「日本史から見た日本人 昭和編 立憲君主国家の崩壊と繁栄の謎」渡部昇一(祥伝社黄金文庫)の中に、”敗者の悲劇 ─「東京裁判」と「南京大虐殺」”と題された文章があり、その文章を読んで問題に思ったことや気付いたことをまとめています。
今回は”「不祥事」を徹底的に戒めた日本軍指令官”という下記の文章について考えました。渡部氏は、松井司令官の発した訓令は、「いかなる戦争のいかなる司令官の命令としても、手本になるような立派なものである」と書いています。それは否定しません。しかしながら、だからといって、それが「市民の大虐殺の計画など、微塵も入りこむ可能性がないのである」ということにはならない、と思います。 南京攻略に向かった部隊の軍記・風紀の乱れはよく知られていますし、様々な資料や証言が存在します。
また、渡部氏は松井司令官が「…モシ不心得者ガアッタナラ厳重ニ処断シ、マタ被害者ニタイシテハ賠償マタハ現物返還ノ措置ヲ講ゼラレヨ」といったことをとらえて、
”「不心得者があったら厳重に処断せよ」と言っていることは、不心得者は憲兵がつかまえて罰する程度のもので、つまり、散発的な事故だったことを示しているし、財産の被害を受けた中国人には、その品物を返してやるか、弁償するかしてやれ、と言っているのである。”
と書いています。でも、そんな「散発的な事故」などでなかったことは、下記のような著書を読めば、明らかです。
例えば、従軍記者として「文字通り砲煙弾雨の中をくぐり抜けて報道の仕事に駆け回った人」と言われる同盟通信の記者、前田雄二氏は、その著書「戦争の流れの中に」前田雄二(善本社)の中の第二部「南京攻略戦」の3、”「南京大虐殺」とは”に、「軍司令官の怒り」と題して、資料1のような事実を書いています。南京戦に関わった軍団長、師団長、旅団長、連隊長、艦隊司令官などを前に「何ということを君たちはしてくれたのか。君たちのしたことは、皇軍としてあるまじきことだった」と異例の訓示をしたというのです。「散発的な事故」で、軍団長、師団長、旅団長、連隊長、艦隊司令官などを前に、そんな訓示をするでしょうか。
また、南京領事や外務省の東亜局第一課長として、日中の問題に取り組んだ上村伸一氏は、自身の著書『破滅への道』上村伸一(鹿島研究所出版会)の「政戦の不一致 南京での暴行」と題した文章の中で「…しかるに中央の統制が利かず、日本軍は12月13日、南京に突入した。それのみ ならず、暴行の限りをつくし、世界の反感を買った」と書いています(資料2)。
さらに、南京攻略戦当時、新聞聯合社(後の同盟通信社)の上海支局長であった松本重治氏は『昭和史への一証言』の中で、聞き手である國弘正雄氏の質問に答えて、報道仲間の話として
”3人の話 では、12月16日17日にかけて、下関から草鞋峡にかけての川岸で、2000人から3000人の焼死体を3人とも見ていました。捕虜たちがそこに連れて 行かれ、機銃掃射され、ガソリンをかけられて焼け死んだらしいということでした。
前田君は、中国の軍政部だったところで、中国人捕虜がつぎつぎに銃剣で突き刺されているのを見ていました。新兵訓練と称して、将校や下士官等が新兵らしい 兵士に捕虜を銃剣で突かせ、死体を防空壕に投げ込ませていたというのです”
と証言しています(資料3)。ありもしない「虐殺」を仲間に語るとは思えません。
『陸軍80年』(図書出版社)の著者・大谷敬二郎氏は、「第11章、日中戦争」の「南京大虐殺」の中で、
”軍はその質を失っていた”
と書いています(資料4)。そして、同書の「あとがき」に、戦時中の日本軍について、
”すでにこの国の国民と断絶していたのだ。いわば、それは「国民の軍隊」ではなかったのだと言いたい”
と書いていることも見逃せません。
上海派遣軍松井石根司令官の専属副官・角良晴氏の記述が『南京戦史資料集』(偕行社)「支那事変当初六ヶ月間の戦闘」の中にあります。その内容も見逃すことができません。
”三三 20日朝軍司令官の下関附近まで独断視察
20日朝軍司令官は「私は下関に行く。副官は同行しないでよい」と命令があった。
副官は車の準備をした。
当日、副官は運転手の助手になり助手席に乗った、そして下関に行き右折して河岸道を累々と横たわる死体の上を静かに約2キロ走り続けた。
感無量であった。
軍司令官は涙をほろほろと流して居られた。2キロ位走って反転して下関を通り宿舎に帰った。
このような残虐な行為を行った軍隊は何れか?「下克上」の軍命令により6Dの一部軍隊が行ったものと思料せらる。”
