真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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謀略 阿片の組織的売買

2011年09月11日 | 国際・政治
 「満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの」太田尚樹(講談社)は、江口圭一や倉橋正直などの著書、断片的に語られる関係者の証言などを総合し、15年戦争当時の阿片取り引きをA、B、C、3つのタイプにわけて、下記のようにまとめている。戦争相手である、国民党蒋介石軍にも売りつけ、利益を分け与えていたということには、驚かざるを得ない。また、元憲兵大尉の甘粕のみならず、戦後、日本の総理大臣になる岸も、阿片と無関係ではなかったようである。呆れるばかりである。
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21 謀略という名の哀しきロマンティズム──曠野に咲き誇るケシの花

  阿片の流通組織

 甘粕、岸を筆頭に「妙な会」が関わっていた阿片の流れを知る上で、流通の構造を書いておかなければならない。。大まかには3つに分類できるが、まず、Aタイプは、熱河省などのケシの栽培農家を取り仕切っている組織から、満州国政府専売局が買い上げる。それを阿片煙膏に精製してから、法外な価格で、満州国内の阿片吸引所や愛飲者に売りつける。

 この場合、栽培農家は不安定な商取引は避けたがるので、契約作付方式としたが、これによって、よそ者が入り込むのを防止できる効果もあった。さらに生産者側は不安定な通貨よりも、綿布、食料品、豚油(ラード)などの物品と交換を望んだので、現物取引になった。物資の調達、運輸はもちろん、総合商社満鉄の仕事である。 

 満州国政府は、専売局を通じて専売制にしてあるから、第3者が入り込めない。上海駐在の三井物産社員たちの間では、「熱河の阿片は、満州国政府と関東軍の背後にいる甘粕がヒモだから、熱河阿片に手を出したら命はない」と囁かれていたのは、そのためである。
 同時に政府は、禁煙総局を作って表向きは阿片を禁止しているから、価格が吊り上がる。今日でも、暴力団が麻薬を資金源にしているのは、厳しい取り締まりによって支えられていると言ってよい。麻薬が自由に売買できれば、彼らは手を出すことはないわけである。なんのことはない。満州国政府は、禁止と販売の双方を、同時進行させていたのである。


 そして生産地の警備、満州国内にはほかの地域から持ち込ませないための監視と、用心棒として存在するのが関東軍ということになる。このAタイプで注目すべきことは、支那事変が始まると、販売先が満州国内に限らず、日本軍占領下の中国にも深く浸透し、さらに甘粕が腐心したように、蒋介石軍にも食い込んでいたことだった。
 「もちろん岸は、そのころから蒋介石と通じていたはずです。それは甘粕が国民党側に軍資金として、阿片の上がりの一部を提供していたからです。蒋介石は、自国の国民を阿片漬けにして得た金を受け取るのには抵抗があったはずですが、目の前の八路軍と、さらに日本軍とも対峙しなければならないのですから背に腹は替えられなかったのです」
 戦前、上海の三井物産支店にいた元社員は、そう語っている。


 ところで戦前の中国共産党と、戦後の新中国。岸の政治イデオロギーからすれば、共産主義は同じ「だが」の中にある近接した思想ではあっても、持論にしている産業立国論は、農業に活路を求める中国共産党のそれとは、遠い存在であった。戦後も共産党一党支配の新中国に対して、きっぱりと一線を画した岸は総理時代に、高等学校以来、満州でも付き合いのあった伊藤武雄たちから、盛んに日中貿易、日中国交正常化を持ちかけられたが、腰を上げようとしなかった。
 さらに総理を辞めてからも、台湾ロビーストとして君臨した岸だが、蒋介石との深い信頼関係は、並のものではなかったといわれる。甘粕を通して両者の間に築かれた絆とする見方が、的外れではないことを物語っている。


 では甘粕は、一連の阿片の流れの中で、何処に位置していたのか。まず生産者から買い上げる位置に里見甫がいて、彼と買い主の満州国政府との間に、甘粕がいた。甘粕の場合は、さらに政府と消費者の間にもいちしていて、複数のダミー会社を通して、取引していたといわれる。ダミー会社はフィルターの役割になるが、岸が口癖の「水は濾過して飲め」は、神道の儀式「禊」の美意識に通じる。水は清濁併せて呑むべからず。濁水も濾過すれば、清水になるという論法である。
 そして、政府側の窓口のトップは古海忠之で、組織上は、さらにその上に、岸がいたわけである。


 次にBタイプは、外国から阿片を輸入して、上海、香港ルートで売り捌く。これにはイギリスが深く関わっていて、インドから駆逐艦や、ときには巡洋艦まで使い、上海で陸揚げする。軍艦だから臨検を受けることもなく、堂々と持ち込むことができたのである。
 ここでは里見甫が要の位置にいて、その背後にいたのが甘粕、という図式になっていたといわれる。結果的に、莫大なおこぼれが、満州国に入ることになる。
 上海を拠点にした阿片ルートは、華僑の多い南方と繋がっているが、南に伸びていた甘粕機関の活動と、無縁ではあり得ない。つまり甘粕の活動域の中心は、満州の外では、上海だったことになる。
 これには注目すべきエピソードがある。昭和16年のあるとき、岸が上海に遊びにやって来た。この年の1月、商工次官の岸は、小林一三商工相と喧嘩別れして、浪人中の身だったときである。元々この2人は、バリバリの国家統制論者の岸と、片や根っからの自由主義経済人の小林であるから、衝突するのは時間の問題、と見られていたらしい。それはともかく、この年の秋に東条内閣の商工相に就任するまでは、珍しく暇だった時期である。


