「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」鳥居民(草思社文庫)は、題名が衝撃的であるが、その内容も衝撃的であり、驚かざるをえない。原爆投下に関してトルーマンンが語ったこと、また、戦後、原爆投下の正当性と大統領の名誉を守るために書かれたという陸軍長官ヘンリー・スティムソンの論文は、事実に基づく論文ではなく、創作なのだという。
トルーマンンは、広島・長崎への原爆投下について「百万人のアメリカ兵の生命を救うために、原爆を投下したのだ」と語った。1995年第2次世界大戦終結50周年を記念して、原爆を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」や日本の被爆資料の展示を計画したアメリカのスミソニアン航空宇宙博物館が、アメリカ国内で大変な抗議や批判を受け、その計画を変更せざるを得なかったのは、そうしたトルーマンンの言葉が、多くのアメリカ人に受け入れられてきたからであろう。
しかしながら、同書によると、当時のアメリカ軍の首脳は、誰も、百万人の犠牲者など考えていなかったし、そんな数字を挙げたこともなかったという。百万人の犠牲者という数字が登場したのは、戦後、原爆投下に対する批判や非難の声が高まってからの創作であり、原爆投下の前に、日本の降伏は確実な状況にあったというのである(スティムソン論文の百万人の数字が根拠のないものであったことは、この論文のゴーストライターを務めたマクジョージ・バンディにNHK取材班が確認をしている)。したがって、「百万人のアメリカ兵の生命を救うため…」という原爆投下の目的は虚偽説明だったのである。
原爆投下の前に、「ソ連の参戦」、「天皇の地位の保全」、「原爆保有の事実とその破壊力」について、きちんと日本に通告すれば、日本は必ず降伏する、と軍の関係者や政府関係者の多くは考え、トルーマンに進言していた。原爆投下の前に警告を発するべきだという声もあった。また、当時すでに日本が戦争終結に向けて動いているという情報を、トルーマンは得ていた。しかし、トルーマンンはそれらを考慮しなかった。チャーチルやスターリンさえも、日本の面子を認めて、実質的な無条件降伏の達成を助言したが退けたという。
それは、トルーマンンに「4つの期日」を計算に入れた予定表があったからであるという。その4つの期日は、7月4日・原爆実験の予定日、7月15日・三国首脳会談の開幕日、8月1日・原爆投下の準備が整う日、8月8日・ソ連の参戦の日である。同書は、この4つの期日をにらみながら、トルーマンンが原爆投下のために、どのようなの策略をめぐらしたのか、を明らかにしている。トルーマンのねらいは、「日本の降伏」ではなく、「ソ連参戦前の原爆の投下」だったということである。
トルーマンンは、チャーチルが何度も電報を打ち、早期開催を要求した三国首脳会談を延ばしに延ばし、対日戦早期終結ため、日本への通告あるいは警告を発するべきだ、という軍関係者や政府関係者のたび重なる進言を巧みにかわし、スティムソンの日本に対する通告の草案から、天皇の地位保全に関する部分を敢えて削除し、原爆については意図的に何もふれず、さらに、スティムソンの草案に入っていた共同署名国のソ連の名を消し、その宣言は、アメリカ国務省からではなく、日本が正式なものと受け止めにくいように宣伝と広報を担当する戦時情報局から日本に伝えさせた。それらは、すべて原爆を投下するまで、日本を降伏させないようにしておくためであったという。そして、ソ連参戦前に、原爆投下の準備が整ったので、その予定表通り、原爆を投下したのである。
その原爆投下の経緯を比較的簡潔まとめている文章が「原爆はこうして開発された」山崎正勝・日野川静枝編著(青木書店)にあったので、それを抜粋する。原爆投下に関するこうした理解は、あまり知られていないが、歴史学者や原爆の研究者の間では「常識」となっているとのことである。
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第7章 核と科学者たち
3 ポツダム会談と原爆
ローズヴェルト大統領の死
