真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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選挙が近づくと「北風」が吹く韓国

2025年03月30日 | 国際・政治

 下記は、南北統一の夜明け 朝米関係の軌跡をたどる」鄭敬謨(技術と人間)からの抜萃です。 選挙が近づくと「北風」が吹くという韓国で、尹大統領の「非常戒厳」宣布が、そうした過去の出来事と無関係であるのか、また、ブリケン前国務長官が知らされていなかったと発表したことがほんとうなのか、私は疑問に思います。そういう意味で、アメリカの支援を受ける韓国の政権の実態を知ることができる下記のような鄭敬謨(チョンギョンモ)氏の記述は、見逃すことができない大事な記述はないかと思います。SNSの情報と異なり、経歴や身分を明らかにして、著書に出鱈目なことを書くとは思えないからです。

 でもその前に、またしても朝日新聞は、藤原帰一氏の主張をデカデカと取り上げましたので、その問題点を確認したいと思います。

 今度は、「オピニオン&フォーラム」に「巻き戻される国際秩序」というテーマのもと、”「捕食者」化する米、ロシアに追従”と題されていました。そして、「和平」を目指していたトランプ大統領の動きが、世界中の少なくない人々に不安や反発を抱かせています。という編集委員の指摘に、

当然です。トランプ氏が今進めているのは和平ではなく、プーチン氏の考え方への全面的な追従です

 と答え、さらに”追従ですか”と、問われて

少数意見で驚かれるでしょうが、それ以外に評価のしようがありません。交渉に臨んでいるトランプ氏の判断のうち、現状でカギになるのは次の二つだろうと私は見ており、それらはいずれもプーチン氏の判断と同じだらかです。

”①ロシアが武力でウクライナから奪った支配地域をロシアの政権下にあるものと認める

 ②ウクライナ住民への大規模な虐殺や人権侵害に関心を持たない──です。どちらも国際政治の原則を踏みにじる判断です

 と述べているのです。そして、さらに、”国際政治の原則とは何を指すのでしょう”という質問に、

戦争に関する国際政治の最低限の原則は『主権国家の独立は保全される』、つまり、侵略戦争の禁止です。加えてジュネーブ条約(1949年)が、たとえ戦争中でも民間人や民間施設への攻撃は禁じるとの原則を定めています

 と答えています。

 藤原帰一氏は順天堂大学特任教授であり、東京大学名誉教授だといいます。そして、戦争と平和に関する考察で知られるというのですが、私は、呆れてものが言えません。

 パレスチナ人殲滅が目的だろうと思われるような猛烈なイスラエル軍のガザ爆撃、また、パレスチナ人がパレスチナの地にとどまれないようにするためではないかと思われる住居やインフラの破壊、そして際限なく続く民間人殺害などを黙認し、イスラエルに武器支援を続けてきたアメリカを、上記のような考え方をする藤原氏は、なぜ非難しないのでしょうか。

 藤原氏の主張は、バイデン政権やバイデン政権を支えてきた組織集団(DS?)の主張そのものではないかと私は思います。戦後も戦争をくり返しながら、圧倒的な軍事力や経済力、そして豊かさを保ってきアメリカの戦略を煽っているとしか思えないのです。

 

 でも、トランプ政権は、世界中に配置されている米軍や、CIANSAなどの組織を維持するための莫大な支出、また、国際協調主義に基づく、軍事同盟や共同訓練、軍事支援などに対する多額の支出を削減し、国内に還流させることによって、国内を豊かにし、アメリカの行き詰まりを打開しようとしているのであって、プーチン大統領に追随しているわけではないと思います。そういうトランプ大統領によるアメリカの方針転換を、BRICSや、グローバルサウスに結集する国々の拡大や、それらを含む世界情勢の変化と合わせて客観的に論じるのが国際政治ではないのかと私は思います。だから、藤原氏の主張は、学者のものではなく、アメリカの戦略に基づく、アジテーションだと私は思うのです。、

 バイデン政権とは異なるトランプ政権の方針をきちんと受け止めなければ、トランプ候補がなぜハリス候補を圧倒し、大統領に就任したのか、また、西側諸国でも、現政権を批判し、トランプ大統領に近い方針を示す勢力が、現在の政権をこえる支持を得つつあるのはなぜか、また、様々な大統領令に署名し、DOGEDepartment of Government Efficiency)の本格的な取り組みを始めたトランプ大統領を、今なお多くのアメリカ国民が支持しているのはなぜか、ということが理解できないことになるだろうと思います。

 

 先日、国際的にイスラエルに対する批判の声が高まっていることを受けて、朝日新聞は、”支持する米 動けぬ日本”と題する小さな記事を掲載していましたが、そのなかに、日本政府は「副次的な関わり方しかできない」(外務省幹部)とか「何ができるかは軍事的にも経済的にも力のある米国だけだ」(別の幹部)という証言が取り上げられていました。

 なぜ、”日本が動けないのか”、そこに、世界が直面している問題、さらに言えば、われわれ日本人が乗り越えなければならない重大問題があることを踏まえて、議論する必要があると思います。藤原氏には、そうした外務省幹部の証言に対する見解を述べてほしいものだと思います。

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                   1章 金大中政権の浮上と新しい南北関係

 いわゆる「北風」について

 韓国ではいわば定例的なこととして、大統領選挙があるたびにいわゆる「北風」が吹き荒れ、明らかに金大中を標的とするおかしな事件が起こってきたのですが、今回も「スパイ事件」その他の「北風」は吹き荒れたのです。

 選挙を約一ヶ月後に控えた1120日、安企部(国家安全企画部)は、長年ソウル大学で教鞭をとっていた社会学者・高永復(コヨンホク)教授が、実は1961年以来、36年間も諜報活動をやってきた北のスパイであったという発表を行ったのです。それと同時に、北の南浦港から漁船で南下し、巨済島に上陸した男女2人の「夫婦間諜」を逮捕して、取り調べを始めたところ、女のスパイは、体の秘所に隠し持っていた毒薬のアンプル噛み砕いて自殺を遂げたという陰惨な事件を発表したのでした。

 1987年の大統領選挙の直前に発生した「真由美」事件(871129では、親子を装った男女2人のうち、毒のアンプルを噛んで自殺したのは「父親」である蜂谷真一であって、「娘」の真由美(金賢姫)はちゃんと生き残って、ペラペラ「白状」したのです。今度の事件では、毒を呑んだのは女性(妻)で、生き残ったのは男性(夫)というわけですが、何か手口やシナリオが似通っていて、話がうさん臭いのです。「真由美」 こと金賢姫が犯人であったというKAL(大韓航空)機爆破事件が、大統領選挙に打って出た金大中に、どれだけ大きなダメージを与えたかについてはもう少し詳しく後述するつもりです。何か北側が仕掛けたというキナ臭い事件が起こると、非難の声を浴びるようになるのは金大中ということになるわけですが、今度も選挙を前にして、安企部が秘密裏に北に人を派遣し、どこか板門店あたりの休戦ラインから南に向けて銃撃を加えて欲しいという交渉を行ったという、いわゆる「銃風」の噂が飛び交っているのです。真偽のほどは確かめようがなく、まさか北側がそのような話により「銃風」を吹かせることに同意するとも思われませんが、ともかく政権交替のあと、安企部(部長・権寧海〔クォン・ヨンヘ〕、当時)は、一応調査を受け、背後勢力であるはずのハンナラ党に追及の手が伸びていくのは避けられないでしょう。

 

 金大中拉致事件と日本政府

 1973年あの夏の日、金大中氏が、KCIAにより、白昼東京のホテルで拉致された事件を思い返すと、私はどうしても1896年、ロンドンに亡命中の孫文先生が、清国の公使館員に拉致され、館内に監禁された事件を重ね合わせて考えざるを得ないのです。それまで孫文先生は、そう名前が世界的に知られ渡っている著名人というものでありませんでした。ところが香港時代の恩師カントリー(James Cantlie)の奔走で、奇跡的に救出され、青年革命家・孫文の名は一躍世界中に響き渡るようになったのです。

 

 19721017日、 朴正煕が宣布した維新体制に抗議し、日本で亡命を宣言した当時の金大中は、ごく限られた政界の何人かを除けば、日本においてさえ、そう広く名前が知れわたっていた人物でありませんでした。日本における、拉致事件が、金大中氏を世界的に超有名人にさせたのは紛れもない事実です。このことについては後でもう少し詳しい説明を加えたいと思うのですが、拉致された当時、日本政府が金大中にとった態度は如何なるものであったか、これについては、歴史の証言として、まず一言を述べておきたいと思うのです。

 非常に込み入った複雑な事件だったので、短い文章でその全貌を説明するのは難しいのですが、犯行の現場(ホテル・グランドパレス22階)に指紋を残した、韓国大使館勤務の一等書記官・金東雲のことから話を始めましょう。プロの殺し屋にしては、現場に指紋を残すという、ありうべからざる初歩的なミスを犯した金東雲ですが、その指紋を盾に、日本政府は、金東雲を警視庁に出頭させるよう、韓国大使館に要求したのです。95日のことでした。ホルマリンの強い刺激臭が充満している現場で、私が指紋を採集している警察官の姿を目撃したのは、その日の3時頃でしたので、警察は、事件当日の88日か、いくら遅くても翌日の9日中には、金東雲の指紋を確認しえたはずです。にもかからず日本政府は、犯人・金東雲が819日、大手を振って羽田から帰国するのを黙認しておいてから、白々しくも95日になって、韓国大使館に対し、金東雲の出頭を要求するという見え透いたジェスチャーを示したのでした。これを見ても分かることですが、日本政府は事件の真相を究明するのではなく、隠蔽するのに全力を尽くしたのです。

 

 当時の日本の首相は田中角栄氏ですが、この事件をもみ消す見返りとして、朴正煕から3億円をもらっていたという話も、関連事項として見逃しえないことでしょう。このことはアメリカ国務省のコリア・デスク担当官レイナード氏が、秘密公聴会(76.3.15でばらした話であって、その情報をつかんだ私は、日比谷公会堂で開かれた公開の市民大会(76.48)で、「人身売買にも等しい」この許すべからざる裏取り引きを糾弾したのです。それを翌日の「赤旗」が報道し、国会でも質疑に立った共産党の松本善明氏が、その真偽を明らかにせよと要求したのですが、答弁に立った当時の宮沢喜一外相は、「市民大会あたりでの、そのような無責任な発言に答える必要を認めない」という言葉で、真相解明の要求を拒否したのでした。

 その後の調査で、朴正煕からの3億円を紙でくるみ、田中の「刎頚(フンケイ)の友」小佐野賢治に託したのが、大韓航空の社長、趙重勲(チョジュンフン)であったことも分かったのですが、ともかくこの3億円のやり取りの結果、それまで外界から一切遮断されたまま、自宅に軟禁されていた金大中氏が、1026日、初めて記者会見の場に姿を現し、①拉致事件が韓日間の親善を損なうのを望まないこと、②「現状回復」のため再び日本に戻ることを望まないこと ③ 今後一切の政治活動から身を引くことの三つの項目を内容とする声明文を発表したのです。その一週間後の112日、金鐘泌が日本に来て田中に会い、謝罪したことで、韓日間のわだかまりは解けたということになったわけで、これが「第一次政治決着」です。

 この政治決着にまつわる趙重勲の日本における足取りですが、私が入手した入管の記録によると、彼は金大中拉致事件から三ヶ月目に入った1021日、羽田から東京に入り、その5日後の1026日、つまり金大中氏の記者会見があった日、ソウルに戻ったのですが、これは田中首相に3億円が渡ったあと、シナリオ通りの決着がなされたことを見届けた上での帰国であったと考えてよいでしょう。

 もう一つ、ここに記録として書き残しておきたい事実があるのですが、それは、KCIAが、ソウル大学法学部の崔鐘吉(チェジョンギル)教授(ハーバード大学出身)の拷問死体を、ビルの4階から下に投げ捨ててから、崔教授は自殺をとげたのだと、かなり派手に報道させたことがあるのです。それを発表した日が、ちょうど金大中氏が記者会見に姿を見せた日の前日、つまり1025日であって、これは、もし記者会見で言われた通りのことを言わないと、お前もこうなるぞという、金大中氏に対するKCIAの脅迫であったと私は考えているのです。

 「第一次政治決着」についてのべたついでに、どうしても一言のべざるをえないのが、「第二次政治決着」のことで、これは朴正煕の妻、陸英修(ユクヨンス)殺害事件に、日本政府がどう対処したかにかかわる問題です。

 

 この事件が発生したのは、金大中拉致事件の翌年(1974年)の815日、国家的式典として毎年執り行われている光復節(独立記念日)の式場であったのですが、ジャーナリストの中でも、この事件と金大中拉致事件が有機的につながっている二つの事件であったことに気づいている人が案外少ないのは残念というほかありません。

 この事件が起きるまでは、立場上「金大中事件はどうなっているんだ、どうなっているんだ」とばかり、真相究明を要求していたのは、日本政府であり、この要求に答えられるず、にっちもさっちもいかない窮地に追い込まれていたのが韓国政府であったのです。ところが、あの式場において、「暗殺犯」文世光(ムンセグァン)の撃った銃声が鳴り響いた瞬間から、形勢は劇的に逆転するのです。

 文世光は日本に生まれて日本で育った韓国人であるから、実質的には日本人ではないか、持っていたパスポートが日本政府発行のものであり、陸英修をあやめたピストルが大阪の交番から盗み出した日本の警察のものである以上、大統領夫人殺害の責任は、全面的に日本側にあるのではないかと、朴政権は日本の非を鳴らし始め、日本を糾弾する大規模な官製反日運動が繰り広げられたのでした。この「反日」運動の馬鹿騒ぎの中では、刑務所に収監されていた暴力団員を大通りに動員し、道行く人びとの面前で、指をナタで切り落とさせるという、おどろおどろしい─、しかし日本人にはよく理解できる─ヤクザ流の抗議の芝居までが演出されたのですが、当時のアメリカのタイム誌の暴露記事によると、韓国政府がこれらヤクザどもに支払った報賞金は指一本でつき5万ウォン(115ドル)であったというのでした。

 この官製反日デモに呼応し、日本は韓国政府に謝るべきだというキャンペーンを張ったのは、拉致事件の時から「よその国にきて自分の国の悪口を言う金大中は売国奴だ」(テレビ東京)と公言してはばからなかった中川一郎だとか、「そもそも金大中は心底低劣な人間」で、しかも彼が日本にいたのは「不法滞在であったから、日本側の非難は、虫のいい非難でしかない」(「文藝春秋」7511号)とかのデマゴーグをもって、親朴反金のムードを煽りたてた石原慎太郎など、自民党清風会所属の極右グループであったのです。在日韓国人・文世光のことを「実質的には日本人」であると考えたことなどあろうはずもない、これらの連中に煽られたのか、あるいは煽らせたのか、あんなに謝ることも嫌いな日本政府が、今度はやすやすと自民党副総裁椎名悦三郎を謝罪使としてソウルに派遣し、変にふんぞり返っている朴正煕の前で、深々と頭を下げる芝居を演じさせたのでした。馴れ合いの猿芝居です。これで一件落着し、日本政府が金大中事件について韓国政府に責任を問うということは、二度となくなったのでした(「第二次政治決着」)。

 それはともかくとして、あの日、陸英修をあやめた弾丸は、果たして文世光の撃ったものだったのでしょうか。これまで私はことあるごとにくり返しくりり返し述べてきたのですが、それは絶対にあり得ないことです。

 

 文世光が大阪の交番で盗み、ソウルの式場にまで持ち込んだという例の拳銃は、発表によると「南部式五連発」のものですが、最初の一発は、文世光が立ち上がりざま、右のポケットから銃を引き抜いた瞬間、暴発して自分の右腿を傷つけました。二発目は朴正煕が立っていた演壇(防弾装置)に弾痕を残し、三発目と四発目は、それぞれ、壁にかかげられていた国旗と、舞台の天井を貫き、五発目は、不発のまま弾倉に残されていたのです。事件当日の各新聞は、そう報道したのでした。では発射された四発のうち、いずれが陸英修氏を殺害した弾丸だったのでしょうか。 その日、場内で計七発の銃弾が発射されたということは、回っていたテレビカメラの録音分析でも明らかにされている事実です。七発のうちの四発は、文世光が撃ったものですが、二発は、突然舞台の上に躍り出た朴鐘圭(パクジョンギュ:大統領警護室長)の撃ったもので、そのうちの一発は、合唱隊の女子高校生の一人を殺し、他の一名を負傷させたのですが、問題は残りの一発、つまりほんとうに陸英修の命を奪った七発目の銃弾です。当時韓国政府は、銃弾がどの方向から飛んできて、どの角度で陸夫人の頭蓋骨を貫いたのか、この種の狙撃事件では当然発表されてしかるべき弾道については、沈黙したままでした。それが発表されたなら、その弾丸が文世光の立っていた位置からのものでないことは、明々白々に証明されたはずです。

 文世光がポケットからピストルを引き抜いた瞬間、暴発し、彼の右腿を傷つけたという第一弾も実にうさん臭いもので、これは、おそらく演壇に立っている朴正煕に直前の警告を与えるため、予め何らかの細工が施されていたものだろうと私は推測するのですが、第一、腿に当たった銃弾がかすり傷を与えただけというのからして不思議な話ではないでしょうか。

 

