真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ウクライナ戦争、垣間見える本音

2025年03月18日 | 国際・政治

 Sputnik がXで、ウクライナ戦争に関する独連邦情報局、ブルーノ・カール長官の発言を、下記のように伝えました。やはり、ウクライナ戦争は、アメリカを中心とする西側諸国の、バイデン政権のような国際協調主義組織(トランプ大統領のいうDS)が、ロシアの弱体化や政権転覆を意図した戦争であったことを示す発言だろうと思います。ウクライナ戦争は、国際法や道義・道徳が問題で起きた戦争などではなかったということです。

 ヨーロッパの安全のために、何十万人ものウクライナ人の命やウクライナの主権を犠牲にするようなことを許すことはできないという元ウクライナ首相の「激怒」は当然の反応だと思います。

【独の諜報機関トップが本音 宇はあと5NATOのために血を流せ】

 ウクライナ危機が2029年か2030年までに終わってしまえば、ロシアは欧州を脅威に陥れるために自国の「軍装備、物資、人的資源を使う」。独連邦情報局のブルーノ・カール長官はこうした声明を表した。 「ウクライナ戦争がさっさと終われば、ロシアは望む場所にエネルギーを傾ける。これは欧州には損だ」カール長官はこう述べ、ロシアの最終目的はNATOの「防護プレゼンス」を1990年代末の、東方拡大が開始される前のレベルまで押し戻すことだと指摘した。 カール独連邦情報長官の発言はウクライナの政治家らを驚愕させた。ウクライナは自国が西側のために人間の盾に利用されたことをようやく理解した。

この発言に関しては The Kyiv Independent が、下記のように伝えています。(https://kyivindependent.com/russia-could-attack-nato-by-2030-german-intelligence-chief-says/

Russia will have the military capabilities to be able to attack NATO by 2030, said German intelligence chief Bruno Kahl during a parliamentary hearing on Oct. 14.

Kahl's comments were the latest in a series of increasingly dire warnings from Western leaders and defense officials about the threat emanating from Russia and Europe's current lack of preparedness.

Russia's determination to use covert and hybrid measures against the West has reached a "level previously unseen," Kahl said, adding that they are being used "without any scruples."

Moscow's ultimate goals are to "push the U.S. out of Europe," roll back NATO boundaries to the 1990s, and create a "Russian sphere of influence" with the aim of cementing a "new world order."

Russian President Vladimir Putin "will continue to test the West's red lines and further escalate the confrontation," Kahl said, warning that Russia's military spending is far outstripping that of the West.

Separately, Thomas Haldewang, the chief of Germany's domestic intelligence agency, said that Russian espionage and sabotage activity in Europe has sharply increased.

NATO to rethink alliance’s relationship with Russia for first time in decades

Author: Nate Ostiller

ロシアは2030年までにNATOを攻撃できる軍事力を持つことになると、ドイツのブルーノ・カール情報長官は1014日の議会公聴会で述べた。

カールのコメントは、ロシアから発せられる脅威とヨーロッパの現在の準備不足について、西側の指導者や国防当局者からの一連のますます切迫した警告の最新のものだった。

西側に対して秘密裏かつハイブリッドな手段を使用するというロシアの決意は「これまでにないレベル」に達しているとカールは述べ、それらが「何の良心の呵責もなく」使用されていると付け加えた。

モスクワの究極の目標は、「アメリカをヨーロッパから追い出し」、NATOの境界を1990年代に引き戻し、「新世界秩序」を確固たるものにする狙いで「ロシアの勢力圏」を作り出すことだ。

ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は「西側のレッドラインを試し続け、対立をさらにエスカレートさせる」とカール氏は述べ、ロシアの軍事支出は西側諸国の軍事支出をはるかに上回っていると警告した。

これとは別に、ドイツ国内情報機関のトーマス・ハルデヴァング長官は、ヨーロッパにおけるロシアのスパイ活動と破壊工作活動が急激に増加していると述べた。著者: Nate Ostiller(機械翻訳)

 

 また、このブルーノ・カール長官発言に対し、「元ウクライナ首相、ドイツ諜報機関長官の警告に激怒」と題する下記のような記事が、Russia & FSUhttps://www.rt.com/russia/613969-ex-ukrainian-pm-outraged-by-german-intel-head-comments/ にありました。

Bruno Kahl has claimed an early resolution to the conflict between Moscow and Kiev could amplify security threats to the EU

Ex-Ukrainian PM outraged by German intel chief’s warning

Former Ukrainian Prime Minister Yulia Timoshenko has hit out at German intelligence chief Bruno Kahl after he claimed that resolving the conflict with Russia before the end of the decade could pose a security threat to Western Europe.

An end to the Ukraine conflict before 2029 or 2030 could allow Russia to regroup and “increase security risks for Europe,” Kahl told state broadcaster Deutsche Welle.

Kahl’s statement is the first official confirmation that the EU’s security is being prioritized at the expense of Ukraine’s sovereignty and the lives of its citizens, Timoshenko, who leads the opposition Fatherland (Batkivshchyna) party in Ukraine, claimed in a Facebook post on Friday.

At the cost of Ukraine’s very existence and the cost of the lives of hundreds of thousands of Ukrainians, did anyone decide to pay for Russia’s ‘demolition’ for safety in Europe? I didn’t think they would dare to say it so officially and openly...” she wrote.

Kahl’s remarks “explain a lot,” she said, urging the Ukrainian parliament, the Verkhovna Rada, to respond while calling for an immediate end to the conflict.”

ブルーノ・カールは、モスクワとキエフ間の紛争の早期解決は、EUに対する安全保障上の脅威を増幅する可能性があると主張している

 ウクライナの元首相、ユリア・ティモシェンコは、10年以内にロシアとの紛争を解決することは、西ヨーロッパに安全保障上の脅威をもたらす可能性があると主張した後、ドイツの諜報機関長官ブルーノ・カールを激しく非難した。

2029年または2030年より前にウクライナ紛争が終結すれば、ロシアは再編成し、「ヨーロッパの安全保障リスクを増大させる」ことができると、カール氏は国営放送ドイチェ・ヴェレに語った。

 カールの声明は、ウクライナの主権と国民の生命を犠牲にして、EUの安全保障が優先されていることを初めて公式に確認したものだと、ウクライナの野党、祖国(Batkivshchyna)党を率いるティモシェンコは、金曜日のフェイスブック投稿で主張した。

"ウクライナの存在そのものを犠牲にし、何十万人ものウクライナ人の命を犠牲にして、ヨーロッパの安全のために、ロシアの'破壊'に金を払うことを決めた人がいたのだろうか? 彼らがあえて公式に、そして公然とそれを言うとは思いませんでした...」と彼女は書いた。

 カールの発言は「多くのことを説明している」と彼女は述べ、ウクライナ議会である最高議会(Verkhovna Rada)に、紛争の即時終結を求めつつ、対応するよう促した。”(機械翻訳)


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李東元著「韓日条約締結秘話」が明かす真実

2025年03月14日 | 国際・政治

 戦後、アメリカが韓国や日本を「共産主義の蔓延を食い止めるための防波堤」にするという反共政策を進めたということは、孫栄健氏やブルース・カミングス氏がそう思ったり、考えたりしたということではなく、第一次史料が示す事実です。

 そして、現実にその政策が進められたことを、「韓日条約締結秘話」李東元著:崔雲祥監訳(PHP)が、はっきり示していると思います。

 李東元氏が、同書の「日本の読者の皆様へ」で褒めたたえ、感謝している日本人は、下記の抜粋文にあるように、東条戦時内閣の元閣僚、岸信介氏や賀屋興宣氏に代表されるように、「鬼畜米英」の戦争の指導的立場にあった人たちです。

 また、監訳者、崔雲祥氏は、「本書出版の意義」のなかの「アメリカの評価」で、

李長官は1966年国連総会出席中に、統一政策に関する意見の差異のため長官職を辞任することになるが、ワシントンでの送別会でラスク米国務長官は次のように述べて李長官の業績を激讃した。「本日の主人公李長官は、アメリカが本当に困難な時助けてくれた友人であり またASPAC を創設し、世界史にアジア太平洋時代の幕開けをした先駆者でもあります。ゆえに本日我われは彼をアメリカの友人として迎えるのであります。李長官は本当に大人物であります 過去の米韓関係、またアジアの歪んだ歴史を振り返っても、李長官程業績の多い人はありません。それも和解と平和のための…

 と書いています。

 そのラスク米国務長官は、1945年の810日から11日にかけての徹夜の三省調整委員会(国務・陸軍・海軍調整委員会)に、朝鮮半島を38度線で分断することを提案した人なのです。以前にもふれましたが、ブルース・カミングスは、「朝鮮戦争の起源」のなかで、下記のように書いていました。

810日から11日にかけての深夜、チャールズ・H・ボンスティール大佐〔後に将軍として駐韓国連軍司令官に就任〕とディーン・ラスク少佐〔後にケネディ、ジョンソン両大統領の下で国務長官に就任〕は…… 一般命令(Gneral Order)の一部として朝鮮において米ソ両軍によって占領されるべき地域確定について文案を起草し始めた。彼に与えられた時間は30分であり、作業が終わるまでの30分間、三省調整委は待つことになっていた。国務省の要望は出来うる限り北方に分断線を設定することであったが、陸軍省と海軍省は、アメリカが一兵をだに朝鮮に上陸させうる前にソ連軍はその全土を席巻することができることを知っていただけに、より慎重であった。ボンスティールとラスクは、ソウルの北方を走る道〔県〕の境界線をもって分断線とすることを考えた。そうすれば分断による政治的な悪影響を最小限にとどめ、しかも首都ソウルをアメリカの占領地域内に含めることができるからである。そのとき手もとにあった地図は壁掛けの小さな極東地図だけであり、時間的な余裕がなかった。ボンスティールは北緯38度線がソウルの北方を通るばかりでなく、朝鮮をほぼ同じ広さの二つの部分に分かつことに気づいた。彼はこれだと思い、38度線を分断線として提案した。

 アメリカは、日本の降伏直前、急速に南下する”ソ連勢力が朝鮮全域を席巻する前に、なんらかの政治的手段で、朝鮮半島における自国の足場を確保しようと38度線を設定し、イギリス、中国、ソ連の三同盟国に通報、承諾を得て終戦処理に関する事務文書である「一般命令第一号」に38度線をもとにした戦後処理を定めたということです。

 そして、事実上、ソ連の手中にあった朝鮮半島を、アメリカは太平洋の安全に対する脅威と見なして動いにていたにもかかわらず、朝鮮に軍隊を派遣するという決定が、「単に」日本軍の降伏を受諾するための便宜上のものであるかのように装ったのです。

 アメリカは、朝鮮半島を38度線で分断する「一般命令第一号」を、日本軍各部隊に対して、現地連合軍司令官への降伏を指令する形をとり、”満洲、北緯38度線以北の朝鮮および樺太にある日本軍は、ソ連極東軍司令官に降伏すべし”とし、”北緯38度線以南の朝鮮にある日本軍は、合衆国朝鮮派遣軍司令官に降伏すべし”として、発令者が日本の大本営であることにしたのです。

 でも、その結果、「一般命令第一号」は、単なる戦後処理の文書ではなく、以後、38度線で朝鮮半島を完全に分断する重要文書になってしまったということです。

 そればかりでなく、アメリカは、旧朝鮮人統治機構である朝鮮総督府組織の行政・警察機構をその制度と人員ともに継続利用し、軍政統治の道具として活用しました。その結果、日本植民地時代に朝鮮総督府等に雇用されていた朝鮮人官吏、朝鮮人警官等が、戦後も韓国社会において主導権を握り、植民地下の地主階級が貧農・小作人を厳しい雇用・小作条件で働かせるという土地所有の近代化もなされなかったのです。そして李承晩のような反共的政治家を南朝鮮のリーダーに担ぎ上げることによって、アメリカ軍政は、韓国の与党を育て、大韓民国を樹立させて韓国社会における実権を掌握するに至ったといってもよいと思います。

 日本でも、アメリカは、戦犯として逮捕されたリ、戦争犯罪に関わったということで公職を追放された人たちの追放を解除し、逆にレッドパージによって日本の民主化を実現しつつあった組合関係者や左派的な人たちを追放して、反共的な自民党政権に、日本を担わせました。

 本来処罰されるか、公職を追放されるべき人たちに主導権を与えたこうしたアメリカの反共政策は、多くの朝鮮の人たちや、日本国民の思いに反するばかりでなく、ポツダム宣言にも反するものであった思います。ポツダム宣言には、

十 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ國民トシテ滅亡セシメントスルノ意圖ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戰爭犯罪人ニ對シテハ嚴重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本國政府ハ日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ

 とあるからです。

 そして、そうした歴史を踏まえて現在の韓国を見つめれば、尹大統領の「非常戒厳」の宣布が、彼の個人的な思いによるものではないだろうと思われるのです。

 昨年末、尹大統領は、「非常戒厳」を宣布する理由として、北朝鮮に同調する勢力が、韓国政権の弱体化を狙っているからである、とか、北朝鮮の脅威や反国家勢力から韓国を守り、自由な憲法秩序を守るためだというような説明したことが報じられていました。

 だから私は、「非常戒厳」宣布によって、国内を混乱させ、北朝鮮の加担を語って、一気に韓国の雰囲気を変え、与野党の支持率を逆転させようとするような企みがあったのではないかと、想像しています。

 そして、その企みには、アメリカも関わっているのではないかと、想像がふくらむのです。

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                        日本の読者の皆様へ

 しばしば日本では、韓国のことを「近くて遠い国」だと形容するが、実は「近くて近い国」なのである。それは歴史が証明している。日韓関係は、記録上少なくとも5世紀にさかのぼる。 仏教が百済を経て、日本に伝わったことはよく知られている(538年)。その他、論語や千字文を伝えた王仁博士。百済王の命令で、一定期間日本に滞在し、儒教や漢文を教えて帰国する五経博士。暦や天文地理、遁甲、方術を伝えた観勒(602年)らは、両国間の交流が深い歴史を持っていることを明らかにする具体的な例である。このような交流はその後も続き、江戸時代には12回も朝鮮通信使の往来があった。

 もちろん 長い 交流しの過程には、光もあり陰もある。戦後50年を迎えた今日でさえ、50年前までの植民地支配の後遺症が、しばしば両国間の摩擦を引き起こしている。しかし両国は、宿命的に隣国同士である。これは何人も否定できない厳粛な事実である。韓国も日本も地理的に、嫌いだからといって引っ越しできない間柄である 主観的な好悪を越えて、今日まで隣国として生きてきたし、これからも共に生きてけなければならない運命にある。

 次に、この日韓条約を締結することが、いかに難しかったかを申し上げたい。1965622日、 日韓基本条約が調印された時、韓国の大方のマスコミはこれを第二の「乙巳保護条約」(1905年)の調印式だと非難し、私を始めとする交渉代表を、第二の「売国奴」・李完用(イワンヨン)(日本に韓国に売り渡した元凶の象徴的人物。売国奴の代名詞になっている)になぞらえた。韓国マスコミのこうした報道は、当時の国民感情を多分に反映するものであった。また一方の日本にあっても、日本に居住する朝鮮総連系は日本共産党や左派社会党と一緒になり、日韓会談反対闘争を展開した。しかし、両国の代表は 会談に成功したのである。

 私は当時の朴正煕大統領の言葉を忘れることはができない。「60年代の貧困を脱してして祖国の近代化を実現するためには、対日国交正常化を先行させなければならない」という不動の信念と、「この国交正常化決定は、後世の歴史の判断に委ねる。今は、所信を押し通し、国交正常化を実現させよう」と、彼は我々を励ましてくださった。その国交正常化が成り、三十余年が過ぎた今日、私は朴大統領が正しかったと思う。私も微力ながら彼の所信に従い、多くの難関を乗り越え、悔いなく、対日交渉を成功させたことを、今でも誇りに思ってる。

 

