興福寺と言えば、国宝・三面六臂の阿修羅像が有名であるが、興福寺の解説では、「阿修羅」はインドヒンドゥーの『太陽神』としている。そして、 常に帝釈天と戦争をする悪の戦闘神であるが、仏教に取り入れられてからは、釈迦を守護する神と説かれるようになったとある。激しい闘争の行われている場などを指して「修羅場」(しゅらば)を踏むと言ったりするが、この言葉は、この阿修羅と帝釈天との争いが行われたとされる場所から、転じて、出来たものである。
藤原氏の祖となる藤原(中臣)鎌足は、代々祭祀を司る中臣氏の出で、 中大兄皇子(天智天皇)に近づき、蘇我入鹿暗殺を持ちかけ、飛鳥板蓋宮大極殿にて入鹿を誅殺、大化の改新を断行し、その功により天智天皇より「藤原」の姓を賜り、以後藤原姓を名乗り、中大兄の腹心として活躍、藤原氏繁栄の礎を築いてきたことは先にも書いた通りである。
『万葉集』巻2―95に、藤原鎌足の詠んだ以下のような歌がある。
「われはもや安見児得たり皆人の得難にすとふ安見児得たり」 (意味:私は安見児(やすみこ)を得た、皆が手に入れられないと言っていたあの安見児を得たのだ)
采女(うねめ)とは、各国の豪族から天皇に献上された美女たちである。彼女達は芸能をはじめとしたさまざまな仕事に従事した。一種の人質であり、豪族が服属したことを示したものと考える説が有力である。数は多しといえども天皇の妻ともなる資格を持つことから、当時、采女への恋は命をもって償うべき禁忌であった。しかし、大化改新の功労者である鎌足はその采女に恋をするが、彼の場合は天智天皇の覚えが良かったからであろう、特別に采女の安見児を賜わり、結婚。この歌は、恋を成就した歓びと、天皇が自分だけに特別な許可を与えたという名誉を詠んでいる。
藤原氏は、その祖となる鎌足以降、長きに亘ってその権力を確保するために、「阿修羅」の如く戦ってきたといえる。興福寺は、藤原氏の氏神であるが、鎌足が中臣氏の出身であるため、その祖神は中臣氏と同じく天児屋命(アメノコヤネ)と伝えられる。
『古事記』においては、天照大神(アマテラスオオミカミ)の命により、葦原中国を統治するため孫のニニギが、高天原から地上に降り(天孫降臨)て後、天孫の子孫である天皇が葦原中国を治めることになったとしている。
アメノコヤネは、オモイカネ(高木神の子とされる)の提案により天岩屋戸に隠れたアマテラスオオミカを連れ戻すために協力した神々の一つであり、祝詞を唱える役割をした。ニニギの天孫降臨において、五伴緒(以下参考の※5の五伴緒及び※6の天孫降臨を参照)として従った五族長の一つであるが、江戸時代後期の国学者・平田篤胤の説では、この神はオモイカネと同一神であるとしている。名前の「おもひ」は「思慮」、「かね」は「兼ね備える」の意味で、多くの人々が持つ思慮を一人(正確には「一柱」、神は「柱」で数える)で兼ね備える神の意である。思想・思考・知恵を神格化した神と考えられているようだ。
『古事記』において祖神は、「祖(おや)」とも記されるが、これは信仰上の祖神である場合と、一族の出自に関する始祖(礎を築き固めた人物)である場合とがあるようだが、アメノコヤネは、後者を示しているのではないだろうか。
記紀における日本神話や説話などで語られる多くの伝承は、皇家と各氏族たちとの関係を伝えるものであり、それら氏族の天皇家への服属の起源・由来を語るものだといってよく、いつ、どのような出来事によってそれら氏族が天皇家と関係をもったかという起源を語ろうとしているのだろうが、日本における伝存最古の正史とも言われる『日本書紀』編纂時に深くかかわったのは鎌足の息子藤原不比等であるが、彼は自分の親を「大化改新」の英雄に仕立て上げ、さらに神格化した祖神へと歪曲した疑いが感じられる。
歴史小説家の八切止夫は、これまでの歴史の常識を覆す様々な説を唱えているようだが、「日本原住民論」もその一つで、端的にいえば「大和朝廷は外来政権であり、それ以前に今の日本列島に存在していた先住民族の末裔が民やサンカである」という。
八切止夫は、「天智2年(西暦663年)、朝鮮半島の「白村江の戦い」(はくすきのえのたたかい)で倭国は敗れ、郭務悰率いる唐軍の進駐を許す破目になった。進駐してきた唐軍の郭務悰は「藤原鎌足」と日本名になり、大海人皇子(後の天武天皇)を担いで傀儡政権を樹立、旧支配層を一掃した。これが壬申の乱である。そして、「進駐軍」はそのまま居座り続け、「傀儡政権」の支配層として君臨することになった。彼らは「公家」と自称した。藤原氏の出自は「唐進駐軍」の司令官に他ならない。藤原氏はこれらの事実を隠蔽するために、彼らの本来の母語である中国語(漢文)で「日本書紀」を編纂し、歴史を歪曲した。そして「宗主国」唐の律令制を直輸入し、急速に中国化を進めていった。」という解釈をしている。日本に導入された律令制は、中国のそれに倣って、国民を良民と賤( 身分)とに大別する良賤制を採用し(良賤の法、645年制定)て、“天孫と称した郭(唐=藤)方は良で、それまでの縄文日本人原住民はみな賎にされてしまった”・・・と言っているのである。
