真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アジアの教科書に書かれた日本の戦争 ブルネイ・ミャンマー

2014年05月31日 | 国際・政治
 ブルネイは、カリマンタン島(ボルネオ島)北部に位置する三重県ほどの面積の小国である。北側が南シナ海に面するほかはマレーシアに取り囲まれているが、石油資源が豊富で、かつてはイギリス東洋艦隊の重要な燃料補給基地があり、イギリスの植民地であった。そのブルネイを、1941年12月16日、日本陸軍が攻撃し占領した。そして、日本が降伏するまで、ブルネイの人びとも、日本軍の圧政に苦しめられたのである。教科書の日本軍政下の記述内容は、それほど詳しいものではないが、「アジア人のためのアジア」をスローガンに「西洋列強を排除する企て」もってなされた、「東亜新秩序」の実態を、ブルネイの子どもたちが学んでいることを忘れてはならないと思う。

 また、イギリス軍を追い出し、バモオ博士を首班とする暫定内閣を組織させたミャンマー(ビルマ)における日本軍の軍政に関わる記述も、日本人には耳の痛いものばかりである。しかし、その「ファシスト日本の支配下においては、・・・」というような「日本時代」の悲しむべき数々の記述を、日本人がなかったことにしてはならないと思う。

 下記のような教科書の記述をしっかり踏まえ、それを乗り越えて、生まれ変わるしか「誇りを取り戻す」ことなどできないと思うのである。  

 下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)の、「ブルネイ」および「ミャンマー」から、私が忘れてはならないと思った項目を、選んで抜粋したものである。
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初級中学校用『ブルネイの歴史』(英語)ブルネイ言語・図書委員会編1978年版

            三部    21 日本のブルネイ占領
 1938年、日本は「東亜新秩序」を宣言した。それは、日本が蒋介石政府をうち倒し、中国を掌中に収めるためのものであった。また、新秩序は、東南アジアにおけるすべての西洋列強を排除することも目的とした。日本のスローガンは”アジアのためのアジア”であった。

 日本陸軍は、東南アジア本土への第1回目の攻撃を陸から開始した。東南アジア本土に攻撃を加えながら、ブルネイにも日本陸軍は上陸していた。

 1941年12月16日、日本陸軍はクアラ・ベライトに上陸し、ただちにセリア油田を占領した。6日後の1941年12月22日、ブルネイ市は日本陸軍により占領され、ブルネイ政府のイギリス将校全員が捕虜となった。

 日本陸軍は、その後すぐ、その新秩序を宣伝し始めた。その新秩序は、日本陸軍の宣伝の方法が乱暴かつ横暴だったため、ブルネイの人びとの歓迎を受けなかった。クアラ・ベライトの住民は油田の労働にかり出され、村人は穀物の生産を強いられた。彼らはまた、日本の軍事規律を無視した者たちに対して行われた大量処刑を目の前で見させられた。

 商売の取引も行われなくなってしまった。2、3人の小売商人のみが配給係として、その商売を続けることを許された。ブルネイの住人にとって幸いなことに、政府が第2次世界大戦勃発以前に、大量の米の輸入を貿易業者に命じていた。米はブルネイの人びとにとって主要な食糧である。ブルネイ政府は、ヨーロッパの戦況から察して極東における輸送ルートがマヒしてしまうだろう、ということを考慮に入れて、このような行動をとった。それ故、日本がブルネイを占領した初めのころは食糧不足はなかった。しかし、十分であった食糧のすべての貯えも、1943年の終わりまでには使い果たされてしまった。日本軍もまた、食糧の欠乏に困窮していた。収穫の時期がくると、日本軍はほとんどの穀類を奪っていった。そのため、ブルネイの人びとは米不足に陥った。

 日本陸軍は、ブルネイを占領すると病院を管理下においた。当時薬品を手に入れるのは困難なことだった。マラリアが流行していたのに、日本陸軍その蔓延を予防しようとしなかった。

 日本陸軍は道路、排水、灌漑の管理に留意しなかった。彼らが修復したのは、わずかに、ブルネイ──トゥトン間とブルネイ──ムアラ間の道路のみであった。この2つの道路を日本軍が提案したのは、ムアラまで、石油のパイプラインをひくためであった。