1945年4月12日、原爆開発を指令した大統領ローズヴェルトが、心臓発作で急死した。かわって大統領になったH・S・トル-マンは、そのとき副大統領であったが、それまでまったく原爆開発計画の存在を知らされていなかった。そのため、大統領就任式の日に陸軍長官スティムソンが、トルーマン新大統領にはじめてその話をし、あらためて4月25日に詳しい説明をした。原爆の威力について、原爆投下の目標が日本となっていることについて、またさらに原爆が戦争の終結をはやめると確信されていることなどについて話した。とくにスティムソンは、原爆の扱いを誤れば、世界が最後にこのような兵器によって意のままにされることになるであろうと警告し、原爆の存在する戦後世界についてトルーマンの注意を喚起しようとした。この会談の結果、原爆に関するさまざまな政策を大統領に勧告する役割を持つ、暫定委員会設置されることになった。議長にはスティムソンがなり、7月には国務長官に就任する予定のJ・F・バーンズが、大統領代理として参加した。
5月8日、ドイツは無条件降伏した。ヨーロッパでの戦争は終結し、残るはアジアでの対日戦のみとなった。そのころ、ソ連の進出に対抗するために、アメリカの政策決定者たちの間でアジア政策が根本的に見直されることになった。そうした過程で、ソ連の対日参戦の前提となっているヤルタ秘密協定の内容を、アメリカ有利に改訂する課題が生まれてきた。当然、その改訂はソ連の対日参戦前に実現しなければならないものであった。また、アメリカのアジア政策の柱に中国ではなく日本を据えるという考え方も改めて主張された。それは、ソ連やアジアの革命勢力に対抗するために、日本をアメリカのパートナーとして残そうというものであり、そのためには、徹底的な破壊がなされる前に日本を終戦に追い込む必要があった。
引き延ばし戦術
5月28日朝にトルーマンと会談した国務長官代理のJ・C・グルーは、対日戦の早期終結のために、大統領がただちに対日警告を出すようにと進言した。彼によれば、日本側で無条件降伏に対する最大の障害は、無条件降伏が天皇および天皇制の破壊または永久的除去を伴うであろうとする日本人の信念にあった。それゆえに、日本人自らが、自身の将来における政治形態を決定することを許されるであろうという何らかの指示を与えれば、早期終結が可能であろうというものであった。グルーは、日本が東京大空襲で大損害を被っている今こそ、そうした内容の対日警告が「最大の効果」を発揮するだろうと予測していた。
トルーマンはグルーに、自分も同様な考えであるが、まず陸軍長官、海軍長官、参謀総長、そして海軍作戦部長と討議するようにと指示した。彼らは、翌29日にスティムソンの事務所で会合をもった。会議の結論は、グルーの進言した内容の対日警告を出すことには賛成であるが、今すぐ出すことについては異論があるというものだった。「全問題の核心は、タイミングの問題」とされ、結局、対日警告は今すぐ出さず先延ばしされることとなり、大統領はそれを諒承した。
こうした見解の相違の根底には、何があったのだろう。それは、原爆開発計画の存在を知らされていないグルーと、それを知っている人びととの状況判断の違いであった。原爆開発計画を知っているスティムソンたちは、グルーのように対日警告と対日戦の早期終結を結びつけるだけでなく、対日警告、対日戦の終結、原爆の対日投下、そして極東における対ソ関係、それらを密接に関連づけて考えていた。それゆえに、対日警告の先延ばしも、原爆の完成を待つ「先延ばし戦術」の一環であった。
原爆外交のスタート
原爆の対日投下についての暫定委員会の勧告を、トルーマンンにつたえた6月6日の会談の時、スティムソンは、大統領が原爆開発の進展にあわせて、巨頭会談を、7月はじめから7月15日まで延期したと聞かされた。これまた、「引き延ばし戦術」であったが、それは巨頭会談でヤルタ秘密協定の改訂をもくろむアメリカにとって、原爆の完成がいかに重要な意味をもっていたかということを示していよう。
ポツダム会談は、7月17日からはじまった。陸軍長官スティムソンは代表団に加わらなかったが、重要な任務を帯びてポツダム近くのバーベルスクベルクにきていた。彼は刻々と送られてくる原爆実験の報告を、すぐさま大統領に伝える役目を担っていた。ポツダム会談のさなか、原爆実験の結果を知ったトルーマンンが、ソ連に対する交渉態度をいかに変えていったかをみるとき、それは明らかに脅迫外交ともいえる原爆外交のはじまりといえた。
