ブルース・カミングスの著書『朝鮮戦争の起源』は、膨大な第一次史料を駆使した大著です。彼の考察や分析は、すべて第一次史料をもとにしたものだと言ってもよいと思います。
ブルース・カミングスによると、朝鮮に進駐したアメリカ軍が、日本植民地化の朝鮮で日本の戦争に協力した指導層と手を結び、「朝鮮人民共和国」の建国に尽くした人たちを共産主義者と見なして弾圧・排除に動いたことが分かります。それは、カイロ宣言やポツダム宣言に反することだったと思います。
そして、1949年に中国共産党率いる人民解放軍が国民党軍に勝利し、中華人民共和国を建国すると、アメリカは、はっきりと反共的なアジア戦略を策定します。それが、「アジアにおいて共産主義の力を封じ込め(Cntainment)可能なところまで減退させる」こととしたNSC-48(国家安全保障会議報告第48号)というアメリカの国家安全保障会議極秘文書です。この文書は、1949年12月に、トルーマン大統領に提出されたというのです。
そして1950年に入ると、アメリカの戦略はさらに進んで、「ソビエト勢力のいっそうの膨張をブロックし」、「クレムリンの支配と影響力の収縮を促し」、「ソビエト・システム内部の破壊の種子を育てる」という積極的な封じ込め、巻き返しの戦略に進むのです。そのために、NSC(国家安全保障会議)は「平時においても大規模な軍事支出を行い」同盟国と連携することによって、圧倒的な軍事力を持つことを求めたのです。それが1950年4月にトルーマン大統領に提出された、NSC-68(国家安全保障会議報告第68号)という極秘政策文書に示されているということです。
こうしたアメリカの極秘政策は、決して表に出てきませんが、アメリカの政権が韓国や日本の搾取・収奪する側の人達と手を結び、今も反共的な政策を続けていることは、ロシア敵視、中国敵視の現実が示していると思います。
だから、こうしたNSCの文書からも、アメリカ中央情報局(Central Intelligence Agency, 略称:CIA)の活動内容に
”アメリカ合衆国に友好的な政権樹立の援助
アメリカ合衆国に敵対する政権打倒の援助”
とあるというのは事実であり、決して陰謀論などではないということだと思います。
下記は、「朝鮮戦争の起源 1945年─1947年 解放と南北分断体制の出現」ブルース・カミングス 鄭敬謨/林 哲/山岡由美「訳」(明石書店)から第二部、第五章の一部を抜萃しました。
ブルース・カミングスは、アメリカの軍政関係者の自らに都合の良い情勢分析や強引な決めつけを明らかにしつつ、ベニングホフの報告書に関し、
”この時点におけるアメリカの政策が不干渉主義であったというのは眉つばものであろう。”
と批判していますが、”眉つばもの”はひかえめな批判であり、現実的には、きわめて欺瞞的だ、と私は思います。
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第二部 中央におけるアメリカ占領軍の政策 1945年─1947年
第五章新しい秩序の創出─アメリカ軍の上陸と官僚機構 警察、軍に対する政策
仁川とソウル── 新しい敵と味方
ベニングホフはさらにアメリカ軍政と韓民党の結びつきの始まりを次のように示唆している。
政治情勢のなかでもっとも勇気づけられる唯一の要素は、ソウルに練達の士でかつ高学歴の数百人の保守主義者が存在していることである。彼らの大部分は対日協力の前歴をもつ者であるが、しかしその汚名は究極的には消えるだろうと思われる。これらの人々は「重慶臨時政府」の帰国を支持しているし、よしんば多数派ではないにせよ、一つの集団としてはおそらく最大のものである。
