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今日(2月22日)は、1950年代、美空ひばり、雪村いづみと共に「三人娘」として一世を風靡した江利チエミ (えりちえみ、本名:久保智恵美)の1982(昭和57)年の忌日である。
彼女は、1937(昭和12)年、1月11日、東京市下谷区(現・東京都台東区下谷)にて、当時バンドマスターであった父と少女歌劇出身で後、浅草の軽演劇女優だった母の末娘として生まれた(両親はどちらも当時、吉本興業に所属)。彼女の音楽素養のなかの「順応性、適合性」はこの両親の血を引いているものであろう。
母はチエミを身ごもるころより身体を壊し、一線から退いていた。父は同じ仕事仲間との人間関係のいざこざから失業するが、母は病床で寝たり起きたりの状態であったため一家は貧乏のどん底に落ちる。そんな家の家計を少しでも助けようと小学生だったチエミは、1949(昭和24)年ころから、父がマネージャー、長兄が付き人という3人3脚での芸能活動を始め進駐軍のキャンプまわりの仕事をこなしていくうちにドリス・ディの「Again(アゲイン)」などを習得して、ジャズ歌手を目指すようになり、進駐軍のアイドルとなり、「エリー」と愛称されるようになった。江利チエミの名はこの「エリー」から母が名づけたという。その母親は46歳の若さで他界。チエミがまだ14歳の時の出来事だった。しかし、特にチエミを可愛がってくれた進駐軍兵士から彼女は運命のレコード「テネシーワルツ」をプレゼントされた。
I was dancin' with my darlin'
To the Tennessee Waltz
When an old friend I happened to see
I introduced her to my loved one
And while they were dancin'
My friend stole my sweetheart from me.
去りにし夢 あのテネシー・ワルツ
なつかし愛の唄 面影しのんで 今宵も歌う
うるわしテネシー・ワルツ
「テネシー・ワルツ」作詞・作曲:R. スチュワート&P. W. キング、日本語詞:和田寿三。以下で二木紘三制作のmp3が聞ける。
二木紘三制作mp3「テネシー・ワルツ」
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/09/post_4ff2.html
この「テネシーワルツ」(Tennessee Waltz)は、C&WバンドのリーダP. W. キングが、1946(昭和21)年に作曲した曲に、レッド・スチュワートが詞をつけ、1948(昭和23)年にレコーディングされた。それを、1950(昭和25)年にバティ・ペイジがカバーしたものが世界的なミリオンセラーとなっっていたもの。1965(昭和40)年にはテネシー州の州歌の1つにもなっている。
日本では、1951(昭和26)年後半から、春日八郎の「お富さん」(以下参考に記載の昭和歌謡とわれらの時代「お富さん」参照)がヒットする1954(昭和29)年頃までの3年間歌謡曲の低迷が続いていた、その代わりに、ジャズが全盛を極めたが、その口火を切ったのが、江利チエミの「テネシー・ワルツ」(パティ・ペイジのカバー)であった。
この曲は、キングレコードの試験にパスした1951(昭和26)年11月に吹き込み、翌年の1952(昭和27)年1月23日に「テネシーワルツ/家へおいでよ」で、レコードデビューを果たしたもの。そのとき15歳であった。彼女は生まれつきの低音だったため、”子供のくせにおばあさんのような塩辛声”と兄達からも随分からかわれていたというが、低い低音で歌われるときの、しわがれ声がとてもセクシーで受けたのである。「家へおいでよ」は面白い歌だが、その投げやりな歌い方には、あきらかに笠置シヅ子の影響が感じられる。チエミの母は、吉本にいた笠置シヅ子と共演したりしており、デビュー当時のチエミも吉本の所属であった。しかし、これ以降、こういう笠置シヅ子スタイルの歌は聴かれない。“天才ジャズ少女歌手”と騒がれたが、実際はカントリーが専門で、ハンク・ウィリアムスのナンバー・ジャンバラヤなどを得意としていた。
チエミの「テネシーワルツ」の大ヒットは「日本語と英語のチャンポン」というスタイルを用いたこともあり、それまで都市部中心でのブームであったジャズ(当時は洋楽を総称してこう呼んだ)を全国区にする牽引役を果たした。又、本格的にジャズを学ぶために渡米したというエピソードからもわかるように、抜群のリズム感や表現力を誇り、すこし遅れて、ペギー葉山が「ドミノ」で、雪村いづみが「想い出のワルツ」でデビュー。彼女たちはみな、オリジナル曲を持たず、外国曲を英語と日本語のチャンポンで歌った。英語によってオシャレでインターナショナルな感じをアピールしつつ、日本語によって親しみやすさを持たせた。
