真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

ベトナム 200万人「餓死」とキムソン村襲撃事件

2014年08月16日 | 国際・政治
 1945年3月9日、日本軍はそれまで共同支配者であったフランスを排除し、インドシナ全域を日本の単独支配下においた(仏印処理)。そして日本軍は親日団体である大越(ダイヴェト)に村長や地主など村の上層部を組織し、米の供出などの対日協力を要請した。しかしながら、農村地帯にはこうした親日組織と対立するベトミン系の組織があった。そして、米の供出などを拒否する運動をした。時には、日本軍の米倉庫を襲い、米を分配したり、供出米を輸送している船を襲撃したりもしたという。キムソン村襲撃事件は、日本の軍政に抵抗するそうした組織を潰すために計画されたのである。
 
 「ベトナムの日本軍 ─キムソン村襲撃事件─」吉沢 南(岩波ブックレットNO.310)によると、キムソン村の亭(デイン)〔村落共同体の真ん中にある重要な建物で集会場などとして使われる〕の一部は、キムソン村襲撃事件の展示室になっており、そこには、「日本軍の進撃コースを示す地図、日本兵を迎え撃ったキムソン村の活動をキャンパスに描いた絵(8点)、爆撃による村の人的・物的被害の一覧、抗日烈士名簿、反日武装・経済闘争に関する日誌、村人が使った武器(銃、刀剣など)」が展示されているという。キムソン村の人びと以外ほとんど見ることのないこの展示は、日本兵の襲撃事件がこの村にきわめて大きな事件であったことを示しているというわけである。

 また、日本軍政下の1944年11月から45年4月までの期間に、キムソン村近隣一帯で、村自警団の集会やデモが6件、米供出拒否など経済闘争が17件があったという。さらに、村自警団が連合して日本軍の米倉庫を襲ったり、供出米を輸送している船を襲撃したりもしたというのである。現ドーソン県庁近くのクニャン河で、運搬船を襲撃して米を没収した出来事は、今でもこの地方の誇りとして伝えられ、絵にも残されているという(その絵の写真が、同書30ページに掲載されている)。

 それは、ベトナム200万人餓死問題に日本の軍政が深く関わっていることを示しているといえる。日本軍政下におけるベトナム200万人餓死の問題で「当時ベトナムにいた1万人の日本兵が、200万人分の米を食べらるわけがない、ベトミンンの政治的な宣伝である」とか「…日本軍が配置したのは一個師団、約2万5千人です。2万5千人増加した為、200万人の人々が餓死するということはありません」というような主張が、どのような根拠に基づくものか、と気になって、いろいろ調べていたら、「教科書が教えない歴史 自由主義史観研究会(代表 藤岡信勝)公式サイト」「特集 ベトナム独立宣言文」と題さ れたページ
(http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_e_9.html)に

ベトナム独立宣言文の中に、「日本軍が北ベトナムに進駐したことにより、200万人の餓死者を出した」と日本を非難しています。そのような事実があったのですか?

という質問に答えるかたちで、

我々は200万人の死者が真実か否かは分かりません。しかし日本軍が配置したのは一個師団、約2万5千人です。2万5千人増加した為、200万人の人々が餓死するということはありません。200万人の餓死者は台風や洪水、米軍の交通手段の破壊によるものです。

と、日本の責任を回避しつつ、むしろ米軍に責任を転嫁するかのような記述があった。当時ベトナムで米などを作っていた農民が多数餓死しているのに、日本兵が餓死したという話は聞かない。日本軍は、決戦に備えて2年分の米を備蓄していたという話がある。また、当時の仏印は、南方領域に対する割当20万人の兵站補給基地として、他の戦線への「補給用」も求められていたという。さらに、大戦末期にはほとんど輸送できなかったようであるが、日本への輸出用も確保されていたともいう。著名な研究者が、この問題で仏印駐留部隊用の米以外を考慮することなく、「米軍の交通手段の破壊によるものです」などと主張されることは、なんとも不思議である。

 上記の、村自警団が連合して日本軍の米倉庫を襲い、打ち壊して「米を分配した」という話や、「供出米を輸送している船を襲撃して米を没収した」という話が伝えられている事実をどのように考えるのだろうか、と思うのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              キムソン村襲撃事件の真相

 1945年8月4日にキムソン村とその周辺で起こった事件の概要は、ほぼ以上のようなものである。
 襲撃された側の被害について、まとめておこう。まず人的被害であるが、キムソン村の集落内で戦って死んだ者2名、焼死させられた老人1人(70歳)、待伏せ・追撃戦で死んだ他村の自警団員12人、ミンタン村の行方不明者6人、を数える。物的被害については、キムソン村の亭(デイン)〔村落共同体の真ん中にある重要な建物で集会場などとして使われる〕のパネルに具体的な数字が挙げられている。焼かれた家42戸、焼かれた籾40カゴ(1カゴにはだいたい20~25キログラムの籾が入る)、殺された水牛2頭、その他の物的被害総額は2万ピアストル。2万ピアストルがインフレの激しい当時どのくらいの価値に相当するのか適切な事例を示せないが、参考のために記しておく。

