竹島の領有をめぐっては様々な議論があるが、日本の竹島領有権を主張する論者の多くが拠り所としている、「隠州視聴合記」について、『大君外交と「武威」─ 近世日本の国際秩序と朝鮮観』池内敏(名古屋大学出版会)に決定的な記述がある。内藤正中も「史的検証 竹島・独島」の中で、「…最近の池内敏による詳細な検証から、『此州』は隠岐国とみるべきであるとするのが正しいと思うに至った。…」と、自分のそれまでの解釈の誤りを認め、池内敏の詳細な検証による結論を受け入れざるを得ない認識に至ったことを、正直に書いている。
池内敏は、客観的な解釈のために気の遠くなるような地道な検証作業を通して、誰もが認めざるを得ないかたちで、「此州」が隠州を指すとしか考えられない、という結論に達している。今後「隠州視聴合記」の解釈に関する限り、池内敏の検証に基づく結論を覆す論者は出てこない、と断言してもよいのではないかと思う。したがって、『大君外交と「武威」─ 近世日本の国際秩序と朝鮮観』を読まずして、これまでの竹島領有権主張を繰り返すべからず、ということになる。
また、同書は、1696年(元禄9年)1月28日の幕府による竹島渡海禁止令に関し、その伝達方法や伝達時期について、対馬藩から幕府関係者に対し、細かい要請があったことも取り上げており(鳥取藩政史料『在府日記』)興味深い。安龍福の供述は虚構であり虚言であるとする論者にとっては、受け入れがたい記述ではないかと思われるが、日本の文献の客観的な解釈による結果であり、新たな研究結果が出て来ない限り、「隠州視聴合記」や安龍福供述虚言説に依拠して、竹島領有権の主張を繰り返すことは、もはやできないと言わざるを得ない。
『大君外交と「武威」─ 近世日本の国際秩序と朝鮮観』池内敏(名古屋大学出版会)から、関わる部分を抜粋するとともに、「隠州視聴合記」の「国代記」原文の一部と、その口語訳を簡略化して抜粋する。
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第9章 東平行一件の再評価
はじめに
元禄竹島一件交渉にかかわって、元禄8年(1695)11月以来、江戸で幕閣と協議を行ってきた対馬藩国元家老平田直右衛門は、元禄9年正月9日、老中阿部豊後守正武に呼び出されて日本人の竹島渡海禁止の方針について打診を受けた(第8章)。その席で阿部は、幕府として当初朝鮮人の竹島渡海禁止を求める交渉を命じておきながら、日本人の竹島渡海禁止を命じる、という正反対の指示をおこなうことになっても構わないと述べた。この一件の解決が重苦しくなるくらいなら、当初の意向と違った結果となっても、軽く解決するほうがましだというのである。
阿部は、以上のような基本姿勢で対馬藩に以下の交渉案を提示する。
①この件については、日本側からはこれ以上問題としない。
②朝鮮から幕府に宛てた返書中にある「鬱陵島」の文字を削除する要求を撤回す
る
③日本人の竹島渡海を禁止する幕令を対馬藩から朝鮮側へ伝える。
以上3点の老中見解をもちかえった平田は、翌々日阿部のもとを訪れ、対馬藩としての態度決定を伝える。老中提案には「今少シ宣敷いたし方も可有之」とも思われるけれども、軽く解決したいという意向にしたがう。当初と今回とでは幕府の意向自体がまるで異なるので、対馬藩から朝鮮側に対する申し入れ内容も異なってしまう(「くい違申気味御座候」)が、そこを敢えて「まげる」ことにしてみよう、という。ただし、まるで異なる内容を文章化して正式に通達するわけにもいかないから、口頭で伝えることとしたいともいう。
ここで、書面ではなく口頭で伝えることとしたい理由を「書簡ニ而申渡候而ハ急度ヶ間敷罷成候間」と対馬藩側は述べる。「急度ヶ間敷」とは、「厳しい、厳重だ」ないしは「確実に、どうしても」の意となろうか。それまでの交渉を全面撤回する内容を書面で伝達すれば、重大事として受けとめられる。重大事ではないように伝えたいとする対馬藩の姿勢は、ことの決着を曖昧なかたちで済ませたいとする意向を示す。対馬藩は、陶山庄右衛門の提言にもかかわらず、つい先日まで当初方針通りに朝鮮人の竹島渡海禁止を求める交渉を継続を求めていた(第8章[史料10])また、阿部による方針の抜本的変更に対しても、先述の「今少シ宣敷いたし方も可有之」とする評価に明らかなように、批判的であった。書面では伝えないとする対馬藩の姿勢には、今回の幕令に対する不快感が秘められていよう。