7月16日、スティムソンのもとに届いた実験結果の第一報は、それが「予想をこえた」成功であることを告げていた。翌朝、さっそく彼はトルーマンンに、実験成功の知らせをもたらした。この日、はじめてトルーマンンはスターリンと会った。彼はその日の日記にスターリンとのやりとりを記している。それによれば、トルーマンンが「ダイナマイト」と称したスターリンの積極姿勢がうかがえる。スターリンはスペインのフランコを首にしたがっているし、イタリアの植民地や、イギリスの委任統治領なども含めた他の委任統治領を分割したがっていた。しかし、トルーマンンも「私もまだ爆発させてはいないが、あるダイナマイトをもっている」として、原爆を力強い後盾と考えていることがわかる。
しかし、この日(17日)の会談で、ソ連の対日参戦が8月15日になることを知らされトルーマンンは、日記に「それが起こったときには、日本は終わる」と記した。それは、対日戦の終結がソ連の参戦によってもたらされる、と考えていたことをあらわしている。
7月18日、ハリソンから原爆実験の広範囲な細目のいくつかについて知らせる第二報が、スティムソンの手もとに届いた。トルーマンンは原爆の存在強い味方にして、スターリンに対してヤルタ秘密協定の改訂を迫ろうとしていた。また、その日の日記には、「ロシアが参加する前に、日本はつぶれるだろうと信じる。マンハッタンが日本本土のうえにあらわれるとき、彼らはそうなるだろうと私は確信している。私はスターリンに適当なとき、それについて知らせることになるだろう」と記している。その日の会談で、スターリンから日本の和平依頼の事実を知らされた。つまり、日記は、日本が終戦決意を示している現在、対日戦の終結はロシアの参戦によってではなく、それ以前になされるアメリカの原爆の対日投下によってもたらされるであろうという判断をあらわしていた。また、原爆が現実の存在となった今、チャーチルとの合意のうえで原爆の存在をスターリンにも知らせようというのである。
7月21日、特使によって原爆実験の詳報がスティムソンに届けられた。長文のグローブスの覚書は、爆発で開放されたエネルギーが少なく見積もってもNTT火薬1万5千トンから2万トンに達するものであったことを示していた。それは予想以上の値であり、トルーマンンは原爆の威力にますます自信を深め、ついにはそれを、「過信」するようになったといえよう。22日チャーチルはスティムソンに、前日の会談でのトルーマンの変化をこう語っている。「昨日トルーマンンに何が起こったかを今や知った。私は理解できなかったが、この報告(グローブスの覚書)を読んだ後で会議に出たとき、彼(トルーマンン)は別人となった。彼は、ロシアにああしろこうしろと言い、会議全体を牛耳った」(荒井信一『原爆投下への道』東京大学出版会、222ページ)しかし、こうして達成されたヤルタ秘密協定の改訂は、後にさまざまな禍根を残したと言われている。
原爆投下作戦命令とポツダム宣言
原爆実験を知った後、トルーマンンがいまかいまかと待ち望んでいた知らせが7月23日の夜に届いた。スティムソンは翌朝、そのハリソンからの電報をもって大統領を訪ねた。それは、8月1日以降ならば原爆の投下作戦がいつでも可能であることを告げていた。さっそくトルーマンンは、8月3日以降、目視爆撃ができる転向となり次第、最初のウラン爆弾を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに投下する命令を承認した。
同時に彼は、こうした状態のなかで対日戦終結の方法として前から検討されてきた対日警告、すなわちポツダム宣言を出す準備に取りかかった。しかし、トルーマンンが出そうとしているポツダム宣言には、対日戦の早期終結のために必要と考えられていた天皇制を保証する条文が、それまでのものから変更されてあいまいにしか示されていなかった。その結果、トルーマンン自身が日本側の拒否を確信しているようなポツダム宣言となって、会談不参加の中国の蒋介石総統の承認を得て、7月26日に出されることになった。
