下記は、「南北統一の夜明け 朝米関係の軌跡をたどる」鄭敬謨(技術と人間)からの抜萃です。 選挙が近づくと「北風」が吹くという韓国で、尹大統領の「非常戒厳」宣布が、そうした過去の出来事と無関係であるのか、また、ブリケン前国務長官が知らされていなかったと発表したことがほんとうなのか、私は疑問に思います。そういう意味で、アメリカの支援を受ける韓国の政権の実態を知ることができる下記のような鄭敬謨(チョンギョンモ)氏の記述は、見逃すことができない大事な記述はないかと思います。SNSの情報と異なり、経歴や身分を明らかにして、著書に出鱈目なことを書くとは思えないからです。
でもその前に、またしても朝日新聞は、藤原帰一氏の主張をデカデカと取り上げましたので、その問題点を確認したいと思います。
今度は、「オピニオン&フォーラム」に「巻き戻される国際秩序」というテーマのもと、”「捕食者」化する米、ロシアに追従”と題されていました。そして、「和平」を目指していたトランプ大統領の動きが、世界中の少なくない人々に不安や反発を抱かせています。という編集委員の指摘に、
”当然です。トランプ氏が今進めているのは和平ではなく、プーチン氏の考え方への全面的な追従です”
と答え、さらに”追従ですか”と、問われて
”少数意見で驚かれるでしょうが、それ以外に評価のしようがありません。交渉に臨んでいるトランプ氏の判断のうち、現状でカギになるのは次の二つだろうと私は見ており、それらはいずれもプーチン氏の判断と同じだらかです。
”①ロシアが武力でウクライナから奪った支配地域をロシアの政権下にあるものと認める
②ウクライナ住民への大規模な虐殺や人権侵害に関心を持たない──です。どちらも国際政治の原則を踏みにじる判断です”
と述べているのです。そして、さらに、”国際政治の原則とは何を指すのでしょう”という質問に、
”戦争に関する国際政治の最低限の原則は『主権国家の独立は保全される』、つまり、侵略戦争の禁止です。加えてジュネーブ条約(1949年)が、たとえ戦争中でも民間人や民間施設への攻撃は禁じるとの原則を定めています”
と答えています。
藤原帰一氏は順天堂大学特任教授であり、東京大学名誉教授だといいます。そして、戦争と平和に関する考察で知られるというのですが、私は、呆れてものが言えません。
パレスチナ人殲滅が目的だろうと思われるような猛烈なイスラエル軍のガザ爆撃、また、パレスチナ人がパレスチナの地にとどまれないようにするためではないかと思われる住居やインフラの破壊、そして際限なく続く民間人殺害などを黙認し、イスラエルに武器支援を続けてきたアメリカを、上記のような考え方をする藤原氏は、なぜ非難しないのでしょうか。
藤原氏の主張は、バイデン政権やバイデン政権を支えてきた組織集団(DS?)の主張そのものではないかと私は思います。戦後も戦争をくり返しながら、圧倒的な軍事力や経済力、そして豊かさを保ってきアメリカの戦略を煽っているとしか思えないのです。
でも、トランプ政権は、世界中に配置されている米軍や、CIA、NSAなどの組織を維持するための莫大な支出、また、国際協調主義に基づく、軍事同盟や共同訓練、軍事支援などに対する多額の支出を削減し、国内に還流させることによって、国内を豊かにし、アメリカの行き詰まりを打開しようとしているのであって、プーチン大統領に追随しているわけではないと思います。そういうトランプ大統領によるアメリカの方針転換を、BRICSや、グローバルサウスに結集する国々の拡大や、それらを含む世界情勢の変化と合わせて客観的に論じるのが国際政治ではないのかと私は思います。だから、藤原氏の主張は、学者のものではなく、アメリカの戦略に基づく、アジテーションだと私は思うのです。、