 最後に、私の交渉相手であった故椎名悦三郎外務大臣について一言を述べておきたい 結論的に言って、日韓条約交渉は、日本側代表が椎名外相であったからこそ成功したと言い切ることができる。官僚に任せたり、あるいは、日本の他の政治家が首席代表を務めたならば、交渉はまとまらなかっただろう。朴大統領は、椎名外相に初対面の後、彼の飾らぬ態度にすっかり心を奪われ、「なかなかの紳士だ。それに常識的で、韓国民の気持ちのわかる韓日関係の真の理解者だ」と、ほとんど絶賛に近い感想を漏らした。実際彼は、その評通り、日本よりもむしろ韓国人の立場に立って事を考え、小事にこだわらなかった。彼はビジョンをもち、勇気と決断力があった。次の世代、次の世紀を考える器量の大きい政治家であったと言えよう。そもそも外交は、「ギブ・アンド・テイク」、と「コンプロマイズ」(互いの約束、すなわち妥協・互譲の産物である。

 戦争は勝負だが、国家間の条約は互譲でなければならない。彼はこの原理を、日本外務省のキャリアの外交官よりもよく理解し、またそれを実践した。

 ある人は彼のことを菊の花になぞらえたりしている。「菊の花は、落ちても香りは残る」と──。椎名外相は現在、韓国で最も尊敬され、いや、愛されている日本の政治家だと言っても決して過言ではない。私は最近、日本の政治家たちの”妄言”が問題になるたびに、どうして日本にはもはや椎名外相のような政治家がいないのだろうかと、つくづく彼を思い出す。椎名外相はその後も、日本政府特使として何度か韓国を訪問したことがある。197711月、彼は「日韓会談の成果を自分の目で、直に確かめたい」と言いながら、日韓協定が生んだ「漢江(ハンガン)の奇跡」を見に来た。慶尚北道の浦項製鉄など、工業団地を視察した後、自分の「日韓協定」の時の決断が間違っていなかったことをはっきりと自分の目で確かめたのだった。そして「やっぱり私は正しかった。見なさい、韓国は立ち上がったではないか、この姿、これが本当に今後の近くて、温かい日韓関係をつくっていくのだ」と言って、彼は自分のことのように涙を流して喜んだ。

 私はまたこの場を借りて、会談交渉中、多くの日本指導者たちから、交渉当事者の立場を越えて、ときに激励、ときに支援の言葉を頂いたことをここに述べておきたい。

 会談が難航するたびに、「お互いににお家の事情があるのだから、名文に執着せず、妥結の道を見いだし、実利を貫徹させよう」と、佐藤栄作総理は会談妥結の決意を披歴してやまなかった。 私は韓国の外相としては、日韓両国の歴史上、最初に日本を公式訪問したわけであるが、当時 日本側の歓迎委員長は岸信介元総理、副委員長は石井光次郎元副総理と賀屋興宣氏であった。私は会談交渉中、前述した岸信介元総理、佐藤栄作元総理のほかにも、福田赳夫元総理、三木武夫 元総理、石井光次郎元副総理、藤山一郎元外相、大平正芳元首相、椎名悦三郎元外相らにたびたびお目にかかったが、彼らはひとえに激励の言葉を惜しまなかった。その他船田中衆議院議長、中曽根康弘議員(後総理)中尾栄一議員、河野一郎議員、矢次一夫氏、児玉誉士夫氏、笹川龍次氏、田中龍夫議員らも陰に陽に支援してくださった。牛場信彦外務審議官(後駐米大使・故人)には、ご自宅まで招待され、食事を頂いたこともある。私が外相を辞めた後も、彼らは依然と変わらず私を歓待してくださった。多くの方が今は幽明の境を異にしているが、私はこの紙面を借りて、彼らとその他、私に対して支援を惜しまなかった多くの日本の政治家と友人たちに、心の底から永遠なる深い感謝の意を表したい。

 この機会に、私と監訳者崔雲祥教授との関係について触れておく。崔教授の前職は外交官で、終戦の年、熊本の旧制第五高等学校を卒業した。その後、ソウル大学を経てアメリカのハーバード大学で法学博士の学位を授けられた。韓国の外務省では政務局長として日韓交渉の実務を担当し、最終方針を立案した。日韓外交に関する著書(英文)もある。その後、インド、エジプト、モロッコ、ジャマイカ等、主に非同盟諸国の大使を長く務めた。それよりも、私とは半世紀に亙る無二の親友である。彼が多忙にもかかわらず、この本の監訳を快く引き受けてくれたことを大変嬉しく思い、感謝している。

 拙著を出版するに当たっては、多くの方にお世話になった。それらの方のお名前を皆あげることは難しいが、中でも特に椎名素夫参議院議員、椎名外相に関する研究で高名な政治評論家藤田義郎氏、直接出版を指揮担当されたPHP総合研究所の秋山憲推取締役にはしばしば有益なアドバイスを頂いた。延世大学の同窓で、日本韓国研究院の崔書勉院長からもさまざまな助言をいただいたことを深謝したい。

 「過去を知れば現在がわかる。現在がわかれば未来が見えてくる」と言ったのは、確か日本の民俗学の祖である柳田國男だったと記憶している。二十一世紀に向けて、日韓両国は真に「近くて近い国同士」の関係を構築しなければならない。2002年には、サッカーの ワールドカップ 大会も共催することが決定した。私は本書がそのような未来志向的な日韓関係を創出するのに、いささかでもお役に立つならば、誠に幸甚の限りである。

   1997年 晩秋

    汝矣島(ヨイド)にある国会議員会館にて

                                                      李東元(イドンウォン)

 

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ウクライナ戦争とイーロン・マスク

2025年03月10日 | 国際・政治

 朝日新聞は、”ロシアによるウクライナ侵攻が始まって3年が過ぎた。和平をめぐる外交が動くなか、戦時下に暮らす人びとの思いに、耳を傾ける。”ということで、224日以降、ウクライナ市民の声を掲載し続けています。

 私は、その「市民の声」が、当初から、ウクライナ市民に対する同情を誘い、読者にロシアを敵視する思いを抱かせる意図を持って掲載されていると感じています。それは、自主的なものか、忖度か、それとも何らかの働きかけがあるのかはわかりませんが、アメリカの支配層(DS?)の「戦略」に従っていると思っているのです。

 35に、3人の声が掲載されました。

 アナスタシアさんは、

”ロシアによる絶え間ない爆撃があることや捕虜にされている人がいることが、どれだけおそろしいことかわかりますか。ロシアのよるウウライナ侵攻から3年が経ち、世界の人々は、この戦争を忘れ始めているいるように感じます。第36海兵旅団に所属していた知人のセルヒー・ブセルさん(29)が捕虜にされました。彼が無事に帰ってこっれるように、世界の人に忘れられないように、デモに参加して声を上げ続けています。

 私は南部ミコライウ出身で、今はキーウに住んでいます。ロシアによる侵攻が始まった224日は、キーウの自宅にいました。朝5時に母から電話があり、「戦争がはじまった」と知らされました。

 まさかと、耳を疑いましたが、電話中に自宅の外から爆発音が聞こえました。「ああ、本当に戦争が始まったんだ」と、ショックを受けました。その後友達と一緒に、学校の地下室に設置された避難所に行き、2週間過ごしました。

 出身地のミコライウでは10ヶ月間、毎日のように砲撃がありました。私の両親は無事でしたが、隣人が銃撃でなくなりました。

 多くの市民が犠牲になったのは、ロシアのプーチン大統領の野心によるものです。停戦の行方はわかりませんが、ウクライナが占領されたすべての領土を取り戻し、ロシア軍に捕らえられたすべての人々が帰ってくることを願っています。”(全文)

 といいます。

 

 また、ディアナ・ティウディナさんは、

”…、すべてのロシア人に、ウクライナ領から出ていってほしい。ひどい、とんでもない国に、さっさと帰って欲しい。私の青春時代を壊したロシアを「国家」とすら言いたくありません。…”

 と語っています。

 

 オリガ・コノバルさんは、

”…私はキーウ州オブヒウ市で暮らしています。ロシア軍による侵攻が始まった20222月、私はオブヒウにいました。近隣の市では(ロシア軍の攻撃による)犠牲者がでましたが、私たちは大丈夫でした。

 ですが、長引く戦争が、息子ロマンの命を奪いました。戦争が3年間も続くとは思ってもいませんでした。息子は自ら志願して入隊して戦地に行ったんです。息子が戦地に行くとき、「僕がどこに行くか、わかるだろう。でも、何も聞かないで」とだけ私に言いました。私は彼を止めることが出来ませんでした。息子は国を愛していたからです。…”

 と語っています。

 同じように37にも、3人の声が掲載されました。

ボクシングをやっているダリア・グタリナさんは、

”…私が試合で、勝者として審判から手を上げられたら、ウクライナの国旗が掲揚されます。そこに大きな意味があるかはわかりませんが、少なくとも、何らかの意味があると信じています。28年の五輪に出場したいと思っています。

 また、息子が志願してウクライナ軍に入隊し、最前線で戦っているというハリーナ・モスカリウクさんは

ロシア人を完全にウクライナ領から追い出したいです。ミサイルが飛んでくる時、「何か間違いがあり、ロシア領に落ちてくれないだろうか」と。他のすべてのウクライナ人のように、終戦を待ち望んでいます。”

 というのです。

 キーウ出身だという、ミュージシャン、オレグさんは

”…ただ、将来については何も考えられません。ロシアのプーチン大統領のことも信じられないし、停戦について強気の発言をしていたトランプ大統領への期待もうせました。”

 と語っています。

 いずれも、気の毒な情況に置かれていることはわかるのですが、問題は、ロシア軍の侵攻を招いたアメリカを中心とするNATO諸国やウクライナ右派のドンバス爆撃などの動きを考慮することなく、ロシアやロシア人に対する憎しみを語っていることです。

 ロシア軍ではなく、ロシア人にウクライナ領から出ていってほしいという主張にも、ウクライナの右派、ゼレンスキー政権の姿勢が読み取れるのではないかと思います。

 

 侵攻前のプーチン大統領の演説内容を受け止めれば、ロシア軍のウクライナ侵攻が、プーチン大統領の「野心」などではないことがわかるはずです。

 ロシアのプーチン大統領は、ウクライナ侵攻直前(2022224日)、国営テレビを通じて、ロシア国民向けの演説しました。でも、その演説の内容に関する報道は、日本では、全くなされなかったと思いますが、ウクライナでもほとんど報道されていないのではないかと想像してしまいます。

 その演説内容のなかには、

その間、NATOは、私たちのあらゆる抗議や懸念にもかかわらず、絶えず拡大している。軍事機構は動いている。繰り返すが、それはロシアの国境のすぐ近くまで迫っている。

 とあります。ウクライナを含むNATO諸国の大規模な合同軍事演習や、ウクライナに対する戦略核兵器の持込みなどに対する恐怖心が読み取れると思います。

 また、またアメリカを中心とする西側諸国が

まず、国連安保理の承認なしに、ベオグラードに対する流血の軍事作戦を行い、ヨーロッパの中心で戦闘機やミサイルを使った。数週間にわたり、民間の都市や生活インフラを、絶え間なく爆撃した。この事実を思い起こさなければならない。 というのも、西側には、あの出来事を思い出したがらない者たちがいるからだ。私たちがこのことに言及すると、彼らは国際法の規範について指摘するのではなく、そのような必要性があると思われる状況だったのだと指摘したがる。

 その後、イラク、リビア、シリアの番が回ってきた。

 リビアに対して軍事力を不法に使い、リビア問題に関する国連安保理のあらゆる決定を曲解した結果、国家は完全に崩壊し、国際テロリズムの巨大な温床が生まれ、国は人道的大惨事にみまわれ、いまだに止まらない長年にわたる内戦の沼にはまっていった。リビアだけでなく、この地域全体の数十万人、数百万人もの人々が陥った悲劇は、北アフリカや中東からヨーロッパへ難民の大規模流出を引き起こした。

 シリアにもまた、同じような運命が用意されていた。シリア政府の同意と国連安保理の承認が無いまま、この国で西側の連合が行った軍事活動は、侵略、介入にほかならない。ただ、中でも特別なのは、もちろん、これもまた何の法的根拠もなく行われたイラク侵攻だ。その口実とされたのは、イラクに大量破壊兵器が存在するという信頼性の高い情報をアメリカが持っているとされていることだった。

 それを公の場で証明するために、アメリカの国務長官が、全世界を前にして、白い粉が入った試験管を振って見せ、これこそがイラクで開発されている化学兵器だと断言した。後になって、それはすべて、デマであり、はったりであることが判明した。イラクに化学兵器など存在しなかったのだ。” 

”繰り返すが、そのほかに道はなかった。目的はウクライナの“占領”ではなく、ロシアを守るため現在起きていることは、ウクライナ国家やウクライナ人の利益を侵害したいという思いによるものではない。それは、ウクライナを人質にとり、我が国と我が国民に対し利用しようとしている者たちから、ロシア自身を守るためなのだ。

 

 こうした指摘が、ウクライナ侵攻をもたらしたとすれば、それが、ウクライナの市民の声にある、プーチン大統領の「野心」であるということは誤まりだと思います。

 イラクの人たちが200万人以上殺されたというような事実に対する恐怖心が、ロシアのウクライナ侵攻の背景にあるとすれば、上記のようなウクライナの市民の思いは、ゼレンスキー大統領と同じ反共反ロ意識に基づくものか、あるいは認識不足に基づく、誤解だと言ってよいと思います。

 

 もう一つ、しっかり踏まえたいことは、ロシアのウクライナ侵攻前、バイデン米大統領が「ロシアによる “ウクライナ侵攻”は、216日だろう」などと予想していたことです。なぜ、バイデン大統領は、ロシア軍のウクライナ侵攻を予想しながら、それを止めようとしなかったのか、なぜ、話し合いを呼びかけなかったのか、は重大な問題だと思います。また、バイデン大統領は、「ロシアのウクライナ侵攻は、北京冬季オリンピックの閉幕式(20日)前のいつでも起こり得る」などとも言っていたのです。そして、現実にウクライナ駐在の大使館を撤収し、職員たちを退避させたりしたようですが、どうしてウクライナの人たちのために、侵攻を止めようと努力しなかったのでしょうか。なぜ、軍人を周辺のNATO諸国に送ったりしたのでしょうか。

 

 先月の228日にホワイトハウスで行われた、トランプ米大統領とウクライナのゼレンスキー大統領の会談は、合意がなされず決裂しました。大統領執務室での会談は、記者の前で激しく批判し合う異例の展開となったといいます。

 弱小国といえるウクライナのゼレンスキー大統領が、トランプ大統領を批判できるのは、やはり、バックにトランプ大統領のいうDS(アメリカの支配層)やNATO諸国が存在するからではないか、と私は想像します。

 ゼレンスキー大統領が8日、自身のSNSで、自分は参加しないが、両国高官の会談が11日に行われる予定であることを明かにしつつ、「我々はこの戦争の最初の瞬間から平和を望んでいる」とした上で、「現実的な提案がある」と和平合意への意欲を示しましたことが報道されています。

 でも、「我々はこの戦争の最初の瞬間から平和を望んでいる」というのは、明らかに「」だと思います。

 ロシア軍は、突然ウクライナ領土に侵攻したのではありません。ロシア軍が侵攻前、ウクライナとの国境沿いに集結していたことは、日本でも報道されていました。そして、バイデン大統領が、上記のように、ロシア軍のウクライナ侵攻を予想していたのです。にもかかわらず、ゼレンスキー大統領は、ロシア軍のウクライナ侵攻を止めてほしいと声をあげることはありませんでした。逆に、侵攻に備えて、準備を整えていたと思います。”平和を望んでいた”のなら、なぜ、そのために必要な行動をとらなかったのか、と思うのです。今も昔も、戦争に「」はつきものだと思いますが、状況が変わったので、ゼレンスキー大統領は、前言を翻したのだと思います。メディアがその「嘘」に目をつぶる時代は恐ろしいと思います。

 また、ゼレンスキー大統領は、「ロシアは戦争を終わらせるつもりはなく、世界が許す間、より多くを獲得しようとしている」と非難したようですが、ふり返れば、アメリカの支援を受けて、ヤヌコビッチ政権を暴力的に転覆し、ウクライナの親露派を武力で圧して、ロシアのプーチン政権をも転覆しようと突き進んだのが、ウクライナの右派であり、ゼレンスキー氏は、今、その代表なのだと思います。

 見逃せないのは、その右派やゼレンスキー氏を支えてきたアメリカやNATO諸国は、かつて他国を植民地として搾取や収奪をしてきた国々であり、今なお、合法的に搾取や収奪をしている「豊かな国」であることです。