 この事件に関連して、おそらく部外者としてこれを知り、そしていまだに記憶しているのは私一人だと思われる事実が一つあるので、この機会にそれを明らかにしておきたいと思います。事件前日、つまり1974814日、私はある集会での講演のため、大阪に行っていたのですが、 午後6時(講演会の開会直前)、共同通信のある友人から緊急電話がかかってきたのです。その日の午後4時過ぎ「金大中拉致事件について、もうこれ以上調べることがないので捜査を打ち切る」という韓国外務省の通告文が、日本の外務省に送られてきたというのです。これについての私のコメントが欲しいので、その友人はやっとのこと、私の居場所をつきとめ、東京から電話をかけてきたのでした。思いつくまま、 短いコメントを電話口で述べたのですが、まさか翌15日の朝、朴正煕大統領の妻・陸英修夫人が、日本から潜入してきた兇漢に狙撃されるような椿事(チンジ)が発生するだろうとは、神ならぬ身の知る由もないことであったわけですが、実をいうと、予めそれを知っていた者がいたのです。前述の通告文が日本に届いたのが、午後4時過ぎであったのを思い出してほしい。巧妙に夕刊記事にされる時間を避けて日本側に届けられたこの通告文は、明らかに、翌15日の午前10時過ぎ、どういうことがソウルで起こるのか、ちゃんと知っていた者の指図によるものであったと、私は断定しないわけにはいかないのです。

 この奇怪な事件は、その真相が一度も明らかにされたことがありません。いまだに韓国政府の公式的立場は、陸英修を殺害した犯人は「(朝鮮)総連の使嗾(そそのかし)を受けた在日韓国人青年、文世光」ということになっており、日本政府も韓国側の主張に同調しているだけです。 国家の道徳的威厳を保つためにも、また日本との不透明な関係を清算するためにも、金大中大統領は、この事件の真相を徹底的に 糾明すべきだったと私は思うのです。

 

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統制された報道

2025年03月26日 | 国際・政治

   毎月掲載される、朝日新聞の「時事小言」に、また、藤原帰一氏(順天堂大学特任教授・国際政治)が、下記のようなことを書いていました。

 私は、その内容が、国際政治の学者のものとは思えないのです。

 共和党のトランプ氏が大統領就任するというアメリカの政権交代はなぜ起きたのか、その理由や背景を分析したり、考察したりして、国際社会が考慮すべきことを提案するのが国際政治ではないかと思います。でも藤原帰一氏は、戦後、圧倒的な軍事力と経済力を背景に、アメリカが主導してきたアメリカ中心の国際社会の歩みを民主的で正しい歩みであったとし、引き続き西側諸国主導の国際社会を維持すべきであると主張していると思います。今までと同じように、ロシアや中国を敵視し、軍事的な対応を続ける必要を語っていると思います。対立を乗り越え、話し合いによって、共に平和な国際社会を築こうとする姿勢はないと思うのです。

 そういう主張は、国際政治が専門の学者のものではなく、トランプ大統領いうところのDSの主張だと思います。だから私には、藤原氏が、学者ではなく、DSの「アジテーター」のように思えるのです。「反共のアジテーター」と言ってもよいと思います。

 藤原帰一氏 は、ロシアと話し合うことの必要性は、何も語っていないのです。

 資本主義経済が、国際的に普及して以来、西側諸国は搾取や収奪によって発展を続け、国際社会をリードしてきたと言えるでしょうが、富の偏り、格差の拡大によって、さらなる発展は難しい状況になっていると思います。したがって、西側諸国がさらなる発展を続けようとするならば、ロシアや中国をはじめとする反米、非米の国々との戦争は避けられないと思います。バイデン政権の国際協調主義の政策は、そういう意味で、西側諸国による搾取や収奪体制の継続を意図する「戦争政策」だったと思います。そして、藤原帰一氏は、その主張を繰り返していると思います。

 

 ふり返れば、ロシアがウクライナに侵攻した直後、「羽鳥慎一モーニングショー」は、その背景にある利害の対立、すなわちエネルギー問題に着目し、ロシアの天然ガスをヨーロッパに送るパイプライン「ノルドストリーム」について取り上げていたのです。その問題意識に少しも誤りはなかったと思います。でも、本格的な戦争に突入すると、そういう利害の対立を問題にするような報道は、大手メディアでは見事になくなりました。

 そして、ウクライナ戦争の解説にでてきた専門家といわれるような人たち、すなわち、アメリカの戦略をよく知る防衛省の防衛研究所職員やロシアの情報に詳しいる国際政治の学者、ジャーナリストなどが、利害の対立を取り上げず、プーチンの経歴や過去の発言の一部を切り取って、彼のウクライナに対する思いを語り、あたかもウクライナ戦争が「善と悪の戦い」であるかのような解説ばかりしていたと思います。

 プーチンは「超大国ソ連」に対する懐古の思いが強く、ウクライナはロシア領であるべきだと考えているというようなことがくり返し語られ、侵攻を命じたプーチンを「悪魔」のような存在にしたと思います。大手メディアは、みな同じような解説者を招き、同じような報道をくり返していたと思います。

 でも、国家間の戦争に限らず、地域の紛争でも、そこには必ず利害の対立があると思います。にもかかわらず、大手メディアは、みなその利害の対立を無視し、ウクライナ戦争を「善と悪の戦い」として報道したと思います。そのために、アメリカを中心とする西側諸国は、一致してロシアをあらゆる組織や団体から追放し、情報を遮断したのだろうと、私は思います。

 ウクライナ戦争が始まる前、CNNでさえ、ウクライナの右派政権が、ドンバスを武力攻撃している事実を報じていたのです。

 また、日本の公安調査庁が、公式ウェブサイト上の「国際テロリズム要覧2021」からウクライナの「アゾフ大隊」(現国家警護隊特命分遣隊アゾフ連隊)の記載を削除したという事実も、ウクライナ戦争を、悪魔のようなプーチンが命じたロシアの侵略戦争であるとするためであったと思います。ドンバス戦争で、一万人以上の死者が出ていたことなど、まったく無視して、「善と悪の戦い」とする報道がくり返されたと思います。

 そうした事実を踏まえて、下記を読むと、藤原帰一氏が反共のアジテーター」であるという側面は否定出来ないのではないかと思います。

下記は、藤原帰一氏文章の一部抜萃です。 

太西洋同盟が動揺している。トランプ 米大統領は 第1期政権からNATO( 北大西洋条約機構) 諸国に厳しくロシアのプーチン大統領とは友好的だった。

 第2期政権発足後、トランプはウクライナの頭越しに米ロ両国主導の停戦を模索する。訪米したゼレンスキー 大統領とトランプの首脳会談は決裂し、米国はウクライナへの機密情報提供を一時停止した。

 米ロの接近は明らかだった。224日のウクライナの領土保全を求める国連総会決議案に、ロシアと共に米国は反対票を投じた。トランプ政権はNATOによるソ連・ロシアへの対抗を基軸とする米国外交を逆転した。

 32日 ウクライナを含むが米国は含まない18カ国・機関がロンドンに集まってウクライナ 支援を継続する有志連合構想を発表し、英仏は30日の停戦の提案した。11日、米国は30日停戦を提案しウクライナも合意した。米国によるウクライナへの秘密情報の提供も再開された。

 ロシアは停戦に応じておらず、戦争の終わりは見えない。さらに太西洋同盟は揺らいだままだ。同盟維持に関心が薄いトランプ 政権の下で、米国は覇権国の役割から後退した。米国なしで欧州はウクライナを支援できるのか。米国に頼らない欧州の安全保障は可能なのか。米国が覇権から引いた後の世界、ポストアメリカの課題である。

 では 各国はポスト。アメリカの時代にどのように行動するのだろうか。

まず考えられるのが自主防衛だ。米国を頼りにできなくなれば独自の防衛力増強を図る ほかに選択がないではないか。当然の議論にも聞こえるが、西側諸国の同盟は米軍の強大な攻撃力を主軸としている。各国が自主防衛に努めたところで米軍が後退すれば攻撃力の弱体化は避けられない。

また米国の提供する核の傘、拡大抑止への信頼の弱まりは、各国による核軍拡、さらに核兵器の拡散を引き起こす危険がある。

 欧州諸国はロシアに対する抑止力として米国の核戦力に頼ってきたため、米国の後退が核兵器の軍拡と拡散を招く危険も高い。核保有国の英仏が核軍拡を進め、核をたない諸国は英仏と核兵器の国内配備さらに独自の核開発に向かう可能性もある。アジアでは北朝鮮と隣り合う韓国で核武装論がこれまでも繰り返されただけに核の傘の信頼が低下すれば核武装の呼びかけが強まる可能性が高い。現在の日本では 核武装論はごく少ないが、中国は核戦力を急増しているだけに、 韓国で核武装論が広がれば、核廃絶という国民的合意が動揺する可能性は存在する。

各国が軍備拡大に走れば国際関係は不安定になる。新たな核保有国の登場は軍事的緊張を高めることが避けられない。ポストアメリカが新たな戦争の時代の始まりかねない。

 では何ができるのか。米国が後退すれば、世界各国がつながりを強めるほかはない。

 軍事面では欧州諸国と日韓豪三国の防衛協力が必要となる。これは米国との協力に変わる選択ではない。米国の力に過度に依存するこれまでの同盟を長期的に支えることに無理があったとしても、米国を排除することには意味がない。必要なのは本来の意味における集団的安全保障であり、主権国家の領土、そして市民の安全と自由が武力によって奪われることのない持続可能な多国間秩序を支えることだ

  

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現在に続く日本の朝鮮植民地支配の正当化とアメリカ

2025年03月22日 | 国際・政治

 下記の「戦後 日韓関係史」李庭植:小此木政夫・古田博司訳(中央公論社)からの抜粋文にあるように、戦後日本の政権を担った吉田茂や岸信介、佐藤栄作などをはじめとする政治家や彼らを支えた人びとの多くが、日本の朝鮮植民地支配不当な支配であったとは認めず、”日本は必要に応じて行動してきたにすぎない ”などと、正当化する考えを持っていたのです。そして、その考えは現在の自民党に受け継がれている、と私は思います。
 したがって、<「韓日条約締結秘話」が明かす真実>で取り上げた日韓条約交渉韓国側代表の李東元氏
この日韓条約を締結することが、いかに難しかったかを申し上げたい。1965年6月22日、 日韓基本条約が調印された時、韓国の大方のマスコミはこれを第二の「乙巳保護条約」(1905年)の調印式だと非難し、私を始めとする交渉代表を、第二の「売国奴」・李完用(イワンヨン)(日本に韓国に売り渡した元凶の象徴的人物。売国奴の代名詞になっている)になぞらえた。
 というような言葉は、当然のことだったと思います。
 日本の植民地支配に苦しみ、日本の敗戦を喜んだ圧倒的多数の朝鮮の人たちと、日本の植民地支配を少しも反省してない政治家の板ばさみ状態の中で、日韓条約の交渉をしなければならなかったわけですから、簡単なことでなかったのは当然だと思います。アメリカの関与がなければ、交渉自体が進まなかったのではないかと思います。
 ふり返れば、日本にも、過去の「植民地支配の責任を回避」していると条約に反対する声や、「賠償」ではなく「経済協力」として処理することに反対する声、「国家間の請求権を完全かつ最終的に解決」とすることは、植民地支配下の被害者らに対する個人への補償が切り捨てられると反対する声、さらに、当時の朴正熙政権(1961年クーデターで成立)との交渉は、民主主義に反するという声などが渦巻いていたのですから、日韓条約の内容を詳らかにすれば、両国民の支持を得ることは事実上不可能だったのではないかと思います。

 でも、国家安全保障会議(NSC)によって策定された文書、NSC48やNSC68に見られるように、アメリカは、日本の敗戦前から、韓国や日本を「共産主義の蔓延を食い止めるための防波堤」にするという反共政策を進めていたのであり、日韓条約を締結させるために両国に強く働きかけていたのだと思います。

 それは、アメリカのラスク米国務長官が、李長官の離任時に、「本日の主人公李長官は、アメリカが本当に困難な時助けてくれた友人であり またASPAC を創設し、世界史にアジア太平洋時代の幕開けをした先駆者でもあります。ゆえに本日我われは彼をアメリカの友人として迎えるのであります。李長官は本当に大人物であります 過去の米韓関係、またアジアの歪んだ歴史を振り返っても、李長官程業績の多い人はありません。それも和解と平和のための…」(崔雲祥)と言って、李長官の業績を激讃したということに示されていると思います。

 そうした流れを踏まえると、”核兵器を管理する米エネルギー省が、韓国を安全保障や核不拡散について特に注意が必要な「センシティブ国」に指定した”という先日の報道は、あり得ないことだと思います。
 この指定は、バイデン前政権が1月20日のトランプ政権発足直前に追加を決め、リストは4月15日から正式に発効するということですが、ウクライナ戦争によって、ロシアとの関係が悪化しているばかりでなく、台湾をめぐる問題やBRICSの急拡大などで、いままでになく中国との関係も悪化している状況で、韓国を中国やロシア、北朝鮮、イランといった国と同じように「センシティブ国」に加えるということなど、考えられないことだと思うのです。対ロ・対中の戦略上、アメリカにとって、韓国は手離すことのできない国であることは歴史が証明していることだと思います。

 だから、アメリカによる韓国の「センシティブ国」は指定は、韓国の社会、特に与党や資本家・経営者を中心とする支配層に対する警告であり、一種の「脅し」であると思います。韓国の人たちに、多少苦難を強いて、”尹大統領をきちんと支えなければ、北朝鮮と同じ扱いを受けることになるぞ”、という「信号」ではないかと思います。
 また、いくつかの国の核兵器所持には目をつぶってきたことを伏せたまま、アメリカの核兵器不拡散の姿勢は、どんな国に対しても差別がないことを国際社会に訴える意味もあるのかもしれないと思います。
 ともかくアメリカは、韓国が再び「共に民主党」政権になって、文在寅前大統領のように、日本との関係改善よりも、南北朝鮮の統一を優先し、熱心に進めようとする動きを恐れているのだろうと思います。「共産主義の蔓延を食い止めるための防波堤」を崩さないために。

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                    2章 感情の衝突──日本と李承晩

 

 米国の政策と日本の政治指導

 米国の新たな対日政策は過去の人物の復帰と伝統的な価値観の再興を許容し、それを助長さえしたので、間もなく日韓関係の将来に直接的で重要な衝撃を及ぼした 連合国最高司令部の下での米国の占領は、帝国主義体制下での勤務によってすでに政治的および行政的能力を立証していた日本人によって率いられる政治機構を要求したのである。軍国主義時代に権力の前面にいた人々は受け入れられなかったが、連合国最高司令部は保守的な傾向を持つ熟練した行政官を必要としていた。

  吉田茂が戦後日本の最も重要な政治的人物として急速に登場した。彼は19465月から195412月までの86ヶ月間(1947年と1948年 の17ヶ月間を除く)、自由党総裁および首相として在職した。日本が新たな土台と新しい方向を設定した重大な時期に、吉田は日本国民を指導したばかりでなく、池田隼人、佐藤栄作、大平正義など多くの戦後の指導者を養成した。この新しい指導者たちはその後首相職を含む閣僚の要職を占め、「吉田学校」の門下生とみなされた。佐藤栄作は 1964年から1972年まで92ヶ月間の間、日本史上で最長期間、首相として在任した。それ以前に最長の記録を保持していた伊藤博文(18411909) が吉田およびその他の戦後指導者たち の手本であった。

 

吉田は1941年に米国との戦争に反対していたし、1945年の初めには戦争を終結させるために天皇の積極的な支持を懇請しようとしたが、彼もまた「大日本帝国の忠良なる臣民であり、確固たる擁護者」であった。かれの伝記作家によれば、政治的権力と影響力の所持者としての戦後における吉田の再生は、「個人的な方向転換、基本的な価値や優先順位の犠牲、そして進歩的な理想の時期遅れの燃焼」とは無関係であった。日本とその隣国との間の関係についての保守的な指導者の見解にも変化がなかった。1961年に出された長文の回顧録のなかで、吉田は日本の過去の報道を次のように正当化した

 

 我が国は 工業化したが語るほどの自然資源がない。我々は国を近代国家にかえたが、その他のアジア諸国は失政に伴う戦争と飢餓により、国としてはまだばらばらで開発の途上にあり、かろうじて独立を保っている。そこで日本がなんとかなろうとしても、彼らの遅れた状況に足を引っぱられ、世界の他の主要国と同等の地位に立つことが妨げられてきた。加うるに1929年の世界恐慌は、我々の地位の不確かさを切実に感ぜしめたが、同時に国家の発展を担う我が国民はさらに突破口を模索し続け、それを中国、南満州、そして、太平洋地域に見出したのであった。これは当然の帰結であった。

 

 吉田の見解によれば、日本は必要に応じて行動してきたにすぎない。近隣諸国の後進性が日本の力を奪い、日本を外部勢力に対して脆弱にしたのである。日本国民のエネルギーや活力が中国 その他に「突破口」を求めるのは当然であった。吉田の後を継いで首相職に就任したのは、鳩山一郎(195412月~195612月)と石橋湛山(19561219572月)であったが、二人とも 軍国主義政府と関係したために望ましからざる人物として最高司令部が追放していた者たちであった。また、石橋の後を継いで1957年から1960年までの間首相として在任した岸信介については、後に言及するだろう。これらの戦後初期の指導者たちは大日本帝国の政策は妥当かつ正当であったという見解を共有していたのである。

 

 日本人の対韓態度

 最高指導者たちだけが、日本の過去を誇らしく思っているわけではなかった。植民地問題に関係した日本人の大部分は、単純に1945年以前の日本の行為が韓国の非難を受けるに値するという考えを受け入れることができなかった。この見解は、1926年から1945年まで、朝鮮総督府の官僚としてその生涯の20年間を朝鮮で過ごし、1965年の日韓関係の回復に重要な役割を演じた八木信雄によってはっきりと表明されている。1978年に発行された自伝的随筆において、八木は朝鮮が日本の植民地であったことを強く否定した。1910年の韓国併合は、朝鮮政府と日本との間の「相互の合意によって」もたらされたものであり、したがって朝鮮は植民地とはみなされえないというのである。