「累々と横たわる死体」、松井司令官の流した「涙」は、何を語っているのでしょうか。
東京裁判で松井石根司令官自身が、
”当時の方面軍司令官たる私は、両軍の作戦を統一指揮するべき職権は与えられておるのであります。従つて各部隊の軍紀、風紀を維持することについては、作戦上全然関係がないとは申されませんから、自然私がそれに容喙する権利はあるとは思いますけれども、法律上私が軍紀、風紀の維持について具体的に各部隊に命令する権限はなかつたものと私は当時考え、今もそれを主張するのであります”
と自らの直接的責任を回避し、「南京を攻略するに際して起こったすべての事件」の直接的責任は「師団長にあるのであります。」と証言をしたということは、「散発的な事故」などではなかったからではないでしょうか。
歴史を自分たちに都合のよい「お話」にしてはならないと思います。
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3章 国際政治を激変させた戦後の歩み
─── なぜ、わずか40年で勝者と敗者の立場が逆転したのか
(1) 敗者の悲劇 ──── 「東京裁判」と「南京大虐殺」
「不祥事」を徹底的に戒めた日本軍指令官
第二に、何十万という大虐殺には入念な準備や設備が要る。上からの命令があって、科学者や技師が加わらなければできない相談である。
しかるに、松井司令官は南京攻撃に際して、次のような訓令を発している。これは、いかなる戦争のいかなる司令官の命令としても、手本になるような立派なものである。
一、皇軍ガ外国ノ首都ニ入城スルハ有史以来ノ盛事ニシテ、永ク竹帛ニ垂ル(歴史に残る)ベキ事績タルト、世界ノ斉シク注目シタル大事件タルニ鑑ミ、正々堂々将来ノ模範タルベキ心組ミヲモッテ各部隊ノ乱入、友軍ノ相撃、不法行為等絶対ニナカラシムベシ。
二、部隊ノ軍紀風紀ヲトクニ厳重ニシ、中国軍民ヲシテ皇軍ノ威風ニ敬仰帰服セシメ、イヤシクモ名誉ヲ毀損スルガゴトキ行為ノ絶無ヲ期ス
三、別ニ示ス要図ニモトヅキ、外国権益、コトニ外交機関ニハ絶対ニ接近セザルハモチロン、トクニ外交団ノ設定シタル中立地帯ニハ、必要ノ外立入リヲ禁ジ、所要ノ地点ニ歩哨ヲ配置スベシ。マタ域外ニオケル中山陵ソノ他革命志士ノ墓オヨビ明考陵ニハ立入ルコトヲ禁ズ。
四、入城部隊ハ師団長ガトクニ選抜シタルモノニシテ、アラカジメ注意事項、トクニ城内ノ外国権益ノ位置ヲ徹底セシメ、絶対ニ過誤ナキヲ期シ、要スレバ歩哨ヲ配置スベシ。
五、掠奪行為ヲナシ、マタ不注意トイエドモ火ヲ失スルモノハ厳重ニ処罰スベシ。軍隊ト同時ニ多数ノ憲兵オヨビ補助憲兵ヲ入城セシメ、不法行為ヲ防止セシムベシ。(『パル判決書』下・616ページ)
何しろ、日本に好意的でない欧米の外交団や牧師や大学教授が城内に残っているのに攻撃するのだから、細心の注意をして、誰からも後指を指されないようにしなければならない。市民の大虐殺の計画など、微塵も入りこむ可能性がないのである。
特に、第三項目で中国革命の父たる孫文の眠る中山陵などの名を挙げて、そこに立ち入らないようにと指令しているのは注目すべきである。しかも中山陵や明考陵は南京郊外にあって、戦略地点となりうるところである。この陵を傷つけないために、この方面を進撃した部隊は余計な苦労をした。
敵国の死者の墓まで気にして進む軍隊が、民衆大虐殺のプランなど持っているはずもなく、プランがなければ、市民30万人もの大虐殺などは、歩兵にできるわけがない。
では、南京占領は理想的であったかと言えば、そうではなかった。不法行為はあったのである。
松井大将は、こういう通達を入城式の10日後に出さなければならなかった。
「南京デ日本軍ノ不法行為ガアルトノ噂ガ、入城式ノトキモ注意シタゴトク、日本軍ノ面目ノタメニ断ジテ左様ナコトガアッテハナラヌ。コトニ朝香宮ガ司令官デアラレルカラ、イツソウ軍紀風紀ヲ厳重ニシ、モシ不心得者ガアッタナラ厳重ニ処断シ、マタ被害者ニタイシテハ賠償マタハ現物返還ノ措置ヲ講ゼラレヨ」(『パル判決書』下・617ページ)
これは、日本軍に不法行為がなくはなかったことを司令官が認めた文書として重要である。しかし、よく読めば、大虐殺の反対の意味になることがよく分かる。
「不心得者があったら厳重に処断せよ」と言っていることは、不心得者は憲兵がつかまえて罰する程度のもので、つまり、散発的な事故だったことを示しているし、財産の被害を受けた中国人には、その品物を返してやるか、弁償するかしてやれ、と言っているのである。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
