斎藤氏が滅びると、一門であった斉藤家は明智氏に仕官。
ふくは、明智光秀の重臣であった父・斎藤利三の所領のあった丹波国の黒井城下館(興禅寺)で生まれ、城主の姫として、幼少期をすごした。
その後、父は光秀に従い、ともに本能寺の変で織田信長を討つが、羽柴秀吉に山崎の合戦で敗戦し、帰城後に坂本城下の近江国堅田で捕らえられて処刑され、他の兄弟は落ち武者となって各地を流浪していたと考えられている。
斉藤家が没落後、福は女であることから追われることはなく、母方の親戚に当たる三条西公国(織豊時代の公卿三条西実枝の子)に養育された(外祖父である一鉄の妻は三条西公条の娘であり、三条西家は母方の祖母の実家にあたる)。これによって、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけることができた。
その後、伯父の稲葉重通の養女となり、重通の養子で小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となる。正成は関ヶ原の戦いにおいて、平岡頼勝と共に主君・秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いた功労者である。
正成との間に正勝らを産み、後に将軍家の乳母となるために夫の正成と離婚する形をとり、慶長9年(1604年)に2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。
乳母となって以後の家光のへの局の献身は家光が疱瘡を患った時(種痘の発見されていない当時、疱瘡は貴賤ともに一生に一度はかかる恐ろしい病であった)、東照社に家光の無事平穏を祈り、その願いに自分の命をかけるあかしに以後医薬を絶つことを誓い、生涯それを守ったことなど、数々の逸話に示されている。
それに応えて家光も局を厚遇し、彼女を江戸城大奥を取り締まり、そこで生活する家光の側室や子女を保護・後見する役につけた。
先に述べたように、徳川将軍は世襲制であり、後継者が途絶えることは幕府存亡にかかわる一大事である。
そこで、 徳川のお世継ぎを誕生させるシステムとして君臨したのが大奥であったといえる。
大奥は、将軍の御台所(正室)や側室や生母、彼女らに仕える奥女中(御殿女中)の生活の場である。
大奥と呼ばれる区画は、初代将軍・徳川家康の時代から、江戸城に存在していた。しかし当時は、政治を行う場である「表」と、城主とその家族の私的な生活の場である「奥」の境界が存在していなかった。この境界が江戸城に現れたのは元和4年(1618年)に2代将軍・秀忠が「壁書」という触れで人々の行き来を制限することで厳密に区別した時である。以後、本丸は幕府政庁の「表」、将軍が政務を執る「中奥(奥)」、将軍の私邸「大奥」に区分された。
大奥は、その性格上、男子の出入りに制限があるのは当然である。しかし、一般に牡猫一匹入れないといわれるが、それは誇張しすぎである。
まず、大奥には広敷(大奥の玄関口)といわれる一角があり、男性職員が多数詰めている。この広敷と大奥御殿は自由に出入りができるわけではなく、御広敷御錠口によってのみしか出入りができず、厳重に管理されている。
3代将軍徳川家光乳母・春日局によって組織的な整備がなされていき、こうして現在知られる形の大奥に整えられていった。
この大奥の内部での身分制度は厳格に守られていた。
将軍正室として大奥一の立場にあった御台所は、征夷大将軍となった時点で既に正室がいなかった初代将軍家康、幕府成立以前の豊臣秀吉存命中に正室(継室)江(江与)を迎えた2代将軍秀忠は別として、大奥の制度が確立されて以降、皇室や公家(摂家)から迎えるのが慣例となっていた。
11代家斉御台所の寔子と13代家定御台所の敬子は島津家出身であるが、両人とも近衛家の養女となった上で公家の姫として輿入れしている。これは、御台所に格式が求められたためなされた処置であると考えられる。
また、正式の側室を持たなかった2代秀忠の御台所江が3代将軍家光の生母となった以外、将軍生母となった御台所はいない。これは、皇室や公家の外戚を持つ将軍が生まれないよう、大奥が管理していたからともされている。
御台所は大奥の主宰者であるが、江戸時代前期の大奥における実権は御年寄や世継ぎを産んだ側室、将軍生母が握っていたため、御台所としての本来の立場を維持していた例は少ない。実際、実権を持っていた御年寄や側室たちには、女中たちの居住区「長局向」とは別に独立した住まいを与えられていた。
大奥女中の階級を、大きく分類すると「お目見以上」、「お目見以下」、「部屋方」に分類される。お目見以上は、将軍・御台所に謁見できる身分の女中であり、お目見以下は、謁見できない身分である。ただし、お目見以下であってもお目見え以上に出世することが可能であることは表役人と変わらない。 お目見以上の役職を見ると、
○上臈御年寄は、奥女中の最高位で、多くは、御台所の輿入れに随行してきた有職故実に長けた京の公家の娘で、通常は、将軍や御台所に近侍するが、大奥の中で実権を持つことはあまりなかったとされている。