良賎法は、良民と賤(身分)との婚姻や生まれた子の帰属、戸籍上の扱いなどを定めた法制のことで、良民とに区分し、は衣服により色分けされていたのでと呼ばれた。
農民である良民には租・庸・調・納税・雑徭(ぞうよう、ざつよう)の義務を課した。にはこれらの義務がなく、また良民だからと言って権利があるわけでもなく、不自由な良民よりも、自由なを選択する者が続出したともいう(詳しくは、参照)。
これが、中世の被差別民や近現代日本の被差別の直接的な起源となっているとする説もあるようだが、この当時は、中世の封建制・荘園制の社会における人格的主従結合、契約的結合から離脱した、あるいは積極的に反逆した異端的グループをも包括しうる集団が、卑賤視されていたが、良民かかといった身分関係は極めて流動的であったようで、それが、権力機構の権力政策により設定された近世制とはその本質を異にするものではあったようであり、いろいろ論議があるところのようだ。しかし、当時の天皇を中心とする貴族階級と国民(武士、農民他)の間には、深い溝があっただろうし、それぞれの権益の中で、根深い差別もケガレ信仰を中心とした単なる職業の差別が、長い時間と共に固定されてきてしまったものと考えられ、天皇を利用して権勢を振るった藤原氏の時代に被差別の元となるものができたと考えることには、そう大きな間違いはないように思われる。以降、天皇家と天皇の都をケガレから守るために被差別が利用されてきた面があるようだ(参照)。私には、この問題は難しくてよく判らないが、「文殊会」のような施行の始まりも、このような、律令制度の中から派生的に生まれてきたもののように思われるのだが・・・・。時間があれば、以下参考の※7:「八切止夫作品集」など読んで見られると良い。今までもっていた日本の歴史観が少し、変わってくるかもしれない。
(画像1枚目は、左:興福寺の五重塔と東金堂 右:興福寺を望む夜の猿沢池。2枚目は、左:菊池容斎画 藤原鎌足肖像 右:阿修羅像【八部衆像のうち】。いずれもWikipediaより。)
興福寺・文殊会(Ⅰ)に戻る
参考:
※1:奈良八景(南都八景)とは - 奈良県HP
http://www2.pref.nara.jp/faq/?id=143
※2:地方別武将家一覧・近畿の武将(奈良県)
http://www2.harimaya.com/sengoku/bk_kinki.html
※3:法相宗大本山・興福寺公式HP
http://www.kohfukuji.com/
※4:奈良歴史漫歩No.053 猿沢池の伝説
http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm056.html
※5:日本神話の御殿
http://j-myth.info/index.html
※6:古事記を読む/楽しい人生
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/16259/18266/category/1968143
※7:八切止夫作品集
http://www.rekishi.info/library/yagiri/index.html
古事記・日本書紀の謎
http://inoues.net/shoki/kojiki_shoki.html
隆慶一郎わーるど
http://www.ikedakai.com/index.html
日本原住民論 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8E%9F%E4%BD%8F%E6%B0%91%E8%AB%96
興福寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA
平城遷都1300年祭ホームページ
http://www.1300.jp/
古典に親しむ「万葉集」
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/kotenpeji.htm
東大寺公式HP
http://www.todaiji.or.jp/index.html
東大寺の除夜の鐘
http://www.todaiji.or.jp/index/hoyo/joya.html
奈良駅~猿沢池|動画|街ログ
http://machi-log.jp/spot/100677
上野誠_エッセイランド[興福寺と二人の采女と]
