日本には、戦争被害の事実を後世に伝えようとする記念館や碑があちこちにあるのに、加害の事実を伝えようとするものはほとんどないようである。また、加害の事実を子どもに指導しようとする教師に対しては、すぐに、反日教師のレッテルが貼られ、時には、学校の周りに街宣車が来ることもあるという。そして、日本の教科書からは加害の事実が少しずつ消えつつある。その結果、日本と中国や韓国はもちろん、東南アジア諸国とも、歴史認識のズレがいっそう大きくなっていく。
「世界の歴史教科書ー11カ国の比較研究」石渡延男・越田稜編著に、シンガポールの教科書に関わる下記のような記述がある。
” ・・・ ところでシンガポールでは最近大きな変化がありました。これまでは教科書の改訂を8年から9年間隔くらいで実施していたのが、94年からわずか5年後に全面改定となったのです。歴史学習の様子も大きく変わりました。93年までは、日本占領下の暗黒時代は中学2年生で初めて学習することになっていたのが、94年からは中学1年生で学習するように早められました。ところが、99年からは、小学校4年生でそれも半年間「ダークイヤーズ(暗黒時代)」という単独の教科書で学習することになりました。その上、中学1年生でまた詳しく占領時代を学習するというわけです。
これまでシンガポールは、「ルックイースト」政策で日本を国づくりのお手本とし、経済立国に成功したのだし、いまも日本とは有効な関係にあるので、日本のマイナスイメージになる占領時代のことは小学生には教えないのだといわれていました。それが、最近になってこのように急変したのです。ここに最近の日本の右傾化に対するシンガポール側の警戒心の強まりが読み取れます。「新しい歴史教科書をつくる会」による中学歴史教科書の登場はますます警戒心を強めさせたと思います。”
・・・”
ところが、日本では、 そんなことは無視して、安倍自民党政権が「自虐史観から脱皮する教育を進める」として、教科書検定基準の「近隣諸国条項」を廃止する方向で動いている。「近隣諸国条項」とは、日本が「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに、国際理解と国際協調の見地から必要な配慮をする」というものである。
”なぜ廃止するのか”という「問い」に関しては、安部首相自身が「残念ながら、教科書の検定基準が、愛国心や郷土愛を尊重することとした改正教育基本法の精神を生かせないものとなっている。自負心を持てるようにすることが(教育の)基本だ。教育的な観点から教科書が採択されるかどうか検討していく必要がある」と述べた言葉が「答え」になっているのではないかと思う。
下村博文文部科学相も、教科書検定制度について「日本に生まれたことを誇らしく思えるような歴史認識が教科書に記載されるようにしていく必要がある」として、見直しを検討していくと述べている。「自虐史観に陥ることなく日本の歴史と伝統文化に誇りを持てるよう、教科書の編集・検定・採択で必要措置を講ずる」という安倍自民党政権の方針に沿うものである。
このような、「愛国心や郷土愛を尊重」し、「日本に生まれたことを誇らしく思えるような」歴史教育をするために、不都合な事実を隠蔽するような歴史教育でよいのか、と思う。侵略地・占領地で住民を苦しめた日本軍の行為やいわゆる「従軍慰安婦」の記述などを削除することによって誇りを取り戻すことが、国際社会で通用するとは思えない。
「世界の歴史教科書ー11カ国の比較研究」石渡延男・越田稜編著には、上記の文章に続いて、シンガポールから日本に来ている有識者の方の話が紹介されているが、まとめると、以前とちがって最近の日本の大学生は、戦時中の話をするといやがり、正面から受け止めてくれなくなっているというような内容である。東南アジア諸国の歴史教育とかけ離れた自分勝手な歴史教育を続ければ、これからの子どもたちの相互理解は、いっそう難しくなるのではないかと思う。
下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)から、シンガポールの中学校初級用『現代シンガポール社会経済史』(英語)第13章のごく一部を抜粋したものである。