 ところが、その豊かな国々が、BRICSやグローバルサウスの急拡大で、窮地に陥り、その現実を乗り越えるために登場したのが、自国第一主義のトランプ大統領であり、ヨーロッパ諸国の右派勢力ではないかと思います。だから、今まで世界を席巻してきたNATO諸国やG7の国々の支配層(DS?)は、トランプ大統領側に正面から敵対するのか、自国第一主義と妥協するのか、選択を迫られているということではないかと思います。

 

 そんな中、今、私が気になるのは、イーロン・マスク氏が、スターリンクが情報提供を止めた場合に「ウクライナの戦線全体が崩壊するだろう」とXに投稿し、ポーランドのシコルスキ外相と激しい応酬を繰り広げた、と伝えられていることです。ウクライナ戦争に関する決定的なカードが、トランプ大統領側にあると言ってもよいと思います。

 朝日新聞は、”ロシア軍が、ロシア南西部クルスク州の町スジャ北方の3集落を奪還し、約2千人のウクライナ兵士を包囲しており、脱出ルートも塞がれている”、とロシア独立系メディアが報道じたことを伝えています。ウクライナ兵士は、イーロン・マスク氏のスペースX社の衛星通信サービス「スターリンク」が使えず、司令部との連絡もできないといいます。

 スターリンク関しては、トランプ米政権が遮断をちらつかせ、ウクライナに鉱物資源の権益に関する協定への署名を迫ったとロイター通信は報じていたのですが、先日、マスク氏は「ウクライナ政策にどれほど反対していても、スターリンクが接続を停止することは決してない。それを交渉材料として使うことも決してない」と述べて、若干ウクライナやNATO諸国に譲歩の姿勢を見せていることも、今後のウクライナのありかたに関わる大きな問題だと思います。

 トランプ大統領やイーロン・マスク氏は、平気で前言を翻すことがあるようなので、目が離せないと思います。

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労働者の貧困化(窮乏化・格差の拡大)とトランプ政権

2025年03月06日 | 国際・政治

 先日のトランプ大統領とゼレンスキー大統領の口論に関しての主要メディアの報道は、トランプ大統領を非難するものばかりです。

 トランプ大統領は、利益が得られると感じられなければ、正義も不正義もなく、バイデン政権が懸命に支援してきた被侵略国ウクライナを見捨て、目先の利益を求めて、侵略国ロシアと友好関係を築こうとしているとか、すべての行動に見返りを求め、ルールを無視して、国際社会の秩序を破壊しようとしているとか、とにかく非難ばかりが続いていると思います。アメリカでは、トランプ率いる共和党の支持が過半数を越え、上院も下院も共和党が制したというのに、日本では反トランプ一色であることは、やはり、日本の主要メディアが、トランプ大統領の言う、「闇の政府(deep state、略称: DS)」の影響下にあるからではないかと思います。

 戦争を終わらせようとしていることに対する評価が、ほとんどないことは、そのことを示しているように思います。

 戦後のアメリカは、トランプ大統領の主張するような利益追求の外交政策や対外政策を、圧倒的軍事力や経済力を背景に、あたかも民主的政策であるかのように装ってやってきたと思います。トランプ大統領は、それを、あからさまに口にしてやろうとしているだけであると思います。

 だから、トランプ大統領の西側諸国の報道に対する姿勢やDS解体宣言は、単なる「陰謀論」で、かたづけることはできないような気がするのです。

 バイデン政権をはじめとする戦後のアメリカの政権が、アメリカの利益のためにあらゆる地域の戦争に関与しつつ、それが、あたかも正義であり、民主的であるかのように装ってきたこと、そしてそのために莫大な費用を費やしてきたことを踏まえれば、トランプ政権が、そのための費用を国内に還流させ、アメリカを豊かにしようとしている意味が理解できると思います。言い換えれば、トランプ政権は、世界を支配するために、莫大な費用を費やす外交政策や対外政策を止めることにしたのだと思います。他国に配置された軍を引き上げ、ウクライナ戦争を終わらせようとする姿勢は、それを示していると思います。

 

 そして、私が注目するのは、トランプ政権が外国に配置された軍隊を撤退させたり、戦争を終わらせたりするだけではなく、長くアメリカの政権が西側諸国の主要メディアを支配するために活動してきた組織を潰しにかかっていると思われることです。それは、イーロン・マスク率いるDOGEDepartment of Government Efficiency:政府効率化省)が、国防総省(Department of Defense, DoD)や国際開発局(USAID)、中央情報局(Central Intelligence Agency, 略称:CIA)、アメリカ国家安全保障局( National Security AgencyNSAその他の職員の大量解雇に取り組み始めたことでわかります。これらの組織は、アメリカの主要メディアのみならず、西側諸国の主要メディアや情報組織に決定的な影響力を持っているといわれてきた組織です。 

 大統領選挙にあたって、トランプ候補は、闇の政府(deep state、略称: DS)を解体すると宣言していましたが、それを開始したということだと思います。

 したがって、完膚なきまでに DS を叩きつぶすため、もしかしたら、トランプ大統領は、バイデン政権の悪事を公にしたり、マイダン革命に対するアメリカの関与や、ドンバス戦争の実態、ブチャの虐殺の真相などを明らかにする可能性があるのではないか、と思うのです。

 

 ウクライナ戦争が始まってから、ロシアやウクライナの親露派の人たちの情報は、完全に遮断され、プーチン大統領は、悪魔のような侵略国の大統領としてくり返し報道されてきました。ウクライナ戦争を客観的に捉えるための情報は、西側諸国では報道されず、自ら探し求めて得た情報に基づく捉え方は、すべて「陰謀論」だと相手にされない情況であったと思います。上記のアメリカの組織は、自らあからさまな陰謀論をふりまきつつ、真実もそうした陰謀論と同一視するというような巧みな戦略で、欧米の知識人も影響下に置いてきたのではないかと思います。

 だから、トランプ大統領の取り組みは、色々な面で評価できると思いますが、遅かれ早かれ困難に直面すると思います。資本主義経済が抱える根本的な問題の解決にはならないだろうと思うのです。なぜなら、利益の追及は単なる政治問題ではなく、資本主義経済に内在する資本の論理の問題だといえるからです。

 資本論の著者マルクスによれば、労働者は、自分の労働力を資本家に売り、賃金を受け取りますが、生み出した価値の全てを得るわけではありません。資本家は労働者に必要労働時間(生活費を賄うための労働)以上の労働をさせ、その超過分を「剰余価値」として獲得します。これが資本家が得る利潤の源泉です。

 資本家は生産手段を所有し、労働者を雇って剰余価値を生み出させます。労働者は生産手段を持たないため、資本家に依存せざるを得ず、搾取・収奪されざるをえないのです。

 資本家は利潤を最大化するため、労働時間の延長や賃金の削減を図り、これが労働者からの搾取・収奪を強化します。また、搾取や収奪は、労働時間の延長だけでなく、派遣社員やアルバイトの多用などによっても強化されるのだと思います。そして資本家のそういう対応が、窮乏化(貧困化・格差の拡大)をもたらすのです。

 先日朝日新聞に、「黒字でも人員削減 先んじる構造改革と株主の圧力」と題する記事が掲載されました。それは、資本家が利潤を追求するため、労働者に支払う賃金を抑え、生産性向上による利益を資本の側に集中させようとする当然の流れだと思います。

 マルクスの『資本論』では、資本家による労働者の搾取の仕組みがくわしく論じられていますが、労働者の窮乏化(貧困化・格差の拡大)の問題は、主要なテーマであり、現在も少しも変わらない問題だと思います。

 

 バイデン政権は、圧倒的な軍事力や経済力を背景に、戦争を厭わず、ロシアや中国をも影響下において、新たな市場を確保し、利益を維持・拡大しようとするのに対し、トランプ政権は、そのために必要な莫大な費用を、国内に還流させることによって、アメリカを一時的に豊かにしようとしているのだと思います。

 でも、いずれも根本的な解決にはならないと思います。

 だから、労働者の窮乏化(貧困化・格差の拡大)の問題にきちんと向き合わなければ、国際社会の平和の構築が難しいことを、受け止める必要があると思います。

 

 下記は「資本論 世界の大思想18」マルクス著 長谷部文雄訳(河出書房)から、搾取や窮乏化について論じた部分を一部抜萃しました。

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                      第一部 資本の生産過程 

                    第三編 絶対的剰余価値値の生産 

                        第七章 剰余価値率 

                       第一節 労働力の搾取度

・・・

 労働者が必要労働の限界をこえて苦役する労働過程の第二期は、なるほど、彼の労働・労働力の支出・を要費するが、彼のためには何らの価値も形成しない。それは、無からの創造の全魅力をもって資本家をひきつけるところの、剰余価値を形成する。私は労働日のこの部分を剰余労働時間と名づけ、この時間に支出される労働を剰余労働(surplus labourと名づける。価値を単なる労働時間の凝結・単なる対象化された労働として把握することが価値一般の認識にとって決定的であるように、剰余価値を単なる剰余労働時間の凝結・単なる対象化された労働・として把握することは、剰余価値の認識とって決定的である。もろもろの経済的社会構造を──例えば奴隷制の社会を賃労働の社会から──区別するものは、この剰余労働が直接的な生産者・労働者から搾り取られる形態に他ならない。…

 ・・・

 だから、剰余価値率は、資本による労働力の──または資本家による労働者の──搾取度の正確な表現である。

(剰余価値率は、労働力の搾取度の正確な表現ではあるが、搾取の絶対的大きさの表現ではない。たとえば、必要労働が5時間であって剰余労働が5時間ならば、搾取度は100%である。搾取のの大きさがここで5時間によって度量されている。これに反し、必要労働が6時間であって、剰余労働が6時間ならば、100%という搾取度には変わりはないが、搾取の大きさは5時間から6時間に20%だけ増加している。)

 ・・・

                          第八章 労働日

                         第一節 労働日の限界

 

 われわれは、労働力はその価値どおりに売買されるという前提から出発した。労働力の価値は、他の各商品の価値と同じように、その生産に必要な労働時間によって規定される。だから、労働者の平均的な日々の生活手段の生産に6時間が必要ならば、彼は、自分の労働力を日々生産するために、あるいは自分の労働力を売って受け取った価値を再生産するために、平均して毎日6時間ずつ労働しなければならない。そこで彼の労働日の必要部分は6時間となるのであり、したがって他の事情が同等不変ならば与えられた大きさである。だが、それだけでは労働日そのものの大きさまだ与えられてない。…

 ・・・

 資本家は労働力をその日価値で買った。一労働日の労働力の使用価値は彼に属する。つまり、彼は労働者をして一日中自分のために労働させる権利を得た。だが、一労働日とは何か? とにかく一自然日よりも短い。どれだけ短いか? 資本家は、この最大限、労働日の必然的な限度について、彼独自の見解を有する。資本家としては、彼は、人格化された資本に他ならない。彼の魂は、資本の魂である。ところが資本はただ一つの生活衝動を、すなわち、自己を増殖し、剰余価値を創造し・その不変部分たる生産手段をもって最大可能量の剰余労働を吸収しようとする衝動を有する。資本家は、生きた労働を吸収することによって吸血鬼のように活気づき、それを吸収すればするほどますます活気づく、死んだ労働である。労働者が労働する時間は、資本家がその買った労働力を消費する時間である。もし労働者が、自分の自由にできる時間を自分じしんのために消費するならば、彼は資本家のものを盗むわけである。

 つまり、資本家は商品交換の法則を盾にとる。彼は、他の全ての購買者と同じように、彼の商品の使用価値から最大可能な効用をうち出そうとする。ところが突然に、生産過程の疾風怒涛によってかき消されていた労働者の声が つぎのように聞こえてくる─

 おれがお前に売った商品がほかの凡俗商品と異なるところは、それの使用が価値を・しかもそれ自身が要費するよりも大きい価値を創造することである。のことは、お前が俺の商品を買う理由であった。お前の側で資本の増殖として現象するものは、おれの側では労働力の余分な支出である。お前とおれは、市場では、商品交換の法則という一つの法則を知っているだけだ。そして商品の消費は、それを譲渡する販売者のものでなく、それを手に入れる購買者のものだ。だからおれの日々の労働力の使用はお前のものだ。だが、おれは、おれの労働力の日々の販売価格に媒介されて、労働力を日々再生産ししたがって新たに販売することができなければならない。年齢などによる自然的磨損を度外視すれば、おれは明日も、今日と同じような標準状態の力、健康および気力をもって労働することができなければならない。お前は、おれに向かって、たえず「倹約」および「節制」の福音を説教する。よろしい! おれは分別ある倹約な亭主のように、おれの唯一の財産たる労働力を節約し、それのばかばかしい一切の浪費を節制しよう。おれは毎日、労働力を、その標準的持続および健全な発達と一致するだけにかぎって流動させ、運動─労働にかえよう。労働日を無制限に延長すれば、お前は一日中に、おれが3日間に補填しうるよりも多量なおれの労働力を流動させることができる。かくしてお前が労働において得るだけを、おれは労働実体において失うだ。おれの労働力の利用とその掠奪とは、まったく異なる事柄である。平均的労働者が合理的な労働度のもとで生きうる平均期間を30年とすれば、お前が日々おれに支払ってくれるおれの労働力の価値は、その総価値の365×30分の一、すなわち10950分の一である。ところが、もしお前がおれの労働力を10年間で消費するならば、お前はおれに、毎日、総価値の3650分の一なく。10950分の一を、つまりその日価値の三分の一を支払うだけである。したがっておれの商品の価値の三分の二を毎日おれから盗むのである。お前は3日分の労働力を消費しながら、一日分の労働力をおれに支払うのだ。それはわれわれの契約に反し、商品交換の法則に反する。だからおれは、標準的な長さの労働日を要求するのであり、そしてそれをお前の情けに訴えることなく要求する。けだし金銭ごとでは人情はないのだから。お前は模範市民であり、ひょっとすると動物虐待防止協会の会員であり、そのうえ聖人だとの評判があるかもしれないが、しかし、お前がおれに向かって代表している物の胸には、脈打つ心臓はない。そこで脈うっているかに見えるのは、おれ自身の心臓の鼓動である。おれは標準労働日を要求する。けだし おれは他のどのアドバイザーとも同じように俺の商品の価値を要求するのだからと。

 ・・・

 同等な権利と権利のあいだでは、暴力が裁決する。かくして資本制的生産の歴史においては、労働日の標準化は、労働日の限度をめぐる闘争──資本家すなわち資本家階級と、総労働者すなわち労働者階級との一つの闘争──として現れる

 

ーーー

                     第七篇 資本の蓄積過程

                  第二十三章 資本制的蓄積の一般法則

            第四節 相対的過剰人口の様々な実存形態。資本制的蓄積の一般法則

 ・・・

 …資本が蓄積されるにつれて、労働者の状態は、彼の給与がどうあろうと──高かろうと低かろうと──悪化せざるをえない、ということになる。最後に、相対的過剰人口または産業予備軍をたえず蓄積の範囲および精力と均衡させる法則は、ヘファイストス(ギリシャ神話における鍛冶の神」の楔がプロメテウス(ギリシャ伝説上の英雄。ジュピターの火を盗んだために岩に釘づけにされた)を岩に釘づけにしたよりもいっそう固く、労働者を資本釘づけにする。それは、資本の蓄積に照応する貧困の蓄積を条件づける。だから、一方の極での富の蓄積は、その対極では、すなわち、自分じしんの生産物を資本として生産する階級のがわでは、同時に、貧困・労働苦・奴隷状態・無智・野生化・および道徳的堕落の・の蓄積である。

 資本制的蓄積のこうした敵対的性格は、経済学者たちによって様々な形態で語られている、──といっても、彼らはそれを、部分的には類似するが本質的に相違する先資本制的生産様式の諸現象と混同するのだが。

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アメリカ国家安全保障会議極秘文書が示す現実

2025年03月01日 | 国際・政治

 ブルース・カミングスの著書『朝鮮戦争の起源』は、膨大な第一次史料を駆使した大著です。彼の考察や分析は、すべて第一次史料をもとにしたものだと言ってもよいと思います。 