http://www.manyou.jp/essay/essay52.html
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藤原氏の祖となる藤原(中臣)鎌足は、代々祭祀を司る中臣氏の出で、 中大兄皇子(天智天皇)に近づき、蘇我入鹿暗殺を持ちかけ、飛鳥板蓋宮大極殿にて入鹿を誅殺、大化の改新を断行し、その功により天智天皇より「藤原」の姓を賜り、以後藤原姓を名乗り、中大兄の腹心として活躍、藤原氏繁栄の礎を築いてきたことは先にも書いた通りである。
『万葉集』巻2―95に、藤原鎌足の詠んだ以下のような歌がある。
「われはもや安見児得たり皆人の得難にすとふ安見児得たり」 (意味:私は安見児(やすみこ)を得た、皆が手に入れられないと言っていたあの安見児を得たのだ)
采女(うねめ)とは、各国の豪族から天皇に献上された美女たちである。彼女達は芸能をはじめとしたさまざまな仕事に従事した。一種の人質であり、豪族が服属したことを示したものと考える説が有力である。数は多しといえども天皇の妻ともなる資格を持つことから、当時、采女への恋は命をもって償うべき禁忌であった。しかし、大化改新の功労者である鎌足はその采女に恋をするが、彼の場合は天智天皇の覚えが良かったからであろう、特別に采女の安見児を賜わり、結婚。この歌は、恋を成就した歓びと、天皇が自分だけに特別な許可を与えたという名誉を詠んでいる。
藤原氏は、その祖となる鎌足以降、長きに亘ってその権力を確保するために、「阿修羅」の如く戦ってきたといえる。興福寺は、藤原氏の氏神であるが、鎌足が中臣氏の出身であるため、その祖神は中臣氏と同じく天児屋命(アメノコヤネ)と伝えられる。
『古事記』においては、天照大神(アマテラスオオミカミ)の命により、葦原中国を統治するため孫のニニギが、高天原から地上に降り(天孫降臨)て後、天孫の子孫である天皇が葦原中国を治めることになったとしている。
アメノコヤネは、オモイカネ(高木神の子とされる)の提案により天岩屋戸に隠れたアマテラスオオミカを連れ戻すために協力した神々の一つであり、祝詞を唱える役割をした。ニニギの天孫降臨において、五伴緒(以下参考の※5の五伴緒及び※6の天孫降臨を参照)として従った五族長の一つであるが、江戸時代後期の国学者・平田篤胤の説では、この神はオモイカネと同一神であるとしている。名前の「おもひ」は「思慮」、「かね」は「兼ね備える」の意味で、多くの人々が持つ思慮を一人(正確には「一柱」、神は「柱」で数える)で兼ね備える神の意である。思想・思考・知恵を神格化した神と考えられているようだ。
『古事記』において祖神は、「祖(おや)」とも記されるが、これは信仰上の祖神である場合と、一族の出自に関する始祖(礎を築き固めた人物)である場合とがあるようだが、アメノコヤネは、後者を示しているのではないだろうか。
記紀における日本神話や説話などで語られる多くの伝承は、皇家と各氏族たちとの関係を伝えるものであり、それら氏族の天皇家への服属の起源・由来を語るものだといってよく、いつ、どのような出来事によってそれら氏族が天皇家と関係をもったかという起源を語ろうとしているのだろうが、日本における伝存最古の正史とも言われる『日本書紀』編纂時に深くかかわったのは鎌足の息子藤原不比等であるが、彼は自分の親を「大化改新」の英雄に仕立て上げ、さらに神格化した祖神へと歪曲した疑いが感じられる。
歴史小説家の八切止夫は、これまでの歴史の常識を覆す様々な説を唱えているようだが、「日本原住民論」もその一つで、端的にいえば「大和朝廷は外来政権であり、それ以前に今の日本列島に存在していた先住民族の末裔が民やサンカである」という。
八切止夫は、「天智2年(西暦663年)、朝鮮半島の「白村江の戦い」(はくすきのえのたたかい)で倭国は敗れ、郭務悰率いる唐軍の進駐を許す破目になった。進駐してきた唐軍の郭務悰は「藤原鎌足」と日本名になり、大海人皇子(後の天武天皇)を担いで傀儡政権を樹立、旧支配層を一掃した。これが壬申の乱である。そして、「進駐軍」はそのまま居座り続け、「傀儡政権」の支配層として君臨することになった。彼らは「公家」と自称した。藤原氏の出自は「唐進駐軍」の司令官に他ならない。藤原氏はこれらの事実を隠蔽するために、彼らの本来の母語である中国語(漢文)で「日本書紀」を編纂し、歴史を歪曲した。そして「宗主国」唐の律令制を直輸入し、急速に中国化を進めていった。」という解釈をしている。日本に導入された律令制は、中国のそれに倣って、国民を良民と賤( 身分)とに大別する良賤制を採用し(良賤の法、645年制定)て、“天孫と称した郭(唐=藤)方は良で、それまでの縄文日本人原住民はみな賎にされてしまった”・・・と言っているのである。