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中学校初級用 『現代シンガポール社会経済史』(英語)
第13章 日本占領下のシンガポール
13・1 イギリス降伏後のシンガポール
123年間、シンガポールの人びとは平和に暮らしていた。日本軍がシンガポールを攻撃したとき、人びとは戦争の恐怖を体験しなければならなかった。日本軍が島を占領した3年半の間は、さらに大きな被害と困難な状況が待ち受けていた。この時期は、日本軍占領時代として知られている。
イギリスが降伏してからすぐ、シンガポールの町は恐怖の都市と化した。多くの建物が破壊され、多くの死体が道や焼けた建物の中に横たわっていた。イギリスとオーストラリアの捕虜が町の清掃と遺体の埋葬を強いられた。そのうえ、水や電気やガスの不足もあった。昇る太陽を示す日本の旗が家の前に掲げられた。シンガポールは昭南島(ショウナントウと発音)あるいはショーナンアイランドと名前を変えさせられた。”ショーナン”は”南の光”を意味する。しかし、この”光”は明るく輝くことなく、シンガポールの人びとは日本の支配下で彼らの生涯のうち、もっとも暗い日々をすごした。
シンガポール在住のさまざまな民族の指導者たちは、中国人をのぞいて、日本陸軍の将校たちに会うため、ブキティマに行った。中国を助けるため資金を集めていた多くの中国人指導者は、シンガポールから逃げ出してしまっていた。彼らは、もし隠れて残っていれば首をはねられるであろうことを知っていた。
ブキティマで偶然日本軍隊と出会ってしまった何人かの中国人は、彼らの平手うちにあった。ある者は蹴られ、そしてある者はひざまずかされた。数人の人は、互いの顔を平手打ちさせられることもあった。それから日本人は欲しがっている物を人びとから奪った。例えば、車や時計やミシンなど、何でも奪った。婦人や少女たちは日本の兵士を恐れて暮らした。
有刺鉄線が道路を閉鎖するため、道にはりめぐらされた。日本兵はそこを通り過ぎる人びとをおどしたり、ときには何時間も道ばたにひざまずかせたりして、見張りをした。日本兵の見張りが見ていないすきに自転車で逃げようとした人もすぐ捕らえられた。彼はひざまずかせられ、気を失うまで頭部を殴打された。日本の兵士は、シンガポールに住むだれもが彼らに従い、尊敬の念を示すことを欲した。見張り番についている日本兵士とすれちがうときは、だれもが彼にお辞儀をせねばならなかった。もしそうしなければ、彼は打たれるか蹴られるか、もしくは他のなんらかの方法で罰せられた。
店主が略奪を恐れたので、多くの店は閉まっていた。日本軍がシンガポールを完全に制圧する直前まで、多くの略奪者がオランダ通りやタングリン通りやブキティマ通りやその他で、家からの略奪を行っていた。彼らは手に入るものならなんでも盗んだ。彼らのうちの何人かが日本の軍用倉庫に侵入する日まで、どのようなことをしても、彼らを止められそうもなかった。その場で彼らは現行犯として日本兵に捕らえられ、日本兵はただちに彼らの首をはねた。日本兵は彼らの首を、スタンフォード通りやフラトンビルの外側やキャセイビルの外側やその他の場所にさらした。略奪はすぐにとまった。
13・3 中国人処罰
日本人は中国人を憎悪し、虐待した。彼らは中国で中国人と戦い続けてきた。したがって、中国人は日本人の敵であった。彼らは、シンガポール在住の中国人が抗日戦争中の中国を援助するため、資金を与えているいるのを知っていた。また中国人志願兵の一群が日本と激しく戦っていたことも知っていた。日本人に抵抗する中国人を排除するという企みをもって、日本人は、シンガポール在住の中国人を処罰することに全力を尽くした。すべての中国人、とくに18歳から50歳までの男性は、日本人によって”検証(訳注:敵性華僑摘発と粛清の調査)”されるため、何ヶ所もの集合場所(たとえば、ジャラン・プサールやタンジュン・バーガー)に出頭しなければならなかった。いくつかの集合場所には小屋もなく、人びとは何日も野ざらしのままだった。ほとんど食糧も水なく、トイレの設備さえもなかった。彼らの中のだれが日本人に反抗したかを見つけるための、中国人を”検証する”適当な方法を日本人は持っていなかった。ある集合場所では、フードやマスクをさせて顔を隠した現地の市民の助けを借りた。彼らは日本の敵だとして何人かの人を名指しした。これらの人びとは連れ去られ、けっしてふたたび姿を見ることはなかった。何千人もの中国人が貨物自動車で連れ去られた。彼らのほとんどがチャンギ海岸や他の東海岸地域に連行され、そこでグループごとに一緒に縛られた。それから彼らは射たれ、死ななかったものは銃剣(銃の先端に固定されたナイフ)で死にいたるまで刺された。
