雛祭り
2005-03-03 | 行事
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/be/d8302ef942e244491134a02992574244.jpg)
今日(3月3日)は「雛祭り」
3月3日は、五節句の一つで、上巳(じょうし)の節句である。本来の上巳の行事は、3月初めの上巳の初めの巳(み)の日に、または、3日に川辺に赴いて禊(みそぎ)を行う中国の風俗にならったもので、人形で身体を撫でて穢れを移し、川や海に流すというものであった。一方、雛はこの祓(はら)いの人形から発展し、平安時代のころから、貴族の子女の遊戯としての雛遊びが行われるようになった。しかし、雛人形が3月の節句と結びついたのはそう古いことではなく、江戸時代初頭かららしい。当初は、上流の家だけの行事であったが、女の子の成長を祝う都市の民間行事となり、これが地方にも波及した。人形や調度は、次第に豪華に精巧になっていき、幕府は数度にわたって人形の寸法を規定したり、金銀箔の使用を禁ずる触書を出すなどしたが、それにもかかわらず、雛祭りは年を追うごとに盛んになっていった。今でも一部地域では上巳の節句本来の穢れ祓いの風を留め、紙雛などを流す地域もある。又、最近は、当世の人気者をかたどった変り雛なども出来てデパートの雛人形売り場を賑わしている。
今日では、赤ちゃんが生まれて初めて迎える節句を初節句としてお祝いする。しきたりとしては里方から雛人形が,父方からは市松人形が,仲人や親戚からは脇役のケースの人形がお節句の50日から20日位前に贈られるのが普通である。
ところで、雛飾りは何を表現していると思いますか?実は「婚礼」の風景を表現しているのですよ。そして、雛人形の配置は、小笠原流礼書にもある「嫁取りのときは女房客位(上座)たるにより、陰数を用うるなり」とある様に普通は上座となる左(向かって右)にこのときばかりは女房が配置されている。そして、その前に三人官女つまり、「式三献(三三九度の儀)」用の品である杯を乗せる「三方(さんぼう)」を持った女官を真ん中に、左右には、長い柄のある酒器「銚子」と把手のある酒器「提(ひさげ)」を持った官女が居るという訳である。
だから、普通は、内裏雛と三人官女のセットが婚礼の儀式の雛形として必要なもので、それ以外は、本来は不要で賑やかに飾るための付属的なものなのだよね。それに、飾られている三色の菱餅は、小笠原家の家紋「三階菱」から来ているのだそうだ。これを見ても、幕府の礼式担当だった小笠原家の影響を受けていることが伺われる。
又、ここで、私のコレクション酒器類の中から一つ「雛徳利」を紹介しておこう。上の写真のものはガラス製のかわいい帽子のような蓋がついており、泥絵が施されている。明治頃のもので、嫁入り道具の一つではないかと思われるが、これを収めている木箱には持っていた人の名前が書き込まれている。雛祭りには、これに白酒を入れて飾ったんでしょうね。
江戸時代にひな祭りが盛んになり、雛祭りに、白酒を使うようになったのは1800年代の事らしい。1836(天保7)年、長谷川雪旦が『江戸名所図会』(同酒店トップページのイラスト)に「鎌倉町豊島屋酒店 白酒を商ふ図」として紹介をしており、「例年二月の末 鎌倉町豊島屋の酒店においてひな祭りの白酒を商ふ これを求めんとて遠近の輩 黎明より肆前(しせん)に市をなして賑はへり」と続き、繁盛の様子が描かれている。「山なれば富士、白酒なれば豊島屋」と評判の豊島屋の白酒は、桃の節句の前の毎年2月25日の1日しか売りに出さないという事でお客さんが殺到したとか。その日は普段の商いの酒、醤油は売らずに白酒だけに限定して売ったという。今の人だけではなく、昔の人も限定品には弱かったんだね~。
(上画像は雛人形お内裏(だいり)さま《殿・姫》と三人官女。コレクションの雛徳利。明治時代のもの)
参考:
豊島屋HP
「江戸の草分豊島屋の白酒」
http://www.toshimaya.co.jp/