 ムアラは貿易と漁業の小さな村であったが、日本陸軍により完全に破壊されてしまった。日本陸軍は、ムアラの向かい側の島を日本の艦船の基地として使いたかったのでる。

 日本陸軍は1943年末までに、ペアカス通り沿いにあるクンパン・パサン区画に小さな空港を建設した。その空港は泥炭質の土壌上につくられたため、軽飛行機だけが使用可能であった。
 現在その空港は、使いものにならない。

 日本陸軍がセリア油田を占有していたときには、159万4000英トンもの石油を確保していた。セリア油田は、日本陸軍が退却した1945年、日本陸軍の手によって破壊された。

 1945年6月10日、連合国軍の軍隊がムアラに上陸し、ただちにブルネイに向かって進軍した。そのころ、日本陸軍は自分たちの施設を壊し、セリア油田を焼失させるのに余念がなかった。日本陸軍は、自分たちが東南アジアで敗北したことを察知していた。退却するまえに、日本陸軍は反日運動を組織したと思われる人たちを殺した。

 日本陸軍がブルネイから立ちさると、新政府がイギリス軍政のもとにおかれた。ベルネイは新しい局面を迎えた。食糧、衣料が全住民に無料配布された。病人は病院での看護が受けられるようになった。住民の健康はしだいに快方にむかい、貿易も徐々に再興した。1945年7月6日、ブルネイの統治は民政の手に移った。


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8年生用『ビルマ史』(ビルマ語)ビルマ連邦社会主義共和国教育省初等中等教育カリキュラム・教科書委員会編 1987年版

                 二 民族解放闘争

2 反日・反ファシスト闘争(1942~1945年)
 
1 状況と情勢
 「独立」したとはいえ、ビルマ政府には本来あるべき権限はなかった。ファシスト日本が許容した権限があっただけである。日本時代にもっとも強大な権力を見せつけたのは、日本軍のキンペイタイ(憲兵隊のこと)である。憲兵隊が管轄し、処理する事柄については、階級の上下を問わず、いかなる日本軍将校も口出しできなかった。一般の国民は、憲兵隊の思うがままに逮捕され、拷問され、さらには虐殺されたのである。こうしたファシストの弾圧の結果、無法者から学歴があまりない者までが、反乱への怒りの炎をたぎらせた。真の独立を望む声は全土に広がった。民族、男女を問わず、僧侶も一般国民も、ファシスト日本に反乱を起こそうという強い決意を抱くようになった。

 ビルマ軍は、30人志士に始まり、ビルマ独立義勇軍=BIA、ビルマ防衛軍=BDAを経て、ビルマ国軍(BNA=Burma National Army)へと変遷をとげていた。この間、国内においては、ミンガラドン士官学校、国外では、海南島、台湾そして日本の士官学校での訓練を積み、さらには、日本軍とともにイギリス軍と戦って、実戦のよき経験を重ねてきた。ファシスト日本に対して反乱を起こすために、ビルマ軍は、精神面でも、戦闘技術についても向上してきていた。

 情勢の推移にともない、日本と接触をもたざるをえない状況となったが、ファシストの本質についての理解は浸透しており、時がくれば一斉に蜂起することを、ごく初期の段階からビルマの指導者たちは、考えていた。また、タキン・テインペイ、タキン・ティンシュエら一部の指導者は、日本軍の侵攻直後からインドへ渡り、連合軍司令部と接触を保っていた。

 1944年8月には、ファシスト打倒連盟(AFO=Anti Fascist Organization)が結成され、ビルマ国軍、共産党、人民革命党がこれに加わった。その後、しばらくして、ラカイン民族連盟、カレン中央本部、東アジア青年連盟なども加わってきた。のちに、この組織は、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL=Anti Fascist People's Freedom League)と名称を変更した。
 1944年には、連合軍指導部と合意に達し、44年末から45年初めには、武器援助を得るようになった。連合軍は、ラカイン地方やカレン方面での戦闘に勝利をおさめ、ビルマ国内へ進撃してきた。対日反乱の機は熟してきたのである。


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                    三 独立獲得

2 日本時代

2 経済
 日本は、ビルマ国民が必要とする物資を供給できなかったばかりか、物資を運搬する船舶にも不足をきたしていた。ビルマからは、米、チーク材、綿花を始め、鉄屑や古自動車にいたるまで、あらゆる物を日本へと持ち去った。

