今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

記念切手記念日

2008-03-09 | 記念日
今日(3月9日)は「記念切手記念日」
1894(明治27)年の今日(3月9日)、日本初の記念切手が発行された。
明治天皇・皇后(昭憲皇太后)両陛下のご大婚(天皇の結婚)25周年を記念して発行された。これが日本で最初の記念切手である。ただし、意匠には「記念」の文字はなく、「記念切手」と言うよりも正式には「特殊切手」と称されるものである。デザインは、菊の紋章に雌雄の鶴2羽が描かれたもので、紅色で内地用の2銭(当時の内国用封書用)と青色で外地用の5銭(外国用封書用)の2種類だった。(以下参考に記載の「切手収集ことはじめ・記念切手1」でこの切手が見れる)。
切手(郵便切手)とは、郵便事業で行われる諸々のサービスの、料金前納を証明する証紙である。世界で初めて切手が発行されたのは1840年のイギリス。日本で最初に発行された切手は、1871(明治4)年4月20日に発行された竜文切手(江戸時代の通貨による額面表示単位)であり、翌1872(明治5)年には「銭」単位に変更された竜銭切手が発行された。なお、前者2つをあわせて竜切手と呼称されている。1883(明治16)年には「円」の単位が表記された切手が発行された。
それから、11年後の1894(明治27)年の今日(3月9日)、日本初の記念切手として、「明治天皇大婚(天皇の結婚)25年祝典」を記念して発行された。
明治天皇は、孝明天皇の第二皇子。 は睦仁(むつひと)。幼少時の称号は祐宮(さちのみや)。母は権大納言中山忠能の次女・慶子(よしこ)である。慶子の母は平戸藩主・松浦清(靜山)の11女愛子。慶子は、1835(天保6)年11月28日、京都石楽師に生まれ、八瀬(現京都市左京区八瀬)に里子に出されて育ち、17歳で典侍(以下参考に記載の※1※2を参照)御雇となって宮中に出仕し、名を安栄(あえ)と賜る。そして、孝明天皇の意を得て懐妊し、1852(嘉永5)年9月22日(新暦11月3日)、慶子の実家中山邸にて誕生している。
慶子の父中山忠能は、禁門の変に絡み孝明天皇の怒りを買って処罰されていた。
家禄わずか二百石の中山家では産屋建築の費用を賄えられず、その大半を借金したほどだという。祐宮はそのまま中山邸で育てられたが、5歳の時に宮中に帰還し慶子のに住んだ。その後、孝明天皇にほかの男子が生まれなかったため、1860(万延元)年5月、皇太子となる。7月10日、勅令により祐宮は准后女御・九条夙子の「実子」とされ、同年9月28日、親王宣下を受け名を「睦仁」と付けられた(睦仁親王となる)。
1866年(慶応2)年12月25日(新暦1867年1月30日)、父・孝明天皇が俄かに崩御。1867(慶応3)年1月9日(新暦2月13日)、満14歳の若さで践祚した。
この頃、幕府と討幕派(倒幕運動参照)それぞれ朝廷への工作を強めていた。1867年(慶応3)年10月15日(新暦11月10日)には、若年の天皇を戴く朝廷は、将軍・徳川慶喜からの大政奉還の上表を勅許し、政権を朝廷に戻した。さらに慶応3年12月9日(1868年1月3日)には、討幕派の主導により、王政復古の大号令を発し、同年9月には年号が明治と改められ明治新政府を樹立した。
次に昭憲皇太后のことに簡単に触れておこう。何を脱線しているかと思われるかもしれないが、今日のテーマーの基礎をなす重要なことなのである。
昭憲皇太后、旧名・一條 美子(いちじょう はるこ)は、嘉永2(1849)年旧暦・4月17日、五摂家出身の従一位・左大臣一条忠香(一条家参照)の三女として誕生というから明治天皇より3歳年長ということになる。生母は新畑民子(新畑民子のことは良くわからないが忠香の側室とも言われているようだが?)。初名は勝子(まさこ)。名は次々変えるが、安政5年(1858年)6月、寿栄君(すえぎみ)と改名。
1867(慶応3)旧暦・5月18日、明治天皇の女御に治定(じじょう=決まること。定まること)、同年6月28日に女御の宣旨を被った。そして、1868(明治元)年12月28日(新暦1869年2月6日)、立后(皇后を正式に定めること)の時、あらためて名を美子(はるこ)とし、皇后宮職を付された。これと共に、従来帝の正妃(皇后参照))に付された中宮職が廃止された。