 日本の勢力拡大に韓国国王が自ら反対したり、1905年の保護条約に対してその閣僚が反対したために、1907年に日本が韓国国王を退位させざるをえなかった事実は、八木の眼中にはなかった。四国、九州などの島々と同様、朝鮮は単純に内地の拡大であり、韓国併合についての天皇の詔勅 に明示されたように、「一視同仁」の下で統治されなければならなかったというのである。日本の政策は同化政策であると「誤解された」が、日本の朝鮮統治の基本目的は差別のない完全な平等の下で両国民が高度な水準の「渾然一体」を確立することであったと八木は主張している。

 八木は「吸収──併合」の段階から「平等の土台の上での完全な合併」の段階に移行する過程の日本の失策や失政が広く強調され、戦時下で加えられた重圧に議論が集中することを嘆かわしいと考えた。そのような見方は日本統治の基本原則を否定し、日本が植民地主義あるいは同化政策を追求していたという誤った結論を導き出すと感じたのである。そのような結論は日韓関係の歴史を歪め、将来に打撃を与えるものである。

 八木によれば、日本の朝鮮統治の歴史は高邁な目的を達成するための継続的な前進運動であった。かれは朝鮮の多くの著名人がその目的を熱烈に支持したと主張した。八木の著述には自責の念はみられない。ただその高邁な目的が適時に達成されず、誤った方法で追及されたことが後悔され、大義のために払われた努力が無視されているばかりか、非難までされていることが惜しまれてならないのである

 植民地主義的な膨張の否定的側面を軽視、あるいは無視し、かつての植民地、特に朝鮮と満州での成果を誇らしく思うのは、八木一人だけではなかった。八木や八木と同じような他の人々は、あらゆる難関をのり越えて達成されたそれらの地域の発展を振り返って、その結果を肯定的に結論した。彼らは自らが他国を圧迫した巨人(コロッサス)の一部であるとは考えもしなかった。軍部によって犯された残虐行為を認める者さえも、自らを軍部から切り離し、そうすることによってあらゆる責任を回避してしまったのである。

 このような態度は1980年に開始された「満州国建国の碑」を建立しようとする計画にはっきりと示された。旧植民地官僚たちは、1932年に日本が中国東北部に樹立した傀儡国家である「満州国の理念と業績を後世に正確に伝える」ことを願ったのである。岸信介建立基金募集委員長は、記者の質問に答えて、「満州の建国は事実なんで、これは誰も否定できない。当時少なくとも われわれ文官や民間の人たちにとっては、五族協和の理想国をつくろうというのが念願で、植民地というような考えは全くなかった」と語った。

 佐藤栄作首相の実兄である岸は、1952年に政界に復帰して以来自民党の実力者であり、1957年から1960年までの間は首相を務めた。1936年から1939年までの間、彼は満州の植民地化のために中心的な役割を演じ、満州国の事実上の副首相の役割を果たした。1939年に帰国すると、東条内閣の商工大臣兼軍需次官として軍需生産の責任を担った。岸のような指導者にとって、1894年以来の日本の海外膨張の背後にあった意図と論拠は、たとえ後知恵に照らしてみても、明らかに正当化できるものであった。

 日本の朝鮮及び満洲統治がこれらの国に肯定的な影響を与え、日本が現地の人々に善意で臨んだという意見は、あらゆる日本人によって共有されていた。間もなく見るように、久保田貫一郎は1953年に韓国会談の席上でそのような趣旨の発言をし、会談を1958年まで決裂させた。1957年に声明が撤回されたのを契機に、植民地機構の中で最高位を占めた数名の人々によって、1945年以前の朝鮮における日本の記録について座談会が開かれたが、かれらの見解は八木、岸および 久保田の見方と同じであった。

 

 例えば総督府の機関紙であった『京城日報』の元発行人である御手洗辰雄は、初代朝鮮総督の寺内を「慈悲深い総督」と称賛した。なぜならば寺内は、「私財を投げうって朝鮮国立博物館を建立」し、八万大蔵経の5つの木版写本を保存したからである。木版は仏典の完全な漢字写本を収めており、日本人は14世紀以来、それらの写本を獲得しようとしてきたのである。しかし御手洗自身が述べているように、寺内は「悪魔の化身と称されていた」人物であった。すでに前章で述べたように、寺内は朝鮮において帝政ロシアのポーランド統治を模倣した総督であった。御手洗はまた、就学年齢に達した朝鮮の全児童の約70%に対して日本が教育を施したと誇らし気に宣言した。しかし もしかれが関連する統計を確かめたならば、1944年の朝鮮人口のわずか7.1%が国民学校を卒業し、1%未満が中学校を終えたに過ぎないことを発見したことであろう。

 

 植民地政権の中央銀行である朝鮮銀行の総裁だった田中哲三郎は、「我々は朝鮮人の福祉について、片時も思わぬ時はなかった」と述べている。彼は全羅南道のハンセン病病院を例に上げ、「それは当時最も進歩したものであり、朝鮮人のため以外の何ものでもなかった」と語った。東京大学教授の横田喜三郎は「第一義的な目的が朝鮮人ではなくわれわれ自身の利益を得ることにあったことを知らなければならない」と認めている点でずっと穏当であったが、かれもまた自らが「日本の統治期間に日本人が朝鮮人を助けたと信ずるものの一人であると言及している」と言明している。

 このような見解は、1950年代だけに限られるものではなかった。1974124日、日本の衆議院で田中角栄首相が日本の朝鮮支配は朝鮮人に「精神的な恩恵」をもたらしたと発言し、韓国中に大きな衝撃波を投げかけた。日本が今日でもうまく運営されている義務教育制度を導入し、両国で称賛されている海苔の養殖法を教えてやったと主張したのである。1945年以前の数年間を朝鮮で過ごした田中首相は、ちょうど東南アジア諸国を歴訪して帰国したところであり、日本が同地域の人々にもそのような恩恵を施すべきだと考えていたのである。

 

 しかし、一言付け加えておくならば、日本は敗戦以前に朝鮮で義務教育制度を施行したことはなく、すでに見たように朝鮮の教育についての日本の記録は決して誇りうるようなものではなかった。すでに引用した御手洗の教育についての言明と同じく、田中首相の言明は知らないということがいかに偏見と悪感情を育てるかということを示している。施した恩恵に対する誇張された印象は、恩恵を施された者がそれに感謝の意を表明しない場合には、いともたやすく軽蔑、あるいはそれ以上の悪感情に変わりうる。他方、恩恵を施された者は、自分自身の必要を満たすために行った仕儀に感謝しろという恩恵を施した者に対し、腹立ちを禁じ得ない。

 このような例は枚挙にいとまがない。日韓交渉の代表に任命された後の記者会見で、高杉晋一は「もし日本が朝鮮をもう少し長く統治していたら、日本は朝鮮の裸の山を緑に変えていただろう」と述べた。日本経済団体連合会の会長であった桜田武は、1979年ソウルで開かれた韓国経営者協会の主催する国際セミナーの基調演説で、「韓国の驚くべき経済成長は、日本の植民地統治時代に与えられた優れた教育によって可能になった」と述べて、波瀾を巻き起こした。植民地統治時代に朝鮮人人口の1%未満が中等教育を卒業したに過ぎないという事実を知れば、かれも驚いたであろう。

 日本の政治指導者たちと旧植民地官吏の意見が変わらなかっただけでなく、19458月に日本が朝鮮を米ソ両国に引き渡してから、195110月に日韓両国の代表が初めて会談し、両国の将来の関係を議論するまでの間、日本の一般国民の朝鮮に対する態度はより一層悪化した。この関係悪化は多数の朝鮮人が引き続き日本に居住したことに起因するものであった。

 

 

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ウクライナ戦争、垣間見える本音

2025年03月18日 | 国際・政治

 Sputnik がXで、ウクライナ戦争に関する独連邦情報局、ブルーノ・カール長官の発言を、下記のように伝えました。やはり、ウクライナ戦争は、アメリカを中心とする西側諸国の、バイデン政権のような国際協調主義組織(トランプ大統領のいうDS)が、ロシアの弱体化や政権転覆を意図した戦争であったことを示す発言だろうと思います。ウクライナ戦争は、国際法や道義・道徳が問題で起きた戦争などではなかったということです。

 ヨーロッパの安全のために、何十万人ものウクライナ人の命やウクライナの主権を犠牲にするようなことを許すことはできないという元ウクライナ首相の「激怒」は当然の反応だと思います。

【独の諜報機関トップが本音 宇はあと5NATOのために血を流せ】

 ウクライナ危機が2029年か2030年までに終わってしまえば、ロシアは欧州を脅威に陥れるために自国の「軍装備、物資、人的資源を使う」。独連邦情報局のブルーノ・カール長官はこうした声明を表した。 「ウクライナ戦争がさっさと終われば、ロシアは望む場所にエネルギーを傾ける。これは欧州には損だ」カール長官はこう述べ、ロシアの最終目的はNATOの「防護プレゼンス」を1990年代末の、東方拡大が開始される前のレベルまで押し戻すことだと指摘した。 カール独連邦情報長官の発言はウクライナの政治家らを驚愕させた。ウクライナは自国が西側のために人間の盾に利用されたことをようやく理解した。

この発言に関しては The Kyiv Independent が、下記のように伝えています。(https://kyivindependent.com/russia-could-attack-nato-by-2030-german-intelligence-chief-says/

Russia will have the military capabilities to be able to attack NATO by 2030, said German intelligence chief Bruno Kahl during a parliamentary hearing on Oct. 14.

Kahl's comments were the latest in a series of increasingly dire warnings from Western leaders and defense officials about the threat emanating from Russia and Europe's current lack of preparedness.

Russia's determination to use covert and hybrid measures against the West has reached a "level previously unseen," Kahl said, adding that they are being used "without any scruples."

Moscow's ultimate goals are to "push the U.S. out of Europe," roll back NATO boundaries to the 1990s, and create a "Russian sphere of influence" with the aim of cementing a "new world order."

Russian President Vladimir Putin "will continue to test the West's red lines and further escalate the confrontation," Kahl said, warning that Russia's military spending is far outstripping that of the West.

Separately, Thomas Haldewang, the chief of Germany's domestic intelligence agency, said that Russian espionage and sabotage activity in Europe has sharply increased.

NATO to rethink alliance’s relationship with Russia for first time in decades

Author: Nate Ostiller

ロシアは2030年までにNATOを攻撃できる軍事力を持つことになると、ドイツのブルーノ・カール情報長官は1014日の議会公聴会で述べた。

カールのコメントは、ロシアから発せられる脅威とヨーロッパの現在の準備不足について、西側の指導者や国防当局者からの一連のますます切迫した警告の最新のものだった。

西側に対して秘密裏かつハイブリッドな手段を使用するというロシアの決意は「これまでにないレベル」に達しているとカールは述べ、それらが「何の良心の呵責もなく」使用されていると付け加えた。

モスクワの究極の目標は、「アメリカをヨーロッパから追い出し」、NATOの境界を1990年代に引き戻し、「新世界秩序」を確固たるものにする狙いで「ロシアの勢力圏」を作り出すことだ。

ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は「西側のレッドラインを試し続け、対立をさらにエスカレートさせる」とカール氏は述べ、ロシアの軍事支出は西側諸国の軍事支出をはるかに上回っていると警告した。

これとは別に、ドイツ国内情報機関のトーマス・ハルデヴァング長官は、ヨーロッパにおけるロシアのスパイ活動と破壊工作活動が急激に増加していると述べた。著者: Nate Ostiller(機械翻訳)

 

 また、このブルーノ・カール長官発言に対し、「元ウクライナ首相、ドイツ諜報機関長官の警告に激怒」と題する下記のような記事が、Russia & FSUhttps://www.rt.com/russia/613969-ex-ukrainian-pm-outraged-by-german-intel-head-comments/ にありました。

Bruno Kahl has claimed an early resolution to the conflict between Moscow and Kiev could amplify security threats to the EU

Ex-Ukrainian PM outraged by German intel chief’s warning

Former Ukrainian Prime Minister Yulia Timoshenko has hit out at German intelligence chief Bruno Kahl after he claimed that resolving the conflict with Russia before the end of the decade could pose a security threat to Western Europe.

An end to the Ukraine conflict before 2029 or 2030 could allow Russia to regroup and “increase security risks for Europe,” Kahl told state broadcaster Deutsche Welle.

Kahl’s statement is the first official confirmation that the EU’s security is being prioritized at the expense of Ukraine’s sovereignty and the lives of its citizens, Timoshenko, who leads the opposition Fatherland (Batkivshchyna) party in Ukraine, claimed in a Facebook post on Friday.

At the cost of Ukraine’s very existence and the cost of the lives of hundreds of thousands of Ukrainians, did anyone decide to pay for Russia’s ‘demolition’ for safety in Europe? I didn’t think they would dare to say it so officially and openly...” she wrote.

Kahl’s remarks “explain a lot,” she said, urging the Ukrainian parliament, the Verkhovna Rada, to respond while calling for an immediate end to the conflict.”

ブルーノ・カールは、モスクワとキエフ間の紛争の早期解決は、EUに対する安全保障上の脅威を増幅する可能性があると主張している

 ウクライナの元首相、ユリア・ティモシェンコは、10年以内にロシアとの紛争を解決することは、西ヨーロッパに安全保障上の脅威をもたらす可能性があると主張した後、ドイツの諜報機関長官ブルーノ・カールを激しく非難した。

2029年または2030年より前にウクライナ紛争が終結すれば、ロシアは再編成し、「ヨーロッパの安全保障リスクを増大させる」ことができると、カール氏は国営放送ドイチェ・ヴェレに語った。

 カールの声明は、ウクライナの主権と国民の生命を犠牲にして、EUの安全保障が優先されていることを初めて公式に確認したものだと、ウクライナの野党、祖国(Batkivshchyna)党を率いるティモシェンコは、金曜日のフェイスブック投稿で主張した。

"ウクライナの存在そのものを犠牲にし、何十万人ものウクライナ人の命を犠牲にして、ヨーロッパの安全のために、ロシアの'破壊'に金を払うことを決めた人がいたのだろうか? 彼らがあえて公式に、そして公然とそれを言うとは思いませんでした...」と彼女は書いた。

 カールの発言は「多くのことを説明している」と彼女は述べ、ウクライナ議会である最高議会(Verkhovna Rada)に、紛争の即時終結を求めつつ、対応するよう促した。”(機械翻訳)


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李東元著「韓日条約締結秘話」が明かす真実

2025年03月14日 | 国際・政治

 戦後、アメリカが韓国や日本を「共産主義の蔓延を食い止めるための防波堤」にするという反共政策を進めたということは、孫栄健氏やブルース・カミングス氏がそう思ったり、考えたりしたということではなく、第一次史料が示す事実です。

 そして、現実にその政策が進められたことを、「韓日条約締結秘話」李東元著:崔雲祥監訳(PHP)が、はっきり示していると思います。

 李東元氏が、同書の「日本の読者の皆様へ」で褒めたたえ、感謝している日本人は、下記の抜粋文にあるように、東条戦時内閣の元閣僚、岸信介氏や賀屋興宣氏に代表されるように、「鬼畜米英」の戦争の指導的立場にあった人たちです。

 また、監訳者、崔雲祥氏は、「本書出版の意義」のなかの「アメリカの評価」で、

李長官は1966年国連総会出席中に、統一政策に関する意見の差異のため長官職を辞任することになるが、ワシントンでの送別会でラスク米国務長官は次のように述べて李長官の業績を激讃した。「本日の主人公李長官は、アメリカが本当に困難な時助けてくれた友人であり またASPAC を創設し、世界史にアジア太平洋時代の幕開けをした先駆者でもあります。ゆえに本日我われは彼をアメリカの友人として迎えるのであります。李長官は本当に大人物であります 過去の米韓関係、またアジアの歪んだ歴史を振り返っても、李長官程業績の多い人はありません。それも和解と平和のための…

 と書いています。

 そのラスク米国務長官は、1945年の810日から11日にかけての徹夜の三省調整委員会(国務・陸軍・海軍調整委員会)に、朝鮮半島を38度線で分断することを提案した人なのです。以前にもふれましたが、ブルース・カミングスは、「朝鮮戦争の起源」のなかで、下記のように書いていました。

810日から11日にかけての深夜、チャールズ・H・ボンスティール大佐〔後に将軍として駐韓国連軍司令官に就任〕とディーン・ラスク少佐〔後にケネディ、ジョンソン両大統領の下で国務長官に就任〕は…… 一般命令(Gneral Order)の一部として朝鮮において米ソ両軍によって占領されるべき地域確定について文案を起草し始めた。彼に与えられた時間は30分であり、作業が終わるまでの30分間、三省調整委は待つことになっていた。国務省の要望は出来うる限り北方に分断線を設定することであったが、陸軍省と海軍省は、アメリカが一兵をだに朝鮮に上陸させうる前にソ連軍はその全土を席巻することができることを知っていただけに、より慎重であった。ボンスティールとラスクは、ソウルの北方を走る道〔県〕の境界線をもって分断線とすることを考えた。そうすれば分断による政治的な悪影響を最小限にとどめ、しかも首都ソウルをアメリカの占領地域内に含めることができるからである。そのとき手もとにあった地図は壁掛けの小さな極東地図だけであり、時間的な余裕がなかった。ボンスティールは北緯38度線がソウルの北方を通るばかりでなく、朝鮮をほぼ同じ広さの二つの部分に分かつことに気づいた。彼はこれだと思い、38度線を分断線として提案した。

 アメリカは、日本の降伏直前、急速に南下する”ソ連勢力が朝鮮全域を席巻する前に、なんらかの政治的手段で、朝鮮半島における自国の足場を確保しようと38度線を設定し、イギリス、中国、ソ連の三同盟国に通報、承諾を得て終戦処理に関する事務文書である「一般命令第一号」に38度線をもとにした戦後処理を定めたということです。

