今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

正月始め

2009-12-13 | 行事
1年の締めくくりの年である12月。人々は、新しい年を迎えるために忙しく過ごす。
旧暦12月を師走または、年の極 まる月の意から極月(ごくげつ、ごくづき)と呼び、現在では師走は、新暦12月の別名としても用いられている。その由来は坊主(師・師には、僧侶の意味もある)が走り回るほど忙しくなるからと、言われているが、本来は伊勢神宮や各地崇敬社の御師(神宮大麻・神札を配る祈祷師)達が各家庭を巡る事からであったそうだ(師走の語源は以下参考の※:語源由来辞典に詳しく載っている)。
冒頭左の図は、『天和長久四季あそび』 十二月のてい、右の図は、:『大晦日曙草子』で、蔵書のNHKデーター情報部編、ヴィジュアル百科『江戸事情』より抜粋したもの。ヴィジュアル百科『江戸事情』には、あまりこの図のことを詳しくは書いてないが、左図、『天和長久四季あそび』のことについては、以下参考の※:「柏書房 連載『江戸東京歳時記をあるく』第39回:師走の煤払い」に詳しく書いてあるが、その中に、この絵の解説に“十二月のてい。極月ニなれバ一年のきハめ月とて、すすをはらひ十三日より事はじめとして正月の物をうりはじめ、もちをつけバせきぞろうばらがせがミ、物せわしき月也。”と書かれているという。
江戸時代、正月準備を始める期日は12月13日とする地域が多く、この日から煤払い、門松にする松を山から伐(き)り出す松迎え、餅つきなどを行なった。関西などでは13日を「正月始め」として祝い、関東では8日を事始と言って正月の準備を始める日としていたよううだ(以前に、このブログで、「御事納め」について書いたことがある(以下参考の※:12月8日「御事納め」参照)。
冒頭左図の中に①と書かれているのが煤払いの様子。今の電気やガスではなく火を燃やすのに薪を使っていた時代、毎日家のなかで火を使うと、年末にはかなりの煤や塵が溜まる。「煤払い」は正月を迎えるにあたって、はたきや笹竹、煤竹(すすだけ)を使って一年の埃と煤(ちり)を綺麗に払い落とし、家の内外を大掃除する年中行事の1つであるが、宮中では20日以降の吉日に行なうが、家や地域により日どりはまちまちで、13日にする地域が多いが、これは江戸幕府が1日から12日の間に煤払いを行い、13日に納めの祝いをした風が広まったといわれている。
冒頭の右図『大晦日曙草子』は、江戸時代後期の戯作者山東京山(山東京伝は兄)がライフワークとして天保10年(1839年)頃から書き上げたものらしい。
天井などの高い位置の掃除には同図の重ねた畳にもたせ掛けているような長い柄の煤竹を用いて払い落とすが、この煤竹を翌年まで保存して小正月の火祭りで燃やす所もある。これを見ても「煤払い」が正月を迎えるにあたっての単なる日常的な大掃除ではなく、歳神を家にお迎えしてお祀りするために家を清める、宗教的行事であり、正月事始め、神祭りの始め、物忌みの始の行事だったことが窺える。つまり、「煤払い」には、煤や埃と一緒に厄や穢(けが)れを祓う(はらう)という意味も含まれていたのだ。
当時の煤払いは大仕事であり、煤払いの日の食事などには手軽な握飯や、煮しめ、蕎麦などが準備されたようだ。右図は、中央に、食時として蕎麦らしきものを食べているところが描かれている。また、「中入りにあんころを喰う13日」の川柳があるように、間食には甘い餅が出されたようだ。右図の右上、積み上げた畳の上に置かれている重箱がそのようだ。
また、左図に戻るが、左図に②とかかれているのが、餅搗(つ)きのようすである。正月の餅を搗く日は家によってよって異なるが、12月15日くらいから搗き始めたようだ。大店や寺院などは自分のところで搗いたが、29日に搗くことは苦餅といって忌む風がある。餅搗きは一般には人を雇って自宅で搗いてもらう引摺(ず)り餅(数人が組んで餅搗きの道具を携え、注文を受けた家で搗く)や街の菓子屋に予約して出来上がりを買う賃餅が利用されたが、左図では、家の中の土間で男が餅を搗き、傍らで女たちが餅をこさえている。
図の中の③は、年末の物売りの様子。正月用品を商う物売りが町を行きかっている。図では正月の子供の遊戯具のぶりぶり(振振)と羽子板、お膳の振り売りなどが描かれている。「ぶりぶり」は、八角型の槌(つち)の頭に似た木製の玩具で、長い紐をつけて振り回して遊び、また、毬杖(ぎっちょう)のように玉を打ち合って遊んだようだ。
④の顔に布をしている人物が、節季候(せきぞろ)。右図、『天和長久四季あそび』の解説の中に“もちをつけバせきぞろうばらがせがミ”と出てくるが、節季候は、年末に巡ってくる物貰い。