口頭で伝える相手は対馬藩主帰国時に合わせて派遣される渡海訳官使である。2月に帰国することとなれば、今年の「秋末冬」には対馬に派遣されてこよう。正月28日、老中列座で日本人竹島渡海禁令を受けた宗義真は、同令を年末に口頭で朝鮮側に伝えることを述べ、同時に鳥取藩へは同令の即時伝達を見合わせるよう老中に求めた。対馬藩から訳官使に伝え終えてからにして欲しいという。日本人の竹島渡海禁令が流布すれば、対馬藩から伝える前に朝鮮側にも知れ渡ってしまうかもしれないから、というのがその理由である。
・・・(以下略)
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補論5 「隠州視聴合記(紀)」の解釈をめぐって
はじめに
寛文7年(1667)に出雲藩士斎藤豊宣(斎藤豊仙の父斎藤勘助)が著した「隠州視聴合記(紀)」(豊仙が補訂したという)の冒頭「国代記」にある記述をめぐり、これまでいくつかの議論が重ねられてきた。それは戦後の竹島/独島をめぐる日韓交渉と密接にかかわるかたちで問題提起されたから、いきおい政治色を帯びた議論ともなった。その焦点は、端的に述べれば「然則日本之乾地、以此州為限矣」とする文中の「此州」が、鬱陵島(江戸時代における竹島)を指すのか、隠岐国を指すのか、というところにあった。日本政府側はこれを鬱陵島とし、韓国政府側は隠岐国を指すとして対立したこともあって、解釈は政治的に引きずられ、厳密な解釈というよりはむしろ恣意に流れる傾向も皆無ではなかった。しかも議論には感情的な応酬も混じり込み、史料解釈としてはテクスト自体から離れゆく傾向が否定できない。そこで本章では、政治的な意図から離れてテクストに立ち戻り、史料に即して解釈するとどのように読まざるを得ないか、について再検討したい。
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1 「隠州視聴合記」の諸本について ・・・(略)
2 「隠州視聴合記」の構成・内容・用語法
・・・
以上、「隠州視聴合記」における「州」および「島(嶋)」の用例をすべて検討した結果、「隠州視聴合記」における「州」の用例66例のうち、保留してある(A)を除く65例が「国」の意で使用されていることが分かった。また先行する固有島名を受けて指示詞「此」を含む語によって当該の島を再び指示しようとする際には「此島(嶋)」という語を使用していることも指摘した。これは換言すれば、先行する固有島名を再び指示する際に「此州」という語を使用しないということである。
したがって、これらを踏まえるならば、先に保留しておいた(A)も、「そうであるならば則ち、日本の北西の地は隠岐州(隠岐国)をもって限りとす」としか読みようがない。それは文章構成の上からもそのようにしか読めないし、用語法上の特徴からもそのようにしか読めない。
ところで、巻二・周吉郡の元谷村項では、同村にある八王子社の神と常楽寺社の神とが3年に一度会して祭事(日月の祭)がなされることを述べる。その叙述ののちに按分が付され、「日月の祭」が日本に古くからあった遺制であり、「隠州戌亥之極地也昧暗也」であるがゆえに、そうした遺制がこの地に伝わるのか、と考察している。(第1節に引用した史料[異同5](ヌ)を参照)「隠州戌亥之極地也」(隠州は日本の北西方角の果てである)とするのは「隠州視聴合記」甲本・乙本いずれにも共通する記述である。とすれば、「隠州視聴合記」で隠岐国が日本の戌亥の果てと理解されていたのは明瞭である。
