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今日(11月9日)は「ベルリンの壁崩壊の日」
1989(平成元)年の今日(11月9日)、ドイツ・西ベルリンを囲んでいた「ベルリンの壁崩壊の日」。
ベルリンの壁は、1961年から1989年の間に存在した東ドイツ(東ベルリンを含む)と西ベルリンを隔てていた壁であり、東ドイツが建設していたものである。
第二次世界大戦で敗れたナチス・ドイツは米英仏ソの占領下に置かれていた。そして、1949年、米英仏の占領下にあった西独(ドイツ連邦共和)とソ連占領下の東独(ドイツ民主共和国)とに分断された形でそれぞれ建国された。しかし、ベルリンだけはその後も占領下のままだった。分断された東ドイツと西ドイツの国境線は、ベルリンよりもっと西の方にあって、鉄条網はあっても壁はなかった。ベルリンは東ドイツの中でもむしろ東寄りにあり、そのため、ドイツが東西に分断された時、分断されたベルリン市の東側部分が「旧東ドイツ領」となり、西側部分が「旧西ドイツ領」として「西ドイツの飛び地」のようになった。このため西ベルリンは結果的に地形的に周りを旧東ドイツ国に囲まれる形となってしまった為、この旧西ドイツ領である西ベルリンを東ドイツから隔離して囲む形で構築されたのが「ベルリンの壁」であった。「ベルリンの壁」と言えば「ベルリンは東西ドイツの境界線上に位置し、ベルリンの壁は、その境界線の一部」と思われがちだが、それは、誤解である。つまり、東ドイツに囲まれていたベルリン市がさらに国としてのドイツの東西分断とは別に、ベルリン市としても東西に分断されたのである。 壁は西ベルリン市域をぐるっと取り囲む形で建設されたのであり、東西ベルリン市の間だけに壁があったわけではないのである。
飛び地のようになっている、西ベルリンと西ドイツ本土の間とは、途中停車が禁止された3本の高速道路と、途中下車が禁止された3本の鉄道と、米英仏の航空会社によるエアラインで結ばれ、ベルリン封鎖やベルリンの壁建設という危機を迎えながら、社会主義圏の中にぽっかり浮かぶ資本主義のショーウインドのような型で、東西冷戦の最前線に存在し続けていたわけである。
このような「ベルリンの壁」が出来た理由は、1950年代に西ベルリンを通じて、東ドイツ国民特に若年労働者の西ベルリンを通じての大量亡命が続いたため、西側への脱出を防ぐことを主目的にして、1961年8月13日東ドイツによって、突然に築かれたものである。高さ4m、東ドイツ側にあった西ベルリン地区を囲んで延長160km、ドイツ民族分断のシンボルとなってきた。
このベルリンの壁は、1989年11月9日、突如として東ドイツ政府が、東ドイツ市民に対して旅行の自由化(実際には旅行許可書発行の大幅な規制緩和)を発表した事によって、東西通行の自由に歓喜した東西両ベルリン市民によって、実質的に意味を持たなくなった壁として取り壊された。事件の経緯は詳しくは、ここ「事件の経緯」を見られると良い。
この東西対立の象徴であるベルリンの壁が、歓喜した東西ベルリン市民によって、ハンマーや建設機械その他によって粉砕されている状況はニュース映像によって全世界にリアルタイムで伝えられた。この「ベルリンの壁の崩壊」によって、東西ベルリンの境界だけでなく、東ドイツと西ドイツの国境も開放され、「ベルリンの壁崩壊」から、1年も経たない1990年10月3日東西ドイツは正式に統一された。この、統一式典ではルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」が演奏された。ドイツが長年望んだ東西統一は、正に「歓喜」で迎えられたのである。
この「ベルリンの壁崩壊」は、ベトナム共産主義者の勝利が周辺地域の共産主義につながるという1950年代の共産主義ドミノ理論が反転し、1980年代の末、共産主義支配の連鎖的崩壊というドミノ現象を引き起こしたことに始まるが、このドミノの牌を投げたのは、ソ連のゴルバチョフ書記長であり、その牌の名は「ペレストロイカ(改革)」である。このソ連発の「ペレストロイカ」の波は、民主化の激流となって東欧諸国に押し寄せ、社会主義を次々に突き崩していった。そして、民衆の勢いに押されて多くの国は無血裏に政権交代を進めたが、ルーマニアだけは軍の介入による流血の惨事を伴った変革となった。その意味では、この「ベルリンの壁崩壊」が「東欧革命」を指しているといってもいいだろう。
このベルリンの壁そのものとその歴史的意味合いに関して詳しくはここで、又、「ベルリンの壁崩壊」による東西ドイツ統一の問題点についてはここを見られると良い。ペレストロイカに始まり東欧革命、ひいてはソ連崩壊へ とつながってゆくのであるがその過程のことは、以下参考のソ連崩壊 (Wikipedia)」をみればよく分かる。又、ベルリンの壁についての写真などは以下のホームページに豊富に掲載されているよ。
ベルリンの壁写真館 → http://www.mauer.jp/
