
今日・6月22日は、1930年代から1950年代にかけてのハリウッドのミュージカル映画全盛期を担ったハリウッドの俳優・名ダンサー・フレッド・アステアの1987年の忌日である。
ダンスの神様とまでいわれた彼のしなやかにして軽快なステップは、当時の人々を、いや、今でも見る人を魅了して止まない。
特に、ジンジャー・ロジャースとのゴールデン・コンビは、ミュージカルの歴史に不滅の足跡を残した。名実共に20世紀を代表する名ダンサーでありミュージカル映画黄金期のダンサーを語るとき彼抜きでは語れない。
ミュージカルのルーツは、18~19世紀ヨーロッパのオペラやバレエに行き着く。芝居しながら歌う、あるいは曲に合わせて踊るというミュージカルの基本はここに始まり、ヨーロッパで発展し、現代のミュージカルの原型はウイーンにおいて華拓いた。20世紀に入り、新興国のアメリカでは第一次世界大戦特需で好景気の中、ニューヨークに、彗星のように現れたアメリカミュージカルの父と言われるガーシュイン兄弟が、ヴォードヴィルショーのために数々のすばらしい歌曲を作り、さらにはシアター・ミュージカルをも手がけた。これにコール・ポーターなどが加わり、第一次大戦後輝きを失い始めたウイーンのミュージカルにとって変わり、ニューヨークのブロードウエイがミュージカルのメッカとして発展していた。しかし、交通も発達していなかった1920年代の米国において、それは、所詮、ニューヨークという大都市に住む恵まれた豊かな人々の娯楽でしかなかった。
1920年代末期にトーキーが発明され、映画に音楽をあわせることが可能となったことを期にミュージカル映画が出現した。人々の憧れのミュージカルが映画化することにより、米国中どこでも誰でもが観ることができるようになった。
当初は舞台作品をそのまま映画にしたものが多く、ストーリーそのものが無いレヴュー短編などが多く作られた。しかも、トーキー当初は歌もダンスも未熟な役者が多く駆り出され、粗製濫造の感もあったようだが、そのような中で人気を集めたのは、洗練された魅力を持った欧州風オペレッタ映画であり、ハリウッドでもドイツ出身のエルンスト・ルビッチら欧州の人材が活躍していたようだが、1929年にウォール街でのパニックをきっかけに起きた世界恐慌によって、ブロードウェイも不況に巻き込まれた。1930年代前半、ダンサーのフレッド・アステアをはじめとする一流の人材が仕事を求めてハリウッドに流れこみ、ここで本格的なミュージカル映画の製作される土台が形作られることになった。そして、大恐慌以来、混迷状態にあったアメリカが活気を取り戻し、生活を楽しむ余裕が出て来た1930年代の中頃、各社は競ってミュージカル映画を製作し、数々の傑作を生んだ。
フレッド・アステア(本名:フレデリック・オースターリッツ)は、1899年5月10日、米国ネブラスカ州オマハに移民(ドイツ系の母とユダヤ系の父)の子として生まれた。2歳年上の姉・アデールが、幼い頃からダンスが上手で、彼女の才能を伸ばすために一家はニューヨークへと移り住み、フレッドも5歳のときから姉のレッスンについてダンス・スクールに学び、姉・アデールとのコンビでプロとして、全米のヴォードヴィルに出演し人気を得ていた。そして、1917年18歳の時にブロードウェイにダンサーとして進出し名声を築き、1921年、彼が22歳のときには、姉と舞台『バンド・ワゴン』を大成功させていた。冒頭の画像向かって左は、『バンド・ワゴン』 で姉のアデール(左)と踊るフレッド・アステア(Wikipediaより)。
しかし、1931年に、パートナーである姉が結婚を機に芸能界から引退したため、アステアは新たな活路を舞台から映画界へ求め、映画製作者デビッド・O・セルズニックの誘いを受けて、 当時の大手映画会社の1つであったが経営難にあったRKO社と専属契約を結び、ハリウッドへの進出を決めた。しかし、RKOでの1作目「空中レヴュー時代」の製作が遅れたため、1933年に、MGMの『ダンシング・レディ』(これ以降も、映画のことは以下参考に記載の※1: goo 映画を参照)へのゲスト出演でスクリーンデビューした後、同年『空中レヴュー時代』(Flying Down to Rio)に脇役として出演した。このとき、ジンジャー・ロジャースとコンビを組み、「ザ・カリオカ」というダンスナンバーで、息の合った素晴しいダンスを披露して、一躍観客の人気を集め、この映画の成功によって、彼は主演俳優に格上げされたという。
ところで、「ザ・カリオカ(The Carioca)という曲を知ってますか?以下参考に記載の※2:「教えて!goo!」に説明されているが、フォックストロットでもポルカでもないこの軽快な新しいリズムの作曲者は、ヴィンセント・ユーマンス(Vincent Youmans)と言う人だそうで、当時ダンスホールでは 特に歓迎されていたそうだ。私も、「カリオカ」と言う名を聞いても直ぐにわからなかったが、以下の動画を見て若い頃少し、社交ダンスを習っていたときに踊ったことはないが教えてもらったことを思い出した。どんなリズムかは以下を見られると良い。