3月3日は、五節句の一つで、上巳(じょうし)の節句である。本来の上巳の行事は、3月初めの上巳の初めの巳(み)の日に、または、3日に川辺に赴いて禊(みそぎ)を行う中国の風俗にならったもので、人形で身体を撫でて穢れを移し、川や海に流すというものであった。一方、雛はこの祓(はら)いの人形から発展し、平安時代のころから、貴族の子女の遊戯としての雛遊びが行われるようになった。しかし、雛人形が3月の節句と結びついたのはそう古いことではなく、江戸時代初頭かららしい。当初は、上流の家だけの行事であったが、女の子の成長を祝う都市の民間行事となり、これが地方にも波及した。人形や調度は、次第に豪華に精巧になっていき、幕府は数度にわたって人形の寸法を規定したり、金銀箔の使用を禁ずる触書を出すなどしたが、それにもかかわらず、雛祭りは年を追うごとに盛んになっていった。今でも一部地域では上巳の節句本来の穢れ祓いの風を留め、紙雛などを流す地域もある。又、最近は、当世の人気者をかたどった変り雛なども出来てデパートの雛人形売り場を賑わしている。
今日では、赤ちゃんが生まれて初めて迎える節句を初節句としてお祝いする。しきたりとしては里方から雛人形が,父方からは市松人形が,仲人や親戚からは脇役のケースの人形がお節句の50日から20日位前に贈られるのが普通である。
ところで、雛飾りは何を表現していると思いますか?実は「婚礼」の風景を表現しているのですよ。そして、雛人形の配置は、小笠原流礼書にもある「嫁取りのときは女房客位(上座)たるにより、陰数を用うるなり」とある様に普通は上座となる左(向かって右)にこのときばかりは女房が配置されている。そして、その前に三人官女つまり、「式三献(三三九度の儀)」用の品である杯を乗せる「三方(さんぼう)」を持った女官を真ん中に、左右には、長い柄のある酒器「銚子」と把手のある酒器「提(ひさげ)」を持った官女が居るという訳である。
だから、普通は、内裏雛と三人官女のセットが婚礼の儀式の雛形として必要なもので、それ以外は、本来は不要で賑やかに飾るための付属的なものなのだよね。それに、飾られている三色の菱餅は、小笠原家の家紋「三階菱」から来ているのだそうだ。これを見ても、幕府の礼式担当だった小笠原家の影響を受けていることが伺われる。
又、ここで、私のコレクション酒器類の中から一つ「雛徳利」を紹介しておこう。上の写真のものはガラス製のかわいい帽子のような蓋がついており、泥絵が施されている。明治頃のもので、嫁入り道具の一つではないかと思われるが、これを収めている木箱には持っていた人の名前が書き込まれている。雛祭りには、これに白酒を入れて飾ったんでしょうね。
江戸時代にひな祭りが盛んになり、雛祭りに、白酒を使うようになったのは1800年代の事らしい。1836(天保7)年、長谷川雪旦が『江戸名所図会』(同酒店トップページのイラスト)に「鎌倉町豊島屋酒店 白酒を商ふ図」として紹介をしており、「例年二月の末 鎌倉町豊島屋の酒店においてひな祭りの白酒を商ふ これを求めんとて遠近の輩 黎明より肆前(しせん)に市をなして賑はへり」と続き、繁盛の様子が描かれている。「山なれば富士、白酒なれば豊島屋」と評判の豊島屋の白酒は、桃の節句の前の毎年2月25日の1日しか売りに出さないという事でお客さんが殺到したとか。その日は普段の商いの酒、醤油は売らずに白酒だけに限定して売ったという。今の人だけではなく、昔の人も限定品には弱かったんだね~。
(上画像は雛人形お内裏(だいり)さま《殿・姫》と三人官女。コレクションの雛徳利。明治時代のもの)
参考:
豊島屋HP
「江戸の草分豊島屋の白酒」
http://www.toshimaya.co.jp/
ひとを型どりました紙のお人形 人形(ひとがた)と呼んでおりますがそれが神社から各氏子さんに配られますの そこに一人一人お名前を書き
身体の彼方此方撫でますのね そうして奉納いたします
よーさんがお書きになりましたソレと同じですわ
この神事が雛祭りの由来でしたのかしら・・。
私の雛飾りはもぉだいぶ前に役所に寄付をしてしまいましたが 今のような段飾りではなく御殿飾りでしたのね 言われてみますと婚礼さながら
日が経ちましても飾っておきますとお嫁に行き遅れると申しますでしょ その所以もこのへんにございましたのかしら^^
よーさんの徳利 可愛いですわね(微笑)
わが家は兄と僕の2人だったので具足や金太郎に人形はあったのですが、お雛様はありませんでした。ところが僕の子供は娘2人、お雛様を飾るのはエエのですが、しまう時の邪魔臭いこと。具足なら鎧櫃に詰め込めばエエのですが、お雛様は顔を紙で包んだり大変でした。娘達が大きくなってからは何時の間にか飾らなくなりました。
今日は長女がちらし寿司を作って持って来てくれます。
甘酒は入れない・・・
我が家も昨日はチラシ寿司でした・・・・