「隠州視聴合記」には巻頭に付図があり、隠岐国を構成する主要な島前3島と島後1島および周辺の小島を5つほど描く。こうした描き方からすれば竹島(鬱陵島)や松島(竹島/独島)が隠岐国外の存在であると認識されていたことはいうまでもない。
以上のように、「隠州視聴合記」における「此州」には先述した文章構成上、用語法上の特徴があり、また巻二には隠州が日本の戌亥にあたることを明瞭に述べている事実がある。にもかかわらず、(A)における「此州」だけは、「島(嶋)」の意で読み替えて解釈し、竹島(鬱陵島)が日本の戌亥であると理解しなければいけないとするのは、あまりにも無理な話であり恣意的との謗りを免れえない。
3 「此州」を「竹島(鬱陵島)」とする説について ・・・(略)
おわりに
以上の論証にしたがえば、文脈、用語法、本文中にそれと明記されている事実および同時代人による読み取りのいずれからしても「此州」は「隠岐国」としか読めない。にもかかわらず、なお、問題の部分だけは「島」と読み替えて読まなければならないなどというのは、学問的には成りたたない感情論でしかない。
「隠州視聴合記」の主題はあくまで隠岐国の地誌であり、松江藩に提出された報告書である。報告書の文章が、66カ所ある「州」について、すべて「国」の意で読めるにもかかわらず、しかしただ1カ所だけは「島」の意として無理矢理にも「読み替えなければ理解できない」ような代物だとしたら、どうして報告書自体が書き替えられなかったのだろうか。「隠州視聴合記」には地誌・報告書の類であって思索の書ではない。誰が読んでも一読して内容が明瞭でなければ報告書としての用に立つまい。
以上を踏まえれば、「隠州視聴合記」による限りは、「隠岐国が日本の北西の果てである」ということとならざるをえない。そうである以上は、竹島/独島が当時の日本の版図から外れたものと認識されていた(先に整理した[Ⅱ’]の見解)とするしかあるまい。したがって(Ⅰ’)の見解は当然のごとく成りたたない。
一方、「隠州視聴合記」では竹島/独島が当時の日本の版図から外れたものと認識されていた(=日本の版図外)ということが、すなわち朝鮮領と認識されていた(同じく[Ⅱ’])ということにはならない。[Ⅱ’]は、文意を逸脱した無理な解釈である。「隠州視聴合記」には、日本の版図外とするだけで、竹島/独島が朝鮮の領域に属するとはどこにも書かれていないからである。
・・・(以下略)
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「隠州視聴合記 巻之一」の「国代記」原文
隠州在北海中故云隠岐島、[按倭訓海中言遠幾故名歟]、其在巽地言嶋前也、知夫郡海部郡屬焉、其位震地言嶋後也、周吉郡穩地郡屬焉、其府有周吉郡南岸西鄕豊崎也、従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、[俗言磯竹島多竹魚海鹿、按神書所謂五十猛歟]、此二島無人之地、見高麗如雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣。
・・・(以下省略)
※返り点は全て省略、[ ]内は二行表示部分
口語訳
・隠岐国は北海中にあるがゆえに(島名を)隠岐嶋という。[按ずるに、倭訓に海中
を遠幾(おき)というゆえの名か。]
・(隠岐国のうち)南東になるものを島前というなり。知夫郡・海部郡これに属す。
・(隠岐国のうち)東にくらいする(位置する)を島後という。周吉郡・穏地郡これに属
す。
・その(隠岐国の)府は周吉郡南岸西郷豊崎なり。
・これ(隠岐国)より南は、出雲国美穂関に至ること35里。
・(隠岐国より)南東は、伯耆国赤碕浦に至ること40里。
・(隠岐国より)南西は、石見国温泉津に至ること58里。
・(隠岐国より)北から東に至る往くべき地無し。
・(隠岐国より)戌と亥のあいだの方角(おおむね北西方向)へ行くこと2日1夜にし
て松島あり、
・そこ(松島)からさらに1日ほどで竹島あり。俗に磯竹島という。竹・魚・海鹿、[按
ずるに、神書にいういわゆる五十猛か]