連行されなかった中国人は、センターで恐怖の数日を過ごしてから帰宅することを許された。あるものには「検証済み」という印がおされた一枚の小さな紙が与えられた。他のものは、ワイシャツやチョッキの上にこの印をおされた。彼らはそれ以上、日本人に詰問されないように、その紙やスタンプのおされたワイシャツやチョッキを持っていた。
13・6 ケンペイタイの恐怖
日本軍警察であるケンペイタイについては、恐ろしい話がたくさんある。「ケンペイタイ」ということばを口にすると、人びとは心に恐怖の念が打ちこまれる思いをもつことだろう。ケンペイタイは島全体にスパイをおいた。だれを信じてよいのかだれにもわからなかった。スパイによって日本軍に通報された者は、オーチャード通りにあるYMCAやクィーン通りにあるラッフルズ女学校といったケンペイタイの建物に連れていかれた。そこで彼らはあまりにもひどい拷問を受けたので、多くの者は自分の受けた苦しみを、人に告げることなく死んでいった。日本軍が使ったもっとも一般的な拷問の一つは「水責め」であった。捕われた人は寝かせられ、大量の水が鼻や口から流し込まれた。ときには、この残酷な仕打ちが数週間もくりかえされた。
13・7 食糧供給不足と闇市
日本軍がシンガポールを占領した時点では、都市周辺の倉庫には物や食糧の貯えが、2、3年は十分もちこたえられるほど、多量にあった。しかし日本軍は、彼ら自身のためにこれらの貯えをとりあげ、シンガポールの人びとにはほとんど残らなかった。最初の2、3ヶ月間は、中国人街の人びとは盗んだ品物を売っていた。この「商売」はすぐになくなった。食糧その他の商品の値がはねあがった。市場はまもなくほとんどからっぽになり、店では売るものがなかった。米や他の食料品の価格はあがり続けた。たとえば、米の価格は1941年12月には1ピクル(約60キログラム)につき5ドルであったのに、1944年3月には200ドルになった。1945年6月には5000ドルにまでなった。
富のある者も貧しき者もともに、食糧不足に悩み、多くの人が飢えと渇きを経験した。このようなときに、もしだれかが店からジャムを買おうとしても、店員はそんなものは全然ないというであろう。しかし、もしも大変高い額を支払うつもりであることを示せれば、店主は、それを手に入れる場所を知っていた。それは「闇市」として知られているものである。もし、高額が支払えないのであれば、それなしですまさなければならなかった。こういうことは靴ひも、針、タオル、石けんのようなものでも同じだった。多くの人はそのような品物に高額の金を払う余裕はなかった。しかし人びとが困っている一方で、日本人は最上の物をなんでも持っていた。たとえば米や砂糖、肉、魚、ウイスキー、タバコなどである。
当時使用されていた紙幣、つまりドル紙幣は日本の「バナナ紙幣」(訳注:軍票)であった。これら紙幣にはバナナや他の果物の絵が描かれていたので、バナナ紙幣と呼ばれた。日本人は好きなだけ紙幣を印刷した。彼らは、しばしば粗悪な紙を使用したり、また通し番号のない紙幣まで使用したりした。品不足の深刻化にしたがい、商品の価値は急速に上昇し、日本の金の価格はますます低下していった。このことは、同じ額の金で買えるものがどんどん少なくなっていくことを意味した。
品物不足と、その結果起きる困窮が、シンガポールの外国貿易もほとんど行きづまり状態にさせた主要な原因である。日本をふくめて、他の諸外国との貿易は無に等しかった。船主が燃料油に不足していたため、ほとんどの船が近隣諸国から食料品を持ちこめなかった。日本軍は自軍の戦艦や飛行機や戦車や軍用トラックに使うために、東南アジアでとれる石油や石油製品をとりあげた。そのうちのいくらかは、日本国民が使うために持ちさられた。