 そして、事実上、ソ連の手中にあった朝鮮半島を、アメリカは太平洋の安全に対する脅威と見なして動いにていたにもかかわらず、朝鮮に軍隊を派遣するという決定が、「単に」日本軍の降伏を受諾するための便宜上のものであるかのように装ったのです。

 アメリカは、朝鮮半島を38度線で分断する「一般命令第一号」を、日本軍各部隊に対して、現地連合軍司令官への降伏を指令する形をとり、”満洲、北緯38度線以北の朝鮮および樺太にある日本軍は、ソ連極東軍司令官に降伏すべし”とし、”北緯38度線以南の朝鮮にある日本軍は、合衆国朝鮮派遣軍司令官に降伏すべし”として、発令者が日本の大本営であることにしたのです。

 でも、その結果、「一般命令第一号」は、単なる戦後処理の文書ではなく、以後、38度線で朝鮮半島を完全に分断する重要文書になってしまったということです。

 そればかりでなく、アメリカは、旧朝鮮人統治機構である朝鮮総督府組織の行政・警察機構をその制度と人員ともに継続利用し、軍政統治の道具として活用しました。その結果、日本植民地時代に朝鮮総督府等に雇用されていた朝鮮人官吏、朝鮮人警官等が、戦後も韓国社会において主導権を握り、植民地下の地主階級が貧農・小作人を厳しい雇用・小作条件で働かせるという土地所有の近代化もなされなかったのです。そして李承晩のような反共的政治家を南朝鮮のリーダーに担ぎ上げることによって、アメリカ軍政は、韓国の与党を育て、大韓民国を樹立させて韓国社会における実権を掌握するに至ったといってもよいと思います。

 日本でも、アメリカは、戦犯として逮捕されたリ、戦争犯罪に関わったということで公職を追放された人たちの追放を解除し、逆にレッドパージによって日本の民主化を実現しつつあった組合関係者や左派的な人たちを追放して、反共的な自民党政権に、日本を担わせました。

 本来処罰されるか、公職を追放されるべき人たちに主導権を与えたこうしたアメリカの反共政策は、多くの朝鮮の人たちや、日本国民の思いに反するばかりでなく、ポツダム宣言にも反するものであった思います。ポツダム宣言には、

十 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ國民トシテ滅亡セシメントスルノ意圖ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戰爭犯罪人ニ對シテハ嚴重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本國政府ハ日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ

 とあるからです。

 そして、そうした歴史を踏まえて現在の韓国を見つめれば、尹大統領の「非常戒厳」の宣布が、彼の個人的な思いによるものではないだろうと思われるのです。

 昨年末、尹大統領は、「非常戒厳」を宣布する理由として、北朝鮮に同調する勢力が、韓国政権の弱体化を狙っているからである、とか、北朝鮮の脅威や反国家勢力から韓国を守り、自由な憲法秩序を守るためだというような説明したことが報じられていました。

 だから私は、「非常戒厳」宣布によって、国内を混乱させ、北朝鮮の加担を語って、一気に韓国の雰囲気を変え、与野党の支持率を逆転させようとするような企みがあったのではないかと、想像しています。

 そして、その企みには、アメリカも関わっているのではないかと、想像がふくらむのです。

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                        日本の読者の皆様へ

 しばしば日本では、韓国のことを「近くて遠い国」だと形容するが、実は「近くて近い国」なのである。それは歴史が証明している。日韓関係は、記録上少なくとも5世紀にさかのぼる。 仏教が百済を経て、日本に伝わったことはよく知られている(538年)。その他、論語や千字文を伝えた王仁博士。百済王の命令で、一定期間日本に滞在し、儒教や漢文を教えて帰国する五経博士。暦や天文地理、遁甲、方術を伝えた観勒(602年)らは、両国間の交流が深い歴史を持っていることを明らかにする具体的な例である。このような交流はその後も続き、江戸時代には12回も朝鮮通信使の往来があった。

 もちろん 長い 交流しの過程には、光もあり陰もある。戦後50年を迎えた今日でさえ、50年前までの植民地支配の後遺症が、しばしば両国間の摩擦を引き起こしている。しかし両国は、宿命的に隣国同士である。これは何人も否定できない厳粛な事実である。韓国も日本も地理的に、嫌いだからといって引っ越しできない間柄である 主観的な好悪を越えて、今日まで隣国として生きてきたし、これからも共に生きてけなければならない運命にある。

 次に、この日韓条約を締結することが、いかに難しかったかを申し上げたい。1965622日、 日韓基本条約が調印された時、韓国の大方のマスコミはこれを第二の「乙巳保護条約」(1905年)の調印式だと非難し、私を始めとする交渉代表を、第二の「売国奴」・李完用(イワンヨン)(日本に韓国に売り渡した元凶の象徴的人物。売国奴の代名詞になっている)になぞらえた。韓国マスコミのこうした報道は、当時の国民感情を多分に反映するものであった。また一方の日本にあっても、日本に居住する朝鮮総連系は日本共産党や左派社会党と一緒になり、日韓会談反対闘争を展開した。しかし、両国の代表は 会談に成功したのである。

 私は当時の朴正煕大統領の言葉を忘れることはができない。「60年代の貧困を脱してして祖国の近代化を実現するためには、対日国交正常化を先行させなければならない」という不動の信念と、「この国交正常化決定は、後世の歴史の判断に委ねる。今は、所信を押し通し、国交正常化を実現させよう」と、彼は我々を励ましてくださった。その国交正常化が成り、三十余年が過ぎた今日、私は朴大統領が正しかったと思う。私も微力ながら彼の所信に従い、多くの難関を乗り越え、悔いなく、対日交渉を成功させたことを、今でも誇りに思ってる。

 

 最後に、私の交渉相手であった故椎名悦三郎外務大臣について一言を述べておきたい 結論的に言って、日韓条約交渉は、日本側代表が椎名外相であったからこそ成功したと言い切ることができる。官僚に任せたり、あるいは、日本の他の政治家が首席代表を務めたならば、交渉はまとまらなかっただろう。朴大統領は、椎名外相に初対面の後、彼の飾らぬ態度にすっかり心を奪われ、「なかなかの紳士だ。それに常識的で、韓国民の気持ちのわかる韓日関係の真の理解者だ」と、ほとんど絶賛に近い感想を漏らした。実際彼は、その評通り、日本よりもむしろ韓国人の立場に立って事を考え、小事にこだわらなかった。彼はビジョンをもち、勇気と決断力があった。次の世代、次の世紀を考える器量の大きい政治家であったと言えよう。そもそも外交は、「ギブ・アンド・テイク」、と「コンプロマイズ」(互いの約束、すなわち妥協・互譲の産物である。

 戦争は勝負だが、国家間の条約は互譲でなければならない。彼はこの原理を、日本外務省のキャリアの外交官よりもよく理解し、またそれを実践した。

 ある人は彼のことを菊の花になぞらえたりしている。「菊の花は、落ちても香りは残る」と──。椎名外相は現在、韓国で最も尊敬され、いや、愛されている日本の政治家だと言っても決して過言ではない。私は最近、日本の政治家たちの”妄言”が問題になるたびに、どうして日本にはもはや椎名外相のような政治家がいないのだろうかと、つくづく彼を思い出す。椎名外相はその後も、日本政府特使として何度か韓国を訪問したことがある。197711月、彼は「日韓会談の成果を自分の目で、直に確かめたい」と言いながら、日韓協定が生んだ「漢江(ハンガン)の奇跡」を見に来た。慶尚北道の浦項製鉄など、工業団地を視察した後、自分の「日韓協定」の時の決断が間違っていなかったことをはっきりと自分の目で確かめたのだった。そして「やっぱり私は正しかった。見なさい、韓国は立ち上がったではないか、この姿、これが本当に今後の近くて、温かい日韓関係をつくっていくのだ」と言って、彼は自分のことのように涙を流して喜んだ。

 私はまたこの場を借りて、会談交渉中、多くの日本指導者たちから、交渉当事者の立場を越えて、ときに激励、ときに支援の言葉を頂いたことをここに述べておきたい。

 会談が難航するたびに、「お互いににお家の事情があるのだから、名文に執着せず、妥結の道を見いだし、実利を貫徹させよう」と、佐藤栄作総理は会談妥結の決意を披歴してやまなかった。 私は韓国の外相としては、日韓両国の歴史上、最初に日本を公式訪問したわけであるが、当時 日本側の歓迎委員長は岸信介元総理、副委員長は石井光次郎元副総理と賀屋興宣氏であった。私は会談交渉中、前述した岸信介元総理、佐藤栄作元総理のほかにも、福田赳夫元総理、三木武夫 元総理、石井光次郎元副総理、藤山一郎元外相、大平正芳元首相、椎名悦三郎元外相らにたびたびお目にかかったが、彼らはひとえに激励の言葉を惜しまなかった。その他船田中衆議院議長、中曽根康弘議員(後総理)中尾栄一議員、河野一郎議員、矢次一夫氏、児玉誉士夫氏、笹川龍次氏、田中龍夫議員らも陰に陽に支援してくださった。牛場信彦外務審議官(後駐米大使・故人)には、ご自宅まで招待され、食事を頂いたこともある。私が外相を辞めた後も、彼らは依然と変わらず私を歓待してくださった。多くの方が今は幽明の境を異にしているが、私はこの紙面を借りて、彼らとその他、私に対して支援を惜しまなかった多くの日本の政治家と友人たちに、心の底から永遠なる深い感謝の意を表したい。

 この機会に、私と監訳者崔雲祥教授との関係について触れておく。崔教授の前職は外交官で、終戦の年、熊本の旧制第五高等学校を卒業した。その後、ソウル大学を経てアメリカのハーバード大学で法学博士の学位を授けられた。韓国の外務省では政務局長として日韓交渉の実務を担当し、最終方針を立案した。日韓外交に関する著書(英文)もある。その後、インド、エジプト、モロッコ、ジャマイカ等、主に非同盟諸国の大使を長く務めた。それよりも、私とは半世紀に亙る無二の親友である。彼が多忙にもかかわらず、この本の監訳を快く引き受けてくれたことを大変嬉しく思い、感謝している。

 拙著を出版するに当たっては、多くの方にお世話になった。それらの方のお名前を皆あげることは難しいが、中でも特に椎名素夫参議院議員、椎名外相に関する研究で高名な政治評論家藤田義郎氏、直接出版を指揮担当されたPHP総合研究所の秋山憲推取締役にはしばしば有益なアドバイスを頂いた。延世大学の同窓で、日本韓国研究院の崔書勉院長からもさまざまな助言をいただいたことを深謝したい。

 「過去を知れば現在がわかる。現在がわかれば未来が見えてくる」と言ったのは、確か日本の民俗学の祖である柳田國男だったと記憶している。二十一世紀に向けて、日韓両国は真に「近くて近い国同士」の関係を構築しなければならない。2002年には、サッカーの ワールドカップ 大会も共催することが決定した。私は本書がそのような未来志向的な日韓関係を創出するのに、いささかでもお役に立つならば、誠に幸甚の限りである。

   1997年 晩秋

    汝矣島(ヨイド)にある国会議員会館にて

                                                      李東元(イドンウォン)

 

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ウクライナ戦争とイーロン・マスク

2025年03月10日 | 国際・政治

 朝日新聞は、”ロシアによるウクライナ侵攻が始まって3年が過ぎた。和平をめぐる外交が動くなか、戦時下に暮らす人びとの思いに、耳を傾ける。”ということで、224日以降、ウクライナ市民の声を掲載し続けています。

 私は、その「市民の声」が、当初から、ウクライナ市民に対する同情を誘い、読者にロシアを敵視する思いを抱かせる意図を持って掲載されていると感じています。それは、自主的なものか、忖度か、それとも何らかの働きかけがあるのかはわかりませんが、アメリカの支配層(DS?)の「戦略」に従っていると思っているのです。

 35に、3人の声が掲載されました。

 アナスタシアさんは、

”ロシアによる絶え間ない爆撃があることや捕虜にされている人がいることが、どれだけおそろしいことかわかりますか。ロシアのよるウウライナ侵攻から3年が経ち、世界の人々は、この戦争を忘れ始めているいるように感じます。第36海兵旅団に所属していた知人のセルヒー・ブセルさん(29)が捕虜にされました。彼が無事に帰ってこっれるように、世界の人に忘れられないように、デモに参加して声を上げ続けています。

 私は南部ミコライウ出身で、今はキーウに住んでいます。ロシアによる侵攻が始まった224日は、キーウの自宅にいました。朝5時に母から電話があり、「戦争がはじまった」と知らされました。

 まさかと、耳を疑いましたが、電話中に自宅の外から爆発音が聞こえました。「ああ、本当に戦争が始まったんだ」と、ショックを受けました。その後友達と一緒に、学校の地下室に設置された避難所に行き、2週間過ごしました。

 出身地のミコライウでは10ヶ月間、毎日のように砲撃がありました。私の両親は無事でしたが、隣人が銃撃でなくなりました。

 多くの市民が犠牲になったのは、ロシアのプーチン大統領の野心によるものです。停戦の行方はわかりませんが、ウクライナが占領されたすべての領土を取り戻し、ロシア軍に捕らえられたすべての人々が帰ってくることを願っています。”(全文)

 といいます。

 

 また、ディアナ・ティウディナさんは、

”…、すべてのロシア人に、ウクライナ領から出ていってほしい。ひどい、とんでもない国に、さっさと帰って欲しい。私の青春時代を壊したロシアを「国家」とすら言いたくありません。…”

 と語っています。

 

 オリガ・コノバルさんは、

”…私はキーウ州オブヒウ市で暮らしています。ロシア軍による侵攻が始まった20222月、私はオブヒウにいました。近隣の市では(ロシア軍の攻撃による)犠牲者がでましたが、私たちは大丈夫でした。

 ですが、長引く戦争が、息子ロマンの命を奪いました。戦争が3年間も続くとは思ってもいませんでした。息子は自ら志願して入隊して戦地に行ったんです。息子が戦地に行くとき、「僕がどこに行くか、わかるだろう。でも、何も聞かないで」とだけ私に言いました。私は彼を止めることが出来ませんでした。息子は国を愛していたからです。…”

 と語っています。

 同じように37にも、3人の声が掲載されました。

ボクシングをやっているダリア・グタリナさんは、

”…私が試合で、勝者として審判から手を上げられたら、ウクライナの国旗が掲揚されます。そこに大きな意味があるかはわかりませんが、少なくとも、何らかの意味があると信じています。28年の五輪に出場したいと思っています。

 また、息子が志願してウクライナ軍に入隊し、最前線で戦っているというハリーナ・モスカリウクさんは

ロシア人を完全にウクライナ領から追い出したいです。ミサイルが飛んでくる時、「何か間違いがあり、ロシア領に落ちてくれないだろうか」と。他のすべてのウクライナ人のように、終戦を待ち望んでいます。”

 というのです。

 キーウ出身だという、ミュージシャン、オレグさんは

”…ただ、将来については何も考えられません。ロシアのプーチン大統領のことも信じられないし、停戦について強気の発言をしていたトランプ大統領への期待もうせました。”

 と語っています。

 いずれも、気の毒な情況に置かれていることはわかるのですが、問題は、ロシア軍の侵攻を招いたアメリカを中心とするNATO諸国やウクライナ右派のドンバス爆撃などの動きを考慮することなく、ロシアやロシア人に対する憎しみを語っていることです。

 ロシア軍ではなく、ロシア人にウクライナ領から出ていってほしいという主張にも、ウクライナの右派、ゼレンスキー政権の姿勢が読み取れるのではないかと思います。

 

 侵攻前のプーチン大統領の演説内容を受け止めれば、ロシア軍のウクライナ侵攻が、プーチン大統領の「野心」などではないことがわかるはずです。

 ロシアのプーチン大統領は、ウクライナ侵攻直前(2022224日)、国営テレビを通じて、ロシア国民向けの演説しました。でも、その演説の内容に関する報道は、日本では、全くなされなかったと思いますが、ウクライナでもほとんど報道されていないのではないかと想像してしまいます。

 その演説内容のなかには、

その間、NATOは、私たちのあらゆる抗議や懸念にもかかわらず、絶えず拡大している。軍事機構は動いている。繰り返すが、それはロシアの国境のすぐ近くまで迫っている。

 とあります。ウクライナを含むNATO諸国の大規模な合同軍事演習や、ウクライナに対する戦略核兵器の持込みなどに対する恐怖心が読み取れると思います。

 また、またアメリカを中心とする西側諸国が

まず、国連安保理の承認なしに、ベオグラードに対する流血の軍事作戦を行い、ヨーロッパの中心で戦闘機やミサイルを使った。数週間にわたり、民間の都市や生活インフラを、絶え間なく爆撃した。この事実を思い起こさなければならない。 というのも、西側には、あの出来事を思い出したがらない者たちがいるからだ。私たちがこのことに言及すると、彼らは国際法の規範について指摘するのではなく、そのような必要性があると思われる状況だったのだと指摘したがる。

 その後、イラク、リビア、シリアの番が回ってきた。

 リビアに対して軍事力を不法に使い、リビア問題に関する国連安保理のあらゆる決定を曲解した結果、国家は完全に崩壊し、国際テロリズムの巨大な温床が生まれ、国は人道的大惨事にみまわれ、いまだに止まらない長年にわたる内戦の沼にはまっていった。リビアだけでなく、この地域全体の数十万人、数百万人もの人々が陥った悲劇は、北アフリカや中東からヨーロッパへ難民の大規模流出を引き起こした。

 シリアにもまた、同じような運命が用意されていた。シリア政府の同意と国連安保理の承認が無いまま、この国で西側の連合が行った軍事活動は、侵略、介入にほかならない。ただ、中でも特別なのは、もちろん、これもまた何の法的根拠もなく行われたイラク侵攻だ。その口実とされたのは、イラクに大量破壊兵器が存在するという信頼性の高い情報をアメリカが持っているとされていることだった。