さらにもう一つ、チャーチルとすでに合意していたスターリンへの原爆告知が、この日まったく誠意のないやり方でおこなわれた。それもまた、7月4日にワシントンの国防省で行われた英米合同政策委員会の確認に反したやり方であった。トルーマンンは会談が終了する間際になって、何気なくスターリンに、前例のない破壊力をもつ新兵器をもっているとだけ告げた。それは、実際の原爆投下の衝撃をもっとも大きくするために、意図的になされたことであった。トルーマンン自身は、たぶんスターリンには何のことかわからなかったに違いないと推測した。しかし、スターリンは新兵器が原爆であることをしっかりと理解し、さっそくモロトフ外相といっしょに1942年以来停止していた原爆開発の再開について話し合ったのである。まさに、トルーマンンの誠意のない、あいまいな原爆告知が、この時点からの核兵器開発競争の引き金になったといえよう。
こうした7月24日の一連のトルーマンの行動は、いったい何を意味しているのであろう。それは対日戦の終結を、ソ連の参戦によって実現するのでもなく、またポツダム宣言によって実現するのでもなく、まさにアメリカの原爆投下によって実現しようという考えであった。その根本には、ソ連の参戦前に日本が降伏すれば、ソ連の参戦の条件であるヤルタ秘密協定自体が空文化できる。それによって、アメリカの国益は守られるし、同時にヤルタ秘密協定の公開によってうまれるであろう、国内世論の批判から自分たちの身を守ることもできる。さらに重要なことに、実践使用することで原爆の威力は誰の目にもあきらかになろう。こうしたさまざまな目論見があったのだろう。
8月6日、最初の原爆が広島に投下された。しかし、トルーマンたちの予測に反して日本は降伏しなかった。逆にこの原爆投下が引き金となって、ソ連は8月9日の未明、それまでの8月15日という予定を繰り上げて対日戦に参加してきた。日本の降伏については、ソ連参戦の衝撃を抜きにしては8月9日の終戦劇はありえなかった」と言われている。トルーマンたちの思惑、ソ連の参戦前に原爆の投下によって対日戦を終結するということは、みごとに裏切られたのである。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。
トルーマンンは、広島・長崎への原爆投下について「百万人のアメリカ兵の生命を救うために、原爆を投下したのだ」と語った。1995年第2次世界大戦終結50周年を記念して、原爆を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」や日本の被爆資料の展示を計画したアメリカのスミソニアン航空宇宙博物館が、アメリカ国内で大変な抗議や批判を受け、その計画を変更せざるを得なかったのは、そうしたトルーマンンの言葉が、多くのアメリカ人に受け入れられてきたからであろう。
しかしながら、同書によると、当時のアメリカ軍の首脳は、誰も、百万人の犠牲者など考えていなかったし、そんな数字を挙げたこともなかったという。百万人の犠牲者という数字が登場したのは、戦後、原爆投下に対する批判や非難の声が高まってからの創作であり、原爆投下の前に、日本の降伏は確実な状況にあったというのである(スティムソン論文の百万人の数字が根拠のないものであったことは、この論文のゴーストライターを務めたマクジョージ・バンディにNHK取材班が確認をしている)。したがって、「百万人のアメリカ兵の生命を救うため…」という原爆投下の目的は虚偽説明だったのである。
原爆投下の前に、「ソ連の参戦」、「天皇の地位の保全」、「原爆保有の事実とその破壊力」について、きちんと日本に通告すれば、日本は必ず降伏する、と軍の関係者や政府関係者の多くは考え、トルーマンに進言していた。原爆投下の前に警告を発するべきだという声もあった。また、当時すでに日本が戦争終結に向けて動いているという情報を、トルーマンは得ていた。しかし、トルーマンンはそれらを考慮しなかった。チャーチルやスターリンさえも、日本の面子を認めて、実質的な無条件降伏の達成を助言したが退けたという。