メジャーデビューの翌・1953(昭和28)年の春には、招かれてアメリカのキャピトル・レコードで「ゴメンナサイ/プリティ・アイド・ベイビー」を録音、ヒットチャートにランキングされるという日本人初の快挙を達成しており、また、帰国した直後に吹き込まれた「思い出のワルツ」あたりから、声にしなやかさとパンチ力が出てきて、抜群のリズム感や表現力に一段と磨きがかかったといわれている。
そして、美空ひばり、雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれ、一世を風靡し、「ジャンケン娘(30年)」などの一連の映画で共演。主に1950年代後半に活躍するようになる。
3人娘の中で美空ひばりは別として、江利チエミと雪村いづみのジャズにはかなりの違いがある。江利チエミは自分が日本人であることを否定せず、ごく自然に日本人として、ジャズを歌うのに対して、雪村いづみは、自分が日本人であることを乗り越え、日本人ではなく、アメリカ人になりきってジャズを歌おうとしている感じである。美空ひばりの場合はポップな曲を歌う時でさえ、日本の暗い伝統的な歌謡曲的な歌い方で歌の味を出している。
チエミは、1956(昭和31)年「サザエさん」に出演。大ヒットさせ、持ち前の明るいキャラクターで映画やミュージカルでも大活躍する。丁度、この頃、ゲスト出演した東映映画での共演が縁で高倉健と出会い、1959(昭和34)年に、彼の誕生日である2月16日に結婚し話題を集めた。彼女22歳の時であり、彼女にとって最も幸せな時あった。そして、彼女は間もなく身ごもり、家庭に入るが、・・・妊娠中毒症により中絶を余儀なくされた。その悲しみを忘れようとするかのように、翌・1960(昭和35)年には本格的に仕事に復帰する。1963(昭和38)年には日本におけるブロードウェイ・ミュージカル初演の東京宝塚劇場での「マイ・フェア・レディ」に主演しテアトロン賞(以下参考に記載の「テアトロン賞とは?」参照)、毎日演劇賞、ゴールデン・アロー賞(第1回大賞)などを受賞、またこれに遡る1961(昭和36)年には「歌手としてはじめて、舞台の1ケ月座長公演も梅田コマ(梅田芸術劇場参照)「エミのスター誕生」で果たし、舞台女優としても活躍したが、高倉とは義姉(異父姉)による横領事件(後述)などがあって、1971(昭和46)年にチエミ側から離婚を申し入れることに。チエミは数年かけて数億に及んだ借財と抵当にとられた実家などを取り戻すが、借金返済後あっけなく、1982(昭和57)年2月13日、45歳という若さで他界してしまった。
1999(平成11)年に降旗康男監督、高倉健主演により浅田次郎の短編小説『鉄道員』(ぽっぽや)が映画化された。この映画は、第23回(1999年度)日本アカデミー賞の最優秀作品賞、最優秀主演男優賞など主要部門をほぼ独占した。
この映画では、主人公の駅長・佐藤乙松(高倉健)が口ずさみ、そして何度となく「テネシーワルツ」の曲が流れる。もちろん、故江利チエミ(元高倉健夫人)の代表曲である。この映画を見ていると高倉が、今は亡き江利チエミが忘れられず偲んでいるかのように思えてくる。事実、この曲の挿入は高倉自らが監督に要請したものだそうで、この映画は高倉の江利チエミに対する鎮魂歌(死者の魂をしずめるための歌)のようなものであったらしい。
その理由は、離婚の理由ともなった義姉(異父姉)に有るようであり、義姉が言われ無き理由により江利チエミを憎み、高倉・チエミそれぞれの「誹謗中傷」を吹き込み、離婚への足がかりをつくり、挙句の果てに高利の借金をし、不動産を抵当に入れ、失踪、自殺未遂にまで至った。チエミは自己破産せず、責任は自分で取ると決意すると同時に、高倉健との離婚も決意する。多額の借財により高倉に火の粉が及ばないよう自ら身を引いたようだが、高倉は離婚の時にはそんな、彼女の頑なな離婚意思の真相に気付かず、後になって、理解するようになったのだという。。詳しいことは、以下参考に記載の「≪広末涼子&高倉健≫★≪テネシーワルツ≫ 」を参照 されると良い。私達の前ではいつも明るく元気に振舞っていたが、晩年はアルコールに溺れながらのなんともいじらしく、気の毒な人生だったようだ。また高倉は江利チエミの命日には世田谷区瀬田にある法徳寺の墓参りを欠かさないそうだ。以下で、懐かしい彼女の歌う姿を見て彼女を偲んでみては・・。