イギリスやアメリカやオーストラリアやその他の連合国の船も、食料品や他の品物をシンガポールに持ちこめなかった。これらの国は日本と交戦中であり、シンガポールと貿易をすることができなかった。彼らの船の多くは、日本の戦艦と潜水艦によって沈められた。海運業が極度に減り、他国との貿易もままならなくなったので、シンガポールの貿易業者や商人は、もはや貿易で金を稼ぐことができなくなった。そして貿易や他の商売がこんなにも少なくなってしまったことで、その生計を貿易や商売にたよっていた何千人もの人びとは働く場所を失ってしまった。
貿易も仕事も金もない多くの人びとは、どのようにして飢餓の年月を、生きぬいたのだろう。たいていの人は、さつまいもとかタピオカとか野菜のような食べものを栽培しなければならなかった。彼らは、裏庭や自分の家に近い小さな土地で、それらを栽培した。実際、さつまいもやタピオカは人びとの主食となった。日本人はブキティマやベドックやヨウチューカンやその他の場所に新しく農地を開いた。しかし、これらの農業地域も、人びとに十分な食糧を生産できなかった。そこでは米の収穫はなかった。政府はまた、何千人もの中国人やユーラシア人が、自分たちで食べるものを栽培できるように、二つの農場を開拓しようとして、マラヤに彼らを移民させる政策をとった。食糧の不足にともなって、シンガポールでは配給制が行われた。たとえば、米は1ヶ月に男性1人につき、たったの8カイツ(4.8キログラム)、女性1人につき6カイツ(3.6キログラム)、子ども1人につき4カイツ(2.4キログラム)だけが配給された。米の配給量は1944年の初頭に減らされた。
シンガポールの多くの人びとは、食べるのに十分な食糧がなかった。彼らはバランスの取れた食事がとれないため、多くの人びとがベリ・ベリ(訳注:脚気のこと)と呼ばれる病気に苦しんだ。そうでない人も、結核とかマラリア、その他の病気で悩まされた。人びとの健康状態の悪化から、そしてまた薬品類の不足により、多くの人びとが死んだ。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です
「世界の歴史教科書ー11カ国の比較研究」石渡延男・越田稜編著に、シンガポールの教科書に関わる下記のような記述がある。
” ・・・ ところでシンガポールでは最近大きな変化がありました。これまでは教科書の改訂を8年から9年間隔くらいで実施していたのが、94年からわずか5年後に全面改定となったのです。歴史学習の様子も大きく変わりました。93年までは、日本占領下の暗黒時代は中学2年生で初めて学習することになっていたのが、94年からは中学1年生で学習するように早められました。ところが、99年からは、小学校4年生でそれも半年間「ダークイヤーズ(暗黒時代)」という単独の教科書で学習することになりました。その上、中学1年生でまた詳しく占領時代を学習するというわけです。
これまでシンガポールは、「ルックイースト」政策で日本を国づくりのお手本とし、経済立国に成功したのだし、いまも日本とは有効な関係にあるので、日本のマイナスイメージになる占領時代のことは小学生には教えないのだといわれていました。それが、最近になってこのように急変したのです。ここに最近の日本の右傾化に対するシンガポール側の警戒心の強まりが読み取れます。「新しい歴史教科書をつくる会」による中学歴史教科書の登場はますます警戒心を強めさせたと思います。”
・・・”
ところが、日本では、 そんなことは無視して、安倍自民党政権が「自虐史観から脱皮する教育を進める」として、教科書検定基準の「近隣諸国条項」を廃止する方向で動いている。「近隣諸国条項」とは、日本が「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに、国際理解と国際協調の見地から必要な配慮をする」というものである。