それは、トルーマンンに「4つの期日」を計算に入れた予定表があったからであるという。その4つの期日は、7月4日・原爆実験の予定日、7月15日・三国首脳会談の開幕日、8月1日・原爆投下の準備が整う日、8月8日・ソ連の参戦の日である。同書は、この4つの期日をにらみながら、トルーマンンが原爆投下のために、どのようなの策略をめぐらしたのか、を明らかにしている。トルーマンのねらいは、「日本の降伏」ではなく、「ソ連参戦前の原爆の投下」だったということである。
トルーマンンは、チャーチルが何度も電報を打ち、早期開催を要求した三国首脳会談を延ばしに延ばし、対日戦早期終結ため、日本への通告あるいは警告を発するべきだ、という軍関係者や政府関係者のたび重なる進言を巧みにかわし、スティムソンの日本に対する通告の草案から、天皇の地位保全に関する部分を敢えて削除し、原爆については意図的に何もふれず、さらに、スティムソンの草案に入っていた共同署名国のソ連の名を消し、その宣言は、アメリカ国務省からではなく、日本が正式なものと受け止めにくいように宣伝と広報を担当する戦時情報局から日本に伝えさせた。それらは、すべて原爆を投下するまで、日本を降伏させないようにしておくためであったという。そして、ソ連参戦前に、原爆投下の準備が整ったので、その予定表通り、原爆を投下したのである。
その原爆投下の経緯を比較的簡潔まとめている文章が「原爆はこうして開発された」山崎正勝・日野川静枝編著(青木書店)にあったので、それを抜粋する。原爆投下に関するこうした理解は、あまり知られていないが、歴史学者や原爆の研究者の間では「常識」となっているとのことである。
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第7章 核と科学者たち
3 ポツダム会談と原爆
ローズヴェルト大統領の死
1945年4月12日、原爆開発を指令した大統領ローズヴェルトが、心臓発作で急死した。かわって大統領になったH・S・トル-マンは、そのとき副大統領であったが、それまでまったく原爆開発計画の存在を知らされていなかった。そのため、大統領就任式の日に陸軍長官スティムソンが、トルーマン新大統領にはじめてその話をし、あらためて4月25日に詳しい説明をした。原爆の威力について、原爆投下の目標が日本となっていることについて、またさらに原爆が戦争の終結をはやめると確信されていることなどについて話した。とくにスティムソンは、原爆の扱いを誤れば、世界が最後にこのような兵器によって意のままにされることになるであろうと警告し、原爆の存在する戦後世界についてトルーマンの注意を喚起しようとした。この会談の結果、原爆に関するさまざまな政策を大統領に勧告する役割を持つ、暫定委員会設置されることになった。議長にはスティムソンがなり、7月には国務長官に就任する予定のJ・F・バーンズが、大統領代理として参加した。
5月8日、ドイツは無条件降伏した。ヨーロッパでの戦争は終結し、残るはアジアでの対日戦のみとなった。そのころ、ソ連の進出に対抗するために、アメリカの政策決定者たちの間でアジア政策が根本的に見直されることになった。そうした過程で、ソ連の対日参戦の前提となっているヤルタ秘密協定の内容を、アメリカ有利に改訂する課題が生まれてきた。当然、その改訂はソ連の対日参戦前に実現しなければならないものであった。また、アメリカのアジア政策の柱に中国ではなく日本を据えるという考え方も改めて主張された。それは、ソ連やアジアの革命勢力に対抗するために、日本をアメリカのパートナーとして残そうというものであり、そのためには、徹底的な破壊がなされる前に日本を終戦に追い込む必要があった。
引き延ばし戦術
5月28日朝にトルーマンと会談した国務長官代理のJ・C・グルーは、対日戦の早期終結のために、大統領がただちに対日警告を出すようにと進言した。彼によれば、日本側で無条件降伏に対する最大の障害は、無条件降伏が天皇および天皇制の破壊または永久的除去を伴うであろうとする日本人の信念にあった。それゆえに、日本人自らが、自身の将来における政治形態を決定することを許されるであろうという何らかの指示を与えれば、早期終結が可能であろうというものであった。グルーは、日本が東京大空襲で大損害を被っている今こそ、そうした内容の対日警告が「最大の効果」を発揮するだろうと予測していた。