YouTube - Eri Chiemi in Janken Musume(江利チエミメドレー)
http://www.youtube.com/watch?v=ddbJULH30hI
(画像は、「チエミのスタンダード・アルバム」紙ジャケット仕様)チエミも22歳となり、本作がリリースされた1959年に高倉健とめでたく結婚を果たした。)
江利チエミ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%88%A9%E3%83%81%E3%82%A8%E3%83%9F
江利チエミの世界
http://www.geocities.jp/chiemi_eri/
二木紘三のうた物語: テネシー・ワルツ
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/09/post_4ff2.html
SP盤再録による江利チエミ ヒットアルバム VOL.2
http://www.ma.ccnw.ne.jp/zoiyoi/pages/review/Japan/eri%20chiemi.html
ジャンケン娘 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24580/
Audio-Visual Trivia for Movie & Music: ドリス・デイ Doris Day
http://www.audio-visual-trivia.com/2004/12/doris_day.html
春日八郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%85%AB%E9%83%8E
昭和歌謡とわれらの時代
http://www.ringohouse.com/
ハンク・ウィリアムス - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/artist/ARTLISD29879/index.html
テアトロン賞とは?
http://www.geocities.jp/chiemi_eri/chiemi_sub6-02.htm
≪広末涼子&高倉健≫★≪テネシーワルツ≫
http://plaza.rakuten.co.jp/gendaiindonesia/diary/20060319/
江利チエミ ー音楽「テネシー・ワルツ」「カモナ・マイ・ハウス(家へおいでよ)」「アンナ」なども少しだけ試聴できるよ。
http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=1402597#
YouTube - Patti Page - Tennessee Waltz
http://www.youtube.com/watch?v=-l2jF6XePz4
彼女は、1937(昭和12)年、1月11日、東京市下谷区(現・東京都台東区下谷)にて、当時バンドマスターであった父と少女歌劇出身で後、浅草の軽演劇女優だった母の末娘として生まれた(両親はどちらも当時、吉本興業に所属)。彼女の音楽素養のなかの「順応性、適合性」はこの両親の血を引いているものであろう。
母はチエミを身ごもるころより身体を壊し、一線から退いていた。父は同じ仕事仲間との人間関係のいざこざから失業するが、母は病床で寝たり起きたりの状態であったため一家は貧乏のどん底に落ちる。そんな家の家計を少しでも助けようと小学生だったチエミは、1949(昭和24)年ころから、父がマネージャー、長兄が付き人という3人3脚での芸能活動を始め進駐軍のキャンプまわりの仕事をこなしていくうちにドリス・ディの「Again(アゲイン)」などを習得して、ジャズ歌手を目指すようになり、進駐軍のアイドルとなり、「エリー」と愛称されるようになった。江利チエミの名はこの「エリー」から母が名づけたという。その母親は46歳の若さで他界。チエミがまだ14歳の時の出来事だった。しかし、特にチエミを可愛がってくれた進駐軍兵士から彼女は運命のレコード「テネシーワルツ」をプレゼントされた。
I was dancin' with my darlin'
To the Tennessee Waltz
When an old friend I happened to see
I introduced her to my loved one
And while they were dancin'
My friend stole my sweetheart from me.