YouTubbe- Fred Astaire und Ginger Rogers in "Flying Down to Rio" (1933)
翌1934年には、ロジャースとのコンビによるアステア初主演作『コンチネンタル』は公開後スタジオの予想を上回るヒットを記録。この映画での、コール・ポーターの「夜も昼も」でアステアとロジャースが踊るシーンは有名であり、2人の人気を不動のものにし、RKOの「マネー・メイキング・スターズ」(金の稼げるスター)と謳われるようになった。以下に、コール・ポーターの名曲に乗って踊る2人のダンスがある。
YouTubbe-Cole Porter´s Day and Night by Fred Astaire & Ginger Rogers
以後、2人のコンビで『ロバータ』(1935年)、『トップ・ハット』(1935年)、『艦隊を追って』(1936年)、『有頂天時代』(1936年)、『踊らん哉』(1937年)、『気儘時代』(193年))などの唄と踊りが満載のダンス・ミュージカルが相次いで公開され、アステアとロジャースは1939年までRKOで数々のドル箱ヒット作を生み出し、RKOは二人のダンス・コメディ映画シリーズによって経営を立て直したと言われる。この2人は、ハリウッド映画史上最高のダンシング・ペアとされ、一連の主演作は「アステア&ロジャース映画」と半ばジャンル的な扱いをされるようになった。
シリーズ中の最高傑作とも呼ばれる映画『トップ・ハット』で燕尾服に白タイ・トップ・ハット(日本風に言えばシルクハット)というアステアのイメージが確立した(冒頭画像の向かって右。Wikipediaより)。名曲「頬寄せて」で踊るふたりの姿はアメリカだけでなく、日本でも、当時のモダンな人々の憧れの的だった。以下にその華麗なるダンスシーンがある。
YouTubbe-Dancing Cheek to Cheek - Fred Astaire and Ginger Rogers
しかし、余り、物語に変化のない2人の映画は次第に観客に飽きられ始め、又、ロジャースがアステアの添え物」的立場に満足せず、演技派俳優を目指していた事もあって、1939年の9作目『カッスル夫妻』を最後にコンビは解消された。これ以外に1949年の『ブロードウェイのバークレー夫妻』 があるが、この作品はあの『オズの魔法使』で有名な、 ジュディ・ガーランドとの競演で計画されていたが、ガーランドが病に倒れたため、急遽、ロジャースが起用されたもので、これが実質上の彼女との最後の共演作となる。
米国の俳優・ダンサー・フレッド・アステアの 忌日(Ⅱ)と参考 へ
ダンスの神様とまでいわれた彼のしなやかにして軽快なステップは、当時の人々を、いや、今でも見る人を魅了して止まない。
特に、ジンジャー・ロジャースとのゴールデン・コンビは、ミュージカルの歴史に不滅の足跡を残した。名実共に20世紀を代表する名ダンサーでありミュージカル映画黄金期のダンサーを語るとき彼抜きでは語れない。
ミュージカルのルーツは、18~19世紀ヨーロッパのオペラやバレエに行き着く。芝居しながら歌う、あるいは曲に合わせて踊るというミュージカルの基本はここに始まり、ヨーロッパで発展し、現代のミュージカルの原型はウイーンにおいて華拓いた。20世紀に入り、新興国のアメリカでは第一次世界大戦特需で好景気の中、ニューヨークに、彗星のように現れたアメリカミュージカルの父と言われるガーシュイン兄弟が、ヴォードヴィルショーのために数々のすばらしい歌曲を作り、さらにはシアター・ミュージカルをも手がけた。これにコール・ポーターなどが加わり、第一次大戦後輝きを失い始めたウイーンのミュージカルにとって変わり、ニューヨークのブロードウエイがミュージカルのメッカとして発展していた。しかし、交通も発達していなかった1920年代の米国において、それは、所詮、ニューヨークという大都市に住む恵まれた豊かな人々の娯楽でしかなかった。
1920年代末期にトーキーが発明され、映画に音楽をあわせることが可能となったことを期にミュージカル映画が出現した。人々の憧れのミュージカルが映画化することにより、米国中どこでも誰でもが観ることができるようになった。
当初は舞台作品をそのまま映画にしたものが多く、ストーリーそのものが無いレヴュー短編などが多く作られた。しかも、トーキー当初は歌もダンスも未熟な役者が多く駆り出され、粗製濫造の感もあったようだが、そのような中で人気を集めたのは、洗練された魅力を持った欧州風オペレッタ映画であり、ハリウッドでもドイツ出身のエルンスト・ルビッチら欧州の人材が活躍していたようだが、1929年にウォール街でのパニックをきっかけに起きた世界恐慌によって、ブロードウェイも不況に巻き込まれた。1930年代前半、ダンサーのフレッド・アステアをはじめとする一流の人材が仕事を求めてハリウッドに流れこみ、ここで本格的なミュージカル映画の製作される土台が形作られることになった。そして、大恐慌以来、混迷状態にあったアメリカが活気を取り戻し、生活を楽しむ余裕が出て来た1930年代の中頃、各社は競ってミュージカル映画を製作し、数々の傑作を生んだ。