バイデン政権とは異なるトランプ政権の方針をきちんと受け止めなければ、トランプ候補がなぜハリス候補を圧倒し、大統領に就任したのか、また、西側諸国でも、現政権を批判し、トランプ大統領に近い方針を示す勢力が、現在の政権をこえる支持を得つつあるのはなぜか、また、様々な大統領令に署名し、DOGE:Department of Government Efficiency)の本格的な取り組みを始めたトランプ大統領を、今なお多くのアメリカ国民が支持しているのはなぜか、ということが理解できないことになるだろうと思います。
先日、国際的にイスラエルに対する批判の声が高まっていることを受けて、朝日新聞は、”支持する米 動けぬ日本”と題する小さな記事を掲載していましたが、そのなかに、日本政府は「副次的な関わり方しかできない」(外務省幹部)とか「何ができるかは軍事的にも経済的にも力のある米国だけだ」(別の幹部)という証言が取り上げられていました。
なぜ、”日本が動けないのか”、そこに、世界が直面している問題、さらに言えば、われわれ日本人が乗り越えなければならない重大問題があることを踏まえて、議論する必要があると思います。藤原氏には、そうした外務省幹部の証言に対する見解を述べてほしいものだと思います。
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第1章 金大中政権の浮上と新しい南北関係
いわゆる「北風」について
韓国ではいわば定例的なこととして、大統領選挙があるたびにいわゆる「北風」が吹き荒れ、明らかに金大中を標的とするおかしな事件が起こってきたのですが、今回も「スパイ事件」その他の「北風」は吹き荒れたのです。
選挙を約一ヶ月後に控えた11月20日、安企部(国家安全企画部)は、長年ソウル大学で教鞭をとっていた社会学者・高永復(コヨンホク)教授が、実は1961年以来、36年間も諜報活動をやってきた北のスパイであったという発表を行ったのです。それと同時に、北の南浦港から漁船で南下し、巨済島に上陸した男女2人の「夫婦間諜」を逮捕して、取り調べを始めたところ、女のスパイは、体の秘所に隠し持っていた毒薬のアンプル噛み砕いて自殺を遂げたという陰惨な事件を発表したのでした。
1987年の大統領選挙の直前に発生した「真由美」事件(87・11・29)では、親子を装った男女2人のうち、毒のアンプルを噛んで自殺したのは「父親」である蜂谷真一であって、「娘」の真由美(金賢姫)はちゃんと生き残って、ペラペラ「白状」したのです。今度の事件では、毒を呑んだのは女性(妻)で、生き残ったのは男性(夫)というわけですが、何か手口やシナリオが似通っていて、話がうさん臭いのです。「真由美」 こと金賢姫が犯人であったというKAL(大韓航空)機爆破事件が、大統領選挙に打って出た金大中に、どれだけ大きなダメージを与えたかについてはもう少し詳しく後述するつもりです。何か北側が仕掛けたというキナ臭い事件が起こると、非難の声を浴びるようになるのは金大中ということになるわけですが、今度も選挙を前にして、安企部が秘密裏に北に人を派遣し、どこか板門店あたりの休戦ラインから南に向けて銃撃を加えて欲しいという交渉を行ったという、いわゆる「銃風」の噂が飛び交っているのです。真偽のほどは確かめようがなく、まさか北側がそのような話により「銃風」を吹かせることに同意するとも思われませんが、ともかく政権交替のあと、安企部(部長・権寧海〔クォン・ヨンヘ〕、当時)は、一応調査を受け、背後勢力であるはずのハンナラ党に追及の手が伸びていくのは避けられないでしょう。
金大中拉致事件と日本政府
1973年あの夏の日、金大中氏が、KCIAにより、白昼東京のホテルで拉致された事件を思い返すと、私はどうしても1896年、ロンドンに亡命中の孫文先生が、清国の公使館員に拉致され、館内に監禁された事件を重ね合わせて考えざるを得ないのです。それまで孫文先生は、そう名前が世界的に知られ渡っている著名人というものでありませんでした。ところが香港時代の恩師カントリー(James Cantlie)の奔走で、奇跡的に救出され、青年革命家・孫文の名は一躍世界中に響き渡るようになったのです。
