戦後、アメリカが韓国や日本を「共産主義の蔓延を食い止めるための防波堤」にするという反共政策を進めたということは、孫栄健氏やブルース・カミングス氏がそう思ったり、考えたりしたということではなく、第一次史料が示す事実です。
そして、現実にその政策が進められたことを、「韓日条約締結秘話」李東元著:崔雲祥監訳(PHP)が、はっきり示していると思います。
李東元氏が、同書の「日本の読者の皆様へ」で褒めたたえ、感謝している日本人は、下記の抜粋文にあるように、東条戦時内閣の元閣僚、岸信介氏や賀屋興宣氏に代表されるように、「鬼畜米英」の戦争の指導的立場にあった人たちです。
また、監訳者、崔雲祥氏は、「本書出版の意義」のなかの「アメリカの評価」で、
”李長官は1966年国連総会出席中に、統一政策に関する意見の差異のため長官職を辞任することになるが、ワシントンでの送別会でラスク米国務長官は次のように述べて李長官の業績を激讃した。「本日の主人公李長官は、アメリカが本当に困難な時助けてくれた友人であり またASPAC を創設し、世界史にアジア太平洋時代の幕開けをした先駆者でもあります。ゆえに本日我われは彼をアメリカの友人として迎えるのであります。李長官は本当に大人物であります 過去の米韓関係、またアジアの歪んだ歴史を振り返っても、李長官程業績の多い人はありません。それも和解と平和のための…」 ”
と書いています。
そのラスク米国務長官は、1945年の8月10日から11日にかけての徹夜の三省調整委員会(国務・陸軍・海軍調整委員会)に、朝鮮半島を38度線で分断することを提案した人なのです。以前にもふれましたが、ブルース・カミングスは、「朝鮮戦争の起源」のなかで、下記のように書いていました。
”8月10日から11日にかけての深夜、チャールズ・H・ボンスティール大佐〔後に将軍として駐韓国連軍司令官に就任〕とディーン・ラスク少佐〔後にケネディ、ジョンソン両大統領の下で国務長官に就任〕は…… 一般命令(Gneral Order)の一部として朝鮮において米ソ両軍によって占領されるべき地域確定について文案を起草し始めた。彼に与えられた時間は30分であり、作業が終わるまでの30分間、三省調整委は待つことになっていた。国務省の要望は出来うる限り北方に分断線を設定することであったが、陸軍省と海軍省は、アメリカが一兵をだに朝鮮に上陸させうる前にソ連軍はその全土を席巻することができることを知っていただけに、より慎重であった。ボンスティールとラスクは、ソウルの北方を走る道〔県〕の境界線をもって分断線とすることを考えた。そうすれば分断による政治的な悪影響を最小限にとどめ、しかも首都ソウルをアメリカの占領地域内に含めることができるからである。そのとき手もとにあった地図は壁掛けの小さな極東地図だけであり、時間的な余裕がなかった。ボンスティールは北緯38度線がソウルの北方を通るばかりでなく、朝鮮をほぼ同じ広さの二つの部分に分かつことに気づいた。彼はこれだと思い、38度線を分断線として提案した。”
アメリカは、日本の降伏直前、急速に南下する”ソ連勢力が朝鮮全域を席巻する前に、なんらかの政治的手段で、朝鮮半島における自国の足場を確保”しようと38度線を設定し、イギリス、中国、ソ連の三同盟国に通報、承諾を得て終戦処理に関する事務文書である「一般命令第一号」に38度線をもとにした戦後処理を定めたということです。
そして、事実上、ソ連の手中にあった朝鮮半島を、アメリカは太平洋の安全に対する脅威と見なして動いにていたにもかかわらず、朝鮮に軍隊を派遣するという決定が、「単に」日本軍の降伏を受諾するための便宜上のものであるかのように装ったのです。
