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大仏の日(Ⅱ)

2010-04-09 | 記念日
藤原広嗣の乱のとき、平城京を逃げ出すような形で伊勢へ行幸し、その後、乱が平定されても、平城京には戻らずに、恭仁京・紫香楽宮・難波京へ宮都を転々としているが、それがなぜかについて、その背後には、恭仁が橘諸兄に、紫香楽が藤原仲麻呂に関係の深い地であり、紫香楽宮の造営と大仏造立のため恭仁宮の造作を停止しているのは、その背後に藤原仲麻呂の攻勢と橘諸兄の反撃があったと考えられている。広嗣の反乱に茫然自失した聖武天皇の行動には、この両者の政権抗争が絡み合っていた。この過程で、天皇の行動の主眼は仏神を動員した宗教にもとづく鎮護国家の樹立と皇太子への譲位以外になく、そのための行政一般は皇后の信頼をえて急速に進出してきた藤原仲麻呂に委ねられるようになる。
仏神に対する政策は大仏建立の詔(ここ参照)などで明らかであるが、たとえば、僧綱(そうごう)の行政を<太政官への申請とその指示によるべきことを命じたように、従来の学僧たちの主体性を否定しかねない方向性を打ち出したが、逆に、それまで抑圧してきた利他行(りたぎょう。ここ参照)・菩薩行という実戦をすすめる行基を大僧正に登用した。そこには、国家仏教としての変容を示すものがあり、幅広く民衆までを鎮護国家のイデオロギーの中に包摂(ほうせつ)しようとする姿勢が示されている。しかし、無節操ともいえるたび重なる造都と行幸の最大の犠牲者は民衆であり、紫香楽宮周辺の山々では頻々に不審火があったというのもそのことによるのであろう。結局、太政官の諸臣一致で平城への遷都が決まり、平城宮に戻った時、天皇は、殆ど政治に対する意欲を喪失していたようだ。
大仏開眼供養会の3年前、聖武天皇は749(天平21)年4月、東大寺に行幸し、念願の大仏造立の見通しが明らかになったのを見て、この年、の7月、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を執ったともいわれる)し、初の男性の太上天皇となっている。光明皇后は皇太后として皇后宮職を紫微中台(しびちゅうだい)に発展させ新天皇を補佐する体制をととのえていた。
開眼供養会には、孝謙天皇をはじめ、聖武太上天皇、光明皇太后のほか要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだという。聖武上皇にかわって当時大安寺に居住していたインド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな)が開眼導師を担当した。異国の僧を起用しての供養絵は大仏開眼にふさわしいものであった。
奈良の大仏は、毘盧遮那仏と呼ばれるもので、これは、外来の仏教によるものであることから、既存寺院の猛反発もあったが、庶民に人気絶大であった行基に大仏建立の責任者を引き受けさせることによってこの反発を和らげ、当時の技術の粋を集めて作られた巨大な金銅仏である。聖武天皇は、大仏造立の詔の中で、「夫(そ)れ天下の富を有(たも)つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり」と自分の権勢を誇示している。一方で、”「一枝の草、一把の土」をもって大仏造立を手伝おうとする者があれば、それを許せ、役人は大仏造立を口実に人民から無理な租税の取立てをしてはならない”という意味のことを述べている。
東大寺の地は、かって、聖武天皇の皇子・基王の菩提を弔うための山房が造営された地で、金鐘山房(金鐘寺、金鐘山寺とも)といわれた地で、やがて国分寺の造営がこの地で勧められ、この山房が大和の国金光明寺となった。ここに大仏が建立されほぼその完成期に東大寺と称されるようになった。よって、東大寺は、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺と国分尼寺の中心をなす「総国分寺」と位置づけられたものであり、国を傾ける程の莫大な資財と労力を投入してなし得た。この国分寺造立の思想的背景には護国経典である「金光明最勝王経」(以下参考の※:「金光明最勝王経」参照)の信仰があった。同経によれば、この経を信じる国王のもとには、仏教の護法善神である四天王が現われ、国を護るという。聖武は、日本のすみずみにまで国分寺を建て、釈迦像を安置し、金光明最勝王経を安置することによって、国家の安定を図ろうとする意図があったものと思われる。
兎に角、752(天平勝宝4)年4月9日の大仏開眼会が行われたとき聖武と光明の二人による政治の第一部の幕が下りたことになる。
東大寺の大仏は、752(天平勝宝4)年の開眼供養会の時点では、大仏本体の鋳造は基本的には完了していたが、細部の仕上げ、鍍金、光背の制作などは未完了。又、大仏殿も建物自体は完成していたが、内部の仕上げは未完成であったというが実際にどの状態であったのかは定かではない。この当初の大仏には、完成後数十年にして亀裂や傾きが生じ、855(斉衡2)年の地震では首が落ちるという事故があったが、ほどなく修理された様だが、その後大仏および大仏殿は、源平争乱(治承・寿永の乱)期と、戦国時代の2回、兵火で焼失したため、現存する像の大部分は鎌倉時代から室町時代に補修されたもので、天平時代当初建立された部分としては、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などがある。以下の図参照。