 ブルース・カミングスによると、朝鮮に進駐したアメリカ軍が、日本植民地化の朝鮮で日本の戦争に協力した指導層と手を結び、「朝鮮人民共和国」の建国に尽くした人たちを共産主義者と見なして弾圧・排除に動いたことが分かります。それは、カイロ宣言やポツダム宣言に反することだったと思います。

 そして、1949年に中国共産党率いる人民解放軍が国民党軍に勝利し、中華人民共和国を建国すると、アメリカは、はっきりと反共的なアジア戦略を策定します。それが、「アジアにおいて共産主義の力を封じ込め(Cntainment)可能なところまで減退させる」こととしたNSC-48(国家安全保障会議報告第48)というアメリカの国家安全保障会議極秘文書です。この文書は、194912月に、トルーマン大統領に提出されたというのです。

 そして1950年に入ると、アメリカの戦略はさらに進んで、「ソビエト勢力のいっそうの膨張をブロックし」、「クレムリンの支配と影響力の収縮を促し」、「ソビエト・システム内部の破壊の種子を育てる」という積極的な封じ込め、巻き返しの戦略に進むのです。そのために、NSC(国家安全保障会議)は「平時においても大規模な軍事支出を行い」同盟国と連携することによって、圧倒的な軍事力を持つことを求めたのです。それが19504月にトルーマン大統領に提出された、NSC-68(国家安全保障会議報告第68号)という極秘政策文書に示されているということです。

 こうしたアメリカの極秘政策は、決して表に出てきませんが、アメリカの政権が韓国や日本の搾取・収奪する側の人達と手を結び、今も反共的な政策を続けていることは、ロシア敵視、中国敵視の現実が示していると思います。

 だから、こうしたNSCの文書からも、アメリカ中央情報局(Central Intelligence Agency, 略称:CIA)の活動内容に

アメリカ合衆国に友好的な政権樹立の援助

 アメリカ合衆国に敵対する政権打倒の援助

 とあるというのは事実であり、決して陰謀論などではないということだと思います。

 

 下記は、「鮮戦争の起源 1945年─1947年 解放と南北分断体制の出現」ブルース・カミングス 鄭敬謨/林 哲/山岡由美「訳」(明石書店)から第二部、第五章の一部を抜萃しました。

 ブルース・カミングスは、アメリカの軍政関係者の自らに都合の良い情勢分析や強引な決めつけを明らかにしつつ、ベニングホフの報告書に関し、

の時点におけるアメリカの政策が不干渉主義であったというのは眉つばものであろう。

と批判していますが、”眉つばもの”はひかえめな批判であり、現実的には、きわめて欺瞞的だ、と私は思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

              第二部 中央におけるアメリカ占領軍の政策 1945年─1947

          第五章新しい秩序の創出─アメリカ軍の上陸と官僚機構 警察、軍に対する政策

 

 仁川とソウル── 新しい敵と味方

 ベニングホフはさらにアメリカ軍政と韓民党の結びつきの始まりを次のように示唆している。

 

 政治情勢のなかでもっとも勇気づけられる唯一の要素は、ソウルに練達の士でかつ高学歴の数百人の保守主義者が存在していることである。彼らの大部分は対日協力の前歴をもつ者であるが、しかしその汚名は究極的には消えるだろうと思われる。これらの人々は「重慶臨時政府」の帰国を支持しているし、よしんば多数派ではないにせよ、一つの集団としてはおそらく最大のものである。

 

 韓民党に対するこのような率直な親近感の表明は、アメリカ軍の高級将校の多数の見解を示したものであった。しかし、この報告はセシル・ニスト大佐の情報を潤色したに過ぎないものであった。ニストにしろベニングホフにしろ民主的で親米的と称する人々をたとえ一握りの数であっても把みたかったため、ソウルにしか存在しないし、メンバーのほとんどが対日協力者である韓民党が、報告の文章のわずか一段落の中で、「数百人の保守主義者」から、「一つの集団としては最大のもの」、さらには、ニストの表現のように「朝鮮人の大多数を代表する集団」まで変えられたのである。しかし、実際にはそれはアメリカ軍が頼りにすることができるものの中で最も大きな集団であるに過ぎなかった。別の多数派の集団は、ベニングホフによれば、急進的なな共産主義的集団であって、ソ連と結びついていると考えられていたのである。

 

 共産主義者たちは日本人財産の即時没収を主張しており、法と秩序に対して脅威となっている。おそらく、充分な訓練を受けたアジテーター達は朝鮮人がソ連の「自由」と支に味方にしてアメリカに反対するようにさせるために、わが軍の管轄地域に混乱を生ぜしめんとしているのである。在朝アメリカ軍が、兵力不足が原因でその支配地域を迅速に拡大しえないため、南朝鮮はそのようなアジテーターの活動に格好な土壌となっているわけである(強調はベニングホフ)。

 

 上陸後一週間(98日─15日)にして、朝鮮にいたアメリカ軍の主要な将校たちは、自分たちを支持しているのは主にかつて日本人のいいなりになっていた朝鮮人であり、自分達に反対しているのは親ソの第五列であると考えるようになったと思われる。このことをわれわれは、ベニングホフやホッジ、そしてニストらの経験の浅薄さから説明することができるだろうか? それは難しいと思われる。外交史の権威であったハーバート・ファイス(故人)はベニングホフの上述の報告を「情勢に対する先遣の明のある報告と分析」の一例として挙げている。従って、問題はこの報告書の内容がナイーブな計画とか正常とは言えない思考に基づくものであったというのではなく、それは不慣れな国における政治的対決状況にアメリカが対応する場合、多くの人びとが先ず頭に浮かべる、例の根深い考え方に基因するものであったという一言に尽きるように思われる。ベニングホフとホッジは言うまでもなく、他の官僚達にしても、自分たちの考えを簡明率直に表現するぐらいの能力あったのであり、ことの本質を見えにくくする一切の美辞麗句を省いた上で、今まさに眼前に姿を現しつつあった冷戦の露払いの役割を彼らは忠実に果たしたということができよう。

 更に、915日付の報告書のなかでベニングホフは、ワシントンから政策の指示がないことをこぼすと同時に、ホッジが「政府の運営に経験を持ち、東洋人のことをよく知っている有能な高級官吏が自分のスタッフに加えられるよう希望している」旨を述べた。ベニングホフは新しい政策の萌芽ともいうべき考え方の一端をもってこの報告書を締めくくっている。このことについてはあから言及されることになろうが ともかくベニングホフ報告の最後の一節は次のようものであった。「[ホッジは]亡命中の重慶政府を連合国の後援の下におかれた臨時政府として帰国させ、占領期間中および朝鮮人が選挙を行うことができるほど落ち着くまでの期間、表看板として活動させることを考慮するように要求している。」

 それから2週間後、ベニングホフの考えはさらに発展していた。彼の目には、今や南朝鮮は完全に両極化されたものに映っていたのである。

 

 ソウルでは、おそらく南朝鮮全体がそうであるが、現在治勢力が二つのはっきりした集団に分かれている。この二つの集団はより小さないくつかのグループで構成されているが、しかしそれぞれのグループもはっきりした独自の政治理念を掲げている。その一方はいわゆる民主的ないし保守的集団であって、このの集団はその中に、アメリカや朝鮮にあるアメリカ系のキリスト教伝道機関で教育を受けた専門職の人や教育界の指導者たちをメンバーとして擁している。彼らの理念や政策は西欧民主主義への傾倒を示しており、李承晩(イスンマン)博士や重慶の「臨時政府」の早期帰国を一致して望んでいる。

 

 このグループのうちの最大のものは韓民党であった。ベニングホフは「韓民党は、十分な教育を受けた実業家や専門職の人々、さらに全国各地の地域指導者たちから成り立っている」と述べている。そしてもう一つの集団は「急進的ないし共産主義的なグループ」から成り立っていて、その主力は人民共和国に結集していると述べている。

 

 急進派は、その民主的反対派に対して、より緻密に組織されているように思われる……新聞等を通じた急進派の宣伝材料を見れば、その背後に明確なプログラムとよく訓練された指導系統が存在しているらしいのがわかる。

 

 人民共和国を導いている非凡な指導者は呂運亨である。…しかし、彼の政治信条はどう見てもクリスチャンとしてのものから共産主義者のそれに変わったように思われるので、人々は現在の彼をどう判断してよいのか迷っている。

 

 ベニングホフは次の文章では「……ように思われる」という表現を削っているので、今や呂は単に「共産主義者」ということになった。その上でベニングホフは、815日以来の人民共和国について自分の判断を次のように述べている。

 

 呂運亨と彼の仲間たちは、自分達が政府を構成していると考えた。彼らは政治犯を解放し、治安の維持、食糧の配給等、政府が果たすべき役割を果たしてきた。そのときがおそらく建準の権力がピークに達していた時であったが、その後共産主義的要素が主力を占めるようになり、建準内部のより保守的なメンバーが離反したことによって、この組織は急速にその影響力を失うこととなった。

 

 一方、日本側は南朝鮮を占領するのはアメリカであることを知った。また、彼らは、呂が自分たちの言いなりにならないということも知った。そこで日本側は建準の力を削ぐために建準を治安委員会に変え、3000人の日本兵を一夜のうちに民間人に変貌させてそれをもってソウルにおける警察力を増強したが、……しかし呂はひるまなかった。彼は政治活動の自由というアメリカ的な基本権を行使して、95日、自分のグループを朝鮮人民共和国の建設を目ざす政党として再編した。……一方穏健な保守主義者たちは、国民大多数の支持を自負しつつ別個の組織を造らざるを得なかったわけであるが、それは、自分らを守ると同時に、反共民主主義の信念を貫くためであった。急進派は……より緻密に組織されており、より積極的に自らの主張を宣伝している。共産主義者(ソ連)による浸透の性格とその度合いが実際にどの程度のものであるか確信することはできないが、相当なものであると考えられる。

 

 ベニングホフは、「復興のための援助と指導をどのような方式で受けるつもりなのか」急進派の態度は曖昧であると述べ、次のような確約をもってこの報告を締めくくった。

 

 朝鮮における政治状況に対しアメリカのとりうる態度は、平和と秩序が維持される 限りにおいて、一種の不干渉主義で臨むということである。朝鮮駐留のアメリカ軍はその支持を如何なる特定のグループにも与えることのできないので、不干渉主義以外の政策を採択することは賢明ではないように思われる。

 

 ベニングホフがこの報告書をしたためたのは929日であるが、この時点におけるアメリカの政策が不干渉主義であったというのは眉つばものであろう。911日、米軍司令部は各派政治指導者たちの会合を招集したが、その会議の席上、韓民党の主要な指導者趙炳玉(チョピョオク)は共産主義者と人民共和国に非難を浴びせかけ、同席していた他派の人たちからの激しい抗議を受けた。さらに921日、軍政当局は韓民党の首席総務宋鎮禹(ソンジヌ)が、公共ラジオ放送局JODKを通じての放送で人民共和国は共産主義者の集団であり、同時に親日売族的であると攻撃するのを容認している。そして927日、アメリカ人は公式的に米占領軍を歓迎するための準備会の設備を認めたが、これらの委員長は高齢の権東鎮(クォンドンジン)であり、[韓民党領袖]、副委員長と事務局長にはそれぞれ金性洙(キムソンス)と趙炳玉が据えられた。

 

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関係を強化する日米韓の関係者の実態

2025年02月26日 | 国際・政治

 韓国の尹錫悦大統領を支える政党「国民の力」は、戦後結成された「韓国民主党(韓民党)」の流れを汲む保守政党だと思います。だから、その成立過程を知ることは、現在の韓国の政治状況を理解するために大事なことではないかと思います。

 でも、アメリカの影響下にある日本では、そういう歴史を踏まえた政治情勢の考察や分析は、ほとんど表にでてきません。

 もちろん、日本の敗戦直後に結成され、組織された韓国民主党(韓民党)と「国民の力」は一直線につながっているわけではないと思います。でも、保守政党としての基本的なスタンスは同じでだろうと思います。

 ブルース・カミングスの著書の下記抜粋文の中に、

910日、韓民党を代表する趙炳玉(チョピョオク)、尹潽善(ユンホソン)、そしてTY・ユン(尹致暎か)の三人が、軍政庁の役人と会い、人民共和国は「日本に協力した朝鮮人利敵分子」によって組織されたものであり、呂運亨(ヨウニョン)は「反民族的親日派の政治屋として朝鮮人の間で悪名の高い人物だ」と告げた。

 というような韓民党関係者のアメリカ軍政庁の役人に対する欺瞞的な進言がありますが、 尹大統領の「非常戒厳」宣布やその後の対応が、私に、韓民党の成立過程を思い出させるのです。

 また、下記の抜粋文の中には、

アメリカ人は最も保守的な朝鮮人とほとんど一夜にして深い関係を結んでしまった。「現地のいかなる個人も、またいかなる組織された政治集団も、…軍政の政策決定に関与させてはならない」というのが、占領軍の原則であったが、しかし数日もしないうちに第24軍団は韓国民主党と特別な関係を結び、それ以後アメリカ人は韓国民主党的な視点から他の政治グループを眺めるようになった。

 ともあります。さらに、

無知なアメリカ人たちは、呂運亨や許憲、安在鴻のような徹底した抗日運動の闘士を痛罵している韓民党指導者の多くがつい昨日まで日本の「聖戦」を讃え、「鬼畜米英」の打倒を呼びかける演説をぶっていた人たちであることを知りえなかった。

 とあります。

 私は、朝鮮の軍政に関わったアメリカの高官は、すべて承知で韓民党と手を結んだのではないかと疑っているのですが、それは、下記のような記述があり、また、降伏後の日本で、当初民主化を進めていたGHQが、180度方針を転換し、戦争指導層と手を結んだ事実があるからです。 

Gー2の責任者であったセシル・ニスト大佐は911日に徐相日や薛義植、金用茂ほか何人かの人々と面談したのち、この人々は「一般から尊敬されてされている著明な実業家や指導者達であり」、同時に韓民党は「朝鮮の一般大衆を最もよく代表しているばかりでなく、保守層の大部分と有能で且つ人気のある指導者、実業家を擁する」政党であると記録している。”

 歴史をふり返ると、アメリカが、他国の労働者を中心とする組織や団体、一般市民と手を結んだことはほとんどなく、いつも、実業家(資本家・企業家)、またそうした人たちと一体となった政治組織や軍事組織、またそうした組織と関係の深い政治家などと手を結んできたと思います。それは、極論すれば、アメリカは、いつも搾取・収奪する側の人や組織と手を結んできたということです。搾取・収奪する側の人は、お金持ちであり、高度な教育を受け知識が豊富であるだけでなく、人間関係も広く、行動力もあるため、アメリカにとっては、いろいろな面で、好都合なのだと思います。

 そうしたアメリカの対外戦略は、戦後の日本で、GHQが戦犯の公職追放を解除し一線に復帰させたため、「巣鴨プリズン」に拘束されていた東条内閣の商工大臣、岸信介が首相として政権を担い、1960年の日米安保条約改定を強行したことが、象徴していると思います。

 だから、日本やアメリカと同盟関係を強化している尹大統領を罰し、追放することは、簡単ではないだろうと思います。

 下記は、「朝鮮戦争の起源 1945年─1947年 解放と南北分断体制の出現」ブルース・カミングス 鄭敬謨/林 哲/山岡由美「訳」(明石書店)から第二部、第五章の一部を抜萃しましたが、無かったことにしてはいけない歴史が綴られていると思います。

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              第二部 中央におけるアメリカ占領軍の政策 1945年─1947

          第五章新しい秩序の創出─アメリカ軍の上陸と官僚機構 警察、軍に対する政策

 仁川とソウル── 新しい敵と味方

 ・・・

 アメリカ軍は午後一時上陸を開始したが、そのとき仁川の街頭には黒い外套を身に着け銃剣で武装した日本警察が整列しており、その直前、上陸するアメリカ軍を歓迎しようとしてデモに参加した2人の朝鮮人が射殺されるといった事態が生じたため、ひどく緊張した雰囲気であった。アメリカ軍の上陸がこのような殺戮の中で行われたのは皮肉なことであったが、このような不幸はホッジが言ったという無神経な発言で一層救い難いものになってしまった。仁川に上陸した後、ホッジは日本人に治安維持への協力に関して感謝の言葉を捧げた模様であり、また、アメリカ人記者に、次のように述べた。