去りにし夢 あのテネシー・ワルツ
なつかし愛の唄 面影しのんで 今宵も歌う
うるわしテネシー・ワルツ
「テネシー・ワルツ」作詞・作曲:R. スチュワート&P. W. キング、日本語詞:和田寿三。以下で二木紘三制作のmp3が聞ける。
二木紘三制作mp3「テネシー・ワルツ」
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/09/post_4ff2.html
この「テネシーワルツ」(Tennessee Waltz)は、C&WバンドのリーダP. W. キングが、1946(昭和21)年に作曲した曲に、レッド・スチュワートが詞をつけ、1948(昭和23)年にレコーディングされた。それを、1950(昭和25)年にバティ・ペイジがカバーしたものが世界的なミリオンセラーとなっっていたもの。1965(昭和40)年にはテネシー州の州歌の1つにもなっている。
日本では、1951(昭和26)年後半から、春日八郎の「お富さん」(以下参考に記載の昭和歌謡とわれらの時代「お富さん」参照)がヒットする1954(昭和29)年頃までの3年間歌謡曲の低迷が続いていた、その代わりに、ジャズが全盛を極めたが、その口火を切ったのが、江利チエミの「テネシー・ワルツ」(パティ・ペイジのカバー)であった。
この曲は、キングレコードの試験にパスした1951(昭和26)年11月に吹き込み、翌年の1952(昭和27)年1月23日に「テネシーワルツ/家へおいでよ」で、レコードデビューを果たしたもの。そのとき15歳であった。彼女は生まれつきの低音だったため、”子供のくせにおばあさんのような塩辛声”と兄達からも随分からかわれていたというが、低い低音で歌われるときの、しわがれ声がとてもセクシーで受けたのである。「家へおいでよ」は面白い歌だが、その投げやりな歌い方には、あきらかに笠置シヅ子の影響が感じられる。チエミの母は、吉本にいた笠置シヅ子と共演したりしており、デビュー当時のチエミも吉本の所属であった。しかし、これ以降、こういう笠置シヅ子スタイルの歌は聴かれない。“天才ジャズ少女歌手”と騒がれたが、実際はカントリーが専門で、ハンク・ウィリアムスのナンバー・ジャンバラヤなどを得意としていた。
チエミの「テネシーワルツ」の大ヒットは「日本語と英語のチャンポン」というスタイルを用いたこともあり、それまで都市部中心でのブームであったジャズ(当時は洋楽を総称してこう呼んだ)を全国区にする牽引役を果たした。又、本格的にジャズを学ぶために渡米したというエピソードからもわかるように、抜群のリズム感や表現力を誇り、すこし遅れて、ペギー葉山が「ドミノ」で、雪村いづみが「想い出のワルツ」でデビュー。彼女たちはみな、オリジナル曲を持たず、外国曲を英語と日本語のチャンポンで歌った。英語によってオシャレでインターナショナルな感じをアピールしつつ、日本語によって親しみやすさを持たせた。
メジャーデビューの翌・1953(昭和28)年の春には、招かれてアメリカのキャピトル・レコードで「ゴメンナサイ/プリティ・アイド・ベイビー」を録音、ヒットチャートにランキングされるという日本人初の快挙を達成しており、また、帰国した直後に吹き込まれた「思い出のワルツ」あたりから、声にしなやかさとパンチ力が出てきて、抜群のリズム感や表現力に一段と磨きがかかったといわれている。
そして、美空ひばり、雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれ、一世を風靡し、「ジャンケン娘(30年)」などの一連の映画で共演。主に1950年代後半に活躍するようになる。
3人娘の中で美空ひばりは別として、江利チエミと雪村いづみのジャズにはかなりの違いがある。江利チエミは自分が日本人であることを否定せず、ごく自然に日本人として、ジャズを歌うのに対して、雪村いづみは、自分が日本人であることを乗り越え、日本人ではなく、アメリカ人になりきってジャズを歌おうとしている感じである。美空ひばりの場合はポップな曲を歌う時でさえ、日本の暗い伝統的な歌謡曲的な歌い方で歌の味を出している。
チエミは、1956(昭和31)年「サザエさん」に出演。大ヒットさせ、持ち前の明るいキャラクターで映画やミュージカルでも大活躍する。丁度、この頃、ゲスト出演した東映映画での共演が縁で高倉健と出会い、1959(昭和34)年に、彼の誕生日である2月16日に結婚し話題を集めた。彼女22歳の時であり、彼女にとって最も幸せな時あった。そして、彼女は間もなく身ごもり、家庭に入るが、・・・妊娠中毒症により中絶を余儀なくされた。その悲しみを忘れようとするかのように、翌・1960(昭和35)年には本格的に仕事に復帰する。1963(昭和38)年には日本におけるブロードウェイ・ミュージカル初演の東京宝塚劇場での「マイ・フェア・レディ」に主演しテアトロン賞(以下参考に記載の「テアトロン賞とは?」参照)、毎日演劇賞、ゴールデン・アロー賞(第1回大賞)などを受賞、またこれに遡る1961(昭和36)年には「歌手としてはじめて、舞台の1ケ月座長公演も梅田コマ(梅田芸術劇場参照)「エミのスター誕生」で果たし、舞台女優としても活躍したが、高倉とは義姉(異父姉)による横領事件(後述)などがあって、1971(昭和46)年にチエミ側から離婚を申し入れることに。チエミは数年かけて数億に及んだ借財と抵当にとられた実家などを取り戻すが、借金返済後あっけなく、1982(昭和57)年2月13日、45歳という若さで他界してしまった。