”なぜ廃止するのか”という「問い」に関しては、安部首相自身が「残念ながら、教科書の検定基準が、愛国心や郷土愛を尊重することとした改正教育基本法の精神を生かせないものとなっている。自負心を持てるようにすることが(教育の)基本だ。教育的な観点から教科書が採択されるかどうか検討していく必要がある」と述べた言葉が「答え」になっているのではないかと思う。
下村博文文部科学相も、教科書検定制度について「日本に生まれたことを誇らしく思えるような歴史認識が教科書に記載されるようにしていく必要がある」として、見直しを検討していくと述べている。「自虐史観に陥ることなく日本の歴史と伝統文化に誇りを持てるよう、教科書の編集・検定・採択で必要措置を講ずる」という安倍自民党政権の方針に沿うものである。
このような、「愛国心や郷土愛を尊重」し、「日本に生まれたことを誇らしく思えるような」歴史教育をするために、不都合な事実を隠蔽するような歴史教育でよいのか、と思う。侵略地・占領地で住民を苦しめた日本軍の行為やいわゆる「従軍慰安婦」の記述などを削除することによって誇りを取り戻すことが、国際社会で通用するとは思えない。
「世界の歴史教科書ー11カ国の比較研究」石渡延男・越田稜編著には、上記の文章に続いて、シンガポールから日本に来ている有識者の方の話が紹介されているが、まとめると、以前とちがって最近の日本の大学生は、戦時中の話をするといやがり、正面から受け止めてくれなくなっているというような内容である。東南アジア諸国の歴史教育とかけ離れた自分勝手な歴史教育を続ければ、これからの子どもたちの相互理解は、いっそう難しくなるのではないかと思う。
下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)から、シンガポールの中学校初級用『現代シンガポール社会経済史』(英語)第13章のごく一部を抜粋したものである。
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中学校初級用 『現代シンガポール社会経済史』(英語)
第13章 日本占領下のシンガポール
13・1 イギリス降伏後のシンガポール
123年間、シンガポールの人びとは平和に暮らしていた。日本軍がシンガポールを攻撃したとき、人びとは戦争の恐怖を体験しなければならなかった。日本軍が島を占領した3年半の間は、さらに大きな被害と困難な状況が待ち受けていた。この時期は、日本軍占領時代として知られている。
イギリスが降伏してからすぐ、シンガポールの町は恐怖の都市と化した。多くの建物が破壊され、多くの死体が道や焼けた建物の中に横たわっていた。イギリスとオーストラリアの捕虜が町の清掃と遺体の埋葬を強いられた。そのうえ、水や電気やガスの不足もあった。昇る太陽を示す日本の旗が家の前に掲げられた。シンガポールは昭南島(ショウナントウと発音)あるいはショーナンアイランドと名前を変えさせられた。”ショーナン”は”南の光”を意味する。しかし、この”光”は明るく輝くことなく、シンガポールの人びとは日本の支配下で彼らの生涯のうち、もっとも暗い日々をすごした。
シンガポール在住のさまざまな民族の指導者たちは、中国人をのぞいて、日本陸軍の将校たちに会うため、ブキティマに行った。中国を助けるため資金を集めていた多くの中国人指導者は、シンガポールから逃げ出してしまっていた。彼らは、もし隠れて残っていれば首をはねられるであろうことを知っていた。
ブキティマで偶然日本軍隊と出会ってしまった何人かの中国人は、彼らの平手うちにあった。ある者は蹴られ、そしてある者はひざまずかされた。数人の人は、互いの顔を平手打ちさせられることもあった。それから日本人は欲しがっている物を人びとから奪った。例えば、車や時計やミシンなど、何でも奪った。婦人や少女たちは日本の兵士を恐れて暮らした。
有刺鉄線が道路を閉鎖するため、道にはりめぐらされた。日本兵はそこを通り過ぎる人びとをおどしたり、ときには何時間も道ばたにひざまずかせたりして、見張りをした。日本兵の見張りが見ていないすきに自転車で逃げようとした人もすぐ捕らえられた。彼はひざまずかせられ、気を失うまで頭部を殴打された。日本の兵士は、シンガポールに住むだれもが彼らに従い、尊敬の念を示すことを欲した。見張り番についている日本兵士とすれちがうときは、だれもが彼にお辞儀をせねばならなかった。もしそうしなければ、彼は打たれるか蹴られるか、もしくは他のなんらかの方法で罰せられた。