 それを公の場で証明するために、アメリカの国務長官が、全世界を前にして、白い粉が入った試験管を振って見せ、これこそがイラクで開発されている化学兵器だと断言した。後になって、それはすべて、デマであり、はったりであることが判明した。イラクに化学兵器など存在しなかったのだ。” 

”繰り返すが、そのほかに道はなかった。目的はウクライナの“占領”ではなく、ロシアを守るため現在起きていることは、ウクライナ国家やウクライナ人の利益を侵害したいという思いによるものではない。それは、ウクライナを人質にとり、我が国と我が国民に対し利用しようとしている者たちから、ロシア自身を守るためなのだ。

 

 こうした指摘が、ウクライナ侵攻をもたらしたとすれば、それが、ウクライナの市民の声にある、プーチン大統領の「野心」であるということは誤まりだと思います。

 イラクの人たちが200万人以上殺されたというような事実に対する恐怖心が、ロシアのウクライナ侵攻の背景にあるとすれば、上記のようなウクライナの市民の思いは、ゼレンスキー大統領と同じ反共反ロ意識に基づくものか、あるいは認識不足に基づく、誤解だと言ってよいと思います。

 

 もう一つ、しっかり踏まえたいことは、ロシアのウクライナ侵攻前、バイデン米大統領が「ロシアによる “ウクライナ侵攻”は、216日だろう」などと予想していたことです。なぜ、バイデン大統領は、ロシア軍のウクライナ侵攻を予想しながら、それを止めようとしなかったのか、なぜ、話し合いを呼びかけなかったのか、は重大な問題だと思います。また、バイデン大統領は、「ロシアのウクライナ侵攻は、北京冬季オリンピックの閉幕式(20日)前のいつでも起こり得る」などとも言っていたのです。そして、現実にウクライナ駐在の大使館を撤収し、職員たちを退避させたりしたようですが、どうしてウクライナの人たちのために、侵攻を止めようと努力しなかったのでしょうか。なぜ、軍人を周辺のNATO諸国に送ったりしたのでしょうか。

 

 先月の228日にホワイトハウスで行われた、トランプ米大統領とウクライナのゼレンスキー大統領の会談は、合意がなされず決裂しました。大統領執務室での会談は、記者の前で激しく批判し合う異例の展開となったといいます。

 弱小国といえるウクライナのゼレンスキー大統領が、トランプ大統領を批判できるのは、やはり、バックにトランプ大統領のいうDS(アメリカの支配層)やNATO諸国が存在するからではないか、と私は想像します。

 ゼレンスキー大統領が8日、自身のSNSで、自分は参加しないが、両国高官の会談が11日に行われる予定であることを明かにしつつ、「我々はこの戦争の最初の瞬間から平和を望んでいる」とした上で、「現実的な提案がある」と和平合意への意欲を示しましたことが報道されています。

 でも、「我々はこの戦争の最初の瞬間から平和を望んでいる」というのは、明らかに「」だと思います。

 ロシア軍は、突然ウクライナ領土に侵攻したのではありません。ロシア軍が侵攻前、ウクライナとの国境沿いに集結していたことは、日本でも報道されていました。そして、バイデン大統領が、上記のように、ロシア軍のウクライナ侵攻を予想していたのです。にもかかわらず、ゼレンスキー大統領は、ロシア軍のウクライナ侵攻を止めてほしいと声をあげることはありませんでした。逆に、侵攻に備えて、準備を整えていたと思います。”平和を望んでいた”のなら、なぜ、そのために必要な行動をとらなかったのか、と思うのです。今も昔も、戦争に「」はつきものだと思いますが、状況が変わったので、ゼレンスキー大統領は、前言を翻したのだと思います。メディアがその「嘘」に目をつぶる時代は恐ろしいと思います。

 また、ゼレンスキー大統領は、「ロシアは戦争を終わらせるつもりはなく、世界が許す間、より多くを獲得しようとしている」と非難したようですが、ふり返れば、アメリカの支援を受けて、ヤヌコビッチ政権を暴力的に転覆し、ウクライナの親露派を武力で圧して、ロシアのプーチン政権をも転覆しようと突き進んだのが、ウクライナの右派であり、ゼレンスキー氏は、今、その代表なのだと思います。

 見逃せないのは、その右派やゼレンスキー氏を支えてきたアメリカやNATO諸国は、かつて他国を植民地として搾取や収奪をしてきた国々であり、今なお、合法的に搾取や収奪をしている「豊かな国」であることです。

 ところが、その豊かな国々が、BRICSやグローバルサウスの急拡大で、窮地に陥り、その現実を乗り越えるために登場したのが、自国第一主義のトランプ大統領であり、ヨーロッパ諸国の右派勢力ではないかと思います。だから、今まで世界を席巻してきたNATO諸国やG7の国々の支配層(DS?)は、トランプ大統領側に正面から敵対するのか、自国第一主義と妥協するのか、選択を迫られているということではないかと思います。

 

 そんな中、今、私が気になるのは、イーロン・マスク氏が、スターリンクが情報提供を止めた場合に「ウクライナの戦線全体が崩壊するだろう」とXに投稿し、ポーランドのシコルスキ外相と激しい応酬を繰り広げた、と伝えられていることです。ウクライナ戦争に関する決定的なカードが、トランプ大統領側にあると言ってもよいと思います。

 朝日新聞は、”ロシア軍が、ロシア南西部クルスク州の町スジャ北方の3集落を奪還し、約2千人のウクライナ兵士を包囲しており、脱出ルートも塞がれている”、とロシア独立系メディアが報道じたことを伝えています。ウクライナ兵士は、イーロン・マスク氏のスペースX社の衛星通信サービス「スターリンク」が使えず、司令部との連絡もできないといいます。

 スターリンク関しては、トランプ米政権が遮断をちらつかせ、ウクライナに鉱物資源の権益に関する協定への署名を迫ったとロイター通信は報じていたのですが、先日、マスク氏は「ウクライナ政策にどれほど反対していても、スターリンクが接続を停止することは決してない。それを交渉材料として使うことも決してない」と述べて、若干ウクライナやNATO諸国に譲歩の姿勢を見せていることも、今後のウクライナのありかたに関わる大きな問題だと思います。

 トランプ大統領やイーロン・マスク氏は、平気で前言を翻すことがあるようなので、目が離せないと思います。

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労働者の貧困化(窮乏化・格差の拡大)とトランプ政権

2025年03月06日 | 国際・政治

 先日のトランプ大統領とゼレンスキー大統領の口論に関しての主要メディアの報道は、トランプ大統領を非難するものばかりです。

 トランプ大統領は、利益が得られると感じられなければ、正義も不正義もなく、バイデン政権が懸命に支援してきた被侵略国ウクライナを見捨て、目先の利益を求めて、侵略国ロシアと友好関係を築こうとしているとか、すべての行動に見返りを求め、ルールを無視して、国際社会の秩序を破壊しようとしているとか、とにかく非難ばかりが続いていると思います。アメリカでは、トランプ率いる共和党の支持が過半数を越え、上院も下院も共和党が制したというのに、日本では反トランプ一色であることは、やはり、日本の主要メディアが、トランプ大統領の言う、「闇の政府(deep state、略称: DS)」の影響下にあるからではないかと思います。

 戦争を終わらせようとしていることに対する評価が、ほとんどないことは、そのことを示しているように思います。

 戦後のアメリカは、トランプ大統領の主張するような利益追求の外交政策や対外政策を、圧倒的軍事力や経済力を背景に、あたかも民主的政策であるかのように装ってやってきたと思います。トランプ大統領は、それを、あからさまに口にしてやろうとしているだけであると思います。

 だから、トランプ大統領の西側諸国の報道に対する姿勢やDS解体宣言は、単なる「陰謀論」で、かたづけることはできないような気がするのです。

 バイデン政権をはじめとする戦後のアメリカの政権が、アメリカの利益のためにあらゆる地域の戦争に関与しつつ、それが、あたかも正義であり、民主的であるかのように装ってきたこと、そしてそのために莫大な費用を費やしてきたことを踏まえれば、トランプ政権が、そのための費用を国内に還流させ、アメリカを豊かにしようとしている意味が理解できると思います。言い換えれば、トランプ政権は、世界を支配するために、莫大な費用を費やす外交政策や対外政策を止めることにしたのだと思います。他国に配置された軍を引き上げ、ウクライナ戦争を終わらせようとする姿勢は、それを示していると思います。

 

 そして、私が注目するのは、トランプ政権が外国に配置された軍隊を撤退させたり、戦争を終わらせたりするだけではなく、長くアメリカの政権が西側諸国の主要メディアを支配するために活動してきた組織を潰しにかかっていると思われることです。それは、イーロン・マスク率いるDOGEDepartment of Government Efficiency:政府効率化省)が、国防総省(Department of Defense, DoD)や国際開発局(USAID)、中央情報局(Central Intelligence Agency, 略称:CIA)、アメリカ国家安全保障局( National Security AgencyNSAその他の職員の大量解雇に取り組み始めたことでわかります。これらの組織は、アメリカの主要メディアのみならず、西側諸国の主要メディアや情報組織に決定的な影響力を持っているといわれてきた組織です。 

 大統領選挙にあたって、トランプ候補は、闇の政府(deep state、略称: DS)を解体すると宣言していましたが、それを開始したということだと思います。

 したがって、完膚なきまでに DS を叩きつぶすため、もしかしたら、トランプ大統領は、バイデン政権の悪事を公にしたり、マイダン革命に対するアメリカの関与や、ドンバス戦争の実態、ブチャの虐殺の真相などを明らかにする可能性があるのではないか、と思うのです。

 

 ウクライナ戦争が始まってから、ロシアやウクライナの親露派の人たちの情報は、完全に遮断され、プーチン大統領は、悪魔のような侵略国の大統領としてくり返し報道されてきました。ウクライナ戦争を客観的に捉えるための情報は、西側諸国では報道されず、自ら探し求めて得た情報に基づく捉え方は、すべて「陰謀論」だと相手にされない情況であったと思います。上記のアメリカの組織は、自らあからさまな陰謀論をふりまきつつ、真実もそうした陰謀論と同一視するというような巧みな戦略で、欧米の知識人も影響下に置いてきたのではないかと思います。

 だから、トランプ大統領の取り組みは、色々な面で評価できると思いますが、遅かれ早かれ困難に直面すると思います。資本主義経済が抱える根本的な問題の解決にはならないだろうと思うのです。なぜなら、利益の追及は単なる政治問題ではなく、資本主義経済に内在する資本の論理の問題だといえるからです。

 資本論の著者マルクスによれば、労働者は、自分の労働力を資本家に売り、賃金を受け取りますが、生み出した価値の全てを得るわけではありません。資本家は労働者に必要労働時間(生活費を賄うための労働)以上の労働をさせ、その超過分を「剰余価値」として獲得します。これが資本家が得る利潤の源泉です。

 資本家は生産手段を所有し、労働者を雇って剰余価値を生み出させます。労働者は生産手段を持たないため、資本家に依存せざるを得ず、搾取・収奪されざるをえないのです。

 資本家は利潤を最大化するため、労働時間の延長や賃金の削減を図り、これが労働者からの搾取・収奪を強化します。また、搾取や収奪は、労働時間の延長だけでなく、派遣社員やアルバイトの多用などによっても強化されるのだと思います。そして資本家のそういう対応が、窮乏化(貧困化・格差の拡大)をもたらすのです。

 先日朝日新聞に、「黒字でも人員削減 先んじる構造改革と株主の圧力」と題する記事が掲載されました。それは、資本家が利潤を追求するため、労働者に支払う賃金を抑え、生産性向上による利益を資本の側に集中させようとする当然の流れだと思います。

 マルクスの『資本論』では、資本家による労働者の搾取の仕組みがくわしく論じられていますが、労働者の窮乏化(貧困化・格差の拡大)の問題は、主要なテーマであり、現在も少しも変わらない問題だと思います。

 

 バイデン政権は、圧倒的な軍事力や経済力を背景に、戦争を厭わず、ロシアや中国をも影響下において、新たな市場を確保し、利益を維持・拡大しようとするのに対し、トランプ政権は、そのために必要な莫大な費用を、国内に還流させることによって、アメリカを一時的に豊かにしようとしているのだと思います。

 でも、いずれも根本的な解決にはならないと思います。

 だから、労働者の窮乏化(貧困化・格差の拡大)の問題にきちんと向き合わなければ、国際社会の平和の構築が難しいことを、受け止める必要があると思います。

 

 下記は「資本論 世界の大思想18」マルクス著 長谷部文雄訳(河出書房)から、搾取や窮乏化について論じた部分を一部抜萃しました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                      第一部 資本の生産過程 

                    第三編 絶対的剰余価値値の生産 

                        第七章 剰余価値率 

                       第一節 労働力の搾取度

・・・

 労働者が必要労働の限界をこえて苦役する労働過程の第二期は、なるほど、彼の労働・労働力の支出・を要費するが、彼のためには何らの価値も形成しない。それは、無からの創造の全魅力をもって資本家をひきつけるところの、剰余価値を形成する。私は労働日のこの部分を剰余労働時間と名づけ、この時間に支出される労働を剰余労働(surplus labourと名づける。価値を単なる労働時間の凝結・単なる対象化された労働として把握することが価値一般の認識にとって決定的であるように、剰余価値を単なる剰余労働時間の凝結・単なる対象化された労働・として把握することは、剰余価値の認識とって決定的である。もろもろの経済的社会構造を──例えば奴隷制の社会を賃労働の社会から──区別するものは、この剰余労働が直接的な生産者・労働者から搾り取られる形態に他ならない。…

 ・・・

 だから、剰余価値率は、資本による労働力の──または資本家による労働者の──搾取度の正確な表現である。

(剰余価値率は、労働力の搾取度の正確な表現ではあるが、搾取の絶対的大きさの表現ではない。たとえば、必要労働が5時間であって剰余労働が5時間ならば、搾取度は100%である。搾取のの大きさがここで5時間によって度量されている。これに反し、必要労働が6時間であって、剰余労働が6時間ならば、100%という搾取度には変わりはないが、搾取の大きさは5時間から6時間に20%だけ増加している。)

 ・・・

                          第八章 労働日

                         第一節 労働日の限界

 

 われわれは、労働力はその価値どおりに売買されるという前提から出発した。労働力の価値は、他の各商品の価値と同じように、その生産に必要な労働時間によって規定される。だから、労働者の平均的な日々の生活手段の生産に6時間が必要ならば、彼は、自分の労働力を日々生産するために、あるいは自分の労働力を売って受け取った価値を再生産するために、平均して毎日6時間ずつ労働しなければならない。そこで彼の労働日の必要部分は6時間となるのであり、したがって他の事情が同等不変ならば与えられた大きさである。だが、それだけでは労働日そのものの大きさまだ与えられてない。…

 ・・・

 資本家は労働力をその日価値で買った。一労働日の労働力の使用価値は彼に属する。つまり、彼は労働者をして一日中自分のために労働させる権利を得た。だが、一労働日とは何か? とにかく一自然日よりも短い。どれだけ短いか? 資本家は、この最大限、労働日の必然的な限度について、彼独自の見解を有する。資本家としては、彼は、人格化された資本に他ならない。彼の魂は、資本の魂である。ところが資本はただ一つの生活衝動を、すなわち、自己を増殖し、剰余価値を創造し・その不変部分たる生産手段をもって最大可能量の剰余労働を吸収しようとする衝動を有する。資本家は、生きた労働を吸収することによって吸血鬼のように活気づき、それを吸収すればするほどますます活気づく、死んだ労働である。労働者が労働する時間は、資本家がその買った労働力を消費する時間である。もし労働者が、自分の自由にできる時間を自分じしんのために消費するならば、彼は資本家のものを盗むわけである。

 つまり、資本家は商品交換の法則を盾にとる。彼は、他の全ての購買者と同じように、彼の商品の使用価値から最大可能な効用をうち出そうとする。ところが突然に、生産過程の疾風怒涛によってかき消されていた労働者の声が つぎのように聞こえてくる─

 おれがお前に売った商品がほかの凡俗商品と異なるところは、それの使用が価値を・しかもそれ自身が要費するよりも大きい価値を創造することである。のことは、お前が俺の商品を買う理由であった。お前の側で資本の増殖として現象するものは、おれの側では労働力の余分な支出である。お前とおれは、市場では、商品交換の法則という一つの法則を知っているだけだ。そして商品の消費は、それを譲渡する販売者のものでなく、それを手に入れる購買者のものだ。だからおれの日々の労働力の使用はお前のものだ。だが、おれは、おれの労働力の日々の販売価格に媒介されて、労働力を日々再生産ししたがって新たに販売することができなければならない。年齢などによる自然的磨損を度外視すれば、おれは明日も、今日と同じような標準状態の力、健康および気力をもって労働することができなければならない。お前は、おれに向かって、たえず「倹約」および「節制」の福音を説教する。よろしい! おれは分別ある倹約な亭主のように、おれの唯一の財産たる労働力を節約し、それのばかばかしい一切の浪費を節制しよう。おれは毎日、労働力を、その標準的持続および健全な発達と一致するだけにかぎって流動させ、運動─労働にかえよう。労働日を無制限に延長すれば、お前は一日中に、おれが3日間に補填しうるよりも多量なおれの労働力を流動させることができる。かくしてお前が労働において得るだけを、おれは労働実体において失うだ。おれの労働力の利用とその掠奪とは、まったく異なる事柄である。平均的労働者が合理的な労働度のもとで生きうる平均期間を30年とすれば、お前が日々おれに支払ってくれるおれの労働力の価値は、その総価値の365×30分の一、すなわち10950分の一である。ところが、もしお前がおれの労働力を10年間で消費するならば、お前はおれに、毎日、総価値の3650分の一なく。10950分の一を、つまりその日価値の三分の一を支払うだけである。したがっておれの商品の価値の三分の二を毎日おれから盗むのである。お前は3日分の労働力を消費しながら、一日分の労働力をおれに支払うのだ。それはわれわれの契約に反し、商品交換の法則に反する。だからおれは、標準的な長さの労働日を要求するのであり、そしてそれをお前の情けに訴えることなく要求する。けだし金銭ごとでは人情はないのだから。お前は模範市民であり、ひょっとすると動物虐待防止協会の会員であり、そのうえ聖人だとの評判があるかもしれないが、しかし、お前がおれに向かって代表している物の胸には、脈打つ心臓はない。そこで脈うっているかに見えるのは、おれ自身の心臓の鼓動である。おれは標準労働日を要求する。けだし おれは他のどのアドバイザーとも同じように俺の商品の価値を要求するのだからと。