・この2島(松島・竹島)は人無きの地、高麗を見ること雲州より隠岐を望むが如し。
・そうであるならば則ち、日本の北西の地は此州をもって限りとす。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
池内敏は、客観的な解釈のために気の遠くなるような地道な検証作業を通して、誰もが認めざるを得ないかたちで、「此州」が隠州を指すとしか考えられない、という結論に達している。今後「隠州視聴合記」の解釈に関する限り、池内敏の検証に基づく結論を覆す論者は出てこない、と断言してもよいのではないかと思う。したがって、『大君外交と「武威」─ 近世日本の国際秩序と朝鮮観』を読まずして、これまでの竹島領有権主張を繰り返すべからず、ということになる。
また、同書は、1696年(元禄9年)1月28日の幕府による竹島渡海禁止令に関し、その伝達方法や伝達時期について、対馬藩から幕府関係者に対し、細かい要請があったことも取り上げており(鳥取藩政史料『在府日記』)興味深い。安龍福の供述は虚構であり虚言であるとする論者にとっては、受け入れがたい記述ではないかと思われるが、日本の文献の客観的な解釈による結果であり、新たな研究結果が出て来ない限り、「隠州視聴合記」や安龍福供述虚言説に依拠して、竹島領有権の主張を繰り返すことは、もはやできないと言わざるを得ない。
『大君外交と「武威」─ 近世日本の国際秩序と朝鮮観』池内敏(名古屋大学出版会)から、関わる部分を抜粋するとともに、「隠州視聴合記」の「国代記」原文の一部と、その口語訳を簡略化して抜粋する。
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第9章 東平行一件の再評価
はじめに
元禄竹島一件交渉にかかわって、元禄8年(1695)11月以来、江戸で幕閣と協議を行ってきた対馬藩国元家老平田直右衛門は、元禄9年正月9日、老中阿部豊後守正武に呼び出されて日本人の竹島渡海禁止の方針について打診を受けた(第8章)。その席で阿部は、幕府として当初朝鮮人の竹島渡海禁止を求める交渉を命じておきながら、日本人の竹島渡海禁止を命じる、という正反対の指示をおこなうことになっても構わないと述べた。この一件の解決が重苦しくなるくらいなら、当初の意向と違った結果となっても、軽く解決するほうがましだというのである。
阿部は、以上のような基本姿勢で対馬藩に以下の交渉案を提示する。
①この件については、日本側からはこれ以上問題としない。
②朝鮮から幕府に宛てた返書中にある「鬱陵島」の文字を削除する要求を撤回す
る
③日本人の竹島渡海を禁止する幕令を対馬藩から朝鮮側へ伝える。
以上3点の老中見解をもちかえった平田は、翌々日阿部のもとを訪れ、対馬藩としての態度決定を伝える。老中提案には「今少シ宣敷いたし方も可有之」とも思われるけれども、軽く解決したいという意向にしたがう。当初と今回とでは幕府の意向自体がまるで異なるので、対馬藩から朝鮮側に対する申し入れ内容も異なってしまう(「くい違申気味御座候」)が、そこを敢えて「まげる」ことにしてみよう、という。ただし、まるで異なる内容を文章化して正式に通達するわけにもいかないから、口頭で伝えることとしたいともいう。
ここで、書面ではなく口頭で伝えることとしたい理由を「書簡ニ而申渡候而ハ急度ヶ間敷罷成候間」と対馬藩側は述べる。「急度ヶ間敷」とは、「厳しい、厳重だ」ないしは「確実に、どうしても」の意となろうか。それまでの交渉を全面撤回する内容を書面で伝達すれば、重大事として受けとめられる。重大事ではないように伝えたいとする対馬藩の姿勢は、ことの決着を曖昧なかたちで済ませたいとする意向を示す。対馬藩は、陶山庄右衛門の提言にもかかわらず、つい先日まで当初方針通りに朝鮮人の竹島渡海禁止を求める交渉を継続を求めていた(第8章[史料10])また、阿部による方針の抜本的変更に対しても、先述の「今少シ宣敷いたし方も可有之」とする評価に明らかなように、批判的であった。書面では伝えないとする対馬藩の姿勢には、今回の幕令に対する不快感が秘められていよう。