1972年10月17日、 朴正煕が宣布した維新体制に抗議し、日本で亡命を宣言した当時の金大中は、ごく限られた政界の何人かを除けば、日本においてさえ、そう広く名前が知れわたっていた人物でありませんでした。日本における、拉致事件が、金大中氏を世界的に超有名人にさせたのは紛れもない事実です。このことについては後でもう少し詳しい説明を加えたいと思うのですが、拉致された当時、日本政府が金大中にとった態度は如何なるものであったか、これについては、歴史の証言として、まず一言を述べておきたいと思うのです。
非常に込み入った複雑な事件だったので、短い文章でその全貌を説明するのは難しいのですが、犯行の現場(ホテル・グランドパレス22階)に指紋を残した、韓国大使館勤務の一等書記官・金東雲のことから話を始めましょう。プロの殺し屋にしては、現場に指紋を残すという、ありうべからざる初歩的なミスを犯した金東雲ですが、その指紋を盾に、日本政府は、金東雲を警視庁に出頭させるよう、韓国大使館に要求したのです。9月5日のことでした。ホルマリンの強い刺激臭が充満している現場で、私が指紋を採集している警察官の姿を目撃したのは、その日の3時頃でしたので、警察は、事件当日の8月8日か、いくら遅くても翌日の9日中には、金東雲の指紋を確認しえたはずです。にもかからず日本政府は、犯人・金東雲が8月19日、大手を振って羽田から帰国するのを黙認しておいてから、白々しくも9月5日になって、韓国大使館に対し、金東雲の出頭を要求するという見え透いたジェスチャーを示したのでした。これを見ても分かることですが、日本政府は事件の真相を究明するのではなく、隠蔽するのに全力を尽くしたのです。
当時の日本の首相は田中角栄氏ですが、この事件をもみ消す見返りとして、朴正煕から3億円をもらっていたという話も、関連事項として見逃しえないことでしょう。このことはアメリカ国務省のコリア・デスク担当官レイナード氏が、秘密公聴会(76.3.15)でばらした話であって、その情報をつかんだ私は、日比谷公会堂で開かれた公開の市民大会(76.4・8)で、「人身売買にも等しい」この許すべからざる裏取り引きを糾弾したのです。それを翌日の「赤旗」が報道し、国会でも質疑に立った共産党の松本善明氏が、その真偽を明らかにせよと要求したのですが、答弁に立った当時の宮沢喜一外相は、「市民大会あたりでの、そのような無責任な発言に答える必要を認めない」という言葉で、真相解明の要求を拒否したのでした。
その後の調査で、朴正煕からの3億円を紙でくるみ、田中の「刎頚(フンケイ)の友」小佐野賢治に託したのが、大韓航空の社長、趙重勲(チョジュンフン)であったことも分かったのですが、ともかくこの3億円のやり取りの結果、それまで外界から一切遮断されたまま、自宅に軟禁されていた金大中氏が、10月26日、初めて記者会見の場に姿を現し、①拉致事件が韓日間の親善を損なうのを望まないこと、②「現状回復」のため再び日本に戻ることを望まないこと ③ 今後一切の政治活動から身を引くことの三つの項目を内容とする声明文を発表したのです。その一週間後の11月2日、金鐘泌が日本に来て田中に会い、謝罪したことで、韓日間のわだかまりは解けたということになったわけで、これが「第一次政治決着」です。
この政治決着にまつわる趙重勲の日本における足取りですが、私が入手した入管の記録によると、彼は金大中拉致事件から三ヶ月目に入った10月21日、羽田から東京に入り、その5日後の10月26日、つまり金大中氏の記者会見があった日、ソウルに戻ったのですが、これは田中首相に3億円が渡ったあと、シナリオ通りの決着がなされたことを見届けた上での帰国であったと考えてよいでしょう。