韓民党に対するこのような率直な親近感の表明は、アメリカ軍の高級将校の多数の見解を示したものであった。しかし、この報告はセシル・ニスト大佐の情報を潤色したに過ぎないものであった。ニストにしろベニングホフにしろ民主的で親米的と称する人々をたとえ一握りの数であっても把みたかったため、ソウルにしか存在しないし、メンバーのほとんどが対日協力者である韓民党が、報告の文章のわずか一段落の中で、「数百人の保守主義者」から、「一つの集団としては最大のもの」、さらには、ニストの表現のように「朝鮮人の大多数を代表する集団」まで変えられたのである。しかし、実際にはそれはアメリカ軍が頼りにすることができるものの中で最も大きな集団であるに過ぎなかった。別の多数派の集団は、ベニングホフによれば、急進的なな共産主義的集団であって、ソ連と結びついていると考えられていたのである。
共産主義者たちは日本人財産の即時没収を主張しており、法と秩序に対して脅威となっている。おそらく、充分な訓練を受けたアジテーター達は朝鮮人がソ連の「自由」と支に味方にしてアメリカに反対するようにさせるために、わが軍の管轄地域に混乱を生ぜしめんとしているのである。在朝アメリカ軍が、兵力不足が原因でその支配地域を迅速に拡大しえないため、南朝鮮はそのようなアジテーターの活動に格好な土壌となっているわけである(強調はベニングホフ)。
上陸後一週間(9月8日─15日)にして、朝鮮にいたアメリカ軍の主要な将校たちは、自分たちを支持しているのは主にかつて日本人のいいなりになっていた朝鮮人であり、自分達に反対しているのは親ソの第五列であると考えるようになったと思われる。このことをわれわれは、ベニングホフやホッジ、そしてニストらの経験の浅薄さから説明することができるだろうか? それは難しいと思われる。外交史の権威であったハーバート・ファイス(故人)はベニングホフの上述の報告を「情勢に対する先遣の明のある報告と分析」の一例として挙げている。従って、問題はこの報告書の内容がナイーブな計画とか正常とは言えない思考に基づくものであったというのではなく、それは不慣れな国における政治的対決状況にアメリカが対応する場合、多くの人びとが先ず頭に浮かべる、例の根深い考え方に基因するものであったという一言に尽きるように思われる。ベニングホフとホッジは言うまでもなく、他の官僚達にしても、自分たちの考えを簡明率直に表現するぐらいの能力あったのであり、ことの本質を見えにくくする一切の美辞麗句を省いた上で、今まさに眼前に姿を現しつつあった冷戦の露払いの役割を彼らは忠実に果たしたということができよう。
更に、9月15日付の報告書のなかでベニングホフは、ワシントンから政策の指示がないことをこぼすと同時に、ホッジが「政府の運営に経験を持ち、東洋人のことをよく知っている有能な高級官吏が自分のスタッフに加えられるよう希望している」旨を述べた。ベニングホフは新しい政策の萌芽ともいうべき考え方の一端をもってこの報告書を締めくくっている。このことについてはあから言及されることになろうが ともかくベニングホフ報告の最後の一節は次のようものであった。「[ホッジは]亡命中の重慶政府を連合国の後援の下におかれた臨時政府として帰国させ、占領期間中および朝鮮人が選挙を行うことができるほど落ち着くまでの期間、表看板として活動させることを考慮するように要求している。」
それから2週間後、ベニングホフの考えはさらに発展していた。彼の目には、今や南朝鮮は完全に両極化されたものに映っていたのである。
ソウルでは、おそらく南朝鮮全体がそうであるが、現在治勢力が二つのはっきりした集団に分かれている。この二つの集団はより小さないくつかのグループで構成されているが、しかしそれぞれのグループもはっきりした独自の政治理念を掲げている。その一方はいわゆる民主的ないし保守的集団であって、このの集団はその中に、アメリカや朝鮮にあるアメリカ系のキリスト教伝道機関で教育を受けた専門職の人や教育界の指導者たちをメンバーとして擁している。彼らの理念や政策は西欧民主主義への傾倒を示しており、李承晩(イスンマン)博士や重慶の「臨時政府」の早期帰国を一致して望んでいる。