 日本の銀行は、まったく保証のない紙幣(=軍票)を際限なく発行し、ビルマの経済を破壊した。価値のない紙幣で米や穀物を買い、ときにはそれさえも払わずに持ち去ることもあった。日本時代の外国貿易は、三井や三菱といった日本の大企業に独占されていた。
 日本時代には、ビルマの国民は食糧、衣料品、医薬品などの不足に苦しめられた。米の足りない地域では、豆やトウモロコシ、タロ芋などを米の代わりにした。医薬品への不足は食料の不足よりもっと深刻であった。ビルマでとれるすべての綿花だけでなく古着にいたるまで日本人が持ち去った。こうして、日本時代、ビルマの経済は壊滅的な打撃を受けたのである。

3 社会
 ファシスト日本の支配下においては、軍事目的に使うという大義名分によって、国民は貴金属を強制的に供出させられた。さらに、働ける男は労務者として狩りだされた。国民はさらに、イギリス植民地軍の反攻のために度重なる苦しみを味わった。
 また、ファシスト日本の支配下では、食糧、衣料品、住宅、医薬品の欠乏のため、マラリア、天然痘、ペスト、疥癬といった病気が蔓延した。爆撃や銃撃のために負傷した人々も十分な治療を受けられなかった。


 着るものもなく、治療するための薬もなく、さまざまな経済的な落ちこみのためにビルマの国民は貧しい生活を強いられた。しかし、日本人に取りいり、不法なやり方で利得を狙った者たちは潤った。ファシスト日本が支配した時代には、社会にまとまりがなく、教育もまたほとんどなきに等しい状態であったため、道徳や規律は乱れ、人びとの精神も退廃した。

 「ワ}部隊と呼ばれる公務員部隊が編成されたが、国民の利益のために何一つできなかった。東アジア青年同盟が組織されて以降は、社会的活動や組織活動が有効に行われるようになった。
 日本時代には、ビルマ語が公用語になった。英語に代わって日本語を学ばなければならなかった。 

 
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です

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アジアの教科書に書かれた日本の戦争 マレーシア

2014年05月31日 | 国際・政治
 1988年、すでに文部省の検定を合格した高校用英語教科書から、突然その一部が削除され、代わりのものに差し替えられるということがあった。その一部とは「WAR」と題された教材の一文で、そこには、赤ん坊をほうり投げ、落ちてくる赤ん坊を日本兵が銃剣で刺すという話が出てくる。その削除は、自民党のクレームによるものであるというが、それはマレーシアに大きな怒りを生じさせたという。

 マレーシアで出版された小・中学生向けの英語学習副読本に「JAPANESE SOLDIERS IN OUR COUNTRY」(私たちの国にやってきた日本軍)という小冊子があり、その中には”赤ん坊”のことが絵入りで出てくるという。昨年(1989年)初頭、マレーシア政府はこの小冊子を8000部一括購入して、全国の小・中学校に配布したということである。日本の動きに対応したものなのであろう。

 「日本に生まれたことを誇らしく思える」教育をするために、加害の事実を隠蔽するような教育は、日本国内では支持されても、国際社会では受け入れられないのではないかと思う。特に、大戦によって大きな被害を受けた被害国や戦争被害者は、日本が誠実に歴史の事実と向き合うことを求めている。日本国憲法の精神に基づき、生まれ変わった日本を示すことで、誇りを取り戻すのでなければならないと思う。

 下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)の、「マレーシア」から、私が記憶しておきたいと思った部分を、選んで抜粋したものである。
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中学校2年生用『歴史の中のマレーシア』(マレー語)M・タムビラジャー著 連合出版 1988年版

              第8章 日本人によるマラヤ占領
日本によるマラヤ支配
 日本は、マレーの解放獲得への期待を裏切った。日本人はマラヤを、まるで自分たちの植民地であるかのように支配した。今度は彼らがイギリス人の座を奪ったのだ。日本の支配はイギリスよりずっとひどかった。
 ペナン島やマラッカ、シンガポールといった海峡植民地は、日本の直轄となった。マレー人の州では、スルタンが州の長となることが許された。しかし、各州には日本の軍政官がいた。この軍政官が権力を持っていた。スルタンは宗教と慣習についてのみ統治した。