トルーマンはグルーに、自分も同様な考えであるが、まず陸軍長官、海軍長官、参謀総長、そして海軍作戦部長と討議するようにと指示した。彼らは、翌29日にスティムソンの事務所で会合をもった。会議の結論は、グルーの進言した内容の対日警告を出すことには賛成であるが、今すぐ出すことについては異論があるというものだった。「全問題の核心は、タイミングの問題」とされ、結局、対日警告は今すぐ出さず先延ばしされることとなり、大統領はそれを諒承した。
こうした見解の相違の根底には、何があったのだろう。それは、原爆開発計画の存在を知らされていないグルーと、それを知っている人びととの状況判断の違いであった。原爆開発計画を知っているスティムソンたちは、グルーのように対日警告と対日戦の早期終結を結びつけるだけでなく、対日警告、対日戦の終結、原爆の対日投下、そして極東における対ソ関係、それらを密接に関連づけて考えていた。それゆえに、対日警告の先延ばしも、原爆の完成を待つ「先延ばし戦術」の一環であった。
原爆外交のスタート
原爆の対日投下についての暫定委員会の勧告を、トルーマンンにつたえた6月6日の会談の時、スティムソンは、大統領が原爆開発の進展にあわせて、巨頭会談を、7月はじめから7月15日まで延期したと聞かされた。これまた、「引き延ばし戦術」であったが、それは巨頭会談でヤルタ秘密協定の改訂をもくろむアメリカにとって、原爆の完成がいかに重要な意味をもっていたかということを示していよう。
ポツダム会談は、7月17日からはじまった。陸軍長官スティムソンは代表団に加わらなかったが、重要な任務を帯びてポツダム近くのバーベルスクベルクにきていた。彼は刻々と送られてくる原爆実験の報告を、すぐさま大統領に伝える役目を担っていた。ポツダム会談のさなか、原爆実験の結果を知ったトルーマンンが、ソ連に対する交渉態度をいかに変えていったかをみるとき、それは明らかに脅迫外交ともいえる原爆外交のはじまりといえた。
7月16日、スティムソンのもとに届いた実験結果の第一報は、それが「予想をこえた」成功であることを告げていた。翌朝、さっそく彼はトルーマンンに、実験成功の知らせをもたらした。この日、はじめてトルーマンンはスターリンと会った。彼はその日の日記にスターリンとのやりとりを記している。それによれば、トルーマンンが「ダイナマイト」と称したスターリンの積極姿勢がうかがえる。スターリンはスペインのフランコを首にしたがっているし、イタリアの植民地や、イギリスの委任統治領なども含めた他の委任統治領を分割したがっていた。しかし、トルーマンンも「私もまだ爆発させてはいないが、あるダイナマイトをもっている」として、原爆を力強い後盾と考えていることがわかる。
しかし、この日(17日)の会談で、ソ連の対日参戦が8月15日になることを知らされトルーマンンは、日記に「それが起こったときには、日本は終わる」と記した。それは、対日戦の終結がソ連の参戦によってもたらされる、と考えていたことをあらわしている。
7月18日、ハリソンから原爆実験の広範囲な細目のいくつかについて知らせる第二報が、スティムソンの手もとに届いた。トルーマンンは原爆の存在強い味方にして、スターリンに対してヤルタ秘密協定の改訂を迫ろうとしていた。また、その日の日記には、「ロシアが参加する前に、日本はつぶれるだろうと信じる。マンハッタンが日本本土のうえにあらわれるとき、彼らはそうなるだろうと私は確信している。私はスターリンに適当なとき、それについて知らせることになるだろう」と記している。その日の会談で、スターリンから日本の和平依頼の事実を知らされた。つまり、日記は、日本が終戦決意を示している現在、対日戦の終結はロシアの参戦によってではなく、それ以前になされるアメリカの原爆の対日投下によってもたらされるであろうという判断をあらわしていた。また、原爆が現実の存在となった今、チャーチルとの合意のうえで原爆の存在をスターリンにも知らせようというのである。