 ・・・

 同等な権利と権利のあいだでは、暴力が裁決する。かくして資本制的生産の歴史においては、労働日の標準化は、労働日の限度をめぐる闘争──資本家すなわち資本家階級と、総労働者すなわち労働者階級との一つの闘争──として現れる

 

ーーー

                     第七篇 資本の蓄積過程

                  第二十三章 資本制的蓄積の一般法則

            第四節 相対的過剰人口の様々な実存形態。資本制的蓄積の一般法則

 ・・・

 …資本が蓄積されるにつれて、労働者の状態は、彼の給与がどうあろうと──高かろうと低かろうと──悪化せざるをえない、ということになる。最後に、相対的過剰人口または産業予備軍をたえず蓄積の範囲および精力と均衡させる法則は、ヘファイストス(ギリシャ神話における鍛冶の神」の楔がプロメテウス(ギリシャ伝説上の英雄。ジュピターの火を盗んだために岩に釘づけにされた)を岩に釘づけにしたよりもいっそう固く、労働者を資本釘づけにする。それは、資本の蓄積に照応する貧困の蓄積を条件づける。だから、一方の極での富の蓄積は、その対極では、すなわち、自分じしんの生産物を資本として生産する階級のがわでは、同時に、貧困・労働苦・奴隷状態・無智・野生化・および道徳的堕落の・の蓄積である。

 資本制的蓄積のこうした敵対的性格は、経済学者たちによって様々な形態で語られている、──といっても、彼らはそれを、部分的には類似するが本質的に相違する先資本制的生産様式の諸現象と混同するのだが。

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アメリカ国家安全保障会議極秘文書が示す現実

2025年03月01日 | 国際・政治

 ブルース・カミングスの著書『朝鮮戦争の起源』は、膨大な第一次史料を駆使した大著です。彼の考察や分析は、すべて第一次史料をもとにしたものだと言ってもよいと思います。 

 ブルース・カミングスによると、朝鮮に進駐したアメリカ軍が、日本植民地化の朝鮮で日本の戦争に協力した指導層と手を結び、「朝鮮人民共和国」の建国に尽くした人たちを共産主義者と見なして弾圧・排除に動いたことが分かります。それは、カイロ宣言やポツダム宣言に反することだったと思います。

 そして、1949年に中国共産党率いる人民解放軍が国民党軍に勝利し、中華人民共和国を建国すると、アメリカは、はっきりと反共的なアジア戦略を策定します。それが、「アジアにおいて共産主義の力を封じ込め(Cntainment)可能なところまで減退させる」こととしたNSC-48(国家安全保障会議報告第48)というアメリカの国家安全保障会議極秘文書です。この文書は、194912月に、トルーマン大統領に提出されたというのです。

 そして1950年に入ると、アメリカの戦略はさらに進んで、「ソビエト勢力のいっそうの膨張をブロックし」、「クレムリンの支配と影響力の収縮を促し」、「ソビエト・システム内部の破壊の種子を育てる」という積極的な封じ込め、巻き返しの戦略に進むのです。そのために、NSC(国家安全保障会議)は「平時においても大規模な軍事支出を行い」同盟国と連携することによって、圧倒的な軍事力を持つことを求めたのです。それが19504月にトルーマン大統領に提出された、NSC-68(国家安全保障会議報告第68号)という極秘政策文書に示されているということです。

 こうしたアメリカの極秘政策は、決して表に出てきませんが、アメリカの政権が韓国や日本の搾取・収奪する側の人達と手を結び、今も反共的な政策を続けていることは、ロシア敵視、中国敵視の現実が示していると思います。

 だから、こうしたNSCの文書からも、アメリカ中央情報局(Central Intelligence Agency, 略称:CIA)の活動内容に

アメリカ合衆国に友好的な政権樹立の援助

 アメリカ合衆国に敵対する政権打倒の援助

 とあるというのは事実であり、決して陰謀論などではないということだと思います。

 

 下記は、「鮮戦争の起源 1945年─1947年 解放と南北分断体制の出現」ブルース・カミングス 鄭敬謨/林 哲/山岡由美「訳」(明石書店)から第二部、第五章の一部を抜萃しました。

 ブルース・カミングスは、アメリカの軍政関係者の自らに都合の良い情勢分析や強引な決めつけを明らかにしつつ、ベニングホフの報告書に関し、

の時点におけるアメリカの政策が不干渉主義であったというのは眉つばものであろう。

と批判していますが、”眉つばもの”はひかえめな批判であり、現実的には、きわめて欺瞞的だ、と私は思います。

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              第二部 中央におけるアメリカ占領軍の政策 1945年─1947

          第五章新しい秩序の創出─アメリカ軍の上陸と官僚機構 警察、軍に対する政策

 

 仁川とソウル── 新しい敵と味方

 ベニングホフはさらにアメリカ軍政と韓民党の結びつきの始まりを次のように示唆している。

 

 政治情勢のなかでもっとも勇気づけられる唯一の要素は、ソウルに練達の士でかつ高学歴の数百人の保守主義者が存在していることである。彼らの大部分は対日協力の前歴をもつ者であるが、しかしその汚名は究極的には消えるだろうと思われる。これらの人々は「重慶臨時政府」の帰国を支持しているし、よしんば多数派ではないにせよ、一つの集団としてはおそらく最大のものである。

 

 韓民党に対するこのような率直な親近感の表明は、アメリカ軍の高級将校の多数の見解を示したものであった。しかし、この報告はセシル・ニスト大佐の情報を潤色したに過ぎないものであった。ニストにしろベニングホフにしろ民主的で親米的と称する人々をたとえ一握りの数であっても把みたかったため、ソウルにしか存在しないし、メンバーのほとんどが対日協力者である韓民党が、報告の文章のわずか一段落の中で、「数百人の保守主義者」から、「一つの集団としては最大のもの」、さらには、ニストの表現のように「朝鮮人の大多数を代表する集団」まで変えられたのである。しかし、実際にはそれはアメリカ軍が頼りにすることができるものの中で最も大きな集団であるに過ぎなかった。別の多数派の集団は、ベニングホフによれば、急進的なな共産主義的集団であって、ソ連と結びついていると考えられていたのである。

 

 共産主義者たちは日本人財産の即時没収を主張しており、法と秩序に対して脅威となっている。おそらく、充分な訓練を受けたアジテーター達は朝鮮人がソ連の「自由」と支に味方にしてアメリカに反対するようにさせるために、わが軍の管轄地域に混乱を生ぜしめんとしているのである。在朝アメリカ軍が、兵力不足が原因でその支配地域を迅速に拡大しえないため、南朝鮮はそのようなアジテーターの活動に格好な土壌となっているわけである(強調はベニングホフ)。

 

 上陸後一週間(98日─15日)にして、朝鮮にいたアメリカ軍の主要な将校たちは、自分たちを支持しているのは主にかつて日本人のいいなりになっていた朝鮮人であり、自分達に反対しているのは親ソの第五列であると考えるようになったと思われる。このことをわれわれは、ベニングホフやホッジ、そしてニストらの経験の浅薄さから説明することができるだろうか? それは難しいと思われる。外交史の権威であったハーバート・ファイス(故人)はベニングホフの上述の報告を「情勢に対する先遣の明のある報告と分析」の一例として挙げている。従って、問題はこの報告書の内容がナイーブな計画とか正常とは言えない思考に基づくものであったというのではなく、それは不慣れな国における政治的対決状況にアメリカが対応する場合、多くの人びとが先ず頭に浮かべる、例の根深い考え方に基因するものであったという一言に尽きるように思われる。ベニングホフとホッジは言うまでもなく、他の官僚達にしても、自分たちの考えを簡明率直に表現するぐらいの能力あったのであり、ことの本質を見えにくくする一切の美辞麗句を省いた上で、今まさに眼前に姿を現しつつあった冷戦の露払いの役割を彼らは忠実に果たしたということができよう。

 更に、915日付の報告書のなかでベニングホフは、ワシントンから政策の指示がないことをこぼすと同時に、ホッジが「政府の運営に経験を持ち、東洋人のことをよく知っている有能な高級官吏が自分のスタッフに加えられるよう希望している」旨を述べた。ベニングホフは新しい政策の萌芽ともいうべき考え方の一端をもってこの報告書を締めくくっている。このことについてはあから言及されることになろうが ともかくベニングホフ報告の最後の一節は次のようものであった。「[ホッジは]亡命中の重慶政府を連合国の後援の下におかれた臨時政府として帰国させ、占領期間中および朝鮮人が選挙を行うことができるほど落ち着くまでの期間、表看板として活動させることを考慮するように要求している。」

 それから2週間後、ベニングホフの考えはさらに発展していた。彼の目には、今や南朝鮮は完全に両極化されたものに映っていたのである。

 

 ソウルでは、おそらく南朝鮮全体がそうであるが、現在治勢力が二つのはっきりした集団に分かれている。この二つの集団はより小さないくつかのグループで構成されているが、しかしそれぞれのグループもはっきりした独自の政治理念を掲げている。その一方はいわゆる民主的ないし保守的集団であって、このの集団はその中に、アメリカや朝鮮にあるアメリカ系のキリスト教伝道機関で教育を受けた専門職の人や教育界の指導者たちをメンバーとして擁している。彼らの理念や政策は西欧民主主義への傾倒を示しており、李承晩(イスンマン)博士や重慶の「臨時政府」の早期帰国を一致して望んでいる。

 

 このグループのうちの最大のものは韓民党であった。ベニングホフは「韓民党は、十分な教育を受けた実業家や専門職の人々、さらに全国各地の地域指導者たちから成り立っている」と述べている。そしてもう一つの集団は「急進的ないし共産主義的なグループ」から成り立っていて、その主力は人民共和国に結集していると述べている。

 

 急進派は、その民主的反対派に対して、より緻密に組織されているように思われる……新聞等を通じた急進派の宣伝材料を見れば、その背後に明確なプログラムとよく訓練された指導系統が存在しているらしいのがわかる。

 

 人民共和国を導いている非凡な指導者は呂運亨である。…しかし、彼の政治信条はどう見てもクリスチャンとしてのものから共産主義者のそれに変わったように思われるので、人々は現在の彼をどう判断してよいのか迷っている。

 

 ベニングホフは次の文章では「……ように思われる」という表現を削っているので、今や呂は単に「共産主義者」ということになった。その上でベニングホフは、815日以来の人民共和国について自分の判断を次のように述べている。

 

 呂運亨と彼の仲間たちは、自分達が政府を構成していると考えた。彼らは政治犯を解放し、治安の維持、食糧の配給等、政府が果たすべき役割を果たしてきた。そのときがおそらく建準の権力がピークに達していた時であったが、その後共産主義的要素が主力を占めるようになり、建準内部のより保守的なメンバーが離反したことによって、この組織は急速にその影響力を失うこととなった。

 

 一方、日本側は南朝鮮を占領するのはアメリカであることを知った。また、彼らは、呂が自分たちの言いなりにならないということも知った。そこで日本側は建準の力を削ぐために建準を治安委員会に変え、3000人の日本兵を一夜のうちに民間人に変貌させてそれをもってソウルにおける警察力を増強したが、……しかし呂はひるまなかった。彼は政治活動の自由というアメリカ的な基本権を行使して、95日、自分のグループを朝鮮人民共和国の建設を目ざす政党として再編した。……一方穏健な保守主義者たちは、国民大多数の支持を自負しつつ別個の組織を造らざるを得なかったわけであるが、それは、自分らを守ると同時に、反共民主主義の信念を貫くためであった。急進派は……より緻密に組織されており、より積極的に自らの主張を宣伝している。共産主義者(ソ連)による浸透の性格とその度合いが実際にどの程度のものであるか確信することはできないが、相当なものであると考えられる。

 

 ベニングホフは、「復興のための援助と指導をどのような方式で受けるつもりなのか」急進派の態度は曖昧であると述べ、次のような確約をもってこの報告を締めくくった。

 

 朝鮮における政治状況に対しアメリカのとりうる態度は、平和と秩序が維持される 限りにおいて、一種の不干渉主義で臨むということである。朝鮮駐留のアメリカ軍はその支持を如何なる特定のグループにも与えることのできないので、不干渉主義以外の政策を採択することは賢明ではないように思われる。

 

 ベニングホフがこの報告書をしたためたのは929日であるが、この時点におけるアメリカの政策が不干渉主義であったというのは眉つばものであろう。911日、米軍司令部は各派政治指導者たちの会合を招集したが、その会議の席上、韓民党の主要な指導者趙炳玉(チョピョオク)は共産主義者と人民共和国に非難を浴びせかけ、同席していた他派の人たちからの激しい抗議を受けた。さらに921日、軍政当局は韓民党の首席総務宋鎮禹(ソンジヌ)が、公共ラジオ放送局JODKを通じての放送で人民共和国は共産主義者の集団であり、同時に親日売族的であると攻撃するのを容認している。そして927日、アメリカ人は公式的に米占領軍を歓迎するための準備会の設備を認めたが、これらの委員長は高齢の権東鎮(クォンドンジン)であり、[韓民党領袖]、副委員長と事務局長にはそれぞれ金性洙(キムソンス)と趙炳玉が据えられた。

 

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関係を強化する日米韓の関係者の実態

2025年02月26日 | 国際・政治

 韓国の尹錫悦大統領を支える政党「国民の力」は、戦後結成された「韓国民主党(韓民党)」の流れを汲む保守政党だと思います。だから、その成立過程を知ることは、現在の韓国の政治状況を理解するために大事なことではないかと思います。

 でも、アメリカの影響下にある日本では、そういう歴史を踏まえた政治情勢の考察や分析は、ほとんど表にでてきません。

 もちろん、日本の敗戦直後に結成され、組織された韓国民主党(韓民党)と「国民の力」は一直線につながっているわけではないと思います。でも、保守政党としての基本的なスタンスは同じでだろうと思います。

 ブルース・カミングスの著書の下記抜粋文の中に、

910日、韓民党を代表する趙炳玉(チョピョオク)、尹潽善(ユンホソン)、そしてTY・ユン(尹致暎か)の三人が、軍政庁の役人と会い、人民共和国は「日本に協力した朝鮮人利敵分子」によって組織されたものであり、呂運亨(ヨウニョン)は「反民族的親日派の政治屋として朝鮮人の間で悪名の高い人物だ」と告げた。

 というような韓民党関係者のアメリカ軍政庁の役人に対する欺瞞的な進言がありますが、 尹大統領の「非常戒厳」宣布やその後の対応が、私に、韓民党の成立過程を思い出させるのです。

 また、下記の抜粋文の中には、

アメリカ人は最も保守的な朝鮮人とほとんど一夜にして深い関係を結んでしまった。「現地のいかなる個人も、またいかなる組織された政治集団も、…軍政の政策決定に関与させてはならない」というのが、占領軍の原則であったが、しかし数日もしないうちに第24軍団は韓国民主党と特別な関係を結び、それ以後アメリカ人は韓国民主党的な視点から他の政治グループを眺めるようになった。

 ともあります。さらに、

無知なアメリカ人たちは、呂運亨や許憲、安在鴻のような徹底した抗日運動の闘士を痛罵している韓民党指導者の多くがつい昨日まで日本の「聖戦」を讃え、「鬼畜米英」の打倒を呼びかける演説をぶっていた人たちであることを知りえなかった。

 とあります。

 私は、朝鮮の軍政に関わったアメリカの高官は、すべて承知で韓民党と手を結んだのではないかと疑っているのですが、それは、下記のような記述があり、また、降伏後の日本で、当初民主化を進めていたGHQが、180度方針を転換し、戦争指導層と手を結んだ事実があるからです。 

Gー2の責任者であったセシル・ニスト大佐は911日に徐相日や薛義植、金用茂ほか何人かの人々と面談したのち、この人々は「一般から尊敬されてされている著明な実業家や指導者達であり」、同時に韓民党は「朝鮮の一般大衆を最もよく代表しているばかりでなく、保守層の大部分と有能で且つ人気のある指導者、実業家を擁する」政党であると記録している。”

 歴史をふり返ると、アメリカが、他国の労働者を中心とする組織や団体、一般市民と手を結んだことはほとんどなく、いつも、実業家(資本家・企業家)、またそうした人たちと一体となった政治組織や軍事組織、またそうした組織と関係の深い政治家などと手を結んできたと思います。それは、極論すれば、アメリカは、いつも搾取・収奪する側の人や組織と手を結んできたということです。搾取・収奪する側の人は、お金持ちであり、高度な教育を受け知識が豊富であるだけでなく、人間関係も広く、行動力もあるため、アメリカにとっては、いろいろな面で、好都合なのだと思います。

 そうしたアメリカの対外戦略は、戦後の日本で、GHQが戦犯の公職追放を解除し一線に復帰させたため、「巣鴨プリズン」に拘束されていた東条内閣の商工大臣、岸信介が首相として政権を担い、1960年の日米安保条約改定を強行したことが、象徴していると思います。