○御年寄は、大奥女中の位の中では第2位に当たるが、奥向の万事を差配する大奥随一の権力者で、表向の老中に匹敵する役職であったという。老女・局(つぼね)などともいう。
○御中は、将軍、御台所の身辺の一切の世話を行う。大奥女中の中から家格や容姿の良い者が、御年寄などの推挙により選ばれた。通常、将軍の「お手つき」というのは将軍付きの御中から出るが、御台所付女中から将軍の目に止まった場合は、御台所から将軍に献上という形をとったという。お手つきとなると「内証の方」と呼ばれ、子が出来て、初めて独立した部屋がもらえる。子が女子であれば「御腹さま」、男子であれば「お部屋さま」と呼ばれた。御中より下位の女中が将軍に見初められた時は、御中に昇進した。
その他の階級や役職、その職務内容等は大奥女中また、以下参考の※4、※5を参照されるとよい。
家光の時期の大奥で春日局とともに権勢をもった婦人に英勝院がいる。彼女は関東の名族太田氏の出身で、太田道灌四代の孫にあたると言われている。家康の関東入国のとき名家の子弟ということで兄と共に家康に召し出され、後、側室となって「おかじの方」と呼ばれた(一女を生んだが幼死)。
家康の死によって髪を剃り、邸を与えられて江戸に住んだ。
家光が将軍となって以後は、水戸頼房の娘大姫の養母格となって加賀藩主前田光高に嫁がせるなど厚く信任された。家康の生前に、その側近にあった英勝院が、父母の愛のうすい家光を大切にしたからだと言われている。
甥の資宗も家光の側近として取り立てを受け、六人衆と呼ばれる後の若年寄に相当する地位に就いた。
取り立てと言えば、春日局の子稲葉正勝も家光の側近から取り立てられて老中相当の地位についている。
春日局にせよ、英勝院にせよ、家光の信任があればこそ一族までが取り立てを受けたのであるが、その前提にはいずれも没落した名家の出であったことがあるという。
幕府としては奥向きの運営にそうした家のしきたりを身に着けた女性を必要とした事情があったと考えられている。
類似の例として、秀吉に改易された宇都宮国綱の妻(小少将[佐竹義重養女、佐竹義久女])が入内した東福門院和子の付人として関東から京都の御所に赴いている。
これも彼女が、常陸の大名佐竹氏の出身であり、嫁ぎ先の宇都宮家が鎌倉以来の守護の家柄であったことによるようだ。(家光には何人かの姉妹があるが姉では豊臣秀頼に嫁いだ千姫が著名である。妹の和子が産んだ照子内親王の即位により、家光は天皇の伯父となった。)。
春日局や英勝院など、奥向きをとりしきる「老女」の重要な役割のひとつは、表の世界とは直接に交渉をすることのない将軍家御台所(関白鷹司信房の娘鷹司孝子)や側室、将軍の子女にかわって、外との取次ぎをすることであった。そしてその交渉の中で大きな比重をしめたのが、外部の宗教者の祈祷の以来であった。
崇源院は筑波山の修験者知足院(※6、※7参照)に帰依し江戸城の近くに寺を建立しているが、春日局と英勝院が深く信頼したのは言うまでもなく天海であった。
彼女たちは狐が騒いだといってはその吉凶を天海に問い合わせ、江戸城築城の落成に際しては御台所の寝間や御産の間の守り札を依頼している(※8)。
家光の娘千代姫(後尾張家に嫁ぐ、※9参照)誕生の時は、名付けを天海に頼み、初宮参りにも祈祷を依頼している。また、側室お楽の方(宝樹院)が家綱を懐妊したときは、妊婦の年齢、解任の時期などを詳しく知らせて安産の祈祷を頼みこんでいる。大奥の家光とその子女はこうした祈祷に守られて生活していたのだという(『週刊朝日百科日本の歴史』30)。
寛永3年(1626年)、家光生母・崇源院(江)の死後大奥の公務を取り仕切るようになった春日局は、家光の側室探しに尽力し、伊勢慶光院の院主であったお万(永光院)や、お楽、お夏(順性院)などの女性たちを次々と奥入りさせ、また将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握った。
上掲の画像が、マイコレクションより1997(平成9)年9月帝国劇場で公演のチラシ「徳川の夫人たち」。中央春日局役は故山田五十鈴。その右隣りお万の方役の片平なぎさ。また、山田の左隣は藤尾役の故池内順子、その隣男性は、徳川家光役の西郷輝彦である。
同舞台では、江戸城に三代将軍家光へ謁見のため、はるばる伊勢より訪れた尼僧・慶光院。その美貌と品位に心動かされる家光の意を察した春日局は、こともあろうに慶光院が将軍の側室になるようにと介護役・藤尾に命じる。そして、その三ヶ月後、慶光院あらためお万の方のお目見えの日、江戸城に晴れやかな空気が流れるが、しかし、それは春日局、藤尾、お万の方それぞれにとって大奥を舞台にした女たちの戦いの序幕であった・・・。
朝日新聞に連載の当初から爆発的な人気を呼んだ吉屋信子の同名小説を原作を舞台化したものである。