 5,60人の兵力による計画的な襲撃事件であることを考えると、この被害が大きいとは言えないだろう。特に、300人以上の村人が留まっていたキムソン村の被害については、最小限に食いとめられたと言ってよい。常時の村人口の約半数に当たる子どもや年寄りを他村に避難させたのは、適切な措置であったろう。その上、村内に残った者たちが、武器弾薬の面できわめて劣悪な状態にありながら、村自警団とその援助隊に組織され、訓練されていたことが、日本軍の長時間にわたる作戦を許さなかった大きな要因であった。
 したがってキムソン村の人びとは、日本軍によって襲撃され、被害をこうむったという側面だけでなく、その襲撃に抵抗して撃退したという側面についても、展示や話の中で強調したのである。

 日本軍のキムソン村襲撃で特徴的なのは、ベトナム独立同盟(ベトミン)系の農民運動を軍事行動の直接の対象とした点である。日本はインドシナの民衆
を基地や道路の建設に狩出したり、農民から米などの食糧を取り上げるなど、戦争遂行のために搾取と収奪を強化した。インドシナは一般的に、他の東南ア
ジア地域や太平洋諸島のように、兵士の死体が累積する戦場にはならず、比較的静かな状態を維持していた。ところが、1945年3月9日の「仏印処理」の前後
になると、日本・フランス間の武力抗争は激しくなり、また連合国の航空機による都市部への空襲も頻発した。また、共同支配者であったフランスを蹴落と
して唯一の支配者となった日本は、ベトミンを中心とする反日的な民族独立運動との対立を決定的なものとした。

 日本は、一方では、保大(パオダイ)皇帝を担ぎ出して、「独立」を付与し、知識人チャン・チョン・キム(Tran Trong Kim)に親日的な「傀儡内閣」を組織させた。こうすることによって、ベトナム・ナショナリズムの高まるうねりを分裂させようとしたのである。他方で日本は、独立運動の中核として民衆の支持を獲得しつつあったベトミンに対して軍事的弾圧で臨んだのである。しかも、ベトミン系の運動を弾圧するために、日本は、「傀儡政府」の武装部隊を育成し、その組織を弾圧の実行部隊として使ったのである。キムソン村襲撃事件は、インドシナ支配の末期段階における日本が、弱体化したがゆえに編み出した手の込んだ支配のからくりをよく示してくれているのである。


 すでに述べたように、キムソン村襲劇では、その実行部隊となったのが5,60名の保安(パオアン)兵で、数名の日本軍人が彼らを指揮していた。こうした編成の部隊を何というべきであろうか。「傀儡軍」と片付けられないのはもちろんであるが、日本兵と「傀儡兵」との混成部隊とするのも、日本軍の決定的な役割をあまりにも軽視していて適切な表現ではない。この武装組織は、日本が組織した一種の「植民地軍」ないしは「準植民地軍」というべきものであろう。
天皇の軍隊として「日本人」純血主義を頑固に守っていた日本軍は、兵員不足という現実によって、戦争の末期にいたってはじめてその原則に手をつけざるをえなかった。植民地に対する徴兵令の施行による朝鮮系・台湾系の「日本軍人」の誕生がその典型であるが、東南アジアの各地で急遽組織された「兵補」や「義勇兵」「保安(パオアン)兵」などもそうした政策の一つであった。

 本稿ではこうした歴史的意味を踏まえた上で「日本軍」「日本兵」と表現した。しかしなお微妙な問題が落ちてしまう危険性があるので、補足しておきたい。キムソン村の人びとは、日本軍の襲来の情報を事前に掴んでいた。その情報源は実はキエンアンに組織されていた保安兵からであったという。保安兵の徴募方法については分からないことが多いが、キムソン村で聞いた限りでは、日本軍が地主や村長など村の有力者たち(多くの場合、親日団体である大越(ダイヴェ゛ト)組織にされていた)に保安兵の人数を割り当てると、地主や村長たちが時には強制的に、時には温情主義的な勧誘によって、村の若者たちを選んで差出すシステムになっていたという。ドンさんたちは「兵士狩り」という表現を使っていたが、これが実態であったろう。


 こうしてかき集められた保安兵が簡単に「日本兵」化されなかったのは当然で、彼らから情報がベトミン側に流れても不思議はなかった。すでに詳しく見たように、キムソン村襲撃はやや中途半端に終わったが、日本軍の、こうした編成上の特徴に、一つの原因があったかもしれない。5,60人の保安兵に対して、数人の日本人軍人(高田さんの記憶によれば、指揮官は20歳代の少尉だった)、配属された一人の憲兵(つまり高田さん)という編成からすると、正門に据えられた機関銃はキムソン村の内部に向けられていたのだが、同時に、保安兵に背後から睨みをきかしていたとも考えられるのである。


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする