安政3年10月20日(1856年11月17日)は、江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて、「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した農政家・思想家二宮 尊徳の亡くなった日とされている。通称は金次郎(正しい表記は「金治郎」)。諱(いみな)の「尊徳」を一般には「そんとく」と訓(よ)読んでいるが、正確には「たかのり」と訓む。
柴(しば)刈り縄ない 草鞋(わらじ)をつくり
親の手を助(す)け 弟(おとと)を世話し
兄弟仲よく 孝行つくす
手本は二宮金次郎
『尋常小学唱歌(ニ)』【明治44年(1911年)】
以下のたくろうの名曲玉手箱に、文部省唱歌「二宮金次郎」MIDIがある。
http://8.pro.tok2.com/~susa26/syoka/ninomiya.html
第二次世界大戦に敗北するまで、日本の小学校校庭には必ずと言って良いほど金次郎の銅像が建っていた。少年が薪を背負い、読書をしている姿は勤勉の手本とされ、小学校唱歌にもなり、又、1904(明治37)年以降は国定教科書として修身の教科にも多く使われるようになった。冒頭の画像はその教科書(週間朝日百科「日本の歴史」91より)。私などのような戦前生まれの者には、二宮 尊徳と言えば、この金次郎の銅像がイメージとして浮かびあがるのであるが、実際には、6尺豊かな大男で70歳近くまで生きていた。「富国」の基礎をあくまで民衆自身の労働(=生産)に期待した彼の教えは、1868(明治元)年、「尊皇攘夷」の復古的スローガンを掲げて成立した明治政府は、欧米列強の圧力のもとで一転して「文明開化」、殖産興業、「富国強兵」をスローガンに、政府主導による「上からの近代化」つまり、資本主義化が推し進められるようになったなかで、金次郎の教えは、単なる「勤勉」の勧めに変質させられてしまった。金次郎のこの銅像の姿は1891(明治24)年幸田露伴が少年少女向けに書いた伝記『二宮尊徳翁』に 初めて挿絵として掲載されたものだが、露伴がこの著を書く際に手本にした資料は、富田高慶(Yahoo!百科事典参照)著『報徳記』だった。露伴に限らず、その後出版された尊徳関連の図書類の多くは、この『報徳記』を拠りどころとして書かれているようだ。
二宮金次郎は幕末の貧しい農民で、苦労しながら学んで成功した人物と言われるが、以下参考に記載の※:報徳二宮神社の「二宮尊徳翁について」に記載されているところによると、金次郎は、1787年9月4日(天明7年7月23日)“相模国栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山【かやま】)の豊かな農家に生まれたが、再三にわたる酒匂川の氾濫で田畑を流され、家が没落した。過労により両親を亡くし、兄弟はばらばらに親戚の家に預けられたそうだ。金次郎は 、朝暗いうちから夜遅くまで汗と泥にまみれて一生懸命働き、その間余裕ができればわずかな時間も無駄にせず勉強をして、先人の教えを理解しようとした。荒地を開墾して収穫を上げお金を貯め、質に入れていた田畑を少しずつ買い戻し、一生懸命努力して24歳までに一家を再興した”・・・という。
金次郎に関しては多くの逸話が残っており、冒頭掲載の修身の教科書には、“金次郎は12歳のとき、父に代わって川ぶしん(普請=土木工事など)に出かけ、仕事を済ませ、家へ帰ると夜遅くまでおきて、わらじ(草鞋=藁で編んだぞうり)をつくり、あくる朝、そのわらじを仕事場に持ってゆき、「私はまだ一人前の仕事が出来ませんので皆様のお世話になります。これは、そのお礼です」といって渡した。“・・・とある。なんと幼気(いたいけ)ない子が健気(けなげ)なことを・・。このような小さな子供のころからこのような心がけで、夜も寝もせずに働けば誰からも愛され成功もするだろうが、ただ、それだけで、24歳までに一家を再興するのは難しいだろう。
小田原の報徳二宮神社の書いている一家再興話も、二宮金次郎の修身の教科書的であるが、ここの部分は、Wikipediaにも書いてある通り、“14歳で父利右衛門が死去、2年後には母よしも亡くなり、尊徳は伯父二宮万兵衛の家に預けられ、伯父の家で農業に励むかたわら、荒地を復興させ、また僅かに残った田畑を小作に出すなどして収入の増加を図り、生家の再興に成功した”・・。とあるように、豊かな農家に生まれたおかげで、家が没落し幼くして両親を亡くし、大変な苦労はしただろうが、まだ、小作に出すだけの土地があるなど、多少のゆとりはあったのだろう。
戦前の修身の教科書や小学校唱歌、あるいは薪を背負い読書する少年像などで広く親しまれてきた二宮尊徳であるが、その真価は、成人し、生家の再興に成功した後、地主経営を行いながら、小田原に出て、武家奉公人としても働きだし、やがて財政再建、農村復興の指導者として力を発揮するようになったことだろう。
そして、先ず最初に、奉公先の小田原藩家老服部家でその才を買われ、服部家の財政建て直しを頼まれ、見事に成功させ、その名が小田原藩内で知られるようになり、時の小田原藩・第7代藩主大久保 忠真(おおくぼ ただざね)の耳にも入った。文政のこの時代、小田原藩自体が、財政窮乏により藩政改革の必要性に迫られていたため、忠真は二宮尊徳(金次郎)を登用して改革を行なおうとしたが、身分秩序を重んじる藩の重役が反対したことから、まず、忠真は1822(文政5)年、金次郎に大久保家の分家であった旗本宇津家の知行所であった下野国桜町(現在の栃木県真岡市二宮町周辺。この町名の由来は二宮尊徳によるものだそうだ。現在の真岡市)の仕法(復興などやり方。仕方。手段などのことを言う)を任せた。金次郎35歳のときであり、このころから武士となり「尊徳(たかのり)」と名乗るようにもなったようだ。よって以降尊徳と書く。尊徳が桜町復興に成功すると、忠真は重臣連を説き伏せ、尊徳に小田原本藩の復興を依頼し、金1000両や多数の蔵米を支給して改革を側面から支援したのは1837(天保8)年のことであった。その後、日光山領の仕法を行うが、下野国今市村(現在の栃木県日光市)にて没した。
尊徳の活躍した幕末期の小田原藩を始め諸藩の状況は、どこも「多額の借金」「生産の不振」「労働人口の減少」等に悩まされており、まるで日本の現在のような状況であった。
後に尊徳の弟子や子孫が金次郎方式の組織的な社会再生活動「報徳」仕法を全国に伝播させたが、国語辞書にもあるとおり、「報徳」とは、徳にむくいること。恩(他の人から与えられためぐみ)を返すこと。「仕法」とは、やり方。仕方。手段のことを言うように、この「報徳」仕法は、 金次郎が文政年間以降主導した財政再建策の総称であるが、基本的な考え方は、二宮が説き広めた「報徳思想の基本的な概念でもある「分度」と「推譲」である。
「分度」は、分限・度合の意で、経済面での自分の実力を知り、それに応じて生活の限度を定めること。分限は、それ相応の能力や力。度合は、物事の「推譲」は、他人をおしすすめて自分はゆずること。であり、尊徳の経済思想は、「分度」を出発点とし、それぞれが「分」に応じた生活を守り、余剰分を拡大再生産に充てることの重要性が強調されている。
尊徳の弟子福住正兄が、尊徳の日常の言動を筆録した「二宮翁夜話」巻之三-85に、「我教の大本、分度を定る事を知らば、天下の荒地は、皆開拓出来たるに同じ、天下の借財は、皆済(カイザイ)成りたるに同じ、是富国の基(キ)本なればなり、予往年貴藩の為に、此基本を確乎(クワクコ)と定む、能守らば其成る処量(ハカ)るべからず、卿等能学んで能勤めよ」とある(以下参考に記載の※:「小さな資料室」の二宮尊徳 『二宮翁夜話』に関するところを参照)。
江戸時代に起きた長期にわたる冷害・旱魃(かんばつ)・水害などの悪天候や害虫の異常発生、火山噴火などでの凶作の連続による江戸四大飢饉の内、寛永の大飢饉を除いて享保・天明・天保の大飢饉を江戸三大飢饉ともいう。しかし享保の飢饉は、後の2つの飢饉と異なり、発生地域は西日本であり、またイナゴやウンカの大量発生がその原因であったため、次の年は一転豊作となり問題はなくなった。
江戸時代中期以降飢饉が特に大きい社会的影響を及ぼすようになったのは江戸が都市として繁栄し、食糧の供給を東北地方に求めるようになったことによる。そのため、北関東地方は、大都市である江戸への人口流出を止められず、田畑は荒廃し、人情も気荒になったと伝えられている。また、生産の発展によって、農民間の貧富の分化が激しくなっており、天明の飢饉では,貧農、小作人、借家人、奉公人、日雇稼ぎの層に甚大な被害が出た。領主や富裕民によって行われた救小屋の施粥,施米に窮民が殺到し、盗難放火、食人の記録も残されているという(以下参考の※:天明の大飢饉※:農業農村の歴史に学ぶ・天明・天保の大飢饉 ※江戸の大飢饉など参照)。
このような酷い飢饉となった一因は領主の無策にもあり、京・大坂・江戸の三都商人から借財していたため、年貢米など備荒(飢饉への備え)の貯米分までが江戸、大阪に廻米(Yahoo!百科事典参照)されたため、農民一揆や打ち壊しが発生した。天保の飢饉も、天明の飢饉と同様,餓死、疫病,流亡などの惨状を呈したが、天明の飢饉が比較的短期間に集中して死者や被害を出しているのに対して、地域的にも北陸、四国、九州を除く広い範囲でしかも長期間にわたり慢性的な状況となった。ただ、この時は、天明の飢饉の経験が生かされ、施粥や施金を行い、各種の普請を起こし、囲い米の放出にも努める一方で、タバコなどの奢侈(しゃし)作物の栽培禁止等の施策も速やかに行われたが、全国的な米価騰貴(価格の高騰)が起こり、飢饉状況が慢性化することになり、一揆や、村役人、穀商、質屋に対する打ち毀しや騒動が激発した。そして、大塩平八郎の乱の原因にもなった。このような荒廃した農村の復興は、天保の改革の1つの柱となり、二宮尊徳他、大蔵永常(おおくら ながつね)等の合理的農学者が活動し、「救荒書」「農書」等の出版も盛んに行われるようになった。
「救荒書」の「救荒」とは、飢饉を救うという意味であって、救荒食は飢饉や凶作の際、作物が取れない時に非常食として、稲以外の普段は常食しない食材を利用したり、手間を掛けて調理したりして餓えを凌ぐ食べ物である。稲は勿論、他の穀物も出来ない荒地に稗(ヒエ)をつくり、万一に備える習慣は、むかしからあり、徳川幕府も天明の飢饉以降「稗を第一にいたし」緊急用にせよとの布令を幾度と無く出している。そして、「救荒書」と呼ばれる文書類が各地に現れ出し、食用可能な野生植物(救荒植物)を紹介・解説している。その先駆けをなしたのは、杉田玄白との交友で知られる陸奥国一関の出身の建部清庵(たてべ せいあん)の『民間備荒録』だったという。この後、次々とのこの種の文書の流行を尊徳は、「こういう奨励は自分で実際に食べたことのない学者たちによる机上の空論にすぎず、無害とされる種類も大量に食べれば有害となる危険があるし、さらにかような知識が広まるならば 、日常の飢饉への対策を油断しておろそかにさせる逆効果を生む」と 批判的であったようだ(以下参考の※:小さな資料室「二宮翁夜話」巻之五 -188参照)。 農業は、天候相手の予測の困難な仕事であり、たとえ豊作確実の作業が行われていてもひとたび天候の異変があれば、冷害、干害、洪水を招き、他に病虫害もある。これらの対応策として尊徳は日頃からの穀物の貯蔵にこそ心がけるべきであると強調している。尊徳の改革では、人口の減少を、1人あたりの生産力をあげることで解決しようとしたのである。
その中で、人間の社会的経済的なあり方として「謹・倹・譲」という道徳的なあり方を考えた(以下参考に記載の※:「小さな資料室」二宮尊徳「二宮翁夜話 続篇」-43参照)。つまり、 謹は勤勉に働くこと。あくまで働くことによって人間は向上することができる。倹は倹約。これはケチることではなく変に備えるためにする。人の一生には天災、飢饉がいつ来るかも知れない。そのときに蓄えがなかったら、人間が人間として、最後まで立派であることができない。譲は推譲。個人の生活から社会の生活への展開をなす軸が、譲るということである。しかし、個人の生活を保つためには、そこに一定の枠というものがなければならない。その枠が「分度」である。・・・この尊徳の「報徳仕法」の基本的な教えは、今の日本の改革にも参考になると多くの知識人に見直されているようだ。以下は二宮尊徳の経済思想である 「分度と推譲」について詳しく考察されている。
研究テーマ 二宮尊徳の経済思想 分度と推譲を中心に(PDF)
http://u-air.net/social-science/theses/oohana.pdf#search='二宮 尊徳 富国 労働 生産'
(画像は修身の教科書(週間朝日百科「日本の歴史」91より)
このブログの字数制限上参考は別紙となっています。以下をクリックしてください。このページの下に表示されます。
クリック ⇒農政家・思想家二宮 尊徳の亡くなった日:参考
柴(しば)刈り縄ない 草鞋(わらじ)をつくり
親の手を助(す)け 弟(おとと)を世話し
兄弟仲よく 孝行つくす
手本は二宮金次郎
『尋常小学唱歌(ニ)』【明治44年(1911年)】
以下のたくろうの名曲玉手箱に、文部省唱歌「二宮金次郎」MIDIがある。
http://8.pro.tok2.com/~susa26/syoka/ninomiya.html
第二次世界大戦に敗北するまで、日本の小学校校庭には必ずと言って良いほど金次郎の銅像が建っていた。少年が薪を背負い、読書をしている姿は勤勉の手本とされ、小学校唱歌にもなり、又、1904(明治37)年以降は国定教科書として修身の教科にも多く使われるようになった。冒頭の画像はその教科書(週間朝日百科「日本の歴史」91より)。私などのような戦前生まれの者には、二宮 尊徳と言えば、この金次郎の銅像がイメージとして浮かびあがるのであるが、実際には、6尺豊かな大男で70歳近くまで生きていた。「富国」の基礎をあくまで民衆自身の労働(=生産)に期待した彼の教えは、1868(明治元)年、「尊皇攘夷」の復古的スローガンを掲げて成立した明治政府は、欧米列強の圧力のもとで一転して「文明開化」、殖産興業、「富国強兵」をスローガンに、政府主導による「上からの近代化」つまり、資本主義化が推し進められるようになったなかで、金次郎の教えは、単なる「勤勉」の勧めに変質させられてしまった。金次郎のこの銅像の姿は1891(明治24)年幸田露伴が少年少女向けに書いた伝記『二宮尊徳翁』に 初めて挿絵として掲載されたものだが、露伴がこの著を書く際に手本にした資料は、富田高慶(Yahoo!百科事典参照)著『報徳記』だった。露伴に限らず、その後出版された尊徳関連の図書類の多くは、この『報徳記』を拠りどころとして書かれているようだ。
二宮金次郎は幕末の貧しい農民で、苦労しながら学んで成功した人物と言われるが、以下参考に記載の※:報徳二宮神社の「二宮尊徳翁について」に記載されているところによると、金次郎は、1787年9月4日(天明7年7月23日)“相模国栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山【かやま】)の豊かな農家に生まれたが、再三にわたる酒匂川の氾濫で田畑を流され、家が没落した。過労により両親を亡くし、兄弟はばらばらに親戚の家に預けられたそうだ。金次郎は 、朝暗いうちから夜遅くまで汗と泥にまみれて一生懸命働き、その間余裕ができればわずかな時間も無駄にせず勉強をして、先人の教えを理解しようとした。荒地を開墾して収穫を上げお金を貯め、質に入れていた田畑を少しずつ買い戻し、一生懸命努力して24歳までに一家を再興した”・・・という。
金次郎に関しては多くの逸話が残っており、冒頭掲載の修身の教科書には、“金次郎は12歳のとき、父に代わって川ぶしん(普請=土木工事など)に出かけ、仕事を済ませ、家へ帰ると夜遅くまでおきて、わらじ(草鞋=藁で編んだぞうり)をつくり、あくる朝、そのわらじを仕事場に持ってゆき、「私はまだ一人前の仕事が出来ませんので皆様のお世話になります。これは、そのお礼です」といって渡した。“・・・とある。なんと幼気(いたいけ)ない子が健気(けなげ)なことを・・。このような小さな子供のころからこのような心がけで、夜も寝もせずに働けば誰からも愛され成功もするだろうが、ただ、それだけで、24歳までに一家を再興するのは難しいだろう。
小田原の報徳二宮神社の書いている一家再興話も、二宮金次郎の修身の教科書的であるが、ここの部分は、Wikipediaにも書いてある通り、“14歳で父利右衛門が死去、2年後には母よしも亡くなり、尊徳は伯父二宮万兵衛の家に預けられ、伯父の家で農業に励むかたわら、荒地を復興させ、また僅かに残った田畑を小作に出すなどして収入の増加を図り、生家の再興に成功した”・・。とあるように、豊かな農家に生まれたおかげで、家が没落し幼くして両親を亡くし、大変な苦労はしただろうが、まだ、小作に出すだけの土地があるなど、多少のゆとりはあったのだろう。
戦前の修身の教科書や小学校唱歌、あるいは薪を背負い読書する少年像などで広く親しまれてきた二宮尊徳であるが、その真価は、成人し、生家の再興に成功した後、地主経営を行いながら、小田原に出て、武家奉公人としても働きだし、やがて財政再建、農村復興の指導者として力を発揮するようになったことだろう。
そして、先ず最初に、奉公先の小田原藩家老服部家でその才を買われ、服部家の財政建て直しを頼まれ、見事に成功させ、その名が小田原藩内で知られるようになり、時の小田原藩・第7代藩主大久保 忠真(おおくぼ ただざね)の耳にも入った。文政のこの時代、小田原藩自体が、財政窮乏により藩政改革の必要性に迫られていたため、忠真は二宮尊徳(金次郎)を登用して改革を行なおうとしたが、身分秩序を重んじる藩の重役が反対したことから、まず、忠真は1822(文政5)年、金次郎に大久保家の分家であった旗本宇津家の知行所であった下野国桜町(現在の栃木県真岡市二宮町周辺。この町名の由来は二宮尊徳によるものだそうだ。現在の真岡市)の仕法(復興などやり方。仕方。手段などのことを言う)を任せた。金次郎35歳のときであり、このころから武士となり「尊徳(たかのり)」と名乗るようにもなったようだ。よって以降尊徳と書く。尊徳が桜町復興に成功すると、忠真は重臣連を説き伏せ、尊徳に小田原本藩の復興を依頼し、金1000両や多数の蔵米を支給して改革を側面から支援したのは1837(天保8)年のことであった。その後、日光山領の仕法を行うが、下野国今市村(現在の栃木県日光市)にて没した。
尊徳の活躍した幕末期の小田原藩を始め諸藩の状況は、どこも「多額の借金」「生産の不振」「労働人口の減少」等に悩まされており、まるで日本の現在のような状況であった。
後に尊徳の弟子や子孫が金次郎方式の組織的な社会再生活動「報徳」仕法を全国に伝播させたが、国語辞書にもあるとおり、「報徳」とは、徳にむくいること。恩(他の人から与えられためぐみ)を返すこと。「仕法」とは、やり方。仕方。手段のことを言うように、この「報徳」仕法は、 金次郎が文政年間以降主導した財政再建策の総称であるが、基本的な考え方は、二宮が説き広めた「報徳思想の基本的な概念でもある「分度」と「推譲」である。
「分度」は、分限・度合の意で、経済面での自分の実力を知り、それに応じて生活の限度を定めること。分限は、それ相応の能力や力。度合は、物事の「推譲」は、他人をおしすすめて自分はゆずること。であり、尊徳の経済思想は、「分度」を出発点とし、それぞれが「分」に応じた生活を守り、余剰分を拡大再生産に充てることの重要性が強調されている。
尊徳の弟子福住正兄が、尊徳の日常の言動を筆録した「二宮翁夜話」巻之三-85に、「我教の大本、分度を定る事を知らば、天下の荒地は、皆開拓出来たるに同じ、天下の借財は、皆済(カイザイ)成りたるに同じ、是富国の基(キ)本なればなり、予往年貴藩の為に、此基本を確乎(クワクコ)と定む、能守らば其成る処量(ハカ)るべからず、卿等能学んで能勤めよ」とある(以下参考に記載の※:「小さな資料室」の二宮尊徳 『二宮翁夜話』に関するところを参照)。
江戸時代に起きた長期にわたる冷害・旱魃(かんばつ)・水害などの悪天候や害虫の異常発生、火山噴火などでの凶作の連続による江戸四大飢饉の内、寛永の大飢饉を除いて享保・天明・天保の大飢饉を江戸三大飢饉ともいう。しかし享保の飢饉は、後の2つの飢饉と異なり、発生地域は西日本であり、またイナゴやウンカの大量発生がその原因であったため、次の年は一転豊作となり問題はなくなった。
江戸時代中期以降飢饉が特に大きい社会的影響を及ぼすようになったのは江戸が都市として繁栄し、食糧の供給を東北地方に求めるようになったことによる。そのため、北関東地方は、大都市である江戸への人口流出を止められず、田畑は荒廃し、人情も気荒になったと伝えられている。また、生産の発展によって、農民間の貧富の分化が激しくなっており、天明の飢饉では,貧農、小作人、借家人、奉公人、日雇稼ぎの層に甚大な被害が出た。領主や富裕民によって行われた救小屋の施粥,施米に窮民が殺到し、盗難放火、食人の記録も残されているという(以下参考の※:天明の大飢饉※:農業農村の歴史に学ぶ・天明・天保の大飢饉 ※江戸の大飢饉など参照)。