 

 仁川港において、我々を歓迎しようとした朝鮮人グループに日本人が発砲した件を含めて、これまで数件の事件が朝鮮人と日本人の間に起こっているが、本官は民間人が上陸作戦の妨げになることを考えて、彼らを港に近づけてはならないとの命令を下しておいた。

 

 ホッジはまた、朝鮮人と日本人は「同じ穴のムジナア」(the same breed of cat)だと評したことはよく知られているが、彼自身が誤解であると主張し、何人かの人々もホッジは対日協力分子の朝鮮人をそのように称したにすぎないと弁護しているにもかかわらず、この発言は朝鮮人を激怒させると同時に、朝鮮人の熱望に対して驚くべき冷淡さをさらけだしたのもとされた。

 翌日の朝、アメリカ軍は静かにソウルへ入ったが、街頭には再び日本軍が整列しており、祝賀のパレードもなければ、歓迎の群衆もいなかった。高級将校たちは朝鮮ホテルを宿舎とし、半島ホテルには第24軍団の司令部が設けられた。その日午後、朝鮮総督府の庁舎においてホッジは正式に日本軍の降伏を受け入れたが、そのあと朝鮮人の大群衆は興奮して街頭をねり歩き、木銃を肩にした治安隊の各隊が町の治安維持に当っていた。その夜、アメリカ軍は夜間通行禁止令を公布した。

 99日、降伏の儀式が終了するやいなやホッジは、阿部信行総督を含めてすべての日本人、朝鮮人職員は現職に留まったまま、総督府は従来の通り機能を継続すると発表したのである。朝鮮人への演説の中で、彼は朝鮮人に忍耐を要求してから、次のように付け加えた。

 

 これからの数ヶ月の間、諸君は自らの行動を通じて、世界の民主主義的諸国民と、彼らの代表者である本官に対して、諸君ら朝鮮人の資質と能力を発揮し、諸君らが果たして世界諸国民の中に伍し、その一員として名誉ある地位を獲得しうる準備ができているかどうかを示すことになろう

 

 朝鮮の人々は、この陳腐極まりない尊大な言辞にがっかりしてしまった。ある新聞の社説は、朝鮮人は阿部総督よりは「どこかボルネオあたりの酋長」に支配された方がマシだと思うだろうと述べ、アメリカ軍の到着を歓迎しなければならないのはむしろ日本人ではないかと主張した 。アメリカ側の公式資料によっても、ホッジのこれらの行為が、「日本人をアメリカの味方の位置に立たせ、朝鮮人を敵に回す結果をもたらしたように思われる」と述べている。

 見苦しいほどこれみよがしのアメリカ人将校と日本人将校らの交歓がますますこのような感情を煽り立てた。一面では、これらの行為は単に戦争が終わったという安堵感と、日本人が従順で協力的であったということから生じたものであろう。しかしこの初期の段階におけるアメリカ人将校と日本人の交流が、アメリカ軍の占領の全期間を通じて示されたさまざまな偏見の始発点となったのである。勿論、こういった問題に対する判断は具体性を欠きがちであり、用心が必要であるが、しかし上陸の当初から多くのアメリカ人が朝鮮人よりも日本人に好意をよせていたらしいことは拒み難い事実である。日本人は協力的であり、規律正しく、かつ従順であるとみられたに対し、朝鮮人は強情で狂暴であり、かつ手に負えない連中と見られたからであった。このような見方は、その後様々な文献にくり返し現れるようになるが、恐らく1945年秋の朝鮮に対するアメリカ人の最初の反応にその起源があったと思われる。

 ワシントンの国務省は、日本人官吏を現職に留めておくホッジの政策に強く反対しており、『ニューヨーク・タイムズ』は、「国務省は軍部の一時的な日本人官吏留任政策に責任がないと厳命しいること……そしてこの方針は明らかに現地司令官の命令によるものであること」などを報道した。914日、国務省はこのことについて反対意見をマッカーサーに通告した。

 

 政治的な理由に基づき、貴官は阿部総督、総督府の全局長、道知事、並びに道警察部長らを直ちに解任されたし。更に、他の日本人官吏及び対日協力者である朝鮮人官吏の解任もできうる限り速やかに行うことを要望する。

 

 マッカーサーはすでに911日、日本人官吏を直ちに解任すべきことをホッジに電報で通知してあった。

 912日にホッジは自分も同じ結論に至っているが、この方針の「変更」は混乱を招くかもしれないと返事送った。ホッジが当初考えた総督府幹部の現状維持策については、公式の記録には何の説明も見当らない。しかし、それについてはおそらく二つの理由が考えられる。すなわち、(1)マッカーサーが日本では既存の統治機構を利用すると決めたために、朝鮮の第24軍の将校たちも同じように考えたかもしれなかったということ(このことは911日のマッカーサーのメッセージがなぜ政策の「変更」を意味していたのかを説明しうるだろう)、(2)人民共和国が(人共)がアメリカの上陸2日前にその成立を宣言していたので、もし日本人官吏を解任しないなら、人民共和国が権力を掌握するかもしれないと考えたことである。ホッジが混乱を恐れ、日本人と緊密に協力することにしたのは、恐らくこの革命的状況のためであった。いずれにせよ、こうした中で朝鮮人が解放者であると感じていたアメリカに対する絶大な好意は徐々にさめ始めていたのである。

 911日、アーノルド少将が阿部総督に代わった。2日後、遠藤柳作政務総監と総督府の各局長たちが解任され、「植民地統治機構」を意味していた「総督府」という名称も軍政庁に変わり、英語が軍政下の公用語となった。

・・・

 軍政の 最初の数週間のうちにアメリカ人と朝鮮人の間に進展した結びつきの在り方は、よくわからない状況の中で遭遇した朝鮮内の政治的対立にアメリカ人がどのように反応し、外国勢力の存在に対しては朝鮮人がどのように反応したかを観察するのに格好なケース・スタディーの対象である。両者の願望は同一のものでなかったにもかかわらず、アメリカ人は最も保守的な朝鮮人とほとんど一夜にして深い関係を結んでしまった。「現地のいかなる個人も、またいかなる組織された政治集団も、…軍政の政策決定に関与させてはならない」というのが、占領軍の原則であったが、しかし数日もしないうちに第24軍団は韓国民主党と特別な関係を結び、それ以後アメリカ人は韓国民主党的な視点から他の政治グループを眺めるようになった。

 910日、韓民党を代表する趙炳玉(チョピョオク)、尹潽善(ユンホソン)、そしてTY・ユン(尹致暎か)の三人が、軍政庁の役人と会い、人民共和国は「日本に協力した朝鮮人利敵分子」によって組織されたものであり、呂運亨(ヨウニョン)は「反民族的親日派の政治屋として朝鮮人の間で悪名の高い人物だ」と告げた。以後10日間に亘って、Gー2の日報に名前があげられるほどの朝鮮人情報提供者は、ほとんど凡て韓民党の指導者たちで、その中には宋鎮禹(ソンジム)、金性洙、張徳秀、徐相日(ソサンイル)、薛義植(ソルウィシク)、金用茂(キムヨンム)、金度演(キムドヨン)、その他が含まれていた。 また、ルイーズ・イム(任永信:イムヨンシン)と朴任徳(パクインドク)のような(女性の)韓民党支持者たちも同じ時期に、アメリカ軍宿舎内で話をする機会を得た。韓民党の支持者で間もなくホッジの個人通訳となった李卯黙(イミョムク)は910日、有名な料亭明月館に招致された軍政庁の役人たちに重要な演説を行った。李は呂運亨と安在鴻(アンジュホン)は著明な「親日派」であり、人民共和国は「共産主義」に傾いていると発言した〔当の李卯黙は南次郎総督が総裁であった国民総力朝鮮連盟で参事を務めた人物)後になって韓民党の公式の記録は、この時期の韓民党の活動の狙いはアメリカ軍政関係者に人民共和国は親日派、共産主義者、そして「民族反逆者」たちの集団であると確信させることであったと述べている。

 8月末頃から、日本人はアメリカ人に建準と人民共和国は共産主義者で集まりであるとくり返し中傷しつづけていた。しかし、人民共和国は親日的であり同時に共産主義的であるとすると、そこに何か矛盾が感じられたはずであるが、第24軍団の将校たちは何も感じる所はなかったらしい。むしろ彼らは、ソウルの政治状況の中で渦巻いている悪意的な宣伝を真実と思い込んだ。こうして、大衆の支持もなければ、人民共和国のような組織能力もなく、ただ必死になって生き延びる道を模索していた韓民党は、李朝時代の党争のような古くさい手法に訴える以外に手がなかった。無知なアメリカ人たちは、呂運亨や許憲、安在鴻のような徹底した抗日運動の闘士を痛罵している韓民党指導者の多くがつい昨日まで日本の「聖戦」を讃え、「鬼畜米英」の打倒を呼びかける演説をぶっていた人たちであることを知りえなかった。しかし、本質的な問題は、アメリカ人の無知ではなかった。韓民党の指導者たちは、アメリカ人の政治認識を支えている要素を正確に計測し、彼らが聞きたがっていること、信じたがっていることを彼らに話してやったまでであった。

 こうしてアメリカ人は上陸したその日から、はっきりと人民共和国に反対の態度をとった。実際ホッジは105日に至るまで呂運亨とは会おうともしなかったし、呂運亨に会った時のホッジの質問は、「あなたは日本人とどういう関係であるのか」とか、「日本人からいくら金をもらったのか」といった類のものであった。これはホッジがいかに韓民党の宣伝に乗せられていたかを物語るものであるが、呂運亨に対するこの質問が、ホッジが「親日」のことについて反感を示した唯一のケースであったことは附言しておかなくてはならないだろう。呂はその後、「アメリカ軍政は最初から自分に対して好感のようなものを持っていなかった」と述懐している。

 韓民党の情報提供者たちは、アメリカ軍政に対して、人民共和国は共産主義者と民族反逆者の集団であると(必要な水準まで)信じ込ませただけでなく、韓民党こそが南朝鮮における民主主義勢力の主力であるとも吹き込んだであった。Gー2の責任者であったセシル・ニスト大佐は911日に徐相日や薛義植、金用茂ほか何人かの人々と面談したのち、この人々は「一般から尊敬されてされている著明な実業家や指導者達であり」、同時に韓民党は「朝鮮の一般大衆を最もよく代表しているばかりでなく、保守層の大部分と有能で且つ人気のある指導者、実業家を擁する」政党であると記録している。一週間後ニスト大佐は、韓民党は「朝鮮の大多数を代表する唯一の民主政党」であると結論を出している。このような判断はすぐホッジ将軍やベニンホフ、その他とアメリカ軍政の主要な政策立案者の考え方に反映され、実際においてその後数週間のアメリカの政策決定に甚大な影響を及ぼした。

 かくて韓民党は自らの生き残りに必要な命綱をもってアメリカ軍政当局と結びつき、自国にやって来た外国権力の助力と支持を獲得することに成功した。そこでその指導者たちは、自分たちの究極的な目標を達成すべく、アメリカ人の好意を勝ち取ることに全力をつくすことになるが、その究極的な目標とはつまり、日本人が残して行った高度な中央集権的統治機構をおのがものものにすることである。この目的のために、韓民党の指導層は、少なくとも一時的には、自分達のような好運にめぐまれていない他の朝鮮人の怒りや誹謗を耐え忍ぶことにやぶさかではなかった。韓民党は予想もしなかったような大成功を手に入れたわけである。なぜなら、韓民党はアメリカ軍政に対し、自分らが信頼できる味方であるばかりか、民主主義的な仲間であると思い込ませることに成功したからである。この点については、或いは韓民党の一部の指導者でさえ。面映ゆい思いをしたのかも知れない。一方アメリカ軍政としても、朝鮮国内における革命の潮流を防ぎ止めるために頼りがいのある忠実な味方が必要だったといえる。占領の初期の数ヶ月間、韓民党は軍政のこのような目的に一番ピッタリしているように思われたし、自らを抑圧者ではなく解放者と考えていたアメリカ人がおのれの良心を慰めるためにも、実際はどうであろうと、いやおうなく韓民党は民主的であるというふうな評価を下さなければならなかったのである。

 アメリカ軍政と韓民党の関係は、国務省から派遣されたホッジの政治顧問ベニングホフによって作成された最初の重要なワシントン宛ての政治報告にはっきりと示されていた。ベニングホフメは915日付の最初の報告の中で、朝鮮の政治情勢について次のように述べている。

 

 朝鮮は点火すれば直ちに爆発する火薬樽のようなものであると言える。

 

 即時独立と日本人の一掃が実現しなかったために大変な失望がわあき上がっている。朝鮮人の日本人に対する憎悪は信じられないほど激しいものであるが、しかしアメリカ軍の監視がある限り、彼らが暴力に訴えるだろうとは考えられない。日本人官僚の排除は世論の見地からは好ましものであるが、当分その実現は難しい。名目的には彼らを職位から解除することができるが、実際には仕事を続けさせなければならない。なぜなら、政府機関、公共施設、公衆通信機関も問わず下級職員を除くと資格をもつ朝鮮人職員が存在していないからである。それに日本人の下で高級職についていた朝鮮人がいても、彼らは親日派とみなされ、ほとんど彼らの主人と同じように憎まれている。……総督と警務局長の2人の日本人の追放と、ソウル地域の警察官全員の配置転換は、たとえこれが政府機関を強化することにならなくても、激怒した朝鮮人をなだめる効果はあるだろうと思われる。

 

 あらゆる[政治]団体が共通してもっている考え方は、日本人の財産を没収し、朝鮮から日本人を追放し、そして即時独立を達成するということのように思われる。それ以外のことについては考えはほとんどない。朝鮮はアジテーターにとって機の熟した絶好の場なのある。

 

 ベニングホフはさらにアメリカ軍政と韓民党の結びつきの始まりを次のように示唆している。

 

 

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一国独占主義 と国際協調主義の対立

2025年02月23日 | 国際・政治


 下記は、「朝鮮戦争の起源 1945年─1947年 解放と南北分断体制の出現」ブルースカミングス 鄭敬謨/林 哲/山岡由美「訳」(明石書店)から、米ソによる38度線南北分割占領の経緯を記した部分を抜萃しました。当時アメリカには、「一国独占主義」と「国際協調主義」の対立があり、戦後の朝鮮半島に対する政策が、原爆実験の成功がきっかけで、一気に、「一国独占主義」に突き進んでいく経緯が詳述されています。

 そして、現在、その性格をまったく逆にした「孤立主義(一国独占主義 )」と「国際協調主義」の対立が表面化しているように思います。

 アメリカのバイデン前政権は、自由主義的な国際協調主義(liberal internationalism)を進めていたと言えるのでしょうが、その内実は、圧倒的な軍事力や経済力によって、アメリカを中心に強固に統制された反共的戦争政策であったと思います。逆にトランプ大統領は、圧倒的な軍事力や経済力を背景としつつも、世界中に配置された軍隊や組織その他に費やす費用をすべて国内に向け、国内を豊かにし、戦争を終息させる平和の回復政策を進めていると思います。

 この対立は、行き詰まるアメリカの資本主義経済体制を維持し、復活させる方法の違いであると思います。

 資本主義経済は、マルクスが指摘したように、必然的に窮乏化(現代風に言えば格差の拡大)をもたらす経済体制です。

 企業家(資本家)は常に、競争に負ける恐怖と闘い、少しでも多くの利益を上げるために必死だと思います。また、企業家(資本家)は、常に労働者からより多くの利益を引き出すために、労働者に薄給を強いたり、指導的立場にある労働者を懐柔したり、労働組合に圧力をかけて分断させたりするだと思います。

 そうしないと資本主義経済体制が維持できないという苦難にも直面し続けているということです。でも、そうした 企業家(資本家)の努力は、必然的に窮乏化(現代風に言えば格差の拡大)をもたらすのです。

 だから、窮乏化(格差の拡大)を防ぐ法律や制度を、国際的にしっかり確立しない限り、企業家(資本家)は、生き残りをかけて闘わざるを得ないのだと思います。それが、ロシアを挑発し、ウクライナ戦争によってロシアの政権を転覆したり、台湾有事を誘発し、習近平政権を転覆したりして新たな市場を確保し、アメリカの苦境を打開しようとするバイデン政権の戦争政策の実態だと思います。生残りをかけた政策なのだということです。