アメリカは、朝鮮半島を38度線で分断する「一般命令第一号」を、日本軍各部隊に対して、現地連合軍司令官への降伏を指令する形をとり、”満洲、北緯38度線以北の朝鮮および樺太にある日本軍は、ソ連極東軍司令官に降伏すべし”とし、”北緯38度線以南の朝鮮にある日本軍は、合衆国朝鮮派遣軍司令官に降伏すべし”として、発令者が日本の大本営であることにしたのです。
でも、その結果、「一般命令第一号」は、単なる戦後処理の文書ではなく、以後、38度線で朝鮮半島を完全に分断する重要文書になってしまったということです。
そればかりでなく、アメリカは、旧朝鮮人統治機構である朝鮮総督府組織の行政・警察機構をその制度と人員ともに継続利用し、軍政統治の道具として活用しました。その結果、日本植民地時代に朝鮮総督府等に雇用されていた朝鮮人官吏、朝鮮人警官等が、戦後も韓国社会において主導権を握り、植民地下の地主階級が貧農・小作人を厳しい雇用・小作条件で働かせるという土地所有の近代化もなされなかったのです。そして李承晩のような反共的政治家を南朝鮮のリーダーに担ぎ上げることによって、アメリカ軍政は、韓国の与党を育て、大韓民国を樹立させて韓国社会における実権を掌握するに至ったといってもよいと思います。
日本でも、アメリカは、戦犯として逮捕されたリ、戦争犯罪に関わったということで公職を追放された人たちの追放を解除し、逆にレッドパージによって日本の民主化を実現しつつあった組合関係者や左派的な人たちを追放して、反共的な自民党政権に、日本を担わせました。
本来処罰されるか、公職を追放されるべき人たちに主導権を与えたこうしたアメリカの反共政策は、多くの朝鮮の人たちや、日本国民の思いに反するばかりでなく、ポツダム宣言にも反するものであった思います。ポツダム宣言には、
”十 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ國民トシテ滅亡セシメントスルノ意圖ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戰爭犯罪人ニ對シテハ嚴重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本國政府ハ日本國國民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ對スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ”
とあるからです。
そして、そうした歴史を踏まえて現在の韓国を見つめれば、尹大統領の「非常戒厳」の宣布が、彼の個人的な思いによるものではないだろうと思われるのです。
昨年末、尹大統領は、「非常戒厳」を宣布する理由として、北朝鮮に同調する勢力が、韓国政権の弱体化を狙っているからである、とか、北朝鮮の脅威や反国家勢力から韓国を守り、自由な憲法秩序を守るためだというような説明したことが報じられていました。
だから私は、「非常戒厳」宣布によって、国内を混乱させ、北朝鮮の加担を語って、一気に韓国の雰囲気を変え、与野党の支持率を逆転させようとするような企みがあったのではないかと、想像しています。
そして、その企みには、アメリカも関わっているのではないかと、想像がふくらむのです。
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日本の読者の皆様へ
しばしば日本では、韓国のことを「近くて遠い国」だと形容するが、実は「近くて近い国」なのである。それは歴史が証明している。日韓関係は、記録上少なくとも5世紀にさかのぼる。 仏教が百済を経て、日本に伝わったことはよく知られている(538年)。その他、論語や千字文を伝えた王仁博士。百済王の命令で、一定期間日本に滞在し、儒教や漢文を教えて帰国する五経博士。暦や天文地理、遁甲、方術を伝えた観勒(602年)らは、両国間の交流が深い歴史を持っていることを明らかにする具体的な例である。このような交流はその後も続き、江戸時代には12回も朝鮮通信使の往来があった。