店主が略奪を恐れたので、多くの店は閉まっていた。日本軍がシンガポールを完全に制圧する直前まで、多くの略奪者がオランダ通りやタングリン通りやブキティマ通りやその他で、家からの略奪を行っていた。彼らは手に入るものならなんでも盗んだ。彼らのうちの何人かが日本の軍用倉庫に侵入する日まで、どのようなことをしても、彼らを止められそうもなかった。その場で彼らは現行犯として日本兵に捕らえられ、日本兵はただちに彼らの首をはねた。日本兵は彼らの首を、スタンフォード通りやフラトンビルの外側やキャセイビルの外側やその他の場所にさらした。略奪はすぐにとまった。
13・3 中国人処罰
日本人は中国人を憎悪し、虐待した。彼らは中国で中国人と戦い続けてきた。したがって、中国人は日本人の敵であった。彼らは、シンガポール在住の中国人が抗日戦争中の中国を援助するため、資金を与えているいるのを知っていた。また中国人志願兵の一群が日本と激しく戦っていたことも知っていた。日本人に抵抗する中国人を排除するという企みをもって、日本人は、シンガポール在住の中国人を処罰することに全力を尽くした。すべての中国人、とくに18歳から50歳までの男性は、日本人によって”検証(訳注:敵性華僑摘発と粛清の調査)”されるため、何ヶ所もの集合場所(たとえば、ジャラン・プサールやタンジュン・バーガー)に出頭しなければならなかった。いくつかの集合場所には小屋もなく、人びとは何日も野ざらしのままだった。ほとんど食糧も水なく、トイレの設備さえもなかった。彼らの中のだれが日本人に反抗したかを見つけるための、中国人を”検証する”適当な方法を日本人は持っていなかった。ある集合場所では、フードやマスクをさせて顔を隠した現地の市民の助けを借りた。彼らは日本の敵だとして何人かの人を名指しした。これらの人びとは連れ去られ、けっしてふたたび姿を見ることはなかった。何千人もの中国人が貨物自動車で連れ去られた。彼らのほとんどがチャンギ海岸や他の東海岸地域に連行され、そこでグループごとに一緒に縛られた。それから彼らは射たれ、死ななかったものは銃剣(銃の先端に固定されたナイフ)で死にいたるまで刺された。
連行されなかった中国人は、センターで恐怖の数日を過ごしてから帰宅することを許された。あるものには「検証済み」という印がおされた一枚の小さな紙が与えられた。他のものは、ワイシャツやチョッキの上にこの印をおされた。彼らはそれ以上、日本人に詰問されないように、その紙やスタンプのおされたワイシャツやチョッキを持っていた。
13・6 ケンペイタイの恐怖
日本軍警察であるケンペイタイについては、恐ろしい話がたくさんある。「ケンペイタイ」ということばを口にすると、人びとは心に恐怖の念が打ちこまれる思いをもつことだろう。ケンペイタイは島全体にスパイをおいた。だれを信じてよいのかだれにもわからなかった。スパイによって日本軍に通報された者は、オーチャード通りにあるYMCAやクィーン通りにあるラッフルズ女学校といったケンペイタイの建物に連れていかれた。そこで彼らはあまりにもひどい拷問を受けたので、多くの者は自分の受けた苦しみを、人に告げることなく死んでいった。日本軍が使ったもっとも一般的な拷問の一つは「水責め」であった。捕われた人は寝かせられ、大量の水が鼻や口から流し込まれた。ときには、この残酷な仕打ちが数週間もくりかえされた。
13・7 食糧供給不足と闇市
日本軍がシンガポールを占領した時点では、都市周辺の倉庫には物や食糧の貯えが、2、3年は十分もちこたえられるほど、多量にあった。しかし日本軍は、彼ら自身のためにこれらの貯えをとりあげ、シンガポールの人びとにはほとんど残らなかった。最初の2、3ヶ月間は、中国人街の人びとは盗んだ品物を売っていた。この「商売」はすぐになくなった。食糧その他の商品の値がはねあがった。市場はまもなくほとんどからっぽになり、店では売るものがなかった。米や他の食料品の価格はあがり続けた。たとえば、米の価格は1941年12月には1ピクル(約60キログラム)につき5ドルであったのに、1944年3月には200ドルになった。1945年6月には5000ドルにまでなった。