今、核保有問題等で世界を騒がせている北朝鮮。国民が、餓えに苦しんでいるのにも係らず、核実験などに多額の金を使い、世界の異端児となっているが、そのような国家が長く続くわけがない。今の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の金正日独裁体制が何時崩壊するか・・・・?。昨日のあるテレビ番組で、今、中国と米国が北朝鮮崩壊の画策を秘密裏にしているとの噂がもれている・・・との話もあった。真偽の程は分からないが、あっても不思議ではない。恐らく、その時は、北朝鮮軍部の一部がクーデターを引き起こすような形になるのだろうと予想される。北朝鮮の軍部にいる人間もバカばかりではないだろう。すでに、国民の一部も国家に背く行為をしているグループが発生しているという。この波はもう、止まらないだろう。恐らく、ここ1年以内に、崩壊するだろうと私は思う。もし、崩壊すれば、独裁者は、恐らく、ルーマアのチャウシェスクと同じ運命をたどることにだろうね~。これから、暫くは、北朝鮮の動向から目を離せない。
(画像はベルリンの壁の崩壊。1989年フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
ベルリンの壁崩壊 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A3%81%E5%B4%A9%E5%A3%8A
ソ連崩壊 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%B4%A9%E5%A3%8A
世界飛び地領土研究会-西ベルリン
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/euro/berlin.html
第7章 新思考外交とソ連邦の崩壊
http://72.14.235.104/search?q=cache:i1KhIpOoRnMJ:www.geocities.co.jp/CollegeLife/9354/lecture/2005/SG05B2-7.pdf+%E6%96%B0%E6%80%9D%E8%80%83%E5%A4%96%E4%BA%A4+%E6%96%B0%E6%80%9D%E8%80%83%E5%A4%96%E4%BA%A4&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=1
朝鮮民主主義人民共和国 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
ニコラエ・チャウシェスク - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%AF
ベルリンの壁写真館
http://www.mauer.jp/
1989(平成元)年の今日(11月9日)、ドイツ・西ベルリンを囲んでいた「ベルリンの壁崩壊の日」。
ベルリンの壁は、1961年から1989年の間に存在した東ドイツ(東ベルリンを含む)と西ベルリンを隔てていた壁であり、東ドイツが建設していたものである。
第二次世界大戦で敗れたナチス・ドイツは米英仏ソの占領下に置かれていた。そして、1949年、米英仏の占領下にあった西独(ドイツ連邦共和)とソ連占領下の東独(ドイツ民主共和国)とに分断された形でそれぞれ建国された。しかし、ベルリンだけはその後も占領下のままだった。分断された東ドイツと西ドイツの国境線は、ベルリンよりもっと西の方にあって、鉄条網はあっても壁はなかった。ベルリンは東ドイツの中でもむしろ東寄りにあり、そのため、ドイツが東西に分断された時、分断されたベルリン市の東側部分が「旧東ドイツ領」となり、西側部分が「旧西ドイツ領」として「西ドイツの飛び地」のようになった。このため西ベルリンは結果的に地形的に周りを旧東ドイツ国に囲まれる形となってしまった為、この旧西ドイツ領である西ベルリンを東ドイツから隔離して囲む形で構築されたのが「ベルリンの壁」であった。「ベルリンの壁」と言えば「ベルリンは東西ドイツの境界線上に位置し、ベルリンの壁は、その境界線の一部」と思われがちだが、それは、誤解である。つまり、東ドイツに囲まれていたベルリン市がさらに国としてのドイツの東西分断とは別に、ベルリン市としても東西に分断されたのである。 壁は西ベルリン市域をぐるっと取り囲む形で建設されたのであり、東西ベルリン市の間だけに壁があったわけではないのである。
飛び地のようになっている、西ベルリンと西ドイツ本土の間とは、途中停車が禁止された3本の高速道路と、途中下車が禁止された3本の鉄道と、米英仏の航空会社によるエアラインで結ばれ、ベルリン封鎖やベルリンの壁建設という危機を迎えながら、社会主義圏の中にぽっかり浮かぶ資本主義のショーウインドのような型で、東西冷戦の最前線に存在し続けていたわけである。
このような「ベルリンの壁」が出来た理由は、1950年代に西ベルリンを通じて、東ドイツ国民特に若年労働者の西ベルリンを通じての大量亡命が続いたため、西側への脱出を防ぐことを主目的にして、1961年8月13日東ドイツによって、突然に築かれたものである。高さ4m、東ドイツ側にあった西ベルリン地区を囲んで延長160km、ドイツ民族分断のシンボルとなってきた。
このベルリンの壁は、1989年11月9日、突如として東ドイツ政府が、東ドイツ市民に対して旅行の自由化(実際には旅行許可書発行の大幅な規制緩和)を発表した事によって、東西通行の自由に歓喜した東西両ベルリン市民によって、実質的に意味を持たなくなった壁として取り壊された。事件の経緯は詳しくは、ここ「事件の経緯」を見られると良い。
この東西対立の象徴であるベルリンの壁が、歓喜した東西ベルリン市民によって、ハンマーや建設機械その他によって粉砕されている状況はニュース映像によって全世界にリアルタイムで伝えられた。この「ベルリンの壁の崩壊」によって、東西ベルリンの境界だけでなく、東ドイツと西ドイツの国境も開放され、「ベルリンの壁崩壊」から、1年も経たない1990年10月3日東西ドイツは正式に統一された。この、統一式典ではルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」が演奏された。ドイツが長年望んだ東西統一は、正に「歓喜」で迎えられたのである。
この「ベルリンの壁崩壊」は、ベトナム共産主義者の勝利が周辺地域の共産主義につながるという1950年代の共産主義ドミノ理論が反転し、1980年代の末、共産主義支配の連鎖的崩壊というドミノ現象を引き起こしたことに始まるが、このドミノの牌を投げたのは、ソ連のゴルバチョフ書記長であり、その牌の名は「ペレストロイカ(改革)」である。このソ連発の「ペレストロイカ」の波は、民主化の激流となって東欧諸国に押し寄せ、社会主義を次々に突き崩していった。そして、民衆の勢いに押されて多くの国は無血裏に政権交代を進めたが、ルーマニアだけは軍の介入による流血の惨事を伴った変革となった。その意味では、この「ベルリンの壁崩壊」が「東欧革命」を指しているといってもいいだろう。
このベルリンの壁そのものとその歴史的意味合いに関して詳しくはここで、又、「ベルリンの壁崩壊」による東西ドイツ統一の問題点についてはここを見られると良い。ペレストロイカに始まり東欧革命、ひいてはソ連崩壊へ とつながってゆくのであるがその過程のことは、以下参考のソ連崩壊 (Wikipedia)」をみればよく分かる。又、ベルリンの壁についての写真などは以下のホームページに豊富に掲載されているよ。
ベルリンの壁写真館 → http://www.mauer.jp/
今、核保有問題等で世界を騒がせている北朝鮮。国民が、餓えに苦しんでいるのにも係らず、核実験などに多額の金を使い、世界の異端児となっているが、そのような国家が長く続くわけがない。今の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の金正日独裁体制が何時崩壊するか・・・・?。昨日のあるテレビ番組で、今、中国と米国が北朝鮮崩壊の画策を秘密裏にしているとの噂がもれている・・・との話もあった。真偽の程は分からないが、あっても不思議ではない。恐らく、その時は、北朝鮮軍部の一部がクーデターを引き起こすような形になるのだろうと予想される。北朝鮮の軍部にいる人間もバカばかりではないだろう。すでに、国民の一部も国家に背く行為をしているグループが発生しているという。この波はもう、止まらないだろう。恐らく、ここ1年以内に、崩壊するだろうと私は思う。もし、崩壊すれば、独裁者は、恐らく、ルーマアのチャウシェスクと同じ運命をたどることにだろうね~。これから、暫くは、北朝鮮の動向から目を離せない。
(画像はベルリンの壁の崩壊。1989年フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
ベルリンの壁崩壊 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A3%81%E5%B4%A9%E5%A3%8A
ソ連崩壊 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%B4%A9%E5%A3%8A
世界飛び地領土研究会-西ベルリン
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/euro/berlin.html
第7章 新思考外交とソ連邦の崩壊
http://72.14.235.104/search?q=cache:i1KhIpOoRnMJ:www.geocities.co.jp/CollegeLife/9354/lecture/2005/SG05B2-7.pdf+%E6%96%B0%E6%80%9D%E8%80%83%E5%A4%96%E4%BA%A4+%E6%96%B0%E6%80%9D%E8%80%83%E5%A4%96%E4%BA%A4&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=1
朝鮮民主主義人民共和国 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
ニコラエ・チャウシェスク - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%AF
ベルリンの壁写真館
http://www.mauer.jp/