大奥では大きな力を持っていたを春日局(当時はまだふくを名乗っている)ではあるが、武家である斎藤家の娘の身分のままでは御所に昇殿するための資格を欠くため、血族であり育ての親でもある三条西公国の息子・三条西実条と猷妹の縁組をし、公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得、三条西 藤原福子として寛永6年(1629年)10月10日、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と「春日局」の名号及び天酌御盃をも賜り、この時から「ふく」ではなく「春日局」を名乗るようになった。その後、寛永9年(1632年)7月20日の再上洛の際に従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比定する位階となった。
寛永11年(1634年)に正勝に先立たれ、幼少の孫正則を養育、後に兄の斎藤利宗が後見人を務めた。寛永12年(1635年)には家光の上意で義理の曾孫の堀田正俊を養子に迎えた。寛永20年(1643年)9月14日に死去した(享年64)。
春日局をドラマ化したものは多いが、一番記憶に残っているのが、1989年1月1日から12月17日にNHKで放映された大河ドラマ『春日局』(原作・脚本は橋田壽賀子)。
当ドラマは、明智家臣の娘という立場で戦国の乱世を生き抜き、その器量を徳川家康に見込まれて大奥の取り仕切りと後の三代将軍徳川家光の乳母を任された女性・春日局の生涯を描き、それまで「強い女」「烈女」のイメージが強かった春日局を、平和な世を希求し、献身的に家光の母代わりになろうと生きた女性として描かれていた。
ドラマは、おふくと対比する形で家光の母・お江与(崇源院)をもう一人の主人公のように位置付けている一方で、本来おふくや家光を語る上で欠かせないはずのお万の方(永光院)が登場することはなかった。
最後に、先に書いた天海という僧は、関ヶ原の戦いの後、突如、歴史の舞台に登場し、徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与したが、それ以前はどこで何をしていたのか全く不明、謎の多い人物でもある。
その素性は、本能寺の変で織田信長を討ち、山崎の戦いの後土民の落ち武者狩りに遭い自刃したとされる明智光秀と同一人物説がある。この説は無理としても、それに近い人物である可能性もあるという主張は現在も引き続きなされているようだ。
そして、この天海と春日局とは旧知の間柄であったという。そんな天海のことについては、Wikipedia-天海 特にその中の異説や「明智光秀#南光坊天海説」を参照されるとよい。
参考:
※1:春日局の墓 - 私立PDD図書館
http://pddlib.v.wol.ne.jp/photo/yushima/kasuga.htm
※2:臨済宗妙心寺派麟祥院
http://www.myoshinji.or.jp/k/index.html
※3:玉輿記
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0096-28102
※4 :大奥を知る
http://homepage1.nifty.com/SEISYO/oooku.htm
※5 :フナハシ学習塾/ためになる?ページ/64・徳川幕府 大奥 の なぞ
http://homepage3.nifty.com/funahashi/sonota/hoka64.html
※6:江戸時代の筑波山信仰と物見遊山 昔も今も変らぬ男女の遊び
http://blog.goo.ne.jp/htshumei/e/b891ecfa9ffcfdaffafe13b3ee5d4560
※7:筑波山中禅寺三重塔
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_tukubasan.htm
※8:江戸を大都市にした天海は、何を仕掛けたのか | 社会 | PHPビジネス Online
http://shuchi.php.co.jp/article/1389
※9:名古屋城と千代姫
http://hikaenochou.world.coocan.jp/18imagawa.html
「本能寺の変」のミステリー
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/honnnouji.htm
新説・日本の歴史第23弾/明智光秀と天海
http://home.att.ne.jp/banana/history/Dai23-Akechi.html
江戸城大奥を改新。女中3700人以上を解雇。
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/e00b53ced446843a10c7e6cabed491b0
春日局 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%B1%80