 だから、日本やアメリカと同盟関係を強化している尹大統領を罰し、追放することは、簡単ではないだろうと思います。

 下記は、「朝鮮戦争の起源 1945年─1947年 解放と南北分断体制の出現」ブルース・カミングス 鄭敬謨/林 哲/山岡由美「訳」(明石書店)から第二部、第五章の一部を抜萃しましたが、無かったことにしてはいけない歴史が綴られていると思います。

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              第二部 中央におけるアメリカ占領軍の政策 1945年─1947

          第五章新しい秩序の創出─アメリカ軍の上陸と官僚機構 警察、軍に対する政策

 仁川とソウル── 新しい敵と味方

 ・・・

 アメリカ軍は午後一時上陸を開始したが、そのとき仁川の街頭には黒い外套を身に着け銃剣で武装した日本警察が整列しており、その直前、上陸するアメリカ軍を歓迎しようとしてデモに参加した2人の朝鮮人が射殺されるといった事態が生じたため、ひどく緊張した雰囲気であった。アメリカ軍の上陸がこのような殺戮の中で行われたのは皮肉なことであったが、このような不幸はホッジが言ったという無神経な発言で一層救い難いものになってしまった。仁川に上陸した後、ホッジは日本人に治安維持への協力に関して感謝の言葉を捧げた模様であり、また、アメリカ人記者に、次のように述べた。

 

 仁川港において、我々を歓迎しようとした朝鮮人グループに日本人が発砲した件を含めて、これまで数件の事件が朝鮮人と日本人の間に起こっているが、本官は民間人が上陸作戦の妨げになることを考えて、彼らを港に近づけてはならないとの命令を下しておいた。

 

 ホッジはまた、朝鮮人と日本人は「同じ穴のムジナア」(the same breed of cat)だと評したことはよく知られているが、彼自身が誤解であると主張し、何人かの人々もホッジは対日協力分子の朝鮮人をそのように称したにすぎないと弁護しているにもかかわらず、この発言は朝鮮人を激怒させると同時に、朝鮮人の熱望に対して驚くべき冷淡さをさらけだしたのもとされた。

 翌日の朝、アメリカ軍は静かにソウルへ入ったが、街頭には再び日本軍が整列しており、祝賀のパレードもなければ、歓迎の群衆もいなかった。高級将校たちは朝鮮ホテルを宿舎とし、半島ホテルには第24軍団の司令部が設けられた。その日午後、朝鮮総督府の庁舎においてホッジは正式に日本軍の降伏を受け入れたが、そのあと朝鮮人の大群衆は興奮して街頭をねり歩き、木銃を肩にした治安隊の各隊が町の治安維持に当っていた。その夜、アメリカ軍は夜間通行禁止令を公布した。

 99日、降伏の儀式が終了するやいなやホッジは、阿部信行総督を含めてすべての日本人、朝鮮人職員は現職に留まったまま、総督府は従来の通り機能を継続すると発表したのである。朝鮮人への演説の中で、彼は朝鮮人に忍耐を要求してから、次のように付け加えた。

 

 これからの数ヶ月の間、諸君は自らの行動を通じて、世界の民主主義的諸国民と、彼らの代表者である本官に対して、諸君ら朝鮮人の資質と能力を発揮し、諸君らが果たして世界諸国民の中に伍し、その一員として名誉ある地位を獲得しうる準備ができているかどうかを示すことになろう

 

 朝鮮の人々は、この陳腐極まりない尊大な言辞にがっかりしてしまった。ある新聞の社説は、朝鮮人は阿部総督よりは「どこかボルネオあたりの酋長」に支配された方がマシだと思うだろうと述べ、アメリカ軍の到着を歓迎しなければならないのはむしろ日本人ではないかと主張した 。アメリカ側の公式資料によっても、ホッジのこれらの行為が、「日本人をアメリカの味方の位置に立たせ、朝鮮人を敵に回す結果をもたらしたように思われる」と述べている。

 見苦しいほどこれみよがしのアメリカ人将校と日本人将校らの交歓がますますこのような感情を煽り立てた。一面では、これらの行為は単に戦争が終わったという安堵感と、日本人が従順で協力的であったということから生じたものであろう。しかしこの初期の段階におけるアメリカ人将校と日本人の交流が、アメリカ軍の占領の全期間を通じて示されたさまざまな偏見の始発点となったのである。勿論、こういった問題に対する判断は具体性を欠きがちであり、用心が必要であるが、しかし上陸の当初から多くのアメリカ人が朝鮮人よりも日本人に好意をよせていたらしいことは拒み難い事実である。日本人は協力的であり、規律正しく、かつ従順であるとみられたに対し、朝鮮人は強情で狂暴であり、かつ手に負えない連中と見られたからであった。このような見方は、その後様々な文献にくり返し現れるようになるが、恐らく1945年秋の朝鮮に対するアメリカ人の最初の反応にその起源があったと思われる。

 ワシントンの国務省は、日本人官吏を現職に留めておくホッジの政策に強く反対しており、『ニューヨーク・タイムズ』は、「国務省は軍部の一時的な日本人官吏留任政策に責任がないと厳命しいること……そしてこの方針は明らかに現地司令官の命令によるものであること」などを報道した。914日、国務省はこのことについて反対意見をマッカーサーに通告した。

 

 政治的な理由に基づき、貴官は阿部総督、総督府の全局長、道知事、並びに道警察部長らを直ちに解任されたし。更に、他の日本人官吏及び対日協力者である朝鮮人官吏の解任もできうる限り速やかに行うことを要望する。

 

 マッカーサーはすでに911日、日本人官吏を直ちに解任すべきことをホッジに電報で通知してあった。

 912日にホッジは自分も同じ結論に至っているが、この方針の「変更」は混乱を招くかもしれないと返事送った。ホッジが当初考えた総督府幹部の現状維持策については、公式の記録には何の説明も見当らない。しかし、それについてはおそらく二つの理由が考えられる。すなわち、(1)マッカーサーが日本では既存の統治機構を利用すると決めたために、朝鮮の第24軍の将校たちも同じように考えたかもしれなかったということ(このことは911日のマッカーサーのメッセージがなぜ政策の「変更」を意味していたのかを説明しうるだろう)、(2)人民共和国が(人共)がアメリカの上陸2日前にその成立を宣言していたので、もし日本人官吏を解任しないなら、人民共和国が権力を掌握するかもしれないと考えたことである。ホッジが混乱を恐れ、日本人と緊密に協力することにしたのは、恐らくこの革命的状況のためであった。いずれにせよ、こうした中で朝鮮人が解放者であると感じていたアメリカに対する絶大な好意は徐々にさめ始めていたのである。

 911日、アーノルド少将が阿部総督に代わった。2日後、遠藤柳作政務総監と総督府の各局長たちが解任され、「植民地統治機構」を意味していた「総督府」という名称も軍政庁に変わり、英語が軍政下の公用語となった。

・・・

 軍政の 最初の数週間のうちにアメリカ人と朝鮮人の間に進展した結びつきの在り方は、よくわからない状況の中で遭遇した朝鮮内の政治的対立にアメリカ人がどのように反応し、外国勢力の存在に対しては朝鮮人がどのように反応したかを観察するのに格好なケース・スタディーの対象である。両者の願望は同一のものでなかったにもかかわらず、アメリカ人は最も保守的な朝鮮人とほとんど一夜にして深い関係を結んでしまった。「現地のいかなる個人も、またいかなる組織された政治集団も、…軍政の政策決定に関与させてはならない」というのが、占領軍の原則であったが、しかし数日もしないうちに第24軍団は韓国民主党と特別な関係を結び、それ以後アメリカ人は韓国民主党的な視点から他の政治グループを眺めるようになった。

 910日、韓民党を代表する趙炳玉(チョピョオク)、尹潽善(ユンホソン)、そしてTY・ユン(尹致暎か)の三人が、軍政庁の役人と会い、人民共和国は「日本に協力した朝鮮人利敵分子」によって組織されたものであり、呂運亨(ヨウニョン)は「反民族的親日派の政治屋として朝鮮人の間で悪名の高い人物だ」と告げた。以後10日間に亘って、Gー2の日報に名前があげられるほどの朝鮮人情報提供者は、ほとんど凡て韓民党の指導者たちで、その中には宋鎮禹(ソンジム)、金性洙、張徳秀、徐相日(ソサンイル)、薛義植(ソルウィシク)、金用茂(キムヨンム)、金度演(キムドヨン)、その他が含まれていた。 また、ルイーズ・イム(任永信:イムヨンシン)と朴任徳(パクインドク)のような(女性の)韓民党支持者たちも同じ時期に、アメリカ軍宿舎内で話をする機会を得た。韓民党の支持者で間もなくホッジの個人通訳となった李卯黙(イミョムク)は910日、有名な料亭明月館に招致された軍政庁の役人たちに重要な演説を行った。李は呂運亨と安在鴻(アンジュホン)は著明な「親日派」であり、人民共和国は「共産主義」に傾いていると発言した〔当の李卯黙は南次郎総督が総裁であった国民総力朝鮮連盟で参事を務めた人物)後になって韓民党の公式の記録は、この時期の韓民党の活動の狙いはアメリカ軍政関係者に人民共和国は親日派、共産主義者、そして「民族反逆者」たちの集団であると確信させることであったと述べている。

 8月末頃から、日本人はアメリカ人に建準と人民共和国は共産主義者で集まりであるとくり返し中傷しつづけていた。しかし、人民共和国は親日的であり同時に共産主義的であるとすると、そこに何か矛盾が感じられたはずであるが、第24軍団の将校たちは何も感じる所はなかったらしい。むしろ彼らは、ソウルの政治状況の中で渦巻いている悪意的な宣伝を真実と思い込んだ。こうして、大衆の支持もなければ、人民共和国のような組織能力もなく、ただ必死になって生き延びる道を模索していた韓民党は、李朝時代の党争のような古くさい手法に訴える以外に手がなかった。無知なアメリカ人たちは、呂運亨や許憲、安在鴻のような徹底した抗日運動の闘士を痛罵している韓民党指導者の多くがつい昨日まで日本の「聖戦」を讃え、「鬼畜米英」の打倒を呼びかける演説をぶっていた人たちであることを知りえなかった。しかし、本質的な問題は、アメリカ人の無知ではなかった。韓民党の指導者たちは、アメリカ人の政治認識を支えている要素を正確に計測し、彼らが聞きたがっていること、信じたがっていることを彼らに話してやったまでであった。

 こうしてアメリカ人は上陸したその日から、はっきりと人民共和国に反対の態度をとった。実際ホッジは105日に至るまで呂運亨とは会おうともしなかったし、呂運亨に会った時のホッジの質問は、「あなたは日本人とどういう関係であるのか」とか、「日本人からいくら金をもらったのか」といった類のものであった。これはホッジがいかに韓民党の宣伝に乗せられていたかを物語るものであるが、呂運亨に対するこの質問が、ホッジが「親日」のことについて反感を示した唯一のケースであったことは附言しておかなくてはならないだろう。呂はその後、「アメリカ軍政は最初から自分に対して好感のようなものを持っていなかった」と述懐している。

 韓民党の情報提供者たちは、アメリカ軍政に対して、人民共和国は共産主義者と民族反逆者の集団であると(必要な水準まで)信じ込ませただけでなく、韓民党こそが南朝鮮における民主主義勢力の主力であるとも吹き込んだであった。Gー2の責任者であったセシル・ニスト大佐は911日に徐相日や薛義植、金用茂ほか何人かの人々と面談したのち、この人々は「一般から尊敬されてされている著明な実業家や指導者達であり」、同時に韓民党は「朝鮮の一般大衆を最もよく代表しているばかりでなく、保守層の大部分と有能で且つ人気のある指導者、実業家を擁する」政党であると記録している。一週間後ニスト大佐は、韓民党は「朝鮮の大多数を代表する唯一の民主政党」であると結論を出している。このような判断はすぐホッジ将軍やベニンホフ、その他とアメリカ軍政の主要な政策立案者の考え方に反映され、実際においてその後数週間のアメリカの政策決定に甚大な影響を及ぼした。

 かくて韓民党は自らの生き残りに必要な命綱をもってアメリカ軍政当局と結びつき、自国にやって来た外国権力の助力と支持を獲得することに成功した。そこでその指導者たちは、自分たちの究極的な目標を達成すべく、アメリカ人の好意を勝ち取ることに全力をつくすことになるが、その究極的な目標とはつまり、日本人が残して行った高度な中央集権的統治機構をおのがものものにすることである。この目的のために、韓民党の指導層は、少なくとも一時的には、自分達のような好運にめぐまれていない他の朝鮮人の怒りや誹謗を耐え忍ぶことにやぶさかではなかった。韓民党は予想もしなかったような大成功を手に入れたわけである。なぜなら、韓民党はアメリカ軍政に対し、自分らが信頼できる味方であるばかりか、民主主義的な仲間であると思い込ませることに成功したからである。この点については、或いは韓民党の一部の指導者でさえ。面映ゆい思いをしたのかも知れない。一方アメリカ軍政としても、朝鮮国内における革命の潮流を防ぎ止めるために頼りがいのある忠実な味方が必要だったといえる。占領の初期の数ヶ月間、韓民党は軍政のこのような目的に一番ピッタリしているように思われたし、自らを抑圧者ではなく解放者と考えていたアメリカ人がおのれの良心を慰めるためにも、実際はどうであろうと、いやおうなく韓民党は民主的であるというふうな評価を下さなければならなかったのである。

 アメリカ軍政と韓民党の関係は、国務省から派遣されたホッジの政治顧問ベニングホフによって作成された最初の重要なワシントン宛ての政治報告にはっきりと示されていた。ベニングホフメは915日付の最初の報告の中で、朝鮮の政治情勢について次のように述べている。

 

 朝鮮は点火すれば直ちに爆発する火薬樽のようなものであると言える。

 

 即時独立と日本人の一掃が実現しなかったために大変な失望がわあき上がっている。朝鮮人の日本人に対する憎悪は信じられないほど激しいものであるが、しかしアメリカ軍の監視がある限り、彼らが暴力に訴えるだろうとは考えられない。日本人官僚の排除は世論の見地からは好ましものであるが、当分その実現は難しい。名目的には彼らを職位から解除することができるが、実際には仕事を続けさせなければならない。なぜなら、政府機関、公共施設、公衆通信機関も問わず下級職員を除くと資格をもつ朝鮮人職員が存在していないからである。それに日本人の下で高級職についていた朝鮮人がいても、彼らは親日派とみなされ、ほとんど彼らの主人と同じように憎まれている。……総督と警務局長の2人の日本人の追放と、ソウル地域の警察官全員の配置転換は、たとえこれが政府機関を強化することにならなくても、激怒した朝鮮人をなだめる効果はあるだろうと思われる。

 

 あらゆる[政治]団体が共通してもっている考え方は、日本人の財産を没収し、朝鮮から日本人を追放し、そして即時独立を達成するということのように思われる。それ以外のことについては考えはほとんどない。朝鮮はアジテーターにとって機の熟した絶好の場なのある。

 

 ベニングホフはさらにアメリカ軍政と韓民党の結びつきの始まりを次のように示唆している。

 

 

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一国独占主義 と国際協調主義の対立

2025年02月23日 | 国際・政治


 下記は、「朝鮮戦争の起源 1945年─1947年 解放と南北分断体制の出現」ブルースカミングス 鄭敬謨/林 哲/山岡由美「訳」(明石書店)から、米ソによる38度線南北分割占領の経緯を記した部分を抜萃しました。当時アメリカには、「一国独占主義」と「国際協調主義」の対立があり、戦後の朝鮮半島に対する政策が、原爆実験の成功がきっかけで、一気に、「一国独占主義」に突き進んでいく経緯が詳述されています。

 そして、現在、その性格をまったく逆にした「孤立主義(一国独占主義 )」と「国際協調主義」の対立が表面化しているように思います。

 アメリカのバイデン前政権は、自由主義的な国際協調主義(liberal internationalism)を進めていたと言えるのでしょうが、その内実は、圧倒的な軍事力や経済力によって、アメリカを中心に強固に統制された反共的戦争政策であったと思います。逆にトランプ大統領は、圧倒的な軍事力や経済力を背景としつつも、世界中に配置された軍隊や組織その他に費やす費用をすべて国内に向け、国内を豊かにし、戦争を終息させる平和の回復政策を進めていると思います。

 この対立は、行き詰まるアメリカの資本主義経済体制を維持し、復活させる方法の違いであると思います。

 資本主義経済は、マルクスが指摘したように、必然的に窮乏化(現代風に言えば格差の拡大)をもたらす経済体制です。

 企業家(資本家)は常に、競争に負ける恐怖と闘い、少しでも多くの利益を上げるために必死だと思います。また、企業家(資本家)は、常に労働者からより多くの利益を引き出すために、労働者に薄給を強いたり、指導的立場にある労働者を懐柔したり、労働組合に圧力をかけて分断させたりするだと思います。

 そうしないと資本主義経済体制が維持できないという苦難にも直面し続けているということです。でも、そうした 企業家(資本家)の努力は、必然的に窮乏化(現代風に言えば格差の拡大)をもたらすのです。

 だから、窮乏化(格差の拡大)を防ぐ法律や制度を、国際的にしっかり確立しない限り、企業家(資本家)は、生き残りをかけて闘わざるを得ないのだと思います。それが、ロシアを挑発し、ウクライナ戦争によってロシアの政権を転覆したり、台湾有事を誘発し、習近平政権を転覆したりして新たな市場を確保し、アメリカの苦境を打開しようとするバイデン政権の戦争政策の実態だと思います。生残りをかけた政策なのだということです。