軍司令官の怒り
翌18日には、故宮飛行場で、陸海軍の合同慰霊祭があった。この朝珍しく降った雪で、午後2時の式場はうっすらと白く染められていた。祭壇には戦没した将兵のほかに、従軍記者の霊も祭られていた。参列した記者団の中には、上海から到着した松本重治の長身の姿もあった。
祭文、玉串、「国の鎮め」の演奏などで式がおわったところで、松井軍司令官が一同の前に立った。前列には軍団長、師団長、旅団長、連隊長、艦隊司令官など、南京戦参加の全首脳が居流れている。松井大将は一同の顔を眺めまわすと、異例の訓示をはじめた。
「諸君は、戦勝によって皇威を輝かした。しかるに、一部の兵の暴行によって、せっかくの皇威を汚してしまった」
松井の痩せた顔は苦痛で歪められていた。
「何ということを君たちはしてくれたのか。君たちのしたことは、皇軍としてあるまじきことだった」
私は驚いた。これは叱責の言葉だった。
「諸君は、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に保ち、絶対に無辜の民を虐げてはならない。それ以外に戦没者への供養はないことを心に止めてもらいたい」
会場の5百人の将兵の間には、しわぶきの声一つなかった。式場を出ると、松本が、
「松井はよく言ったねえ」
と感にたえたように言った。
「虐殺、暴行の噂は聞いていたが、やはり事実だったんだな。しかし、松井大将の言葉はせめてもの救いだった」
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
政戦の不一致 南京での暴行
東京の方針はすでに和平に決定し、杭州湾上陸は上海救援のためであった。上海が包囲され、日本軍が守勢のままで和平交渉に入るのは不利だから、上海包囲軍 を撃退することは必要であった。しかし敗軍をどこまでも追うのは和平という政治目的からの逸脱である。やむなくそこまで行ったとしても、軍は南京の前で止 まり、南京を睨む形で交渉を進めるのが当然である。しかるに中央の統制が利かず、日本軍は12月13日、南京に突入した。それのみならず、暴行の限りをつ くし、世界の反感を買った。当時南京の外国人各種団体から日本に寄せられた抗議や報告、写真の類は、東亜一課の室に山積みされ私も少しは眼を通したが、写 真などは眼を覆いたくなるようなひどいものだった。私は北清事変(1900年)当時、日本の軍規厳正が世界賞讃の的になっていたなどを思い出し、変わり果 てた日本軍によるこの戦争の前途に暗い思いをしたものである。
日本軍の南京突入にあたり、日本の砲兵隊は、英艦レディー・バード号を砲撃した(12月12日)。イギリス側は橋本欣五郎大佐が砲撃を指揮しているのを目 撃したと言って強く抗議して来た。イギリス側は橋本大佐が革新派の旗頭であり、一たん現役を退いたが、予備役として出陣したことを知っていて、故意の砲撃 だと主張した。また同日米艦パネー号も日本の爆撃に会って撃沈され、アメリカの人心を甚だしく刺激した。英米と日本との関係の悪化は中国の民心を鼓舞する ことになり、和平を困難にするものである。
それにもまし て和平を困難にしたのは、軍内部の情勢が刻々に変わることであった。南京の占領により気をよくした軍の強硬派は和平条件の加重を強く主張し、ついにそれが 通った。政府は戦力の限界を知り、事変の政治的収拾に進んだのだが、強硬派の巻き返しにあってまたも屈服した。政府の首脳部は和平派と強硬派の抗争の波の まにまに翻弄され、所信を貫く気力を失ってしまい、事変の政治的収拾などのできる状態にはなかった。かくて12月14日の政府大本営連絡会議および21日 の閣議は、次の和平条件をドイツ側に伝達することを決定した。
(甲)(1)中国は容共抗日満政策を放棄し、日満両国の防共政策に協力すること
(2)所要地帯に非武装地帯と特殊機構とを設けること
(3)日満華三国の経済協力協定を締結すること
(4)賠償を払うこと
(乙)口頭の説明
(1)防共の態度を実行により示すこと
(2)講和使節を一定期日内に指定する地点に派遣すること
(3)回答は大体年内と考えていること
(4)南京が以上の原則を承諾したら、ドイツから日華直接交渉を慫慂すること
(丙)ドイツ大使の極秘の含みとして内話する講和の条件
(1)満州国の正式承認
(2)排日・排満政策の放棄
(3)華北、内蒙に非武装地帯設置