 さて、上海に現れた岸が、満州国で部下だった長瀬敏のところにふらっと立ち寄ってみると、早速その日のうちに英国のサッスン財閥から電話がかかってきた。「ミスター・キシをぜひ招待したいから、連絡を取って欲しい」という伝言である。ユダヤ系英国人の初代サッスンは、1840年の阿片戦争後、中国におけるインド産阿片の専売権を掌握してから急成長を遂げた財閥で、香港上海銀行も同家が設立したものだった。
 現在、中山東一路20号にある、緑の三角屋根が特徴の和平飯店(北楼)は、英国名サッスン・ハウスだが、1928年に建設以来、同財閥の根拠地になっていた。さらに、上海にある同家の邸宅は、邸内に18ホールのゴルフ場まである、広大なものだったという。
 ところで、阿片で財を成してきた財閥が会いたがったミスター岸だが、彼の足取りまで把握していた情報収集能力もさることながら、両者の接点が何であったかは、推測する方が野暮というものであろう。


 もう一つのCタイプは、満州国や関東軍とは一応関係なく、蒙疆地区から日本軍が買い上げ、これを占領地の中国人に売ることになる。売り捌くのは、大陸浪人や「支那ゴロ」といわれた連中だった。このことは、前線の向こう側、つまり中国側にも、販売ルートが通じていたことを意味する。しかも、日本側から相手側上層部に秘密裏に、あるときは公然と、献金される仕組みである。
 日中戦争といっても、阿片を通して双方が繋がっていて、さらに日本側から莫大な軍資金が相手側に渡されていたという、奇妙な関係が成立していたことになる。「結果的に、支那事変があそこまで長期化し、拡大してしまったのは、阿片が原因だった」とする見方があるのは、そのためである。


 その蒙疆地区といえば、日本の占領地区ではあっても、もともと中国本土一郭である。「東条兵団の蒙疆作戦は、阿片栽培地の確保にあった」と一部で言われているが、「大陸は阿片で明け、阿片で暮れた」という指摘は、あながち的外れとは言えない。英国が仕掛けた阿片戦争の後遺症は、健在だったのである。

 だが、岸と阿片の関わりについていえば、「岸個人がやったのではなく、満州国が為さしめたこと」という論法が、一応成りたつことになる。
 だが甘粕の場合は、阿片と関わるどころか、元締めであることは満州国政府や関東軍の中では、公然の秘密であった。関わりをもった人間たちの証言を待つまでもなく、満州国政府自体が阿片に関わり、絶対権力を持つ、関東軍の軍資金だったからである。
 それまで阿片の専売は、満州国政府内の財政部の管轄下にあったものを、民政部に移したあたりから不透明さを増してくる。民政部はのちに厚生部と名称が変わったが、民間の阿片吸引所閉鎖したり、中毒患者の治癒にも関わる部署だった。その一方で、専売もするという矛盾を抱えていたことになるが、表に出せない流通部門を、甘粕は任されていたのである。この組織替えに、総務庁次長という要にいる、岸の存在に着目しないわけにはいかない。


 そこで、岸の部下として満州国政府の総務庁主計処長、日本流に言えば主計局長をしていた古海忠之の登場と相成るが、その古海は、戦後、政治家岸信介にまつわりつく記者たちに、「君たちはふたこと目には阿片阿片と騒ぐが、満州の阿片は、甘粕も岸さんも関係ない。阿片については、支那や満州で一手にやっていた里見という男がいた。これは私の阿片の相棒だ。阿片は私と里見が仕切っていたので、いま言ったように、甘粕も岸さんもまったく関係ないんだよ」と言っていた。

 ソ連と中国の撫順戦犯監獄に18年も抑留されて帰ってきた古海が、帰国後もとことん面倒見てくれた岸をかばうのは、むしろ当然だった。しかも古海が日本の土を踏んだのは、岸が総理の座を降りて3年しか経っていないときで、まだ政治活動を盛んにやっていた時期だった。古海が甘粕をかばったのは、岸・甘粕の関係を知らない人はいなかったのだから、これも当然のことになる。甘粕をかばわなければ、岸をかばったことにならないからである。


 結局、岸を直接知る人たちは、彼が満州で何をしたか、とくに甘粕との深い関わりを知ってはいるが、古海のように否定したり、或いは「それは言えない」と証言を拒んできたのは、最後まで岸の面倒見がよく、みんな何らかの形で、世話になっていたからである。
 しかも岸は、その生涯を終える90歳まで意気軒昂で、政界に財界に影響力を持ちつづけた。したがって岸の存命中、彼らは真実を語る機会がなかったし、多くは岸より先に鬼籍に入ってしまった。関係者がいみじくも言っているように、「墓場まで持って行く」が、その通りになったのである。


 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。

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