真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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原爆論争とスティムソン論文

2013年10月09日 | 国際・政治
 第2次世界大戦終結後しばらくして、アメリカ国民に原爆の破壊力の情報が伝わり、広島・長崎の惨状が明らかにされるにつれて、原爆投下に対しての批判や非難の声が渦巻いた。そんな中で、アメリカ国民に向けて原爆投下の正当性を訴えるために書かれたのが、「スティムソン論文」である。以後、その内容が原爆投下に関するアメリカ政府の「公式解釈」をかたちづくり、今もアメリカ国民の間では広く受け入れられている。それは、「原爆投下は,戦争の終結を早め,予定されていた日本への上陸を無用にし,結果として100万の米兵の命を救った、ゆえに正当であった」というような内容である。

 ところが、このアメリカ国民の常識となっている「公式解釈」は、今では、原爆を研究する多くの歴史学者や研究者によって事実上否定されている。「スティムソン論文は、戦後創作された作文である」というわけである。もしアメリカ国民が、「原爆が戦争の終結を早め100万の米兵の命を救った」というスティムソンの論文が根拠のないものであると受け止めていたら、あるいは、アメリカ国民が、米兵の「死者1万5000ないし、2万を含む6万3000の損耗」を避けるために、多数の一般市民を含む20万以上の日本人を、原爆投下の年に無残な死に追いやり、その後も毎年被曝による死者を出している事実を知ったら、さらに、原爆を投下しなくても、日本を降伏させることは可能であったという事実を知ったら、原爆投下に対するアメリカ国民の批判や非難は、核廃絶に向かっていたかも知れないと残念に思う。

 下記は、そうした原爆投下に関わる戦後の論争の経緯を、「アメリカの中の原爆論争 戦後50年 スミソニアン展示の波紋」NHK取材班[編集・執筆](ダイヤモンド社)から抜粋したものである。
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           第7章  作られた「100万人神話」

1 太平洋の苛酷な戦争

 日本への原爆投下の決断をアメリカの国民に説明するための動きは、1945年8月10日、国民に宛てたハリー・トルーマンン大統領のスピーチから始まった。
「世界は、初の原爆が軍事基地のある広島に投下されたことに注目するであろう。これは、この攻撃で、できるかぎり一般市民を犠牲にしたくない、と考えたからである。私たちは、戦争の苦しみを終わらせ、何千人もの若いアメリカ人の命を救うために、原爆を使ったのである」
 この発表の中の「軍事基地のある広島」という言葉によって、これを聞いたアメリカ人は、命を落とした一般市民は少数であり、一方「何千人」もの若いアメリカ人の命が救われたと信じた。日本の本土への攻撃に備えて移動中だったり、九州沖の艦上で待機していたアメリカの兵士たちは、原爆によって自分たちの命が救われたと確信しただろう。国で待っている人々にとっても、いつ、どんな不幸が舞い込んできてもおかしくない太平洋の彼方の戦地から若者たちが帰ってくるというだけで、どのような兵器の使用も正当性のあるものとなった。終戦直後の8月末に行われた世論調査では、アメリカ人の85パーセントが原爆の使用に賛成であった。


 しかし、終戦の喜びが次第におさまり、この新兵器の破壊力に関する情報が広がるにつれて、一般市民が暮らす大都市に原爆を投下したことに対して、批判の声が上がるようになった。原発の開発に加わった科学者やジャーナリストたちが、アメリカの勝利がほぼ確定していた時期にそのような兵器を使ったことが、真に必要なことだったのかどうかを問い始めた。

 やがて、数人の宗教者たちがこれに加わり、1946年3月6日の『ニューヨーク・タイムズ』に、広島と長崎への原爆投下は「道義的に弁護の余地がない」と非難する投書が掲載された。これらの投書は、2つの都市を破壊したことによって戦争の終結を早めることができたかどうかにかかわらず、その行為によってアメリカは「神の法則に反すると同時に、日本の人々に対しても大きな罪を犯した」と主張している。


 1946年8月31日、ニューヨークの市民誌『ニューヨーカー』は特集を組んで、その号すべてをジョン・ハーシーというジャーナリストによる、荒廃した広島からのレポートに当てた。被爆者の目から見た現状、そして荒廃した町のようすを渾身の力を込めて描き出す感動的な記事は、読者に強い印象を与え大きな反響を呼んだ。ハーシーの記事はいくつかの新聞に紹介されたほか、ABCラジオを通じて全国民に放送され、公共の場での話題となった。