1868年明治政府を起立後、明治新政府は西南戦争で反政府士族を一掃し、万国に対峙しうる開明政府の起立を目指した。明治14年の政変で、基礎をかため直し、1984(明治17)年華族令、1985(明治18)年に内閣制度を制定、宮中に内大臣宮中顧問官を設置し、1986(明治19)年に宮内省を設け、華族世襲財産法(以下参考に記載の「中野文庫 - 華族」又、「華族一覧表」参照)を公布するなど、天皇を制度の枠組みにとりくむとともに、国会開設に備えた制度整備を整えた。1889(明治22)年に市町村制が確立。こうした制度的枠組みを踏まえた上で、1889(明治22)年2月11日・紀元節の日、皇居正殿で明治天皇から第2代黒田清隆内閣総理大臣に憲法(大日本帝国憲法)が手渡される憲法発布の式典が行われた。
この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(以下参考に記載の「用語解説―法律篇―NO2」の天皇大権を参照)を明記しており、近代天皇制国家確立の基礎となった。又、この式典に、皇后が天皇とともに出席。以下参考に記載の「大日本帝国憲法発布式」参照。
大日本帝国憲法発布式
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/teikokuhappusiki.htm
図を見られると左端前面に、ローズピンクの洋装で長い裾を引いた皇后が女官を従えている姿が見られる。そして、この式典後天皇・皇后はこの後の祝賀パレードでも馬車に同乗し、有史以来はじめてと思われる夫婦として一組の“両陛下”として始めて民衆の前に姿を現すことになる。
現代では、正月2日の一般参賀の日などに、”天皇・皇后両陛下”のご夫婦が揃って並んでいる姿を見ても当たり前のように思うだろうが、このような天皇夫妻が一緒にいる存在を一般の国民が意識するようになるのは、このころのことであり、それまで、庶民にとって、天皇の存在は、影の薄いものであった。明治になるまでの日本の社会構造では、徳川家を代表する各地域の諸藩の大名(殿様)が庶民の頂点にいた。だから、今で言うところのごく少数のエリート以外の人にとっては天皇の存在など殆ど意識にないし、むしろ知らないというのが実態であったろう。
それに、明治の初期までは皇統の維持という観点から側室制度が厳然として残っており、明治天皇にしても大正天皇にしてもその母親は、いずれも、皇后ではなく、側室の女性である。ゆえに、正妻としての皇后の立場は現在と比べると非常に弱いものであり、皇室の中での序列でも一番序列の高い女性は、皇后ではなく、天皇の母親である皇太后であり、天皇→皇太后→皇后という序列となっていたのである。これは、儒教思想によるものであるが、戦後完全に家制度が廃止されるまで、日本の家庭においては嫁よりも姑の方が権力を持っていたことにも見られた。
そのような中で、近代国家の体裁を整えることに躍起となっていた明治政府は、日本の皇室制度はその伝統を維持しつつも、西欧諸国と互換性のあるものへと再編しなおさなければならず、西欧の王室が国王夫妻を前面に押し出しているのに合わせて、それまでの形式から天皇・皇后夫妻を並べて(皇太后を排除)、大日本帝国を象徴するイコン 〔〔Ikon〕崇拝の対象)として定着させようと考えた。だから、憲法の発布式典の日に天皇・皇后が揃って民衆の前でパレードを行うという演出も行われたのである。
また、1890(明治23)年には教育ニ関スル勅語を発し、近代天皇制国家を支える臣民(国民)道徳の涵養に努めるとともに、勅語の文言に合わせるかのように「夫婦相和シ」の理念を表象するものとして、天皇・皇后両陛下(夫妻)の“ご真影”が全国の学校に下付された。これが“両陛下”が国民の崇拝の対象として、国家によって定められた瞬間である。(以下参考に記載の「日本国の研究 不安との訣別/再生のカルテ」参照)。
そして、この年の11月29日、東アジア諸国で最初の国会が開催され、日本は近代的な立憲国家として雄飛する場を築いたのである。