このグループのうちの最大のものは韓民党であった。ベニングホフは「韓民党は、十分な教育を受けた実業家や専門職の人々、さらに全国各地の地域指導者たちから成り立っている」と述べている。そしてもう一つの集団は「急進的ないし共産主義的なグループ」から成り立っていて、その主力は人民共和国に結集していると述べている。
急進派は、その民主的反対派に対して、より緻密に組織されているように思われる……新聞等を通じた急進派の宣伝材料を見れば、その背後に明確なプログラムとよく訓練された指導系統が存在しているらしいのがわかる。
人民共和国を導いている非凡な指導者は呂運亨である。…しかし、彼の政治信条はどう見てもクリスチャンとしてのものから共産主義者のそれに変わったように思われるので、人々は現在の彼をどう判断してよいのか迷っている。
ベニングホフは次の文章では「……ように思われる」という表現を削っているので、今や呂は単に「共産主義者」ということになった。その上でベニングホフは、8月15日以来の人民共和国について自分の判断を次のように述べている。
呂運亨と彼の仲間たちは、自分達が政府を構成していると考えた。彼らは政治犯を解放し、治安の維持、食糧の配給等、政府が果たすべき役割を果たしてきた。そのときがおそらく建準の権力がピークに達していた時であったが、その後共産主義的要素が主力を占めるようになり、建準内部のより保守的なメンバーが離反したことによって、この組織は急速にその影響力を失うこととなった。
一方、日本側は南朝鮮を占領するのはアメリカであることを知った。また、彼らは、呂が自分たちの言いなりにならないということも知った。そこで日本側は建準の力を削ぐために建準を治安委員会に変え、3000人の日本兵を一夜のうちに民間人に変貌させてそれをもってソウルにおける警察力を増強したが、……しかし呂はひるまなかった。彼は政治活動の自由というアメリカ的な基本権を行使して、9月5日、自分のグループを朝鮮人民共和国の建設を目ざす政党として再編した。……一方穏健な保守主義者たちは、国民大多数の支持を自負しつつ別個の組織を造らざるを得なかったわけであるが、それは、自分らを守ると同時に、反共民主主義の信念を貫くためであった。急進派は……より緻密に組織されており、より積極的に自らの主張を宣伝している。共産主義者(ソ連)による浸透の性格とその度合いが実際にどの程度のものであるか確信することはできないが、相当なものであると考えられる。
ベニングホフは、「復興のための援助と指導をどのような方式で受けるつもりなのか」急進派の態度は曖昧であると述べ、次のような確約をもってこの報告を締めくくった。
朝鮮における政治状況に対しアメリカのとりうる態度は、平和と秩序が維持される 限りにおいて、一種の不干渉主義で臨むということである。朝鮮駐留のアメリカ軍はその支持を如何なる特定のグループにも与えることのできないので、不干渉主義以外の政策を採択することは賢明ではないように思われる。
ベニングホフがこの報告書をしたためたのは9月29日であるが、この時点におけるアメリカの政策が不干渉主義であったというのは眉つばものであろう。9月11日、米軍司令部は各派政治指導者たちの会合を招集したが、その会議の席上、韓民党の主要な指導者趙炳玉(チョピョオク)は共産主義者と人民共和国に非難を浴びせかけ、同席していた他派の人たちからの激しい抗議を受けた。さらに9月21日、軍政当局は韓民党の首席総務宋鎮禹(ソンジヌ)が、公共ラジオ放送局JODKを通じての放送で人民共和国は共産主義者の集団であり、同時に親日売族的であると攻撃するのを容認している。そして9月27日、アメリカ人は公式的に米占領軍を歓迎するための準備会の設備を認めたが、これらの委員長は高齢の権東鎮(クォンドンジン)であり、[韓民党領袖]、副委員長と事務局長にはそれぞれ金性洙(キムソンス)と趙炳玉が据えられた。