もう一つ、ここに記録として書き残しておきたい事実があるのですが、それは、KCIAが、ソウル大学法学部の崔鐘吉(チェジョンギル)教授(ハーバード大学出身)の拷問死体を、ビルの4階から下に投げ捨ててから、崔教授は自殺をとげたのだと、かなり派手に報道させたことがあるのです。それを発表した日が、ちょうど金大中氏が記者会見に姿を見せた日の前日、つまり10月25日であって、これは、もし記者会見で言われた通りのことを言わないと、お前もこうなるぞという、金大中氏に対するKCIAの脅迫であったと私は考えているのです。
「第一次政治決着」についてのべたついでに、どうしても一言のべざるをえないのが、「第二次政治決着」のことで、これは朴正煕の妻、陸英修(ユクヨンス)殺害事件に、日本政府がどう対処したかにかかわる問題です。
この事件が発生したのは、金大中拉致事件の翌年(1974年)の8月15日、国家的式典として毎年執り行われている光復節(独立記念日)の式場であったのですが、ジャーナリストの中でも、この事件と金大中拉致事件が有機的につながっている二つの事件であったことに気づいている人が案外少ないのは残念というほかありません。
この事件が起きるまでは、立場上「金大中事件はどうなっているんだ、どうなっているんだ」とばかり、真相究明を要求していたのは、日本政府であり、この要求に答えられるず、にっちもさっちもいかない窮地に追い込まれていたのが韓国政府であったのです。ところが、あの式場において、「暗殺犯」文世光(ムンセグァン)の撃った銃声が鳴り響いた瞬間から、形勢は劇的に逆転するのです。
文世光は日本に生まれて日本で育った韓国人であるから、実質的には日本人ではないか、持っていたパスポートが日本政府発行のものであり、陸英修をあやめたピストルが大阪の交番から盗み出した日本の警察のものである以上、大統領夫人殺害の責任は、全面的に日本側にあるのではないかと、朴政権は日本の非を鳴らし始め、日本を糾弾する大規模な官製反日運動が繰り広げられたのでした。この「反日」運動の馬鹿騒ぎの中では、刑務所に収監されていた暴力団員を大通りに動員し、道行く人びとの面前で、指をナタで切り落とさせるという、おどろおどろしい─、しかし日本人にはよく理解できる─ヤクザ流の抗議の芝居までが演出されたのですが、当時のアメリカのタイム誌の暴露記事によると、韓国政府がこれらヤクザどもに支払った報賞金は指一本でつき5万ウォン(115ドル)であったというのでした。
この官製反日デモに呼応し、日本は韓国政府に謝るべきだというキャンペーンを張ったのは、拉致事件の時から「よその国にきて自分の国の悪口を言う金大中は売国奴だ」(テレビ東京)と公言してはばからなかった中川一郎だとか、「そもそも金大中は心底低劣な人間」で、しかも彼が日本にいたのは「不法滞在であったから、日本側の非難は、虫のいい非難でしかない」(「文藝春秋」75・11号)とかのデマゴーグをもって、親朴反金のムードを煽りたてた石原慎太郎など、自民党清風会所属の極右グループであったのです。在日韓国人・文世光のことを「実質的には日本人」であると考えたことなどあろうはずもない、これらの連中に煽られたのか、あるいは煽らせたのか、あんなに謝ることも嫌いな日本政府が、今度はやすやすと自民党副総裁椎名悦三郎を謝罪使としてソウルに派遣し、変にふんぞり返っている朴正煕の前で、深々と頭を下げる芝居を演じさせたのでした。馴れ合いの猿芝居です。これで一件落着し、日本政府が金大中事件について韓国政府に責任を問うということは、二度となくなったのでした(「第二次政治決着」)。