 でも、皮肉なことに、法や道義・道徳を尊重しているとは思えない「孤立主義(一国独占主義 )」のトランプ大統領が、そうした戦争政策をやめて、そのために必要な莫大な費用を国内に還流させ、生き延びようとしているのだと思います。根本的な解決策ではないと思いますが、アメリカは、かなりの期間生き延びることができるだろうと思います。

 そういう意味で、”ニューメキシコ州のアラモゴード(Alamogord)で原爆実験が成功したという報に接するや、これこそはソ連と交わした外交的な約定をすべて反故にした上で太平洋戦争を短期間に終息させ、そして東アジアの戦後処理の問題に対するソ連の参加を排除し、もっと実質的にロシア人を封じ込める絶好のチャンスだと判断した”という「一国独占主義」によるアメリカの朝鮮政策の決定過程は、見逃すことができないことだと思います。

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                      第一部 物語りの背景

                   第四章 坩堝(ルツボ)の中の対朝鮮政策  

             アメリカにおける一国独占主義と国際協調主義の対立 1943年─1945

 

 ヤルタとポツダム──宙に浮く信託統治案

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 朝鮮に対するアメリカの戦時計画は複雑で矛盾に満ち、しかも明確性を欠いたものであるが、この状態は日本の敗戦の時まで続いた。国務省内に一致した見解などなく、あれやこれや競合的な多くの見解が混在していただけであったのは、1945年夏に編纂されたある一つの驚くべき文書を見れば明らかであるが、この中にはアメリカ軍が占領後朝鮮とった施策とは似ても似つかないいくつかの優れた試案が含まれている。つまり、米軍政庁がとった実際の政策は、この中に含まれている対立的な代案の中から賢明でない方を選び取った結果であったのだ。この文書のタイトルは「極東における戦争が終結したあとアジア太平洋地区で起こりうる情勢の予測と、アメリカ合衆国の目的及び政策」(An Estimate of Conditions in Asia and the Pacific at the Close of the War in the Far East and the Objectives and Policies of the United States)であるが、この文書はす「凡ての人民が自らの政府の形態を選択しうる権利」の保障を謳っている。この文書はその考え方においては反帝国主義と相通じるものを持っており、西欧諸国が「戦争、戦争の脅かし、そして相手の無知につけ込むやり方」を通じて行ってきたアジアに対する侵略の歴史を説いている。この文章では、日帝支配が終わった時の朝鮮における農村状況が的確に把握されており、朝鮮農民の大多数が日本人もしくは朝鮮人地主による「苛酷な搾取」の下に苦しんできた小作農である事実が指摘されている。また、これらの農民は恐らく「抜本的な農地改革を要求するだろうし、日本人であれ朝鮮人であれ、地主階級による支配体制を破壊するべく決定的な行動をとるのは疑いを容れない」ということが述べられている。この文書は、ソ連が朝鮮でどのような態度に出てくるかについて早まった予測を立てることをしていない。ただソ連はいわゆる「友好的政府」の樹立を欲するかも知れないが、これような政府は「非常にたやすく一般大衆の支持を受けるだろう」と予測し、それは「朝鮮が経済的に政治的に共産主義理念を受け入れるのに都合のよい状況にあるから」という指摘がなされている。そして朝鮮に関する章の終りに、アメリカは「朝鮮の軍政と過渡政府の両方に関わり」朝鮮人を助けて「安定した民主的独立国家」を樹立することに力を藉(カ)すべきだということを勧告している。しかしながら、この文章は、どのようにして反帝国主義とアメリカの東アジアにおける戦後目的とを合致させることができるのか、どのようにして抜本的農地改革をアメリカの利害関係及び民主主義の定義と一致させることができるのか、アメリカとソ連がどのようにして両者のいずれとも対立しない政府を朝鮮に樹立しうるのかについては言及がない。このような点に対する曖昧さがはっきりしてくるのは、それから先の様々な出来ごとまで待たざるをえなかった。

 

 戦後最初のコンテインメント(封じ込め)作戦──朝鮮の分断 19458

 太平洋における戦況からすれば、1945年の夏の時点では、アメリカが朝鮮問題に積極的に介入する可能性はそう大きくはなかった。日本本土(九州)に対する米軍の上陸作戦は大体111日を期して始まる予定になっており、朝鮮に注意を向けるのは本土が平定されたあとだというのが軍部の構想であったからである。19457月ポツダム会談のとき、軍事状況が無視できなくなった情勢の中で、もし朝鮮に対する侵攻作戦がとられるならその責任は全面的にソ連軍に任せるというのが事実上の考え方であった。ポツダム会談の記録を検討すれば、アメリカ軍の参謀たちは日本に対する軍事作戦にはソ連の参戦が必要だという点において、まったく見解が一致していたのが分かる。重要な文献の中の一つは「アジア大陸における掃蕩作戦に関して言うならば、満洲(もし必要があれば朝鮮)におけるジャップの一掃はこれをロシア人に任せるというのを目標とすべきである」とも述べている。括弧の中に言及されたような朝鮮における軍事行動については、724日で開かれた三国〔米英ソ〕軍事会談においてより明確に話し合われたが、その時米陸軍参謀総長マーシャルは、朝鮮で米ソの共同作戦が取られる可能性を問うたソ連側の、あの質問に対し、アメリカ上陸作戦について「何も考えておらず、特に近い将来にそれを決行する計画は全くない」と答えている。彼はまた「アメリカ側には朝鮮に対する上陸作戦に廻しうるほど攻撃船艇に余裕がなく、対朝鮮作戦の可能性は九州上陸が終わった後じゃないと決められないとも付け加えた。

 19456月の時点で、満洲と朝鮮にある日本軍の実勢は875千であるとアメリカの秘密文書を判断している(しかもアメリカ人は、満州にある関東軍には畏怖の念を抱いていた)。九州における日本軍の実勢は30万と考えられていた。後日このような判断は過大評価であったのが判明するのであるが、しかし朝鮮における軍事行動とこれに対するソ連軍の参加に関するアメリカ側の構想は、19457月の時点における彼等の情勢判断を抜きにしては考えられない。あのと、本土上陸作戦に要する人員の損失は甚大なものであろうと予期されていたが、満洲と朝鮮に対する侵攻作戦にはそれ以上の損失が要求されるものと考えられていたようである。したがってアメリカ人は満州・朝鮮における軍事行動とそれに伴う損失を、ソ連軍に引き受けさせたいと望んでいたわけだ。勿論ソ連軍のこの犠牲に対しては、それなりの代価を支払うというのがアメリカ側の肚づもりであった。これより数カ月前、マッカーサーはソ連が対日戦に参加した場合の結果について、次のように述べている。ソ連は「満洲・朝鮮の全域と、恐らく華北の一部をもその支配下に収めることを望むだろう。このような領土の占拠は避けられない。しかし、アメリカは、もし

ロシアが、これだけの報酬を得たいと望むなら、一日も早く満洲に対する侵攻作戦を開始することによって、その代価を支払うよう主張しなくてはならない」ポツダム会談の段階に至ってもアメリカの軍部はまだ、かりにソ連が実際に上記のような領土的な野心を抱いているにしても、それに相応する犠牲を払う限りにおいて、その野心を許容するつもりであった。というのは、彼らは「もしソ連がすでに絶望的状況にある日本に対して参戦に踏み切るならば、それが決定的な打撃となって日本は降伏せざるを得なくなるだろう」と考えていたからである。

 アメリカの軍部は、まさか日本が一夜のうちに崩壊するだろうとは予期していなかった。8月の最初の週に至ってさえ、広島と長崎に落とされた原爆と、ソ連軍の満州における迅速な作戦行動がどのような効果を持つものであるか、予測することができなかった。恐らくソ連もこのとき同じような状況であっただろう。ポツダムでソ連の陸軍参謀総長アレクセイ・アントーヌフは「ソ連の極東地区における目標は、満州にある日本軍を消滅させることと、遼東半島を占領することだ」と述べているが、この発言はあの時点でソ連が何を目ざしていたかをかなり明確に示したものといえるだろう。

 先ほども述べたように、当時の軍事情勢から考えて、ポツダムにおいては朝鮮の中立化についての合意は十分成立しえたと思われる。勿論両者間の合意がいかになるものであるせよ、それは朝鮮内における軍事行動がソ連軍の一手に任されるものであるという事情を考慮した上でのものであっただろう。もし討議が具体的に展開したとすれば、ソ連は参戦の代価として、朝鮮における自由行動の権利を要求したかもしれない。またしかし、もしアメリカが朝鮮問題に介入しないことを約束すれば、ソ連は朝鮮の国内に足を踏み入れないことに同意したかも知れない。ともかく、ポツダムにおいてのみならず、朝鮮内で軍事力を使用する問題が討議されたときは常に──19506月ワシントンのブレア・ハウス〔大統領の迎賓館〕会議のときまで──アメリカの軍部は、世界的な大戦の中で朝鮮半島はアメリカにとって何ら戦略的価値をもたないという立場をとり続けた。もし朝鮮の防衛任務も引きうけるならば、アメリカは自らの兵力を極限まで使い果たさざるを得ないし、防衛線を引くとすればもっと有利な地点が見つかるはずだというのがその理由であった。ある一部の自由主義的国際主義者たち(liberal internationalist)は、1940年代になされた朝鮮に対する決定をアメリカの軍部のせいにし、非難の矢をそちらに向けたいと思うかもしれないが、責任を負うべきは、むしろ政策担当官たちである。ポツダム会談の真最中、ニューメキシコ州のアラモゴード(Alamogord)で原爆実験が成功したという報に接するや、これこそはソ連と交わした外交的な約定をすべて反故にした上で太平洋戦争を短期間に終息させ、そして東アジアの戦後処理の問題に対するソ連の参加を排除し、もっと実質的にロシア人を封じ込める絶好のチャンスだと判断したのは、他ならぬこれら政策担当官や大統領側近の顧問ないし大統領自身であったのだ。アメリカ86日と9日、広島と長崎に続けて原爆を投下したが、ソ連は間髪を入れず、アメリカの予測していなかった軍事行動をアジア大陸で開始し──そして日本は崩壊した。このような目まぐるしい事態の直後、朝鮮に38度線が引かれ、南北二つの分割地区が米ソ連両国軍の占領下におかれることになる。

 北緯38度に線を引くというそもそもの決定は全くアメリカが下したものであって、この決定が下されたの810日の夜から翌11日の未明で続いた国務・陸軍・海軍の三省調整委員会(SWNCC)の徹夜会議のときであった。この会議の模様については幾つかの報告がなされているが、その中の一つを紹介すれば次の通りである。

 810日から11日にかけての深夜、チャールズ・H・ボンスティール大佐〔後に将軍として駐韓国連軍司令官に就任〕とディーン・ラスク少佐〔後にケネディ、ジョンソン両大統領の下で国務長官に就任〕は…… 一般命令(Gneral Order)の一部として朝鮮において米ソ両軍によって占領されるべき地域確定について文案を起草し始めた。彼に与えられた時間は30分であり、作業が終わるまでの30分間、三省調整委は待つことになっていた。国務省の要望は出来うる限り北方に分断線を設定することであったが、陸軍省と海軍省は、アメリカが一兵をだに朝鮮に上陸させうる前にソ連軍はその全土を席巻することができることを知っていただけに、より慎重であった。ボンスティールとラスクは、ソウルの北方を走る道〔県〕の境界線をもって分断線とすることを考えた。そうすれば分断による政治的な悪影響を最小限にとどめ、しかも首都ソウルをアメリカの占領地域内に含めることができるからである。そのとき手もとにあった地図は壁掛けの小さな極東地図だけであり、時間的な余裕がなかった。ボンスティールは北緯38度線がソウルの北方を通るばかりでなく、朝鮮をほぼ同じ広さの二つの部分に分かつことに気づいた。彼はこれだと思い、38度線を分断線として提案した。

 その場に居合わせたラスクの話も大体において以上の記述と一致している。ラスクの書いたものによると、マックロイ(SWNCCにおける陸軍省代表)は自分とボンスティールの2人に「隣の部屋に行って、アメリカ軍ができる限り北上して日本国の降伏を受諾したいという政治的要望と、そのような地域にまで進出するにはアメリカ軍の能力にはっきりした限界があるという二つの事実を、うまく調和させる案を考えて欲しい」と求めたという。以上二つの述懐の中で注目すべき大事な点は、朝鮮分断に関するこの決定の性格は本質的に政治的なものであって、しかも国務省の代表はこの分断をもって朝鮮を二つの勢力圏に分割することの政治的利益を主張したのに反し、軍部の代表は朝鮮に足がかりを確保するだけの兵力は無いかも知れないということについて注意を促したという事実である。

 ラスクの言によると、38度線は「もしかしたらソ連がこれを承諾しないかも知れないということを勘案した場合……アメリカ軍が現実的に到達しうる限界をはるかに越えた北よりの線」であったのであり、あとからソ連がこの分断線の提案を承諾したと聞いたとき、彼は「若干驚きを感じた」ということである。もう一つの説明によると、アメリカの提案がソ連に伝達されたあと、ソ連が果たしてどう返答するだろうかについて、アメリカは「暫くの間落ち着かない状態」にあったのであり、もし提案が拒否された場合は、構わず米軍を釜山に急派すべきだという意見もあったという。こう考えてみると、38度線の選定は、ソ連の出方を試そうとするはっきりした意図を含むものであったことが分かる。ソ連軍は南下を停止するだろうか。このテストはうまく目的を果たしたと言うべきだろう。ソ連軍が朝鮮に侵入したのはアメリカ軍が上陸する一ヶ月前のことであり、もし彼らがそう欲したとすれば、ソ連軍は簡単に朝鮮半島の全土を入手しうる立場であった。しかし彼らはアメリカに与えた同意事項を遵守した。そのためにアメリカ軍はおくれて来たにも拘らず首都ソウルと人口の三分の二、それに軽工業の大部分と穀倉のほとんどを含む地帯をその占領下に収めることができた。このような結果をもたらした議論の席に、D・ラスクのような根っからの封じ込め政策の信奉者が参加していたの思い返すと、成る程という気にならざるを得ない。それより20年あと、「ベトナムにおける」17度線の不可侵性はどんな事があっても回復しなければならない」と執拗に主張しつづけたのはラスクであった 。

 スターリンがアメリカとの合意事項を遵守したのは、それなりの理由があったと思われる。38度線の目的は、代価として得られるはずの勢力範囲を厳格に規定することであると、彼は考えたに違いない。歴史を遡って見れば、ロシア人と日本人は1896年〔日清戦争終結の翌年〕、38度線を境界線として朝鮮を分離する交渉を進めたことがあり、同じような交渉は再度1903年〔日露戦争の前年〕にも行われた。スターリンは1945年、日露戦争で失われたロシアの権益は回復されなくてはならないと、はっきり言明している。アメリカと同様、ソ連もまた、自国に対して友好的な、統一された朝鮮の方がより好ましいと思っていたかも知れない。しかしたとえ朝鮮が分断されたにしても、それがソ連に対する攻撃の基地とはならないことが保障される限り、ソ連の基本的な安保の利害は充足されると考えただろう。ウィリアム・モリスが論じたように、朝鮮おけるソ連の動きにスターリンが制約を加えたのは、連合軍との協調関係を維持したいという考えからであったのかも知れない。ともかく理由はなんであれ、スターリンにとって朝鮮は完全に自らが軍事的に支配しうる国であったにも拘らず、彼はアメリカに対し共同行動を許容したのであった。

 朝鮮はいわばつい何日か前、ポツダムで事実上ロシア人に譲り渡した国であったわけであるが、突然日本が崩壊したことにより、アメリカ軍は予期さえもしていなかったチャンスをつかんで朝鮮に侵入することができた。この短い期間中に二年間にわたる戦後朝鮮に関するアメリカの計画にいつもつきまとっていた曖昧さが一気に解消したようなものだ。軍事戦略がより確実な方法であり、共同管理や信託統治は信頼性に欠けるというわけで、軍隊が現場に急派されるということになった。この決定は8月中旬のあるどさくさの中で取られたいわば突発的な、ある意味においては軽率とさえ言ってよいものであるが、しかしすでに194310日月時点で、朝鮮半島の支配を太平洋の安全に関連付けて考えていたアメリカの計画からすれば、全く辻褄の合った論理的な帰結であった。全面的にソ連の手中にある朝鮮は、太平洋の安全に対する脅威と見なされていたのである。朝鮮に軍隊を派遣するという決定は、「単に」日本軍の降伏を受諾するための便宜上のものであったというのが、1945年以来、アメリカが一貫して口にしてきた公式的な弁明であるが、実際においてこのような弁明は、一体何が当時問題であったかという点をぼやかし、糊塗するものだと言えよう。東アジアにおける国際的な力関係の発展は、どの国が、どこで日本軍の降伏を受諾するかということと密接な繋がりを持っていたのであり、またこのことは「軍事的な勝利が現地の政治を左右する」という原則に基づくものであった。

 かくして朝鮮を舞台とする第一回戦は一国独占主義の勝利に終わった。もしも国務省が、以前はアメリカの関心外の 遠い周辺地域に過ぎなかった朝鮮半島を、戦後における太平洋の安全に不可欠なものと規定しなかったとすれば、国際協調主義者たちの意見が通ったのかもしれない。すでに見てきたように、いざというときになるといつも現実主義者となる軍部の参謀たちは、もしソ連が逆らえば朝鮮半島を占領しうるような兵力は、アメリカにはないということを熟知していた。ところが国務省は、ソ連軍の南下を食い止めるという政治的な目的のために、軍に対しできる限り半島の北方に兵を集めるよう要求した。要するに国務省は、ソ連を排除し、朝鮮の全土を独り占めにするという二つの目的を同時に達成したいと望みながら。19458月、実際に手に入れることができたのは、望んだものの半分にすぎなかった。

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