 でも、皮肉なことに、法や道義・道徳を尊重しているとは思えない「孤立主義(一国独占主義 )」のトランプ大統領が、そうした戦争政策をやめて、そのために必要な莫大な費用を国内に還流させ、生き延びようとしているのだと思います。根本的な解決策ではないと思いますが、アメリカは、かなりの期間生き延びることができるだろうと思います。

 そういう意味で、”ニューメキシコ州のアラモゴード(Alamogord)で原爆実験が成功したという報に接するや、これこそはソ連と交わした外交的な約定をすべて反故にした上で太平洋戦争を短期間に終息させ、そして東アジアの戦後処理の問題に対するソ連の参加を排除し、もっと実質的にロシア人を封じ込める絶好のチャンスだと判断した”という「一国独占主義」によるアメリカの朝鮮政策の決定過程は、見逃すことができないことだと思います。

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                      第一部 物語りの背景

                   第四章 坩堝(ルツボ)の中の対朝鮮政策  

             アメリカにおける一国独占主義と国際協調主義の対立 1943年─1945

 

 ヤルタとポツダム──宙に浮く信託統治案

 ・・・ 

 朝鮮に対するアメリカの戦時計画は複雑で矛盾に満ち、しかも明確性を欠いたものであるが、この状態は日本の敗戦の時まで続いた。国務省内に一致した見解などなく、あれやこれや競合的な多くの見解が混在していただけであったのは、1945年夏に編纂されたある一つの驚くべき文書を見れば明らかであるが、この中にはアメリカ軍が占領後朝鮮とった施策とは似ても似つかないいくつかの優れた試案が含まれている。つまり、米軍政庁がとった実際の政策は、この中に含まれている対立的な代案の中から賢明でない方を選び取った結果であったのだ。この文書のタイトルは「極東における戦争が終結したあとアジア太平洋地区で起こりうる情勢の予測と、アメリカ合衆国の目的及び政策」(An Estimate of Conditions in Asia and the Pacific at the Close of the War in the Far East and the Objectives and Policies of the United States)であるが、この文書はす「凡ての人民が自らの政府の形態を選択しうる権利」の保障を謳っている。この文書はその考え方においては反帝国主義と相通じるものを持っており、西欧諸国が「戦争、戦争の脅かし、そして相手の無知につけ込むやり方」を通じて行ってきたアジアに対する侵略の歴史を説いている。この文章では、日帝支配が終わった時の朝鮮における農村状況が的確に把握されており、朝鮮農民の大多数が日本人もしくは朝鮮人地主による「苛酷な搾取」の下に苦しんできた小作農である事実が指摘されている。また、これらの農民は恐らく「抜本的な農地改革を要求するだろうし、日本人であれ朝鮮人であれ、地主階級による支配体制を破壊するべく決定的な行動をとるのは疑いを容れない」ということが述べられている。この文書は、ソ連が朝鮮でどのような態度に出てくるかについて早まった予測を立てることをしていない。ただソ連はいわゆる「友好的政府」の樹立を欲するかも知れないが、これような政府は「非常にたやすく一般大衆の支持を受けるだろう」と予測し、それは「朝鮮が経済的に政治的に共産主義理念を受け入れるのに都合のよい状況にあるから」という指摘がなされている。そして朝鮮に関する章の終りに、アメリカは「朝鮮の軍政と過渡政府の両方に関わり」朝鮮人を助けて「安定した民主的独立国家」を樹立することに力を藉(カ)すべきだということを勧告している。しかしながら、この文章は、どのようにして反帝国主義とアメリカの東アジアにおける戦後目的とを合致させることができるのか、どのようにして抜本的農地改革をアメリカの利害関係及び民主主義の定義と一致させることができるのか、アメリカとソ連がどのようにして両者のいずれとも対立しない政府を朝鮮に樹立しうるのかについては言及がない。このような点に対する曖昧さがはっきりしてくるのは、それから先の様々な出来ごとまで待たざるをえなかった。

 

 戦後最初のコンテインメント(封じ込め)作戦──朝鮮の分断 19458

 太平洋における戦況からすれば、1945年の夏の時点では、アメリカが朝鮮問題に積極的に介入する可能性はそう大きくはなかった。日本本土(九州)に対する米軍の上陸作戦は大体111日を期して始まる予定になっており、朝鮮に注意を向けるのは本土が平定されたあとだというのが軍部の構想であったからである。19457月ポツダム会談のとき、軍事状況が無視できなくなった情勢の中で、もし朝鮮に対する侵攻作戦がとられるならその責任は全面的にソ連軍に任せるというのが事実上の考え方であった。ポツダム会談の記録を検討すれば、アメリカ軍の参謀たちは日本に対する軍事作戦にはソ連の参戦が必要だという点において、まったく見解が一致していたのが分かる。重要な文献の中の一つは「アジア大陸における掃蕩作戦に関して言うならば、満洲(もし必要があれば朝鮮)におけるジャップの一掃はこれをロシア人に任せるというのを目標とすべきである」とも述べている。括弧の中に言及されたような朝鮮における軍事行動については、724日で開かれた三国〔米英ソ〕軍事会談においてより明確に話し合われたが、その時米陸軍参謀総長マーシャルは、朝鮮で米ソの共同作戦が取られる可能性を問うたソ連側の、あの質問に対し、アメリカ上陸作戦について「何も考えておらず、特に近い将来にそれを決行する計画は全くない」と答えている。彼はまた「アメリカ側には朝鮮に対する上陸作戦に廻しうるほど攻撃船艇に余裕がなく、対朝鮮作戦の可能性は九州上陸が終わった後じゃないと決められないとも付け加えた。

 19456月の時点で、満洲と朝鮮にある日本軍の実勢は875千であるとアメリカの秘密文書を判断している(しかもアメリカ人は、満州にある関東軍には畏怖の念を抱いていた)。九州における日本軍の実勢は30万と考えられていた。後日このような判断は過大評価であったのが判明するのであるが、しかし朝鮮における軍事行動とこれに対するソ連軍の参加に関するアメリカ側の構想は、19457月の時点における彼等の情勢判断を抜きにしては考えられない。あのと、本土上陸作戦に要する人員の損失は甚大なものであろうと予期されていたが、満洲と朝鮮に対する侵攻作戦にはそれ以上の損失が要求されるものと考えられていたようである。したがってアメリカ人は満州・朝鮮における軍事行動とそれに伴う損失を、ソ連軍に引き受けさせたいと望んでいたわけだ。勿論ソ連軍のこの犠牲に対しては、それなりの代価を支払うというのがアメリカ側の肚づもりであった。これより数カ月前、マッカーサーはソ連が対日戦に参加した場合の結果について、次のように述べている。ソ連は「満洲・朝鮮の全域と、恐らく華北の一部をもその支配下に収めることを望むだろう。このような領土の占拠は避けられない。しかし、アメリカは、もし

ロシアが、これだけの報酬を得たいと望むなら、一日も早く満洲に対する侵攻作戦を開始することによって、その代価を支払うよう主張しなくてはならない」ポツダム会談の段階に至ってもアメリカの軍部はまだ、かりにソ連が実際に上記のような領土的な野心を抱いているにしても、それに相応する犠牲を払う限りにおいて、その野心を許容するつもりであった。というのは、彼らは「もしソ連がすでに絶望的状況にある日本に対して参戦に踏み切るならば、それが決定的な打撃となって日本は降伏せざるを得なくなるだろう」と考えていたからである。

 アメリカの軍部は、まさか日本が一夜のうちに崩壊するだろうとは予期していなかった。8月の最初の週に至ってさえ、広島と長崎に落とされた原爆と、ソ連軍の満州における迅速な作戦行動がどのような効果を持つものであるか、予測することができなかった。恐らくソ連もこのとき同じような状況であっただろう。ポツダムでソ連の陸軍参謀総長アレクセイ・アントーヌフは「ソ連の極東地区における目標は、満州にある日本軍を消滅させることと、遼東半島を占領することだ」と述べているが、この発言はあの時点でソ連が何を目ざしていたかをかなり明確に示したものといえるだろう。

 先ほども述べたように、当時の軍事情勢から考えて、ポツダムにおいては朝鮮の中立化についての合意は十分成立しえたと思われる。勿論両者間の合意がいかになるものであるせよ、それは朝鮮内における軍事行動がソ連軍の一手に任されるものであるという事情を考慮した上でのものであっただろう。もし討議が具体的に展開したとすれば、ソ連は参戦の代価として、朝鮮における自由行動の権利を要求したかもしれない。またしかし、もしアメリカが朝鮮問題に介入しないことを約束すれば、ソ連は朝鮮の国内に足を踏み入れないことに同意したかも知れない。ともかく、ポツダムにおいてのみならず、朝鮮内で軍事力を使用する問題が討議されたときは常に──19506月ワシントンのブレア・ハウス〔大統領の迎賓館〕会議のときまで──アメリカの軍部は、世界的な大戦の中で朝鮮半島はアメリカにとって何ら戦略的価値をもたないという立場をとり続けた。もし朝鮮の防衛任務も引きうけるならば、アメリカは自らの兵力を極限まで使い果たさざるを得ないし、防衛線を引くとすればもっと有利な地点が見つかるはずだというのがその理由であった。ある一部の自由主義的国際主義者たち(liberal internationalist)は、1940年代になされた朝鮮に対する決定をアメリカの軍部のせいにし、非難の矢をそちらに向けたいと思うかもしれないが、責任を負うべきは、むしろ政策担当官たちである。ポツダム会談の真最中、ニューメキシコ州のアラモゴード(Alamogord)で原爆実験が成功したという報に接するや、これこそはソ連と交わした外交的な約定をすべて反故にした上で太平洋戦争を短期間に終息させ、そして東アジアの戦後処理の問題に対するソ連の参加を排除し、もっと実質的にロシア人を封じ込める絶好のチャンスだと判断したのは、他ならぬこれら政策担当官や大統領側近の顧問ないし大統領自身であったのだ。アメリカ86日と9日、広島と長崎に続けて原爆を投下したが、ソ連は間髪を入れず、アメリカの予測していなかった軍事行動をアジア大陸で開始し──そして日本は崩壊した。このような目まぐるしい事態の直後、朝鮮に38度線が引かれ、南北二つの分割地区が米ソ連両国軍の占領下におかれることになる。

 北緯38度に線を引くというそもそもの決定は全くアメリカが下したものであって、この決定が下されたの810日の夜から翌11日の未明で続いた国務・陸軍・海軍の三省調整委員会(SWNCC)の徹夜会議のときであった。この会議の模様については幾つかの報告がなされているが、その中の一つを紹介すれば次の通りである。

 810日から11日にかけての深夜、チャールズ・H・ボンスティール大佐〔後に将軍として駐韓国連軍司令官に就任〕とディーン・ラスク少佐〔後にケネディ、ジョンソン両大統領の下で国務長官に就任〕は…… 一般命令(Gneral Order)の一部として朝鮮において米ソ両軍によって占領されるべき地域確定について文案を起草し始めた。彼に与えられた時間は30分であり、作業が終わるまでの30分間、三省調整委は待つことになっていた。国務省の要望は出来うる限り北方に分断線を設定することであったが、陸軍省と海軍省は、アメリカが一兵をだに朝鮮に上陸させうる前にソ連軍はその全土を席巻することができることを知っていただけに、より慎重であった。ボンスティールとラスクは、ソウルの北方を走る道〔県〕の境界線をもって分断線とすることを考えた。そうすれば分断による政治的な悪影響を最小限にとどめ、しかも首都ソウルをアメリカの占領地域内に含めることができるからである。そのとき手もとにあった地図は壁掛けの小さな極東地図だけであり、時間的な余裕がなかった。ボンスティールは北緯38度線がソウルの北方を通るばかりでなく、朝鮮をほぼ同じ広さの二つの部分に分かつことに気づいた。彼はこれだと思い、38度線を分断線として提案した。

 その場に居合わせたラスクの話も大体において以上の記述と一致している。ラスクの書いたものによると、マックロイ(SWNCCにおける陸軍省代表)は自分とボンスティールの2人に「隣の部屋に行って、アメリカ軍ができる限り北上して日本国の降伏を受諾したいという政治的要望と、そのような地域にまで進出するにはアメリカ軍の能力にはっきりした限界があるという二つの事実を、うまく調和させる案を考えて欲しい」と求めたという。以上二つの述懐の中で注目すべき大事な点は、朝鮮分断に関するこの決定の性格は本質的に政治的なものであって、しかも国務省の代表はこの分断をもって朝鮮を二つの勢力圏に分割することの政治的利益を主張したのに反し、軍部の代表は朝鮮に足がかりを確保するだけの兵力は無いかも知れないということについて注意を促したという事実である。

 ラスクの言によると、38度線は「もしかしたらソ連がこれを承諾しないかも知れないということを勘案した場合……アメリカ軍が現実的に到達しうる限界をはるかに越えた北よりの線」であったのであり、あとからソ連がこの分断線の提案を承諾したと聞いたとき、彼は「若干驚きを感じた」ということである。もう一つの説明によると、アメリカの提案がソ連に伝達されたあと、ソ連が果たしてどう返答するだろうかについて、アメリカは「暫くの間落ち着かない状態」にあったのであり、もし提案が拒否された場合は、構わず米軍を釜山に急派すべきだという意見もあったという。こう考えてみると、38度線の選定は、ソ連の出方を試そうとするはっきりした意図を含むものであったことが分かる。ソ連軍は南下を停止するだろうか。このテストはうまく目的を果たしたと言うべきだろう。ソ連軍が朝鮮に侵入したのはアメリカ軍が上陸する一ヶ月前のことであり、もし彼らがそう欲したとすれば、ソ連軍は簡単に朝鮮半島の全土を入手しうる立場であった。しかし彼らはアメリカに与えた同意事項を遵守した。そのためにアメリカ軍はおくれて来たにも拘らず首都ソウルと人口の三分の二、それに軽工業の大部分と穀倉のほとんどを含む地帯をその占領下に収めることができた。このような結果をもたらした議論の席に、D・ラスクのような根っからの封じ込め政策の信奉者が参加していたの思い返すと、成る程という気にならざるを得ない。それより20年あと、「ベトナムにおける」17度線の不可侵性はどんな事があっても回復しなければならない」と執拗に主張しつづけたのはラスクであった 。

 スターリンがアメリカとの合意事項を遵守したのは、それなりの理由があったと思われる。38度線の目的は、代価として得られるはずの勢力範囲を厳格に規定することであると、彼は考えたに違いない。歴史を遡って見れば、ロシア人と日本人は1896年〔日清戦争終結の翌年〕、38度線を境界線として朝鮮を分離する交渉を進めたことがあり、同じような交渉は再度1903年〔日露戦争の前年〕にも行われた。スターリンは1945年、日露戦争で失われたロシアの権益は回復されなくてはならないと、はっきり言明している。アメリカと同様、ソ連もまた、自国に対して友好的な、統一された朝鮮の方がより好ましいと思っていたかも知れない。しかしたとえ朝鮮が分断されたにしても、それがソ連に対する攻撃の基地とはならないことが保障される限り、ソ連の基本的な安保の利害は充足されると考えただろう。ウィリアム・モリスが論じたように、朝鮮おけるソ連の動きにスターリンが制約を加えたのは、連合軍との協調関係を維持したいという考えからであったのかも知れない。ともかく理由はなんであれ、スターリンにとって朝鮮は完全に自らが軍事的に支配しうる国であったにも拘らず、彼はアメリカに対し共同行動を許容したのであった。