1999(平成11)年に降旗康男監督、高倉健主演により浅田次郎の短編小説『鉄道員』(ぽっぽや)が映画化された。この映画は、第23回(1999年度)日本アカデミー賞の最優秀作品賞、最優秀主演男優賞など主要部門をほぼ独占した。
この映画では、主人公の駅長・佐藤乙松(高倉健)が口ずさみ、そして何度となく「テネシーワルツ」の曲が流れる。もちろん、故江利チエミ(元高倉健夫人)の代表曲である。この映画を見ていると高倉が、今は亡き江利チエミが忘れられず偲んでいるかのように思えてくる。事実、この曲の挿入は高倉自らが監督に要請したものだそうで、この映画は高倉の江利チエミに対する鎮魂歌(死者の魂をしずめるための歌)のようなものであったらしい。
その理由は、離婚の理由ともなった義姉(異父姉)に有るようであり、義姉が言われ無き理由により江利チエミを憎み、高倉・チエミそれぞれの「誹謗中傷」を吹き込み、離婚への足がかりをつくり、挙句の果てに高利の借金をし、不動産を抵当に入れ、失踪、自殺未遂にまで至った。チエミは自己破産せず、責任は自分で取ると決意すると同時に、高倉健との離婚も決意する。多額の借財により高倉に火の粉が及ばないよう自ら身を引いたようだが、高倉は離婚の時にはそんな、彼女の頑なな離婚意思の真相に気付かず、後になって、理解するようになったのだという。。詳しいことは、以下参考に記載の「≪広末涼子&高倉健≫★≪テネシーワルツ≫ 」を参照 されると良い。私達の前ではいつも明るく元気に振舞っていたが、晩年はアルコールに溺れながらのなんともいじらしく、気の毒な人生だったようだ。また高倉は江利チエミの命日には世田谷区瀬田にある法徳寺の墓参りを欠かさないそうだ。以下で、懐かしい彼女の歌う姿を見て彼女を偲んでみては・・。
YouTube - Eri Chiemi in Janken Musume(江利チエミメドレー)
http://www.youtube.com/watch?v=ddbJULH30hI
(画像は、「チエミのスタンダード・アルバム」紙ジャケット仕様)チエミも22歳となり、本作がリリースされた1959年に高倉健とめでたく結婚を果たした。)
江利チエミ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%88%A9%E3%83%81%E3%82%A8%E3%83%9F
江利チエミの世界
http://www.geocities.jp/chiemi_eri/
二木紘三のうた物語: テネシー・ワルツ
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/09/post_4ff2.html
SP盤再録による江利チエミ ヒットアルバム VOL.2
http://www.ma.ccnw.ne.jp/zoiyoi/pages/review/Japan/eri%20chiemi.html
ジャンケン娘 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24580/
Audio-Visual Trivia for Movie & Music: ドリス・デイ Doris Day
http://www.audio-visual-trivia.com/2004/12/doris_day.html
春日八郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%85%AB%E9%83%8E
昭和歌謡とわれらの時代
http://www.ringohouse.com/
ハンク・ウィリアムス - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/artist/ARTLISD29879/index.html
テアトロン賞とは?
http://www.geocities.jp/chiemi_eri/chiemi_sub6-02.htm
≪広末涼子&高倉健≫★≪テネシーワルツ≫
http://plaza.rakuten.co.jp/gendaiindonesia/diary/20060319/
江利チエミ ー音楽「テネシー・ワルツ」「カモナ・マイ・ハウス(家へおいでよ)」「アンナ」なども少しだけ試聴できるよ。
http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=1402597#
YouTube - Patti Page - Tennessee Waltz
http://www.youtube.com/watch?v=-l2jF6XePz4
僕がちょこちょこ行った宗右衛門町のラウンジのホステスさんがジャズを勉強していて(時々舞台にも立っていたようです)テネシーワルツをよく歌ってくれました。音楽を殆ど知らない僕でも、口ずさむことができるのを彼女が知っていたのです。