フレッド・アステア(本名:フレデリック・オースターリッツ)は、1899年5月10日、米国ネブラスカ州オマハに移民(ドイツ系の母とユダヤ系の父)の子として生まれた。2歳年上の姉・アデールが、幼い頃からダンスが上手で、彼女の才能を伸ばすために一家はニューヨークへと移り住み、フレッドも5歳のときから姉のレッスンについてダンス・スクールに学び、姉・アデールとのコンビでプロとして、全米のヴォードヴィルに出演し人気を得ていた。そして、1917年18歳の時にブロードウェイにダンサーとして進出し名声を築き、1921年、彼が22歳のときには、姉と舞台『バンド・ワゴン』を大成功させていた。冒頭の画像向かって左は、『バンド・ワゴン』 で姉のアデール(左)と踊るフレッド・アステア(Wikipediaより)。
しかし、1931年に、パートナーである姉が結婚を機に芸能界から引退したため、アステアは新たな活路を舞台から映画界へ求め、映画製作者デビッド・O・セルズニックの誘いを受けて、 当時の大手映画会社の1つであったが経営難にあったRKO社と専属契約を結び、ハリウッドへの進出を決めた。しかし、RKOでの1作目「空中レヴュー時代」の製作が遅れたため、1933年に、MGMの『ダンシング・レディ』(これ以降も、映画のことは以下参考に記載の※1: goo 映画を参照)へのゲスト出演でスクリーンデビューした後、同年『空中レヴュー時代』(Flying Down to Rio)に脇役として出演した。このとき、ジンジャー・ロジャースとコンビを組み、「ザ・カリオカ」というダンスナンバーで、息の合った素晴しいダンスを披露して、一躍観客の人気を集め、この映画の成功によって、彼は主演俳優に格上げされたという。
ところで、「ザ・カリオカ(The Carioca)という曲を知ってますか?以下参考に記載の※2:「教えて!goo!」に説明されているが、フォックストロットでもポルカでもないこの軽快な新しいリズムの作曲者は、ヴィンセント・ユーマンス(Vincent Youmans)と言う人だそうで、当時ダンスホールでは 特に歓迎されていたそうだ。私も、「カリオカ」と言う名を聞いても直ぐにわからなかったが、以下の動画を見て若い頃少し、社交ダンスを習っていたときに踊ったことはないが教えてもらったことを思い出した。どんなリズムかは以下を見られると良い。
YouTubbe- Fred Astaire und Ginger Rogers in "Flying Down to Rio" (1933)
翌1934年には、ロジャースとのコンビによるアステア初主演作『コンチネンタル』は公開後スタジオの予想を上回るヒットを記録。この映画での、コール・ポーターの「夜も昼も」でアステアとロジャースが踊るシーンは有名であり、2人の人気を不動のものにし、RKOの「マネー・メイキング・スターズ」(金の稼げるスター)と謳われるようになった。以下に、コール・ポーターの名曲に乗って踊る2人のダンスがある。
YouTubbe-Cole Porter´s Day and Night by Fred Astaire & Ginger Rogers
以後、2人のコンビで『ロバータ』(1935年)、『トップ・ハット』(1935年)、『艦隊を追って』(1936年)、『有頂天時代』(1936年)、『踊らん哉』(1937年)、『気儘時代』(193年))などの唄と踊りが満載のダンス・ミュージカルが相次いで公開され、アステアとロジャースは1939年までRKOで数々のドル箱ヒット作を生み出し、RKOは二人のダンス・コメディ映画シリーズによって経営を立て直したと言われる。この2人は、ハリウッド映画史上最高のダンシング・ペアとされ、一連の主演作は「アステア&ロジャース映画」と半ばジャンル的な扱いをされるようになった。
シリーズ中の最高傑作とも呼ばれる映画『トップ・ハット』で燕尾服に白タイ・トップ・ハット(日本風に言えばシルクハット)というアステアのイメージが確立した(冒頭画像の向かって右。Wikipediaより)。名曲「頬寄せて」で踊るふたりの姿はアメリカだけでなく、日本でも、当時のモダンな人々の憧れの的だった。以下にその華麗なるダンスシーンがある。
YouTubbe-Dancing Cheek to Cheek - Fred Astaire and Ginger Rogers
しかし、余り、物語に変化のない2人の映画は次第に観客に飽きられ始め、又、ロジャースがアステアの添え物」的立場に満足せず、演技派俳優を目指していた事もあって、1939年の9作目『カッスル夫妻』を最後にコンビは解消された。これ以外に1949年の『ブロードウェイのバークレー夫妻』 があるが、この作品はあの『オズの魔法使』で有名な、 ジュディ・ガーランドとの競演で計画されていたが、ガーランドが病に倒れたため、急遽、ロジャースが起用されたもので、これが実質上の彼女との最後の共演作となる。
米国の俳優・ダンサー・フレッド・アステアの 忌日(Ⅱ)と参考 へ