 トルーマンの発表によって「日本の軍事基地」とされた広島の破壊を、アメリカの人々は当然のように支持していた。しかし、原爆の犠牲になった人々の姿を知り、普通の人々が住む大都市が、まるごと破壊されてしまったことが明らかになったのである。こうして、原爆の投下に対する疑問や、原爆そのものの道徳性を問う想いがまたたく間に広がっていった。


 2 1946年のノーマン・カズンズの発言

 原爆の使用に対する疑いの世論が高まるなかで、1946年9月14日の『サタデー・レビュー・リテラチュア』は、原爆を承認したリーダーたちを正面から攻撃し、質問によって回答を要求する、編集長ノーマン・カズンズの記事を掲載した。
 「私たちは人間として、広島と長崎で犯した罪に責任を感じているだろうか」「事前の示威行動をせずにただちに原爆を使用することに反対した科学者たちの申し立てを、権力者たちはなぜ、聞こうとしなかったのだろうか」そして、「日本がヒロシマ以前にすでに降伏しようとしていたという主張を、どう考えればよいのだろうか」
 カズンズは、この問題をさらに追及するために、アメリカの人々に対して、原爆の使用は理想的なものだったと思うかと問い、「他の国が核をまったく持っていない時に、われわれが他に先がけてそれを使用し、これからの戦争では核使用が一般化してしまうことを承認してしまったようなものだ」とつけ加えている。


 このような質問や批判に、原爆投下の決定に関わった指導者たちの間にも動揺の色が見え始めた。
 
 ・・・

 コナント(マンハッタン計画に参加したハーバード大学学長)は、陸軍省の元同僚を通して、スティムソン(ルーズベルト・トルーマンン両大統領のもとで陸軍長官を務めた人物)に手紙を出し、原爆の使用を正当とする声明文を書いてほしいと説得した。スティムソンはこの計画に加わることに最初乗り気ではなかったが、数人の元同僚たちから要望を受けて、結局、声明文を書くことを承諾した。
 
 トルーマンン大統領も、この計画を知って、スティムソンの執筆に期待するという手紙を1946年12月31日に、スティムソンに送っている。トルーマンンも、広島への原爆投下は十分に検討されることなく性急に決断されすぎたのではないか、という疑問があがっていることに不安を感じていたのである。大統領はスティムソンに「投下決定に関する記録を早急に整理する」よう要請した。


3 1947年のスティムソン論文

 アメリカ国民に向けて原爆投下の正当性を表明するという役割を与えられたスティムソンは、マクジョージ・バンディという若いアシスタントの協力を得て論文の執筆作業を開始した。このバンディは、後にベトナム戦争の時代に国務次官補を務めることになる人物である。

 スティムソンに代わってほとんどの執筆をお行ったバンディは、どのようにすれば最も説得力のある声明文を書くことができるか、コナントをはじめ多くの官僚たちからアドバイスを受けながら作業を進めた
。…

 ・・・

 この論文は、あらゆる批判をすべて否定するために書かれるものであると同時に、その意図を、人々に感じとらせないような配慮が必要だった。
 論文の最終原稿を読み終えたコナントは、スティムソンに宛てた手紙に「いい調子に仕上がっていると思います。このおかげで十分な成果をあげられるでしょう」と書いている。
 ヘンリー・スティムソンによる「原爆使用の決断」(The Decision to Use the Atomic)と題する論文は、1947年の『ハーバーズ・マガジン』2月号に掲載されたが、その反響はコナントが初めに予想していたよりずっと大きなものになった。


 高まる原爆投下批判に対するジェームズ・コナントの対応策は、こうして、原爆に関する最も影響力の大きい声明へとつながったのである。この声明はすぐにヒロシマの決断についての「公式な」歴史として認められ、批判的だった人々をも含む多くの人々から絶賛されることになった。
 『ニューヨーク・タイムズ』はこれを一面で取り上げ、その記事は「公共への高い重要性」があるとして、無料で国内のさまざまな新聞に掲載されることになった。読者たちは、決断の背景にあった理由やそれまで知られていなかった事柄を力強く語るスティムソンに感動し、彼の厳格で、人間性に満ちた論文に感銘を受けた。