富のある者も貧しき者もともに、食糧不足に悩み、多くの人が飢えと渇きを経験した。このようなときに、もしだれかが店からジャムを買おうとしても、店員はそんなものは全然ないというであろう。しかし、もしも大変高い額を支払うつもりであることを示せれば、店主は、それを手に入れる場所を知っていた。それは「闇市」として知られているものである。もし、高額が支払えないのであれば、それなしですまさなければならなかった。こういうことは靴ひも、針、タオル、石けんのようなものでも同じだった。多くの人はそのような品物に高額の金を払う余裕はなかった。しかし人びとが困っている一方で、日本人は最上の物をなんでも持っていた。たとえば米や砂糖、肉、魚、ウイスキー、タバコなどである。
当時使用されていた紙幣、つまりドル紙幣は日本の「バナナ紙幣」(訳注:軍票)であった。これら紙幣にはバナナや他の果物の絵が描かれていたので、バナナ紙幣と呼ばれた。日本人は好きなだけ紙幣を印刷した。彼らは、しばしば粗悪な紙を使用したり、また通し番号のない紙幣まで使用したりした。品不足の深刻化にしたがい、商品の価値は急速に上昇し、日本の金の価格はますます低下していった。このことは、同じ額の金で買えるものがどんどん少なくなっていくことを意味した。
品物不足と、その結果起きる困窮が、シンガポールの外国貿易もほとんど行きづまり状態にさせた主要な原因である。日本をふくめて、他の諸外国との貿易は無に等しかった。船主が燃料油に不足していたため、ほとんどの船が近隣諸国から食料品を持ちこめなかった。日本軍は自軍の戦艦や飛行機や戦車や軍用トラックに使うために、東南アジアでとれる石油や石油製品をとりあげた。そのうちのいくらかは、日本国民が使うために持ちさられた。
イギリスやアメリカやオーストラリアやその他の連合国の船も、食料品や他の品物をシンガポールに持ちこめなかった。これらの国は日本と交戦中であり、シンガポールと貿易をすることができなかった。彼らの船の多くは、日本の戦艦と潜水艦によって沈められた。海運業が極度に減り、他国との貿易もままならなくなったので、シンガポールの貿易業者や商人は、もはや貿易で金を稼ぐことができなくなった。そして貿易や他の商売がこんなにも少なくなってしまったことで、その生計を貿易や商売にたよっていた何千人もの人びとは働く場所を失ってしまった。
貿易も仕事も金もない多くの人びとは、どのようにして飢餓の年月を、生きぬいたのだろう。たいていの人は、さつまいもとかタピオカとか野菜のような食べものを栽培しなければならなかった。彼らは、裏庭や自分の家に近い小さな土地で、それらを栽培した。実際、さつまいもやタピオカは人びとの主食となった。日本人はブキティマやベドックやヨウチューカンやその他の場所に新しく農地を開いた。しかし、これらの農業地域も、人びとに十分な食糧を生産できなかった。そこでは米の収穫はなかった。政府はまた、何千人もの中国人やユーラシア人が、自分たちで食べるものを栽培できるように、二つの農場を開拓しようとして、マラヤに彼らを移民させる政策をとった。食糧の不足にともなって、シンガポールでは配給制が行われた。たとえば、米は1ヶ月に男性1人につき、たったの8カイツ(4.8キログラム)、女性1人につき6カイツ(3.6キログラム)、子ども1人につき4カイツ(2.4キログラム)だけが配給された。米の配給量は1944年の初頭に減らされた。
シンガポールの多くの人びとは、食べるのに十分な食糧がなかった。彼らはバランスの取れた食事がとれないため、多くの人びとがベリ・ベリ(訳注:脚気のこと)と呼ばれる病気に苦しんだ。そうでない人も、結核とかマラリア、その他の病気で悩まされた。人びとの健康状態の悪化から、そしてまた薬品類の不足により、多くの人びとが死んだ。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です