上図は緑色部分が、天平当初の部分。紫色部分が鎌倉時代の補修部分。肌色部分が江戸時代初期の補修部分である(松川鉄夫ほか東京芸術大学調査グループによるもの。週間朝日百科「日本の歴史」54より)
1180(治承4)年、源平争乱期に平重衡の南都焼き討ちの際に消失する前の大仏の様子は、後代、平安時代の作であるが、唯一『信貴山縁起』(絵巻、朝護孫子寺蔵)の絵から伺い知ることができる。以下参考の※:「国宝 紙本著色(しほんちょしょく)信貴山縁起(しぎさんえんぎ)[信貴山縁起絵巻]」を参照。同HPの画像のところをクリックすると拡大画像で見れる。
又、以下の図は、1692(元禄)年に、現在の大仏の修理開眼供養をした模様を描いたものである(「開眼供養屏風」東大寺蔵。週間朝日百科「日本の歴史」54より)。

1567(永禄10)年、松永久秀の兵火(この時の詳しい戦いの様子は東大寺大仏殿の戦いを参照)により焼失した大仏はその直後に一時応急修理をしたままであったが、公慶上人の大仏殿再建勧進によって、1688(元禄元)年、大仏修復作業が始まり、露座のままこの年開眼供養会が行なわれた。ついで、1709(宝永6)年には、大仏殿落慶法要が行なわれた。上掲の画像は、享保末年(1730年代)頃に製作された6曲2双屏風の1つで、もう1つには、大仏殿落慶法要の模様が描かれているようである。
なお、奈良・東大寺の大仏と鎌倉市の高徳院にある鎌倉大仏は、「日本三大大仏」として、常に第1の大仏、第2の大仏に挙げられているが、第3の大仏は時代によって変遷し、定まりがない。日本三大大仏の変遷は大きく3つの時代に分けることができ、第1の時代は、京の方広寺(現・京都市東山区)にかつて存在した京の大仏が第3の大仏とされた近世、第2の時代は、神戸市兵庫区・能福寺にある(兵庫大仏が第3の大仏とされた近代、第3の時代は第3の大仏が事実上空位となり、日本各地の大仏が第3の大仏に挙げられている現代である。本当は、今日「大仏の日」に、この「京の大仏」「兵庫大仏」のことを採り上げたかったのだが、余りにも長くなるので、これらのことは、次の機会に書くことにしよう。
(冒頭の画像は、現在の東大寺盧舎那仏像。Wikipediaより)

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参考:
※:平城遷都1300年
http://www.pref.nara.jp/1300/kids/
※:小野老 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/oyu2.html
※:古典に親しむ/万葉集
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/kotenpeji.htm
※:枕詞「あをによし」について
http://homepage1.nifty.com/k-kitagawa/qa/manqa02.html
※:山上憶良 千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okura2.html
※:山上憶良:その生涯と貧窮問答歌 - 壺齋閑 話
http://blog.hix05.com/blog/2007/02/post-111.html
※:近江国分寺
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/ato_oumikokubunji.htm
※:金光明最勝王経
http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/note/nob/konkomyokyo.htm
※:国宝 紙本著色(しほんちょしょく)信貴山縁起(しぎさんえんぎ)[信貴山縁起絵巻]
http://www.town.heguri.nara.jp/manabu/bunkazai/bunkazai04_1.html
国分寺
http://members.at.infoseek.co.jp/bamosa/
東大寺盧舎那仏像- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E7%9B%A7%E8%88%8E%E9%82%A3%E4%BB%8F%E5%83%8F
Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/
古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の解説など
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/index.html
奈良文化財研究所>「訪」遺跡へ
http://www.nabunken.go.jp/site/daigoku.html
平城遷都記念事業:キャラの愛称は「せんとくん」 奈良 - 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/wadai/graph/20080415_2/index.html
王城年代記
http://www.geocities.jp/rois_77/outo-nendai.htm

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