この当時は、まだ、現代のような結婚○○年(銀婚式)など、結婚記念日を祝う習慣はなかった。このような、結婚記念日を祝う習慣は19世紀のイギリスから始まったと言われており、家としての絆(家制度参照)を重んじる日本とは違い、夫婦が中心。夫婦の歴史を物語る証しとして、結婚の節目の日を家族で祝うようになり、それが、アメリカに伝わって回数が増えとされている。日本では、この明治天皇と昭憲皇太后の銀婚式「大婚25年祝典」がその始まりとなり以来、一般にも広まっていったといわれている。
しかし、昭憲皇太后つまり、旧名・一條 寿栄君が名を美子と改め明治天皇の皇后として正式に冊立されてから25周年にあたる1894年2月9日の直前になって、西洋にこのような銀婚式なるものがあることを知り、この機会を最大限に活用し、近代化(西洋化)された皇室の“両陛下”という存在を国民に強く印象付けるための一大イベントとして明治天皇の銀婚式が企画されたが、余りにも急なことであったため、準備が間に合わなかったようで、1ヵ月程度遅らせて、3月9日に明治天皇夫妻の「大婚25年祝典」(銀婚式)が行われ、参列者には記念章が賜与された。金章と銀章の2種がある。(以下参考に記載の「中野文庫 - 記章・大婚二十五年祝典之章 」参照)。そして、この日、日本で初めての記念切手も発行されたのである。日本の国民が結婚記念日を祝うようになるのはこの時以降である。なお、明治天皇が、銀婚式などというものを嫌い正式には銀婚式といわずに「大婚25年祝典」とされている。このブログのトップに掲載の画像は、明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館の壁画を絵葉書したもののうちの1枚で、明治27年3月9日の「大婚二十五年祝典」 の図(画家:長谷川 昇)である。そもそも、この明治神宮外苑は、近代国家としての基礎確立の原動力となった明治天皇・昭憲皇太后の御聖徳を永く後世に伝えたいとの民間有志により発案され、国民の献金と奉仕により10余年の歳月をかけて造営されたものだそうだ。「聖徳記念絵画館」は、1926(大正15)年10月に完成。館内には、明治天皇の御誕生から大葬の儀まで、当代一流の画家による、大壁画が年代順に展示されている。この壁画が絵葉書にされており、絵葉書は、40枚づつ2組80枚で全画揃うようになっているらしいが、その中の1組(40枚)が私の絵葉書のコレクションの中にある。以下参考に記載の「明治神宮外苑・聖徳記念絵画館壁画絵葉書」に40枚を展示しているので興味のある人は見てください。
明治神宮外苑・聖徳記念絵館壁画絵葉書
http://m-yousan.hp.infoseek.co.jp/room2-33.html
(画像は、明治神宮外苑・聖徳記念絵画館壁画絵葉書80枚のうちの1枚明治27年3月9日「大婚二十五年祝典」 絵葉書には、場所:宮城正殿、画家:長谷川 昇、絵画奉納者:華族開館とある)
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2 コメント

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Unknown (Linda)
2008-03-09 10:25:09
よーさん、お早うさんです。
記念切手記念の日に発行される記念切手は「記念切手の日記念切手」と言うのかなぁとどっちでもエエことを考えていました。
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記念切手 (よーさん)
2008-03-11 09:53:40
Lindaさん、記念切手記念の日に記念切手発行されているのだろうか?もし発行されているのならどんな名前で発行されるのでしょうね。
私も、一時、記念切手も集めましたが、これは集めだすときりが有りませんね。それに、最近は金儲けのために記念切手も発行しすぎです。
希少性が重視されるものが発行しすぎると値打ちはありませんよね。私はもうだいぶ前に収集を止めました。
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