 マラヤは事実上日本軍政府によって支配された。本部はシンガポールにあった。日本軍政府の長は「軍政部官長」と呼ばれた。シンガポールは、南の光という意味の「昭南」と新しく名づけられた。日本は行政上、スマトラとマラヤを合わせ、本部をシンガポールに置いた。
 1943年、日本の行政に一つの変化があった。日本は、スマトラとマラヤを合わせたのでは満足な成果が得られないということがわかった。のちにその二つを分離した。



敵機関
 敵機関は日本軍の諜報部、すなわちスパイであった。その役目は、一般大衆のなかから敵を捜し出すことだった。多くのマレー人はイギリスを支持し、日本人を憎んだ。敵機関のスパイはそういう人を探した。このスパイは、あらゆる場所にいた。日本はまた、敵機関で働く現地人を採用した。これらの人びとはいつも、ベチャ引きや給仕、物売り、コック、ボーイになりすましていた。現地人スパイは一般の人びとと接触し、彼らの会話を聞くことができる。このスパイはたとえ自分の友人であろうとだれも信用していなかった。次のことをするものはだれでも逮捕された。
 1、反日思想をもつ人間と交わる。
 2、日本人の行政に文句をいう。
 3、日本人に協力している現地人をからかう。
 4、イギリス国王または女王の写真を掲げる。
 逮捕された人びとを尋問するのは軍の警察であった。この軍の警察は、「憲兵隊」という日本の組織だった。


憲兵隊
 憲兵隊は一般の人びとにとても恐れられた組織だった。
 憲兵隊は、逮捕された人はだれでも罪があると見なした。現在では、逮捕された人は、ただ疑わしいと思われるだけである。その疑わしいと思われた人は裁判で罪が立証されるまでは罪人だとは見なされない。しかし、憲兵隊は疑わしい人を犯罪が立証された罪人のように扱った。罪のない人間を罪人だと自白させるため、さまざまな残酷な拷問が行われた。彼らは、手や足の爪を抜いた。


 日本占領時代は、マラヤの国民を怖がらせた暗い時代だった。国民のすべての生活様式は、日本人が自分たちの文化をマラヤに持ち込んだため、混乱した。このことは、この地に持ち込まれた教育制度を通して知ることができる。 


日本語教育
 すべての学校で日本語が教えられた。現地の住民が、日本語の先生になるようにも訓練された。日本語をうまく話せる人には公務員としてよい仕事が与えられた。このようにして、彼らは国民に日本語を勉強するようにしむけた。大人むけの教室がさまざまなクラブや協会で開かれた。新聞にまで日本語学習のための特別枠があった。

 学校ではまた、日本人の生活様式が教えられた、。そこでは日本人の挨拶の仕方や日本の習慣、歌が教えられた。いつも愛国的な歌が教えられた。当時、日本の国家「君が代」は全国でよく知られたものだった。



日本の独占
 日本はすべての大きな企業を支配した。個人でゴムを生産しようとすれば、すでに決められた価格で売らなければならなかった。ゴム産業は当時、発達しなかった。第一に、ゴムを輸出する機会がなかった。第二に、ゴムの木が、他の食用植物を植えるために切られてしまった。
 日本はまた、スズ鉱山も支配下に置いた。鉱山で使われる多くの機械は、イギリスによって破壊された。当時、それら機械を手に入れることは困難だった。それで国の二つの主産業となっていたゴムとスズ鉱石は、放置されたままとなった。日本人はココナツ、ヤシ油の生産や運輸業、米の流通など、主な経済活動すべてをおさえた。


食糧不足
 イギリスが私たちの国を支配していたとき、私たちは米をビルマやタイから輸入していた。日本支配時代には、米はあまり多く輸入されなかった。米不足の問題は深刻だった。日本人は米をマラヤに運ぶための輸送手段を用意しなかった。すべての輸送手段は兵士を運ぶために必要とされた。タイ政府が日本の貨幣価値を信用しないという理由で、日本人に対して米を売ることを渋るようになって、事態はますますひどくなった。それで、日本人は米の配給制度をしいた。米はまず日本の官吏や兵士、日本人に協力した現地住民に与えられた。そして余ったものが国民に与えられた。
 米がないため、国民は他の食用植物を植えるようになった。よく植えられたものとしてサツマイモやタピオカ、ヤムイモがある。都市に住んでいる人びとは、自給用の食用植物を植えるために郊外に移動し始めた。数千人のマレー人がタピオカやサツマイモを食べて生活した。これらの食物は、ただ満腹させるだけで、あまり栄養はなかった。まもなく多くの人びとは脚気や結核、皮膚病などを患った。