 スティムソンの論文の中の最も重要だった点は、原爆の使用に至った最大の理由は戦争を早く終わらせることだったとし、そのために救われたアメリカ人の人数として「100万人以上」という数字をあげたことである。

 ・・・

 やがて極秘となっていた資料が公開され、1980年代半ばにはこの死傷者の推定人数の確実性を問うための十分な証拠が、歴史家たちの手許に揃った。すべての調査の結果、本土進攻に動員されると予想された人数はすべて合わせても、スティムソンの言った「100万人」を下回っていた。…

 1995年4月、私たちはスティムソンの声明文執筆の協力者、つまり論文のゴーストライターを務めたマクジョージ・バンディに会うことができた。そして、彼自身の口からこの死傷者の推定は何の根拠もなかったことを確認することができたのである。

4 バートン・バーンステインの証言

「50年前の夏、トルーマンン大統領が運命の決断を下したとき、彼が得ていた情報は、原爆の投下によって、約6万3000人のアメリカ兵の命を救うことができることを語っていた」──バートン・バーステインがそう記す研究結果は、トルーマンン大統領が後に回顧録で記した「50万人」という数字を、そしてスティムソン論文以来、教科書にも堂々と記され続けた「100万人」という数字を、大きく書き替えるものだった。
 バーンステインの許には、そのことで非難の手紙が数え切れないほど寄せられた。
 沖縄戦の50周年記念式典も終わった1995年4月、スミソニアンの展示計画がすっかり姿をかえてしまったことに大きな失望の表情を見せるバーンステインに、私たちはスタンフォード大学の一室で会うことができた


 Q スティムソン論文について、どうお考えになりますか。
 A スティムソン論文は、1947年、原爆使用に反対の声が渦巻いていた時代に発表され、たとえて言えば、率先してこれらの波を大洋から締め出し、おし静めて基本的なコンセンサスを築き直しました。論文が存在しなくてもこの見方がおおかたのコンセンサスでもありえたかどうかは、何とも言えません。間違いなく、論文はコンセンサスを作るのに役立ちました。そして論文は1948年以後60年代中頃まで、ほぼ一世代にわたるアナリストにとって判断の基準となり、ほとんどのアナリストがこの論文を、なぜ原爆が使われたのかを説明するのに引用しました。
 この論文は、真実を伝えるためではなく、真実を利己的な目的で作文し、しかもそうした目的があったことを暗に否定するために思いついたものです。歴史は単に過去に起こった事柄ではなく、人々が、過去に起こったと考える事柄でもあるのです。時として、過去に起こった事柄について、ある特定の考え方を他人に押しつけようと目論むこともあります。これが、ヘンリー・スティムソンのなし遂げた仕事でした。
 Q この論文が作り上げた「事実」は、突き崩されるべきですか? あるいは崩すことができますか?

 A ・・・
   歴史学者の中には、1945年の6月中旬の推定損耗兵員数は6万3000人であったこと、そしてこの数字は、トルーマンンに原爆投下を決断させるのに十分意味のあるものだったという見方も、けっしてありえないことではないという意見もあります。実際、私も、それがトルーマンンが原爆を使った最大の理由の一つであると考えています。死傷者数6万3000人は彼にとって許し難い数だったのです。
 ところが50年後の今日、全米退役軍人協会と空軍協会は、思うに、死者1万5000ないし、2万を含む6万3000の損耗という数は少なすぎると思ったのでしょう。そして、50万とか100万なら、どんな議論をも抑えられるだろうと

 Q あなたは、自分の考え方が少数派だと感じられたことがありますか。
 A 原爆の問題に関して、自分が少数派だとは思いません。実際、展示企画の担当者たちがスミソニアン展示を実現しようとしていた1992年、93年頃に、ほとんどの国民のコンセンサスを取りつけていた考え方は、原爆は必要ではなかったか、あるいはたぶん必要ではなかっただろうという考え方でした。わたしは「たぶん必要ではなかった」という立場を代表していました。今も、代表しています。原爆を研究している歴史学者はほとんどが、今でもその立場をとり、おそらくはほとんどの学者がその立場をとっているのではないかと思います。
… 
 …歴史学者のなかの多数派だろうと思います。
・・・


(以下略)

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

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