(4)華北は中国の主権下におくが、日満華三国共存共栄に適する機構を作り、広汎な権限を与え、とくに経済合作の実をあげること
(5)内蒙防共自治政府を設け、国際的地位は、外蒙と同じとする。
(6)中国は防共政策を確立し、日満両国に協力する。
(7)華中占拠地域に非武装地帯を設定し、また大上海市区域は、日華協力して治安の維持およ
び経済の発展にあたること
(8)日満華三国は資源の開発、関税、交易、航空、通信等に関し協定を締結する
(9)中国は日本に対し、所要の賠償を支払うこと
付記 (1)華北、内蒙、華中の一定地域に、保障の目的で必要期間、日本軍を駐屯する
(2)前記諸項に関する協定成立の後休戦協定の交渉を開始する。中国政府が前記各項の約定を誠意をもって実行し、両国提携共助のわが方の理想 に真に協力すれば、前記保障条項を解消し、中国の復興、発展および国民的要望に衷心協力する用意がある。
この条件は全く城下の誓いである。12月23日広田外相は、ドイツ大使ディルクセンに示したところ、大使はこれでは到底話のまとまる見込みはないと嘆息した。しかし乗りかかった船だから、一応中国側には伝えようと答えたということであった。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第3章 日中全面戦争と南京占領
南京虐殺はあった
・・・
○逃げ遅れた市民がかなり南京城内に残っていたのですか。
○松本 南京攻略の直前まで、南京では戦闘がない、などといわれていたので、逃げ遅れた市民は相当いました。財産のある者は早くから、船で揚子江上流に脱出していた。残っていたのは、そういうことができない貧しい人たちでした。
○ そういう貧しい人たち、底辺層のおばあさんや少女が日本軍によって殺されたり、犯されたりしたのですね。日本軍による集団残虐行為は、数日前からすでに城外の近郊で始められていましたが、占領した12月13日から入城式が行われた17日の前夜までの日本軍の集団虐殺は最も大規模なものであったといわれます。日本軍が南京を占領して5日後に先生が南京に入られたとき、すでに南京は平静に戻っていたわけですね。占領直後の南京の様子をお話しください。
○ 松本 占領直後の南京には、同盟通信の深沢幹蔵、前田雄二、新井正義の三君が取材のために別々のルートで、私より早く14日と15日に入っているのです。私は、戦後あらためて、3人に会って、直接、そのときの模様を聞きました。深沢君は従軍日記をつけていましたから、それを読ませてもらいました。3人の話 では、12月16日17日にかけて、下関から草鞋峡にかけての川岸で、2000人から3000人の焼死体を3人とも見ていました。捕虜たちがそこに連れて 行かれ、機銃掃射され、ガソリンをかけられて焼け死んだらしいということでした。
前田君は、中国の軍政部だったところで、中国人捕虜がつぎつぎに銃剣で突き刺されているのを見ていました。新兵訓練と称して、将校や下士官等が新兵らしい 兵士に捕虜を銃剣で突かせ、死体を防空壕に投げ込ませていたというのです。前田君は12~13人ほど、そうやって銃剣で突き殺されているのを見ているうち に、気分が悪くなり、吐き気がしてきた。それ以上、見つづけることができず、そこから立ち去った、といっていました。軍官学校の構内でも、捕虜が拳銃で殺 されていたということでした。前田君は社会ダネを追って走り回っていたのですが、12月20日ごろから、城内は平常に戻ったようだ、といっていました。
資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
南京大虐殺
南京「大虐殺」 ・・・
当時、東京にはこの師団の非道さは、かなり伝えられていた。こんな話がある。松井兵団に配属された野戦憲兵長は、宮崎憲兵少佐であったが、あまりの軍隊の 暴虐にいかり、現行犯を発見せば、将校といえども直ちに逮捕し、いささかも仮借するな、と厳命した。ために、強姦や掠奪の現行犯で、将校にして手錠をかけ られ憲兵隊に連行されるといった状況がつづいた。だが、これに対し、つよく抗議したのが中島中将であった。このかんの事情がどうであったか、くわしくは覚えないが、当の宮崎少佐は、まもなく内地憲兵隊に転任される羽目となった。これでは、戦場における軍の紀律はたもてない。高級指揮官が、掠奪など占領軍の 当然の権利のように考えていたからだ。すでに、軍はその質を失っていた。
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