 日本人は米不足問題を克服すると宣言しようとしたが、成功しなかった。彼らは、二期作の台湾種の米を導入した。しかし灌漑システムがよくなかったため、収穫は年に1回だけだった。地方の農民だけが米を栽培したり、魚を採ったりして生活していたので、食糧不足には見舞われなかった。しかし、彼らの生活もしだいに圧迫された。彼らは都会から物資を買う必要があった。都会の物価がしだいに暴騰していった。


インフレーション
 日本は、役人に給与を与えるためのお金が必要だった。イギリス通貨が使用されなくなったため、日本は自分たちの通貨をつくらなければならなくなった。日本の紙幣にはバナナの木が描かれていた。それで「バナナの木の紙幣」と呼ばれた。日本人も現地の住民からものを買うお金を必要とした。彼らはお金が必要になるたびに紙幣を印刷した。物価が上がると、日本はさらに多くの紙幣を印刷した。
 日本人自身、どのくらいの量の紙幣を印刷したのかわからないようだ。ついには、すべての人びとが多くのお金をもつようになった。商店主たちも物資の値段を引き上げた。このため、日本人はさらに多くの紙幣を印刷した。経済状況はますます悪化した。このような状態をインフレーションと呼んでいる。
 物価上昇は非常に驚くべきものとなった。例えば、卵1の値段は1941年12月には、3セントであったが、1945年には35ドルであった。同様に、砂糖1カティは、1941年に8セントだったものが、1945年には120ドルにもなった。

 マラヤの人びとも、日本が負ければ日本の紙幣は価値がないということに気がついた。そこで、彼らは、そのお金をできるだけ早く使おうとした。理解していない人だけがその日本のお金をためていた。


 日本占領時代の生活
 日本の兵士が上陸したとき、マラヤの状況は混乱し殺人と強盗が多く発生した。
 彼らが全土を支配したあとも、この状態は変わらなかった。日本軍政部の態度は厳しく、乱暴だった。このことが国民生活の状況をさらに悪化させた。健康のためのサービスはないがしろにされた。ヨーロッパ人の医師と看護婦はすべて囚人キャンプへ送られた。医療品の補給は、医療施設には与えられなかった。病気とビールスが広がった。

 日本は、マラヤの国民を、日本軍自身の目的を達成するために利用した。例えば、彼らはタイとビルマの間に鉄道を建設しようとした。この計画は多くの労働者を必要とし、マレー人の労働者がそのために使われた。多くの普通の国民がトラックで運ばれ、強制的に鉄道建設のために働かされた。そのうちの多数の人は帰国できなかった。およそ10万人が、その鉄道建設のために犠牲となった。この計画は、まさに「死の鉄路」と呼ぶにふさわしい。
 マラヤにいるそれぞれの民族に対する日本の態度は異なっていた。中国人は、日本人にひどく扱われた。


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初級中学校用『歴史 第二冊』(中国語)マレーシア華文独立中学校統一課程編集委員会編(連合出版有限公司 1980年版)

               第7章 日本支配下のマラヤ
第2節 日本の統治政策

中国民族を虐殺、酷使する
 日本軍の侵略以前に、マラヤの中国人は、日本軍の中国に対する暴挙に敵愾心を抱き、南僑籌賑会の指揮のもと、さかんに中国の抗日軍に義援金を送った。これによって日本は特に中国人を敵視し、マラヤ占領後すぐに虐殺を強行した。日本軍のシンガポール上陸のとき、「星華義勇軍」の抵抗を受けた。このため、日本軍がシンガポールを占領すると、日本軍総司令官山下奉文は、3日以内に当地の中国人抗日分子を掃討するように命令を下した。このとき、日本の憲兵隊は、中国人に指定地点に集まって取調べを受けるように命令した。その結果、嫌疑を受けた4万人の中国人が、殺戮された。
 続いて、マレー半島の各地であいついで「大検証」が行われ、中国人がむやみに虐殺された。総数を計算すると、少なくとも10万人以上の中国人が殺害された。

 

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