良賎法は、良民と賤(身分)との婚姻や生まれた子の帰属、戸籍上の扱いなどを定めた法制のことで、良民とに区分し、は衣服により色分けされていたのでと呼ばれた。
農民である良民には租・庸・調・納税・雑徭(ぞうよう、ざつよう)の義務を課した。にはこれらの義務がなく、また良民だからと言って権利があるわけでもなく、不自由な良民よりも、自由なを選択する者が続出したともいう(詳しくは、参照)。
これが、中世の被差別民や近現代日本の被差別の直接的な起源となっているとする説もあるようだが、この当時は、中世の封建制・荘園制の社会における人格的主従結合、契約的結合から離脱した、あるいは積極的に反逆した異端的グループをも包括しうる集団が、卑賤視されていたが、良民かかといった身分関係は極めて流動的であったようで、それが、権力機構の権力政策により設定された近世制とはその本質を異にするものではあったようであり、いろいろ論議があるところのようだ。しかし、当時の天皇を中心とする貴族階級と国民(武士、農民他)の間には、深い溝があっただろうし、それぞれの権益の中で、根深い差別もケガレ信仰を中心とした単なる職業の差別が、長い時間と共に固定されてきてしまったものと考えられ、天皇を利用して権勢を振るった藤原氏の時代に被差別の元となるものができたと考えることには、そう大きな間違いはないように思われる。以降、天皇家と天皇の都をケガレから守るために被差別が利用されてきた面があるようだ(参照)。私には、この問題は難しくてよく判らないが、「文殊会」のような施行の始まりも、このような、律令制度の中から派生的に生まれてきたもののように思われるのだが・・・・。時間があれば、以下参考の※7:「八切止夫作品集」など読んで見られると良い。今までもっていた日本の歴史観が少し、変わってくるかもしれない。
(画像1枚目は、左:興福寺の五重塔と東金堂 右:興福寺を望む夜の猿沢池。2枚目は、左:菊池容斎画 藤原鎌足肖像 右:阿修羅像【八部衆像のうち】。いずれもWikipediaより。)
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参考:
※1:奈良八景(南都八景)とは - 奈良県HP
http://www2.pref.nara.jp/faq/?id=143
※2:地方別武将家一覧・近畿の武将(奈良県)
http://www2.harimaya.com/sengoku/bk_kinki.html
※3:法相宗大本山・興福寺公式HP
http://www.kohfukuji.com/
※4:奈良歴史漫歩No.053 猿沢池の伝説
http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm056.html
※5:日本神話の御殿
http://j-myth.info/index.html
※6:古事記を読む/楽しい人生
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/16259/18266/category/1968143
※7:八切止夫作品集
http://www.rekishi.info/library/yagiri/index.html
古事記・日本書紀の謎
http://inoues.net/shoki/kojiki_shoki.html
隆慶一郎わーるど
http://www.ikedakai.com/index.html
日本原住民論 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8E%9F%E4%BD%8F%E6%B0%91%E8%AB%96
興福寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA
平城遷都1300年祭ホームページ
http://www.1300.jp/
古典に親しむ「万葉集」
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/kotenpeji.htm
東大寺公式HP
http://www.todaiji.or.jp/index.html
東大寺の除夜の鐘
http://www.todaiji.or.jp/index/hoyo/joya.html
奈良駅~猿沢池|動画|街ログ
http://machi-log.jp/spot/100677
上野誠_エッセイランド[興福寺と二人の采女と]
http://www.manyou.jp/essay/essay52.html
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