もちろん 長い 交流しの過程には、光もあり陰もある。戦後50年を迎えた今日でさえ、50年前までの植民地支配の後遺症が、しばしば両国間の摩擦を引き起こしている。しかし両国は、宿命的に隣国同士である。これは何人も否定できない厳粛な事実である。韓国も日本も地理的に、嫌いだからといって引っ越しできない間柄である 主観的な好悪を越えて、今日まで隣国として生きてきたし、これからも共に生きてけなければならない運命にある。
次に、この日韓条約を締結することが、いかに難しかったかを申し上げたい。1965年6月22日、 日韓基本条約が調印された時、韓国の大方のマスコミはこれを第二の「乙巳保護条約」(1905年)の調印式だと非難し、私を始めとする交渉代表を、第二の「売国奴」・李完用(イワンヨン)(日本に韓国に売り渡した元凶の象徴的人物。売国奴の代名詞になっている)になぞらえた。韓国マスコミのこうした報道は、当時の国民感情を多分に反映するものであった。また一方の日本にあっても、日本に居住する朝鮮総連系は日本共産党や左派社会党と一緒になり、日韓会談反対闘争を展開した。しかし、両国の代表は 会談に成功したのである。
私は当時の朴正煕大統領の言葉を忘れることはができない。「60年代の貧困を脱してして祖国の近代化を実現するためには、対日国交正常化を先行させなければならない」という不動の信念と、「この国交正常化決定は、後世の歴史の判断に委ねる。今は、所信を押し通し、国交正常化を実現させよう」と、彼は我々を励ましてくださった。その国交正常化が成り、三十余年が過ぎた今日、私は朴大統領が正しかったと思う。私も微力ながら彼の所信に従い、多くの難関を乗り越え、悔いなく、対日交渉を成功させたことを、今でも誇りに思ってる。
最後に、私の交渉相手であった故椎名悦三郎外務大臣について一言を述べておきたい 結論的に言って、日韓条約交渉は、日本側代表が椎名外相であったからこそ成功したと言い切ることができる。官僚に任せたり、あるいは、日本の他の政治家が首席代表を務めたならば、交渉はまとまらなかっただろう。朴大統領は、椎名外相に初対面の後、彼の飾らぬ態度にすっかり心を奪われ、「なかなかの紳士だ。それに常識的で、韓国民の気持ちのわかる韓日関係の真の理解者だ」と、ほとんど絶賛に近い感想を漏らした。実際彼は、その評通り、日本よりもむしろ韓国人の立場に立って事を考え、小事にこだわらなかった。彼はビジョンをもち、勇気と決断力があった。次の世代、次の世紀を考える器量の大きい政治家であったと言えよう。そもそも外交は、「ギブ・アンド・テイク」、と「コンプロマイズ」(互いの約束、すなわち妥協・互譲の産物である。
戦争は勝負だが、国家間の条約は互譲でなければならない。彼はこの原理を、日本外務省のキャリアの外交官よりもよく理解し、またそれを実践した。
ある人は彼のことを菊の花になぞらえたりしている。「菊の花は、落ちても香りは残る」と──。椎名外相は現在、韓国で最も尊敬され、いや、愛されている日本の政治家だと言っても決して過言ではない。私は最近、日本の政治家たちの”妄言”が問題になるたびに、どうして日本にはもはや椎名外相のような政治家がいないのだろうかと、つくづく彼を思い出す。椎名外相はその後も、日本政府特使として何度か韓国を訪問したことがある。1977年11月、彼は「日韓会談の成果を自分の目で、直に確かめたい」と言いながら、日韓協定が生んだ「漢江(ハンガン)の奇跡」を見に来た。慶尚北道の浦項製鉄など、工業団地を視察した後、自分の「日韓協定」の時の決断が間違っていなかったことをはっきりと自分の目で確かめたのだった。そして「やっぱり私は正しかった。見なさい、韓国は立ち上がったではないか、この姿、これが本当に今後の近くて、温かい日韓関係をつくっていくのだ」と言って、彼は自分のことのように涙を流して喜んだ。