それはともかくとして、あの日、陸英修をあやめた弾丸は、果たして文世光の撃ったものだったのでしょうか。これまで私はことあるごとにくり返しくりり返し述べてきたのですが、それは絶対にあり得ないことです。
文世光が大阪の交番で盗み、ソウルの式場にまで持ち込んだという例の拳銃は、発表によると「南部式五連発」のものですが、最初の一発は、文世光が立ち上がりざま、右のポケットから銃を引き抜いた瞬間、暴発して自分の右腿を傷つけました。二発目は朴正煕が立っていた演壇(防弾装置)に弾痕を残し、三発目と四発目は、それぞれ、壁にかかげられていた国旗と、舞台の天井を貫き、五発目は、不発のまま弾倉に残されていたのです。事件当日の各新聞は、そう報道したのでした。では発射された四発のうち、いずれが陸英修氏を殺害した弾丸だったのでしょうか。 その日、場内で計七発の銃弾が発射されたということは、回っていたテレビカメラの録音分析でも明らかにされている事実です。七発のうちの四発は、文世光が撃ったものですが、二発は、突然舞台の上に躍り出た朴鐘圭(パクジョンギュ:大統領警護室長)の撃ったもので、そのうちの一発は、合唱隊の女子高校生の一人を殺し、他の一名を負傷させたのですが、問題は残りの一発、つまりほんとうに陸英修の命を奪った七発目の銃弾です。当時韓国政府は、銃弾がどの方向から飛んできて、どの角度で陸夫人の頭蓋骨を貫いたのか、この種の狙撃事件では当然発表されてしかるべき弾道については、沈黙したままでした。それが発表されたなら、その弾丸が文世光の立っていた位置からのものでないことは、明々白々に証明されたはずです。
文世光がポケットからピストルを引き抜いた瞬間、暴発し、彼の右腿を傷つけたという第一弾も実にうさん臭いもので、これは、おそらく演壇に立っている朴正煕に直前の警告を与えるため、予め何らかの細工が施されていたものだろうと私は推測するのですが、第一、腿に当たった銃弾がかすり傷を与えただけというのからして不思議な話ではないでしょうか。
この事件に関連して、おそらく部外者としてこれを知り、そしていまだに記憶しているのは私一人だと思われる事実が一つあるので、この機会にそれを明らかにしておきたいと思います。事件前日、つまり1974年8月14日、私はある集会での講演のため、大阪に行っていたのですが、 午後6時(講演会の開会直前)、共同通信のある友人から緊急電話がかかってきたのです。その日の午後4時過ぎ「金大中拉致事件について、もうこれ以上調べることがないので捜査を打ち切る」という韓国外務省の通告文が、日本の外務省に送られてきたというのです。これについての私のコメントが欲しいので、その友人はやっとのこと、私の居場所をつきとめ、東京から電話をかけてきたのでした。思いつくまま、 短いコメントを電話口で述べたのですが、まさか翌15日の朝、朴正煕大統領の妻・陸英修夫人が、日本から潜入してきた兇漢に狙撃されるような椿事(チンジ)が発生するだろうとは、神ならぬ身の知る由もないことであったわけですが、実をいうと、予めそれを知っていた者がいたのです。前述の通告文が日本に届いたのが、午後4時過ぎであったのを思い出してほしい。巧妙に夕刊記事にされる時間を避けて日本側に届けられたこの通告文は、明らかに、翌15日の午前10時過ぎ、どういうことがソウルで起こるのか、ちゃんと知っていた者の指図によるものであったと、私は断定しないわけにはいかないのです。
この奇怪な事件は、その真相が一度も明らかにされたことがありません。いまだに韓国政府の公式的立場は、陸英修を殺害した犯人は「(朝鮮)総連の使嗾(そそのかし)を受けた在日韓国人青年、文世光」ということになっており、日本政府も韓国側の主張に同調しているだけです。 国家の道徳的威厳を保つためにも、また日本との不透明な関係を清算するためにも、金大中大統領は、この事件の真相を徹底的に 糾明すべきだったと私は思うのです。