このような酷い飢饉となった一因は領主の無策にもあり、京・大坂・江戸の三都商人から借財していたため、年貢米など備荒(飢饉への備え)の貯米分までが江戸、大阪に廻米(Yahoo!百科事典参照)されたため、農民一揆や打ち壊しが発生した。天保の飢饉も、天明の飢饉と同様,餓死、疫病,流亡などの惨状を呈したが、天明の飢饉が比較的短期間に集中して死者や被害を出しているのに対して、地域的にも北陸、四国、九州を除く広い範囲でしかも長期間にわたり慢性的な状況となった。ただ、この時は、天明の飢饉の経験が生かされ、施粥や施金を行い、各種の普請を起こし、囲い米の放出にも努める一方で、タバコなどの奢侈(しゃし)作物の栽培禁止等の施策も速やかに行われたが、全国的な米価騰貴(価格の高騰)が起こり、飢饉状況が慢性化することになり、一揆や、村役人、穀商、質屋に対する打ち毀しや騒動が激発した。そして、大塩平八郎の乱の原因にもなった。このような荒廃した農村の復興は、天保の改革の1つの柱となり、二宮尊徳他、大蔵永常(おおくら ながつね)等の合理的農学者が活動し、「救荒書」「農書」等の出版も盛んに行われるようになった。
「救荒書」の「救荒」とは、飢饉を救うという意味であって、救荒食は飢饉や凶作の際、作物が取れない時に非常食として、稲以外の普段は常食しない食材を利用したり、手間を掛けて調理したりして餓えを凌ぐ食べ物である。稲は勿論、他の穀物も出来ない荒地に稗(ヒエ)をつくり、万一に備える習慣は、むかしからあり、徳川幕府も天明の飢饉以降「稗を第一にいたし」緊急用にせよとの布令を幾度と無く出している。そして、「救荒書」と呼ばれる文書類が各地に現れ出し、食用可能な野生植物(救荒植物)を紹介・解説している。その先駆けをなしたのは、杉田玄白との交友で知られる陸奥国一関の出身の建部清庵(たてべ せいあん)の『民間備荒録』だったという。この後、次々とのこの種の文書の流行を尊徳は、「こういう奨励は自分で実際に食べたことのない学者たちによる机上の空論にすぎず、無害とされる種類も大量に食べれば有害となる危険があるし、さらにかような知識が広まるならば 、日常の飢饉への対策を油断しておろそかにさせる逆効果を生む」と 批判的であったようだ(以下参考の※:小さな資料室「二宮翁夜話」巻之五 -188参照)。 農業は、天候相手の予測の困難な仕事であり、たとえ豊作確実の作業が行われていてもひとたび天候の異変があれば、冷害、干害、洪水を招き、他に病虫害もある。これらの対応策として尊徳は日頃からの穀物の貯蔵にこそ心がけるべきであると強調している。尊徳の改革では、人口の減少を、1人あたりの生産力をあげることで解決しようとしたのである。
その中で、人間の社会的経済的なあり方として「謹・倹・譲」という道徳的なあり方を考えた(以下参考に記載の※:「小さな資料室」二宮尊徳「二宮翁夜話 続篇」-43参照)。つまり、 謹は勤勉に働くこと。あくまで働くことによって人間は向上することができる。倹は倹約。これはケチることではなく変に備えるためにする。人の一生には天災、飢饉がいつ来るかも知れない。そのときに蓄えがなかったら、人間が人間として、最後まで立派であることができない。譲は推譲。個人の生活から社会の生活への展開をなす軸が、譲るということである。しかし、個人の生活を保つためには、そこに一定の枠というものがなければならない。その枠が「分度」である。・・・この尊徳の「報徳仕法」の基本的な教えは、今の日本の改革にも参考になると多くの知識人に見直されているようだ。以下は二宮尊徳の経済思想である 「分度と推譲」について詳しく考察されている。
研究テーマ 二宮尊徳の経済思想 分度と推譲を中心に(PDF)
http://u-air.net/social-science/theses/oohana.pdf#search='二宮 尊徳 富国 労働 生産'
(画像は修身の教科書(週間朝日百科「日本の歴史」91より)
このブログの字数制限上参考は別紙となっています。以下をクリックしてください。このページの下に表示されます。
クリック ⇒農政家・思想家二宮 尊徳の亡くなった日:参考