 朝鮮はいわばつい何日か前、ポツダムで事実上ロシア人に譲り渡した国であったわけであるが、突然日本が崩壊したことにより、アメリカ軍は予期さえもしていなかったチャンスをつかんで朝鮮に侵入することができた。この短い期間中に二年間にわたる戦後朝鮮に関するアメリカの計画にいつもつきまとっていた曖昧さが一気に解消したようなものだ。軍事戦略がより確実な方法であり、共同管理や信託統治は信頼性に欠けるというわけで、軍隊が現場に急派されるということになった。この決定は8月中旬のあるどさくさの中で取られたいわば突発的な、ある意味においては軽率とさえ言ってよいものであるが、しかしすでに194310日月時点で、朝鮮半島の支配を太平洋の安全に関連付けて考えていたアメリカの計画からすれば、全く辻褄の合った論理的な帰結であった。全面的にソ連の手中にある朝鮮は、太平洋の安全に対する脅威と見なされていたのである。朝鮮に軍隊を派遣するという決定は、「単に」日本軍の降伏を受諾するための便宜上のものであったというのが、1945年以来、アメリカが一貫して口にしてきた公式的な弁明であるが、実際においてこのような弁明は、一体何が当時問題であったかという点をぼやかし、糊塗するものだと言えよう。東アジアにおける国際的な力関係の発展は、どの国が、どこで日本軍の降伏を受諾するかということと密接な繋がりを持っていたのであり、またこのことは「軍事的な勝利が現地の政治を左右する」という原則に基づくものであった。

 かくして朝鮮を舞台とする第一回戦は一国独占主義の勝利に終わった。もしも国務省が、以前はアメリカの関心外の 遠い周辺地域に過ぎなかった朝鮮半島を、戦後における太平洋の安全に不可欠なものと規定しなかったとすれば、国際協調主義者たちの意見が通ったのかもしれない。すでに見てきたように、いざというときになるといつも現実主義者となる軍部の参謀たちは、もしソ連が逆らえば朝鮮半島を占領しうるような兵力は、アメリカにはないということを熟知していた。ところが国務省は、ソ連軍の南下を食い止めるという政治的な目的のために、軍に対しできる限り半島の北方に兵を集めるよう要求した。要するに国務省は、ソ連を排除し、朝鮮の全土を独り占めにするという二つの目的を同時に達成したいと望みながら。19458月、実際に手に入れることができたのは、望んだものの半分にすぎなかった。

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アメリカの軍政と朝鮮戦争

2025年02月19日 | 国際・政治

 先日朝日新聞は、韓国の弾劾審判で、当時の軍司令官が証言をしたことを、下記のように伝えました。

 ”郭種根(クァクジョングン)陸軍特殊戦司令官は昨年12月の非情戒厳の際に尹大統領から直接電話を受け、「議決定足数が満たされないようだ。早く国会の扉を壊し、中にいる人員を引きずりだせ」と指示されたと述べた。

 韓国の情勢を踏まえれば、軍司令官が尹大統領を陥れるために、そういう事実をでっち上げることは考えにくいと思います。

 また、尹大統領が、国際社会を驚かせるような「非情戒厳」を宣布したこと自体も、戦後のアメリカの欺瞞的な軍政の影響と無関係ではないと私は思います。

 だから、今回は、「鮮戦争の起源 1945年─1947年 解放と南北分断体制の出現」ブルース・カミングス 鄭敬謨/林 哲/山岡由美「訳」(明石書店)から、当時韓国で、「自民族を裏切った利敵分子」とか「親日売族分子」などと受け止められていたような右派の人たちが、日本の敗戦後まもなく、「韓国民主党」を結成し、アメリカに取り入って、”おのれ財産を守り”、”懲罰を免れ、あわよくば日帝時代この方の社会的影響力をこれから先も持ち続けよう”としたと考えられる部分を抜萃しました。

 

 前回も触れましたが、アメリカは「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする決意を有する」という内容を「カイロ宣言」に入れておきながら、すでに建国されてされていた「朝鮮人民共和国」を受け入れず、逆に否定し、関係者を排除する軍政を敷いて、朝鮮を分断する占領行政を行いました。

 その時、メリカ軍政庁が、どういう人々と手を結んだのか、歴史家ブルース・カミングスは、具体的に、名前まであげて明らかにしています。その大部分が、朝鮮を植民地とする日本と手を結び、かつて「鬼畜米英」の戦争を煽った「親日売族分子」と呼ばれるような人たちであったということ、そして戦後、手のひらを返したように、アメリカの占領行政に協力するようになった人たちであったということを忘れてはならないと思います。 

 アメリカは、本来戦犯に問い、公職を追放すべき右派の人たちの戦争犯罪に目をつぶり、朝鮮独立を達成しつつあった「朝鮮民主共和国」の推進者達を犯罪者扱いする欺瞞的な占領行政を行ったということもできると思います。

 

 そればかりでなく、アメリカは、戦後の朝鮮に関し、ソ連に分割占領を提案しておきながら、1948年の第三回国連総会を主導し、南の大韓民国のみが国連の認める唯一の正統政府であるとするような「総会決議195号Ⅲ」を採択させているのです。

 さらに、その総会決議を背景として、国連軍を組織し、国連を巻き込んで、朝鮮戦争に介入していったということ、そして それがその後の日韓条約に受け継がれていったことを、私たちは忘れてはならないと思います。

 

 膨大な一次資料を駆使し、戦後の朝鮮や朝鮮戦争の内実を明らかにしたブルース・カミングスの「鮮戦争の起源」が、韓国社会に大きな衝撃を与えたので、韓国では「禁書」とされたということが、尹大統領につながる韓国保守政党の本質をあらわしているように、私は思います。

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                       第一部。物語の背景

                  第三章 革命と反動──19458月から9月まで

 

 朝鮮人民共和国(人共) 

 ・・・

 914日の人共宣言文は次のようにのべている。

 日本帝国主義の残存勢力を完全に駆逐すると同時に、われらの自主独立を妨害する外来勢力と、反民主主義的凡ての反動勢力に対する徹底的な闘争を通じて完全な独立国家を建設し、真の民主主義社会の実現を期するものである。

 ・・・

 

 人民共和国」に対する反対

  ・・・

 韓国民主党は、解放後数ヶ月にして右翼を支える支柱的な存在として浮上し、米軍政の全期間を通じて、最大最強を誇る右翼政党として存続した政党である。韓民党は自らを「愛国者、著名人士、及び各界の知識人」の政党として規定したのであるが、この規定はある程度真実を語るものであると同時に、この集団のエリート意識を示すものである。左翼と中道穏健派はこの集団を資産家と知識人、愛国者と裏切り者、そして「純粋分子」と「不純分子」との混交物だと評した。大衆により容易に受け入れられそうな人物が全面に出されていたが、これはおのれ財産を守り通そうとする地主階級と、日帝支配から民族の独立へと移り変わる過渡期に処して、懲罰を免れ、あわよくば日帝時代この方の社会的影響力をこれから先も持ち続けようとする親日分子らをかばうための風よけだというように、一般からは受け止められていた。後のアメリカ側の資料には、韓民党は「主として大地主と富裕な企業家たち」の政党であると規定されている。韓民党創党大会に参席したあるアメリカ人は、そこに居合わせていた人たちの衣服がきらびやかであった点から、これは「金持ちの徳望家たちの政党であろう」と感じたとの証言を残している。

 

 韓民党は端的に言って、金性洙(キムソンス)と宋鎮禹(ソンジヌ)の支配下にある地主勢力、企業家、そして新聞・雑誌等言論機関の集まりがその主力である。このグループはしばしば湖南財閥の名で呼ばれるものであるが、これは第1章ですでに論じた地主企業家の集団に他ならない。このグループの人々は1920年代にさかのぼり、日本に対しては改良主義的な漸進的抵抗を試みた人々であるが、しかし日中戦争が始まった頃はそのような抵抗意識も枯渇してしまい、それと同時に総督府当局は、日本の朝鮮皇民化政策に協力するよう彼らに強力な圧力を加え始めた。このグループの連中を、自民族を裏切った利敵分子と呼びうるかどうかは、言葉の定義と、見る人の視角如何によるだろうと思う。宋鎮禹ような人物は、恐らく伝統的支配階級としての自らの正当性の根拠を、回復しないえない程度にまで汚してしまったといえないような人物であろう。彼が戦時中、積極的に日本人に協力したという批難もあるが、それについての文献上の証拠はない。一方、彼が示した抵抗の姿勢というのは、せいぜい病と称して表に出なかったという、如何にも無気力で消極的なものであったが、しかしこの程度のものであれ、保守的で伝統的な思考の朝鮮人からすれば、それは彼の地位にふさわしい愛国的な行為であったと見られるたかもしれない。金性洙が1940年代の初め頃から、演説とか寄付を通じて、そして総督府中枢院に身をおくことを通じて、積極的に日本人に協力したことについては疑問の余地がない。にも拘らず、呂運亨(ヨウニョン)は建準の創設に加わってくれるよう、数回にわたって金性洙一派に協力を要請した。公平に言って、彼らが解放後の朝鮮の政治に参与する程度のことであれば、国内外を問わず果敢に日本に抵抗した人たちを含めて、あまり反対はなかったかもしれない。しかし、新しい国造りに彼らが支配的な地位を占めるようなことは到底ありえないこととして猛烈な反対に逢ったであろうことは明らかである。一人の人間が個人として、日本人の圧力に屈したということはとも角として、それらが何ら自分の前非を反省することなく、恰もあたかも過誤は無かったかのように大手をふって解放後の社会でのさばるのは許せないというのが当時の通念であったろう。

 

 韓民党指導層のは中には、否定しえない、しかもより罪科の重い対協力の経歴をもつ人がかなりいた。例えば普成専門学校の教授張徳秀であるが、彼は戦時中、日本の「聖戦」を讃めたたえる数多くの演説を行い、李光洙(イグァンス)、申興雨(シンフンウ):ヒュー・シン)、崔麟(チェリン)、崔南善(チェナムソン)等々、著名な親日売族分子らと共に公開の席上に姿を見せたりしていた。また、京畿道(キョンギエド)の「愛国国民義勇隊」を指導していたようである。1947年暗殺されたとき、彼の狙撃者は、張徳秀の罪状をあばき、彼が日本軍の司令部付き顧問を務め、朝鮮人政治犯や「思想」犯の「再教育」のために運営されていた「大和塾」の指導者であったことを糾弾している。レナード・バーチ〔中尉〕は、恐らく当時の米軍政庁の中で朝鮮の政治情勢に最も通暁していたアメリカ人であったが、彼は張徳秀について次のように述べたことがある。「彼はアメリカの蛮行を口を極めて罵りつつ、衷心から日本人に協力した男であるが、今度は〔1946年〕アメリカ人に衷心から協力している。次に衷心から協力する相手はロシア人だろう」。韓民党のもう一人の指導者金東煥(キムドンファン)は、日本人の戦争努力を鼓舞讃揚する演説と、朝鮮人に対する熱心な動員活動をもって鳴らした人物であるが、程度の差こそあれ、日帝と協力した前非を糾弾されるべき韓民党の重鎮の中には、この他にも白楽濬(ペクナクチュン)、朴容喜(パクヨンヒ)、兪鎮午(ユジノ)、徐相日(そサニル)、李勲求(イフング)等が含まれる。韓民党指導者の凡てが親日協力の汚点を持っているわけではないが、しかし彼らの愛国的経歴は、人民共和国指導層のそれに比べると、全く見劣りするものであった。

 

 富裕な朝鮮人は、そう積極的に公然と日本の皇民化政策に同調しなかった人でさえ、一般大衆の心の中では日本人と結びつけて考えられた。前章で論じたように、多くの朝鮮人にとって、植民地主義と資本主義がいずれも、平穏なそして自足的な伝統的朝鮮の経済と社会を破壊し、崩壊に追い込んでいった日本の侵略を象徴するものであった。日帝程時代は、しばしば屈辱の思いを込めて「資本主義段階」というふうに呼ばれるばかりか、資本家となった朝鮮人自体が機会主義的成り上がり者か、日本人の手先となった卑劣漢のように思われた。従って資本主義は、伝統的思考に浸ったまま、古(イニシエ)の平穏な自足的経済体制を回復しようとする反動主義者からも、また社会問題の解決策を社会主義の中にみつけようとする進歩主義者からも、同時に反対をうけ挟み打ちにされるということになった。社会の一般的風潮がこのようであったことから、資本主義的所有の形態を解放後も引き続き維持しようとする朝鮮人は、大変な困難に直面せざるをえなかった。

 韓民党の構成員の中には、産業分野と教育界、それに植民地統治機構の中で枢要な地位を占めていた人々が含まれていた。金度演は朝鮮工業株式会社の取締役をしており、趙炳玉(チョピョオク)、は初期民族主義運動の指導者であったが、1937年から45年まで宝仁(ポイン)〔音訳〕鉱山株式会社の重役を務めていた。閔奎稙(ミンギュシク)は朝鮮屈指の大銀行である朝興銀行の重役であり、金東煥は大東亜株式会社の社主であった。趙鍾国(チョジョンググ)は製薬界の大物であり、金東元(キムドンウォン)は平安商工株式会社の社長、張鉉重(チャンヒョンジュン)は東亜企業を経営していた。教育界の重鎮で、韓民党に名を連ねていたのは、金性洙、 白楽濬、李勲求、白南薫その他である。後述する通り、朝鮮人として日帝の植民地統治機構で高位の職についていたものらも多数、韓民党と密接な関係を結んでいたが、1945年の秋の時点ではその関係を公然と明らかにしなかった。その理由は説明にも及ぶまい。しかし日本人によって任命されていた道や市レベルの顧問役等は、韓民党は大っぴらに党員としてこれを公表した。その中に含まれているのは、李鳳九(イボング)、裵栄春(ペヨンシュン)、千大根(チョンデグン)、鄭順錫(チョンスンソク)、李鍾圭(イジョンギュ)、李鍾駿(イジョンジュン)などである〔以上凡て音訳〕。これらの大部分は地主であった。実際、米軍情報機関が蒐集した個人的なデータと照らし合わせてみれば、韓民党メンバーの圧倒的多数は、地主か、企業家か、或いはさまざまな種類の事業主であった。

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米軍の韓国占領行政と右翼

2025年02月14日 | 国際・政治

 下記は、「ニッポン日記」マークゲイン:井本威夫訳(筑摩書房)から「第三章 決裁の時期」の「1948年 53日 ニューヨーク」を抜萃した文章です。

 70年以上前のことですが、現在につながっている重要な問題です。

 

 ふり返れば、「カイロ宣言」は、日本の降伏を見通して、1943年12月1日、アメリカ大統領・ローズヴェルト、イギリス首相・チャーチル、中国主席・蔣介石の三人が署名した宣言ですが、下記のように内容でした。

各軍事使節は、日本国に対する将来の軍事行動を協定した。

 三大同盟国は、海路、陸路及び空路によつて野蛮な敵国に仮借のない圧力を加える決意を表明した。この圧力は、既に増大しつつある。

 三大同盟国は、日本国の侵略を制止し罰するため、今次の戦争を行つている。

 同盟国は、自国のためには利得も求めず、また領土拡張の念も有しない。

 同盟国の目的は、1914年の第一次世界戦争の開始以後に日本国が奪取し又は占領した太平洋におけるすべての島を日本国からはく奪すること、並びに満洲、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還することにある。

 日本国は、また、暴力及び強慾により日本国が略取した他のすべての地域から駆逐される。

 前記の三大国は、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする決意を有する。

 以上の目的で、三同盟国は、同盟諸国中の日本国と交戦中の諸国と協調し、日本国の無条件降伏をもたらすのに必要な重大で長期間の行動を続行する。”

 

 そして、1945726日のポツダム宣言(日本降伏のため確定条項宣言)で、下記のような内容をつけ加えました。

(6)日本の人民を欺きかつ誤らせ世界征服に赴かせた、 全ての時期における 影響勢力及び権威・権力は永久に排除されなければならない。従ってわれわれは、世界から無責任な軍国主義が駆逐されるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能であると主張するものである。

(7) そのような新秩序が確立せらるまで、また日本における好戦勢力が壊滅したと明確に証明できるまで、連合国軍が指定する日本領土内の諸地点は、当初の基本的目的の達成を担保するため、連合国軍がこれを占領するものとする。

(8) カイロ宣言の条項は履行さるべきものとし、日本の主権は本州、北海道、九州、四国及びわれわれの決定する周辺小諸島に限定するものとする。

 

 連合国軍が占領するのは、「日本領土内の諸地点」であって、南朝鮮に米軍を派遣する規定はありません。でもアメリカは「連合国軍」の名目で軍を派遣し、南朝鮮で必要のない「軍政」を敷きました。そして、アメリカ単独の占領行政を開始しました。それは、アメリカのための占領行政で、カイロ宣言やポツダム宣言に反する占領行政だったと思います。