この時代になると、俳句の季題「暮」にもなっており、松尾芭蕉も元禄3年(1690)師走朔日、京都付近で、「節季候の来れば風雅も師走哉」の句を読んでいる(以下参考の※:「芭蕉db」のここ参照)。
節季候は、江戸時代の初期の京都では、笠にシダの葉をさして布で顔を覆った姿で家々を回って踊った。又、女の節季候は、姥等といい、京都だけにみられたようだ。江戸時代後期の江戸では、編み笠を深くかぶって覆面をし、簓(ささら)や太鼓を伴奏に歌い銭を乞うたという(ヴィジュアル百貨『江戸事情』)。
節季候は「節季に候」の意。「節」とは、時節。季節のこと。暮れや正月の松の内にかけて赤絹で顔を覆い2~3人1組になって各家の門前に現れ「せきぞろござれや」とはやしながら歌舞(かぶ) し、初春(の祝事を述べて、米銭を乞い歩いたもの。門付け(かどづけ(以下参考の※:「Yahoo!百科事典-門付」参照)芸人の一であるが、実態は乞食同然であったようである。
古くは時節を定めて門ごとに神が訪れて祝福を垂れたという民俗信仰に端を発し、 千秋万歳・唱門師(以下参考の※:「Yahoo!百科事典-唱門師」参照)らが活動したが、のちには神官や僧の変型したものも現れた。もとは季節的なものとそうでないものとがあり、季節的に訪れる代表的なものとして、年の暮れに現れる節季候・婆等、初春に万歳・春駒・鳥追い・大黒舞い・獅子舞い・ちょろけん・猿まわし・太神楽などがあった。これら、門付け芸人の門付け芸の起りを見ると、平安時代には、神道・仏教それぞれの社寺の祭事に誦まれていた祭文、又、このころ盛んに行われていた陰陽道でも、除災招福祈祷の際に読まれていた陰陽道流の祭文が次第に、歌謡化、滑稽化し芸能化へとすすみ、江戸時代にいろいろな芸を産むことになったようだ。詳しくは以下参考の※:「祭文」を参照すると良い。
又、芸人の起こりを見ると、近年、中世の研究により、既存の諸社会集団(共同体)から排除・脱落・疎外されることによって個別的に発生したが、彼ら独自の集団(宿)を形成し、中期後期にいたり、様々な職能を会得する中で、斃(たおれ)牛馬処理(死んだ牛馬の処理)に関わる集団と、,陰陽師や雑芸の集団に文化を遂げていったことが知られている(週間朝日百貨「日本の歴史」)。これらの生活を支えた生業は勧進であった。小屋ごとに勧進場というテリトリーがあり、小屋ごとに勧進権を独占した。中世の多くは異形(蓬髪・顎鬚・童姿等)の者であった。古代にあっては人と異界の狭間に暮らす「人ならぬ存在」であった。中世の絵巻物などを見ていると覆面をした人々が随分多く見られる。覆面をする理由はいろいろあるが、覆面の重要な意味には変装があり、覆面をして変装をすることで自分を解き放ち別の自由なる世界へとわが身を移してゆく・・・覆面にはそのような呪力が篭もると信じられていたのではないかという。衣類について、は膝より長い着物は禁止され、着物の色は藍か渋染めに限定されていた。図左の④の節季候も膝までの着物を着ている。(異界の世界の詳しくは、アサヒクロニクル「日本の歴史」10-悪党と飛礫・童と遊び、76-と王権等を読まれると良い)。
正月始めの最も重要な行事である煤払いも、今では13日にしたのでは日がありすぎるので、この日には神棚と仏壇の清掃のみを行い、家の中の掃除は暮れもおしせまってからやるようになった。戦後の私が子供の頃、近所のどこの家も家族総出で大掃除をしていたが今ではそのような風景は見られなくなり、正月を迎える為にといって、特別、年末に大掃除をしないと言う家庭も増えてきたと聞く。家人の郷里もそうだが、私の親も、この年代のものは、男は外で仕事をするもの、家庭の奥向きのことは、主婦に任せきりで、掃除などすることもなかったが、ただ、正月の祝いや神仏に関わること(掃除、供え物など、松飾など)等については、すべて自分で行い、年末の大掃除も取り仕切り中心になってやっていた。それを見習い私なども、掃除などは、夫婦で適当に分担しているが、仏事などはすべて基本的には私が行なうようにしている。ただ、戦後、核家族化も進み、我が家でも息子などとは結婚後別所帯となっており、このような行事がどのように受け継がれるか・・・余り期待は出来そうにない。
餅搗きも私がまだ子供の頃は、近所の家数件と組んで、餅搗き屋に頼んで家の前で搗いてもらっていた。搗けた餅はそれぞれの家の主婦が中心となって飾り餅や小餅、伸餅など作っていたが、まだ、食べ物も十分でなかった時代、子供たちは、その横で、出来たての柔らかいあんころもちを喰べるのが楽しみだったのを思い出す。こんな餅も正月飾りもすべて、年末ギリギリに商店から買うようになったが、正月用のお飾りの餅・ 鏡餅も、このごろは、パックにつめたものが売られており、多くの家庭はこのようなものをお飾りとしている。門松も森林資源愛護の観点から飾ること事態が良くない・・といったことになり今では、殆ど飾っている家はなくなった。戦後、日本の伝統文化が、どんどんと薄れてゆく中で、西洋のクリスマスなどが賑やかにもてはやされている。さ~、私の孫の代くらいになると、正月は、ただのニューイヤーでしかなくなっているのだろうね~。寂しい話だ。
大掃除についての面白い繪物語が京都大学電子図書館で公開展示されている。『付喪神』と言うタイトルである。“「付喪神」(つくもがみ)は、暮れの煤払いで捨てられたことに腹を立て、妖物に変化した古道具たちが、人間への復讐を図って悪さをするも、最後には改心、仏門での修行を経て成仏を果たす”というもの。興味のある人は御覧になると良い。以下で見ることが出来る。ここには、他にもいといとおもしろい絵物語が沢山あるよ。
貴重資料画像--京都大学電子図書館
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/index.html
(画像は、左:「天和長久四季あそび」十二月のてい、国立国会図書館蔵。右:『大晦日曙草子』都立中央図書館蔵。NHKデーター情報部編、ヴィジュアル百貨「江戸事情」より)
参考:
※:語源由来辞典:師走
http://gogen-allguide.com/si/shiwasu.html
※:柏書房 連載『江戸東京歳時記をあるく』第39回:師走の煤払い
http://www.kashiwashobo.co.jp/new_web/column/rensai/r03-39.html
※:12月8日「御事納め」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/295d0fe2ad1cf7925c775865d0b229ae
※:芭蕉db
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm
※:叡智の禁書図書館<情報と書評>
http://library666.seesaa.net/archives/200709-7.html
※:祭文 さいもん
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H055L100.HTM
Yahoo!百科事典-門付
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%96%80%E4%BB%98/
Yahoo!百科事典-唱門師
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%94%B1%E9%96%80%E5%B8%AB/
大晦日曙草紙. 初,2-25編 / 山東庵京山 作 ; 香蝶楼国貞 画
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_03049/index.html
クリナップ / 江戸散策 / 第32回
http://www.cleanup.co.jp/life/edo/32.shtml
山東京山 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%B1%B1
乞食 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9E%E9%A3%9F
小学館:白土三平 画業50年記念出版 決定版カムイ伝全集全38巻「夙谷の住人達」
http://comics.shogakukan.co.jp/kamui/article_write03.html
萬歳 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%AC%E6%AD%B3
車善七
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8A%E5%96%84%E4%B8%83
陰陽道 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD%E9%81%93
陰陽師 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD%E5%B8%AB
順徳天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%86%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
年神 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E7%A5%9E


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