7月21日、特使によって原爆実験の詳報がスティムソンに届けられた。長文のグローブスの覚書は、爆発で開放されたエネルギーが少なく見積もってもNTT火薬1万5千トンから2万トンに達するものであったことを示していた。それは予想以上の値であり、トルーマンンは原爆の威力にますます自信を深め、ついにはそれを、「過信」するようになったといえよう。22日チャーチルはスティムソンに、前日の会談でのトルーマンの変化をこう語っている。「昨日トルーマンンに何が起こったかを今や知った。私は理解できなかったが、この報告(グローブスの覚書)を読んだ後で会議に出たとき、彼(トルーマンン)は別人となった。彼は、ロシアにああしろこうしろと言い、会議全体を牛耳った」(荒井信一『原爆投下への道』東京大学出版会、222ページ)しかし、こうして達成されたヤルタ秘密協定の改訂は、後にさまざまな禍根を残したと言われている。
原爆投下作戦命令とポツダム宣言
原爆実験を知った後、トルーマンンがいまかいまかと待ち望んでいた知らせが7月23日の夜に届いた。スティムソンは翌朝、そのハリソンからの電報をもって大統領を訪ねた。それは、8月1日以降ならば原爆の投下作戦がいつでも可能であることを告げていた。さっそくトルーマンンは、8月3日以降、目視爆撃ができる転向となり次第、最初のウラン爆弾を広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに投下する命令を承認した。
同時に彼は、こうした状態のなかで対日戦終結の方法として前から検討されてきた対日警告、すなわちポツダム宣言を出す準備に取りかかった。しかし、トルーマンンが出そうとしているポツダム宣言には、対日戦の早期終結のために必要と考えられていた天皇制を保証する条文が、それまでのものから変更されてあいまいにしか示されていなかった。その結果、トルーマンン自身が日本側の拒否を確信しているようなポツダム宣言となって、会談不参加の中国の蒋介石総統の承認を得て、7月26日に出されることになった。
さらにもう一つ、チャーチルとすでに合意していたスターリンへの原爆告知が、この日まったく誠意のないやり方でおこなわれた。それもまた、7月4日にワシントンの国防省で行われた英米合同政策委員会の確認に反したやり方であった。トルーマンンは会談が終了する間際になって、何気なくスターリンに、前例のない破壊力をもつ新兵器をもっているとだけ告げた。それは、実際の原爆投下の衝撃をもっとも大きくするために、意図的になされたことであった。トルーマンン自身は、たぶんスターリンには何のことかわからなかったに違いないと推測した。しかし、スターリンは新兵器が原爆であることをしっかりと理解し、さっそくモロトフ外相といっしょに1942年以来停止していた原爆開発の再開について話し合ったのである。まさに、トルーマンンの誠意のない、あいまいな原爆告知が、この時点からの核兵器開発競争の引き金になったといえよう。
こうした7月24日の一連のトルーマンの行動は、いったい何を意味しているのであろう。それは対日戦の終結を、ソ連の参戦によって実現するのでもなく、またポツダム宣言によって実現するのでもなく、まさにアメリカの原爆投下によって実現しようという考えであった。その根本には、ソ連の参戦前に日本が降伏すれば、ソ連の参戦の条件であるヤルタ秘密協定自体が空文化できる。それによって、アメリカの国益は守られるし、同時にヤルタ秘密協定の公開によってうまれるであろう、国内世論の批判から自分たちの身を守ることもできる。さらに重要なことに、実践使用することで原爆の威力は誰の目にもあきらかになろう。こうしたさまざまな目論見があったのだろう。
8月6日、最初の原爆が広島に投下された。しかし、トルーマンたちの予測に反して日本は降伏しなかった。逆にこの原爆投下が引き金となって、ソ連は8月9日の未明、それまでの8月15日という予定を繰り上げて対日戦に参加してきた。日本の降伏については、ソ連参戦の衝撃を抜きにしては8月9日の終戦劇はありえなかった」と言われている。トルーマンたちの思惑、ソ連の参戦前に原爆の投下によって対日戦を終結するということは、みごとに裏切られたのである。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。