 なぜなら、朝鮮ではすでに「朝鮮人民共和国」が建国されていたからです。

 でも、アメリカは、アメリカの「利得を求め」、「朝鮮人民共和国」を受け入れなかったばかりでなく、その関係者を排除して、植民地下の朝鮮で日本に協力した戦時中の朝鮮支配層と手を結び、また、日本ではレッドパージで組合関係者を中心とする左派的な人物やその指導者を排除したばかりでなく、戦犯の追放を解除して、戦争指導層と手を結ぶという反共的占領行政を行ったのです。

 アメリカが「駆逐」したのは、「人民を欺きかつ誤らせ世界征服に赴かせた軍国主義者」ではなく、「朝鮮人民共和国」の建国に尽くした民主主義者や、日本の民主化を実現しようとした人たち及びその指導者たちだったのです。

 それは、下記のような記述でわかります。

 

 例えば、

中国人や日本人や朝鮮人を裨益(ヒエキ)する進歩的政策を促進するよりは、むしろわれわれはソ連の影響を「牽制」することに日増しに多大の関心を払うようになっていった。

 とか、

われわれは、われわれが支持した政治家たちは腐敗し、かつ非民主的だったということを素直に容認した。またわれわれは、これらの男たちは進歩的革新を行おうともせず、また行いえないということも認め、さらにかかる進歩的革新なしには国内の不安は増大をつづけるだろうということも、すすんで容認した

 とか、

メリカの新しい塑像は、反動と手を握り、共産主義であれ、社会主義であれ、はたまた不正義、腐敗、抑圧に対する単純な抗議の運動であれ、中央から少しでも左によった大衆運動はことごとく鎮圧する決意を固めた強力な、富裕な、そして貪欲な国家の塑像である。

 というような記述です。

 

 そして朝鮮戦争停戦後、ソ連軍は1950年代に順次撤退したのに、米軍は駐留を続け、現在にいたっているのです。アメリカは、自ら署名したカイロ宣言ポツダム宣言を守らず、”同盟国は、自国のためには利得も求めず、また領土拡張の念も有しない。”と約束したのに、現在も朝鮮や日本に広大な軍事基地をいくつも設置して、現実的に「反共の防壁」として機能させていると思います。

 だから、そんなアメリカと、”「力強く、揺るぎない日米同盟」のさらなる強化を行っていく”などという石破政権は、法や道義・道徳を尊重しない政権であることは否定できないと思います。  

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                        第三章 決裁の時期

 1948

 53日  ニューヨーク

 1945年晩秋の一日、サンフランシスコから西へ飛び立ってから、私はアジアの三主要国でわが外交政策が実地に展開されるのを注視する機会を持った。日本、中国、そして朝鮮、この三国におけるわが政策の型(パターン)は何ら異なるところがなかった。

 たとえば、三国のいずれの国においても、われわれは消極的政策を追従した。中国人や日本人や朝鮮人を裨益(ヒエキ)する進歩的政策を促進するよりは、むしろわれわれはソ連の影響を「牽制」することに日増しに多大の関心を払うようになっていった。

「牽制」という名の下に、われわれはこの三国で極右派と手を握った。右翼とその親疎の程度は、もちろん国によって異なりはする。日本ではわれわれは最上の記録を持っている。なぜならわれわれは進歩的な政策で出発したし、1947年─8年のある期間には、比較的進歩的な内閣を通じて働きかけたからである。しかし、この差異は、わが政策の型(パターン)を変えるものではなかった。われわれは、日本では吉田というような男、朝鮮では李承晩というような男、そして中国では国民党の極右翼と同盟した。

 これは自ら破産を招く政策だった。われわれは、われわれが支持した政治家たちは腐敗し、かつ非民主的だったということを素直に容認した。またわれわれは、これらの男たちは進歩的革新を行おうともせず、また行いえないということも認め、さらにかかる進歩的革新なしには国内の不安は増大をつづけるだろうということも、すすんで容認した。下院外交問題小委員会の報告はおそらくこの典型的な容認を示すにいたるであろう。

中国では、たとえ不道徳でも自由な政策を持つことのほうが、どんなに純血で道徳的であっても共産勢力の支配下にある敵対的な政府をもつよりも、米国にとってははるかに望ましい……」 

 それは無益なそして高価な政策だった。なぜなら、われわれが保護すると声明した国民の福祉を無視した政策だったからである。それは封建的な観念と体制を通じて共産主義と戦おうと企てたのだから、二重にも無益な政策だった。中国、朝鮮における社会的不満は、封建的な土地所有制度によってはぐくまれる。中共軍の兵や南鮮の無数の暴徒は、生きるに万策つきた小作人の群れなのだ。日本ではわれわれは農民を解放しようとこころみた。しかし実際は、天皇を頂点とする封建的上部構造はまったく手を触れられずに残された。

 いずれの三国においても、共産主義者たちは反抗運動と連盟した。しかし、もし共産主義者がいなかったなら、朝鮮や中国に農民の暴力蜂起が起らなかったと考えるのは無邪気すぎる。

 一世紀半のあいだ、米国は自由と進歩思想の象徴であった。アジアにおいては、今度の戦争中ほどこの象徴が燦然と輝いていたことはかつてなかった。ところが、わずか三年たらずして、われわれはこの善意の宝物をつまらなく使い果たしてしまった。アメリカの新しい塑像は、反動と手を握り、共産主義であれ、社会主義であれ、はたまた不正義、腐敗、抑圧に対する単純な抗議の運動であれ、中央から少しでも左によった大衆運動はことごとく鎮圧する決意を固めた強力な、富裕な、そして貪欲な国家の塑像である。

 

 力と鎮圧は不安状態への解答たりえない。その解答は進歩せる社会革新である。もしわれわれがこれを提供したのだったら、われわれはなにも共産主義もソ連もおそれる必要はなかったであろう。「降伏日本に対する第一次政策」を書いた人々は、この事実を理解していた。ワシントンで引き継いだ人々や実施にうつした人々は、この事実を理解しなかった。

 その結果、われわれは中国でも朝鮮でも失敗したように、日本でも失敗した。

 中国や朝鮮でわれわれが成功したのは、単に憎悪の予備軍を製造したことだけだった。今日盲人だけが、中国や朝鮮における共産主義の勝利の可能性を否定しうる。

 大審院判事ウイリアム・ダグラスは、最近こう言った。

「われわれの最大の過誤は、わが交政策を反共主義という限度においてのみ形成せんとすることであろう。もしこの条件をみたす以上のものをわれわれが何もしないとすれば、われわれは悲惨な失敗をするであろう。けだしわれわれは、共産主義の怪物を罵り騒ぐにとどまり、共産主義を繁茂せしめる条件を除去する何ものをもなさぬからである。この進歩をたどれば、われわれのえらびうる唯一の結果として、ただちに戦争状態が出現するであろう」

「牽制」政策や「強硬」政策が、それ自身破産政策であることはすでに立証されている。かかる政策は、自らの国民から反対され、わずかにわれわれの尻押しで生存をつづける封建的な非民主的な男たちや党派と、われわれを同盟せしめてしまった。こうした同盟に基礎をおく軍事的、もしくは、政治的体系は腐朽した支柱に依存するものに他ならない。それはとうてい共産党の政策やスローガンの動態に拮抗しうるものではない。

 われわれは過去においてもいくたびか重大な危機を経験した。しかしその都度われわれアメリカの国民は、国家政策の方向を掌握し直して誤らなかった。この過去のいくたびかの危機のうち、現在わが外交関係を惑乱せしめているこの危機にまさる重大さをもった危機はほとんどないでだろう。これは行動を要求する時期である。それはまた偉大さを要求する時期である。けだし、機を失せずして政策を転換しうるならば、われわれはいまなお平和を救いうるであろうからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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GHQの政策転換「逆コース」NO2

2025年02月09日 | 国際・政治

 下記は、「ニッポン日記」マークゲイン:井本威夫訳(筑摩書房)から、「第二章。実施の時期」の「1946年 528日 東京」抜萃した文章です。

 マーク・ゲインは、シカゴ・サン紙の東京支局長で、占領下の日本を取材し、軍人や体制を支える政治家、官僚、企業関係者などとは明らかに異なる視点で、一般人は知り得ないGHQの取り組みを捉えています。

 だから、戦後の日本や日米関係を正しく理解するためには、欠かせない一冊であり、多くの研究者や学者が、彼の記述を引用しているのだろうと思います。

 

 前回も触れましたが、連合国軍が日本領土内の諸地点を占領するのは、「ポツダム宣言の執行」が目的でした。でも、米軍のウィロビーを中心とした参謀第2部(G2)は、全く異なる目的をもって臨んでいるのです。

 それは、”ポツダム宣言はいつ追放を実施すべきかということについては何にも言及していない”とか、”ポツダム宣言は不可侵の文書ではない”とか”ポツダム宣言よ、地獄へ行け!”と吐き捨てるような主張までして、ポツダム宣言の遵守に抵抗していることで分かります。

 

 そして、戦争犯罪人の公職追放が、”占領軍は現在追放実施の招く混乱を賭しうるだけの兵力を持っていない”とか、”彼らは確かに戦争犯罪人か”という疑問まで語って、追放が、”日本の最良の頭脳を敵側におき、アメリカのためにならない”と言うのです。

 見逃せないのは、具体的に名前をあげて、日本の「セメント王」浅野良三を追放させないような主張をしていることです。 マーク・ゲインは、彼が、 連合国軍官への壮大な宴会供給者であってことを見逃しませんでした。

 

 思い出すのは、岸信介元首相が巣鴨プリズンに拘束されいているとき、すでに、「アメリカとの協力は可能であり、自分は釈放されて政界に復帰できる」と確信していたということです。

 冷戦が勃発し、米ソの対立が深まっていることを察知した岸信介元首相は、「反共」の立場でアメリカとの協力が可能であり、アメリカの役に立てると考えたのだと思います。

現に、ウィロビーを中心としたGHQ参謀第2部(G2は、民政局(GS)から主導権を奪い、彼を釈放してれ公職追放を解除しただけでなく、首相に就任させたのだと思います。だから、「逆コース」の政策転換は、ポツダム宣言違反への政策転換であったと言えるように思います。

 アメリカは、親米的でありかつ「反共」であれば、相手が独裁者であろうが、テロリストであろうが、日本の戦犯のような「戦争犯罪人」であろうが、手を結ぶということだと思います。中南米やアフリカ諸国でも、似たようなことがくり返しおこなわれてきたと思います。

 「岸信介」は、かつて「鬼畜米英」を煽った戦時東条内閣の商工大臣であったことを、私たち日本人は忘れてはならないと思います。

伊藤貫教授は、陰謀論を語っているのではないと思いますし、トランプ大統領は民主主義の破壊者であるというような主張こそ、問題だと思います。

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                             第二章。実施の時期

1946

  528日  東京

 日本の経済界から戦争犯罪者を追放する指令を成文化するため、総司令部のほとんど全部局合同の会議が4日前に開かれた。総司令部のマッカーサーの部屋から呼べばこたえるるほどの距離にある農林省ビルディングの506号が会場にあてられた。昨日のダイクの演説同様、この会議も日本占領史の一里程標として永く残るべきものである。

 会場はすこぶる暑かった。そのうえ、はげしい論争がいやがうえにも会場の空気をあつくした。少なくとも6人の男があとで私のところへやってきて、会議の模様を憤慨して話すのだった。その憤慨はまったくもっともだった。侵略の資金をまかなった連中の追放を躊躇するなどは、とんでもない話である。しかしさらに遺憾なのは、この会議で「アメリカの緩衝地帯日本」とか「最上の同盟者を殺すな」とかいう考え方の再興が最高潮に達したことだ。会議のテーブルの上に置き去られたたくさんの残骸の中には、「日本国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出ずるの過誤を犯さしめたるものの権力および勢力は永久に除去されなければならない」というポツダム宣言の誓約もあった。

 政界人追放を議題とした昨年の会議同様、今度の会議も開会早々二つの調和しがたい陣営に分裂してしまった。一は参謀本部の四局──G1(人事)G2(情報)G3(計画並に作戦)G4(補給)──を包含する鞏固な団結で、軍部外の外交局や民間通信局などもこれに味方した。この未曽有の論争の反対陣営にややバラバラに整列したのは、事実上日本の行政をつかさどっている三局──ダイク准将のCIE、ホイットニイ准将の民生局、マーカット准将の経済科学局──の代表者たちだった。

 会議は調和音に始まった。ポツダム宣言がたしかに追放を規定していることは全員これを認めた。しかし、一致はこの点かぎり終焉した。軍側を代表する一人は、ポツダム宣言はいつ追放を実施すべきかということについては何にも言及していないと述べた。他の一人は「現存する事態下で」のポツダム宣言の効力について疑義をとなえた。国務省の役人でアチソンの右腕といわれるマックス・ビショップは、「ポツダム宣言は不可侵の文書ではない」と述べてこの見解を支持した。

 わが友クレスウエル大佐は軍側でもっとも積極的な発言者だった。

 「ポツダム宣言が世論や激情やその他の感情の圧迫をこうむることなしに、今日ふたたび書かれるとしたら、それはまったく異なったものとなるだろう」と述べ、そこで彼は思索的考察から一転して激越な語調で、

「ポツダム宣言よ、地獄へ行け!」とつけ加えた。

 この二つの陣営への分裂が明瞭となるや、軍側の陣営は日本の経済から有能な人物を取り去ってしまうような危険をおかすことはできないと言い始めた。ある将校は言った。

「いま日本の産業を職工長たちにわたしてしまうわけにはいかない」

 チェーズ・ナショナル・バンクの副頭取で、現在総司令部民間通信局長の任にあるJD・ホイットモアはこう言った

 この指令を出してみたまえ、全通信産業は大混乱におちいるだろう」

 クレスウエルは、追放に関するこの覚書草案は「時期尚早」で、マックアーサー元帥は「この指令がもたらすおそれのある混乱について熟考すべきであり、「この追放はあらゆる練達堪能の人々」を産業・金融界から「駆逐してしまう」と言い張った。

 G3代表の一大佐はこの問題を戦略的根拠からとりあげた。

「占領軍は現在追放実施の招く混乱を賭しうるだけの兵力を持っていない」

 やがて、「混乱」論は「彼らは確かに戦争犯罪人か」という議論におきかえられた。

 クレスウエルは、ポツダム宣言および類似の諸声明の基本的な欠点の一は、軍需品を製造した者はみな軍国主義者だという仮定であると言った。さらに彼は、

「一月の政界人追放の結果を見るがいい。大政翼賛会(戦時中の全体主義政党)や類似団体に属した者の活動を制限するためだけに彼らを公職不適格にしたようなものじゃないか」とつけ加えた。

 先に発言したG3の大佐もつづいてこの指令は「日本の最良の頭脳を敵側におく」ものだと言い、ビショップもこれに和して、これはアメリカのためにならないと言った。(「この追放は軍国主義に反対した人々の多くにも適用されることになるかもしれない」)。

 クレスウエルは、

「この指令によると浅野良三も追放されるそうだが、私は彼が追放されるべきでないことをたまたま承知している」と言った。日本の「セメント王」アサノは大軍需産業家の一人で、また海外膨張の勇敢な戦士でもあった。敗戦後の彼は、連合国軍官への壮大な宴会供給者である。

 ほかの将校たちも「不当にも」追放されるかもしれない財閥関係者の名前を進んで列挙した。  

 しかし、こうした議論のどれよりも、次の三つの発言は日本の政治の新しい気象配置を示度するバロメーターとして私に衝撃を与えた。

 クレスウエル大佐「強力な日本を必要とする時期がくるかもしれない」

 第二の大佐「われわれは日本経済を実験の具としてはならない」

 その三「軍人追放の結果を反省してみるがいい。ただわれわれの戦略的地位を弱化しただけではなかったか」

 日本経済改革の高遠な理想を放棄することや、あけすけに日本再武装論をやることだけでは、もはや事足れりとはしないのだ。ある人たちは日本軍隊の解体さえ誤りだったとまで考えるようになった。日本降伏の7カ月前開催された太平洋問題調査会の会議に出席した英国保守党の一代表のように、この大佐たちは「混乱期における安定勢力としての」日本軍隊の消滅を明らかに後悔している。

 

 

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