私はまたこの場を借りて、会談交渉中、多くの日本指導者たちから、交渉当事者の立場を越えて、ときに激励、ときに支援の言葉を頂いたことをここに述べておきたい。
会談が難航するたびに、「お互いににお家の事情があるのだから、名文に執着せず、妥結の道を見いだし、実利を貫徹させよう」と、佐藤栄作総理は会談妥結の決意を披歴してやまなかった。 私は韓国の外相としては、日韓両国の歴史上、最初に日本を公式訪問したわけであるが、当時 日本側の歓迎委員長は岸信介元総理、副委員長は石井光次郎元副総理と賀屋興宣氏であった。私は会談交渉中、前述した岸信介元総理、佐藤栄作元総理のほかにも、福田赳夫元総理、三木武夫 元総理、石井光次郎元副総理、藤山一郎元外相、大平正芳元首相、椎名悦三郎元外相らにたびたびお目にかかったが、彼らはひとえに激励の言葉を惜しまなかった。その他船田中衆議院議長、中曽根康弘議員(後総理)中尾栄一議員、河野一郎議員、矢次一夫氏、児玉誉士夫氏、笹川龍次氏、田中龍夫議員らも陰に陽に支援してくださった。牛場信彦外務審議官(後駐米大使・故人)には、ご自宅まで招待され、食事を頂いたこともある。私が外相を辞めた後も、彼らは依然と変わらず私を歓待してくださった。多くの方が今は幽明の境を異にしているが、私はこの紙面を借りて、彼らとその他、私に対して支援を惜しまなかった多くの日本の政治家と友人たちに、心の底から永遠なる深い感謝の意を表したい。
この機会に、私と監訳者崔雲祥教授との関係について触れておく。崔教授の前職は外交官で、終戦の年、熊本の旧制第五高等学校を卒業した。その後、ソウル大学を経てアメリカのハーバード大学で法学博士の学位を授けられた。韓国の外務省では政務局長として日韓交渉の実務を担当し、最終方針を立案した。日韓外交に関する著書(英文)もある。その後、インド、エジプト、モロッコ、ジャマイカ等、主に非同盟諸国の大使を長く務めた。それよりも、私とは半世紀に亙る無二の親友である。彼が多忙にもかかわらず、この本の監訳を快く引き受けてくれたことを大変嬉しく思い、感謝している。
拙著を出版するに当たっては、多くの方にお世話になった。それらの方のお名前を皆あげることは難しいが、中でも特に椎名素夫参議院議員、椎名外相に関する研究で高名な政治評論家藤田義郎氏、直接出版を指揮担当されたPHP総合研究所の秋山憲推取締役にはしばしば有益なアドバイスを頂いた。延世大学の同窓で、日本韓国研究院の崔書勉院長からもさまざまな助言をいただいたことを深謝したい。
「過去を知れば現在がわかる。現在がわかれば未来が見えてくる」と言ったのは、確か日本の民俗学の祖である柳田國男だったと記憶している。二十一世紀に向けて、日韓両国は真に「近くて近い国同士」の関係を構築しなければならない。2002年には、サッカーの ワールドカップ 大会も共催することが決定した。私は本書がそのような未来志向的な日韓関係を創出するのに、いささかでもお役に立つならば、誠に幸甚の限りである。
1997年 晩秋
汝矣島(ヨイド)にある国会議員会館にて
李東元(イドンウォン)
彼らは朝鮮人に関心がない、ただそれだけだ。
朝鮮人を美化する必要もなければ中傷するのも良くない、果たして何が重要だろうか。
朝鮮の山河を歩き人々に触れればおのずと見えてくる。
日本の政治家、韓国の政治家の対極にいる多くの朝鮮人を知ることだ、そこに朝鮮の将来がある。
>朝鮮の山河を歩き人々に触れればおのずと見えてくる。
>日本の政治家、韓国の政治家の対極にいる多くの朝鮮人を知ることだ、そこに朝鮮の将来がある。
その通りだと思います。
一部の政治家の言動に惑わされず、そのことを踏まえて国の在り方を考えたいと思います。