口頭で伝える相手は対馬藩主帰国時に合わせて派遣される渡海訳官使である。2月に帰国することとなれば、今年の「秋末冬」には対馬に派遣されてこよう。正月28日、老中列座で日本人竹島渡海禁令を受けた宗義真は、同令を年末に口頭で朝鮮側に伝えることを述べ、同時に鳥取藩へは同令の即時伝達を見合わせるよう老中に求めた。対馬藩から訳官使に伝え終えてからにして欲しいという。日本人の竹島渡海禁令が流布すれば、対馬藩から伝える前に朝鮮側にも知れ渡ってしまうかもしれないから、というのがその理由である。
・・・(以下略)
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補論5 「隠州視聴合記(紀)」の解釈をめぐって
はじめに
寛文7年(1667)に出雲藩士斎藤豊宣(斎藤豊仙の父斎藤勘助)が著した「隠州視聴合記(紀)」(豊仙が補訂したという)の冒頭「国代記」にある記述をめぐり、これまでいくつかの議論が重ねられてきた。それは戦後の竹島/独島をめぐる日韓交渉と密接にかかわるかたちで問題提起されたから、いきおい政治色を帯びた議論ともなった。その焦点は、端的に述べれば「然則日本之乾地、以此州為限矣」とする文中の「此州」が、鬱陵島(江戸時代における竹島)を指すのか、隠岐国を指すのか、というところにあった。日本政府側はこれを鬱陵島とし、韓国政府側は隠岐国を指すとして対立したこともあって、解釈は政治的に引きずられ、厳密な解釈というよりはむしろ恣意に流れる傾向も皆無ではなかった。しかも議論には感情的な応酬も混じり込み、史料解釈としてはテクスト自体から離れゆく傾向が否定できない。そこで本章では、政治的な意図から離れてテクストに立ち戻り、史料に即して解釈するとどのように読まざるを得ないか、について再検討したい。
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1 「隠州視聴合記」の諸本について ・・・(略)
2 「隠州視聴合記」の構成・内容・用語法
・・・
以上、「隠州視聴合記」における「州」および「島(嶋)」の用例をすべて検討した結果、「隠州視聴合記」における「州」の用例66例のうち、保留してある(A)を除く65例が「国」の意で使用されていることが分かった。また先行する固有島名を受けて指示詞「此」を含む語によって当該の島を再び指示しようとする際には「此島(嶋)」という語を使用していることも指摘した。これは換言すれば、先行する固有島名を再び指示する際に「此州」という語を使用しないということである。
したがって、これらを踏まえるならば、先に保留しておいた(A)も、「そうであるならば則ち、日本の北西の地は隠岐州(隠岐国)をもって限りとす」としか読みようがない。それは文章構成の上からもそのようにしか読めないし、用語法上の特徴からもそのようにしか読めない。
ところで、巻二・周吉郡の元谷村項では、同村にある八王子社の神と常楽寺社の神とが3年に一度会して祭事(日月の祭)がなされることを述べる。その叙述ののちに按分が付され、「日月の祭」が日本に古くからあった遺制であり、「隠州戌亥之極地也昧暗也」であるがゆえに、そうした遺制がこの地に伝わるのか、と考察している。(第1節に引用した史料[異同5](ヌ)を参照)「隠州戌亥之極地也」(隠州は日本の北西方角の果てである)とするのは「隠州視聴合記」甲本・乙本いずれにも共通する記述である。とすれば、「隠州視聴合記」で隠岐国が日本の戌亥の果てと理解されていたのは明瞭である。
「隠州視聴合記」には巻頭に付図があり、隠岐国を構成する主要な島前3島と島後1島および周辺の小島を5つほど描く。こうした描き方からすれば竹島(鬱陵島)や松島(竹島/独島)が隠岐国外の存在であると認識されていたことはいうまでもない。
以上のように、「隠州視聴合記」における「此州」には先述した文章構成上、用語法上の特徴があり、また巻二には隠州が日本の戌亥にあたることを明瞭に述べている事実がある。にもかかわらず、(A)における「此州」だけは、「島(嶋)」の意で読み替えて解釈し、竹島(鬱陵島)が日本の戌亥であると理解しなければいけないとするのは、あまりにも無理な話であり恣意的との謗りを免れえない。
3 「此州」を「竹島(鬱陵島)」とする説について ・・・(略)
おわりに
以上の論証にしたがえば、文脈、用語法、本文中にそれと明記されている事実および同時代人による読み取りのいずれからしても「此州」は「隠岐国」としか読めない。にもかかわらず、なお、問題の部分だけは「島」と読み替えて読まなければならないなどというのは、学問的には成りたたない感情論でしかない。
「隠州視聴合記」の主題はあくまで隠岐国の地誌であり、松江藩に提出された報告書である。報告書の文章が、66カ所ある「州」について、すべて「国」の意で読めるにもかかわらず、しかしただ1カ所だけは「島」の意として無理矢理にも「読み替えなければ理解できない」ような代物だとしたら、どうして報告書自体が書き替えられなかったのだろうか。「隠州視聴合記」には地誌・報告書の類であって思索の書ではない。誰が読んでも一読して内容が明瞭でなければ報告書としての用に立つまい。
以上を踏まえれば、「隠州視聴合記」による限りは、「隠岐国が日本の北西の果てである」ということとならざるをえない。そうである以上は、竹島/独島が当時の日本の版図から外れたものと認識されていた(先に整理した[Ⅱ’]の見解)とするしかあるまい。したがって(Ⅰ’)の見解は当然のごとく成りたたない。
一方、「隠州視聴合記」では竹島/独島が当時の日本の版図から外れたものと認識されていた(=日本の版図外)ということが、すなわち朝鮮領と認識されていた(同じく[Ⅱ’])ということにはならない。[Ⅱ’]は、文意を逸脱した無理な解釈である。「隠州視聴合記」には、日本の版図外とするだけで、竹島/独島が朝鮮の領域に属するとはどこにも書かれていないからである。
・・・(以下略)
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「隠州視聴合記 巻之一」の「国代記」原文
隠州在北海中故云隠岐島、[按倭訓海中言遠幾故名歟]、其在巽地言嶋前也、知夫郡海部郡屬焉、其位震地言嶋後也、周吉郡穩地郡屬焉、其府有周吉郡南岸西鄕豊崎也、従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、[俗言磯竹島多竹魚海鹿、按神書所謂五十猛歟]、此二島無人之地、見高麗如雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣。
・・・(以下省略)
※返り点は全て省略、[ ]内は二行表示部分
口語訳
・隠岐国は北海中にあるがゆえに(島名を)隠岐嶋という。[按ずるに、倭訓に海中
を遠幾(おき)というゆえの名か。]
・(隠岐国のうち)南東になるものを島前というなり。知夫郡・海部郡これに属す。
・(隠岐国のうち)東にくらいする(位置する)を島後という。周吉郡・穏地郡これに属
す。
・その(隠岐国の)府は周吉郡南岸西郷豊崎なり。
・これ(隠岐国)より南は、出雲国美穂関に至ること35里。
・(隠岐国より)南東は、伯耆国赤碕浦に至ること40里。
・(隠岐国より)南西は、石見国温泉津に至ること58里。
・(隠岐国より)北から東に至る往くべき地無し。
・(隠岐国より)戌と亥のあいだの方角(おおむね北西方向)へ行くこと2日1夜にし
て松島あり、
・そこ(松島)からさらに1日ほどで竹島あり。俗に磯竹島という。竹・魚・海鹿、[按
ずるに、神書にいういわゆる五十猛か]
・この2島(松島・竹島)は人無きの地、高麗を見ること雲州より隠岐を望むが如し。
・そうであるならば則ち、日本の北西の地は此州をもって限りとす。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。