真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「東京裁判」と「南京大虐殺」(渡辺昇一)を読んで NO3

2016年02月09日 | 日記

 「日本史から見た日本人 昭和編 立憲君主国家の崩壊と繁栄の謎」渡部昇一(祥伝社黄金文庫)の中に、”敗者の悲劇 ─「東京裁判」と「南京大虐殺」”と題された文章があります。その文章を読んで問題に思ったことや気付いたことをまとめています。
 今回は、”語るに落ちた最重要証人の証言”の中の、マギー牧師の証言に関する部分です。渡部氏は下記に抜粋したようなことを書いているのですが、とても問題があると思います。

 まず、マギー牧師が目撃したような殺害が南京城内で繰り返され、30万人に達したなどとは誰も言っていないことです。そういう「散発的な事故」とも言えるような殺害が、南京城内で繰り返されたということではなく、 長江沿いや紫金山山麓、また水西門外などで軍命令によって捕虜の「集団虐殺」がなされ、さらに、日本軍の包囲殲滅戦によって近郊農村にいた多数の市民が巻き添えとなって殺された、ということが、「大虐殺」として問題にされているということです。
 そうした虐殺の証拠は、中国人やマギー牧師の証言と関わりなく、日本側の資料によって明らかなのです。くり返しになりますが、第十軍、歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』などには「…聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク、イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ」などという記述があり、さらに、歩兵第65連隊上等兵の陣中日記には、「…その夜は敵のほりょ2万人ばかり銃殺した」などという記述が残されているのです。元日本兵の捕虜殺害に関する証言も少なくありません。
 また、日中戦争では、戦場の異常感覚に早急に同化させるため、多くの師団で新兵に捕虜の「刺突訓練」が課されたことも、様々な元日本兵の証言や記録があります。
 そうした資料や証言が、「あとはすべて、戦場の伝聞であり、これは中国においては白髪三千丈になりやすい」という主張の誤りを示していると思います。

 また渡部氏が「ただ、ここで殺傷があったケースが三つばかりある」として指摘されていることにも、ことごとく問題があると思います。
 まず、
第一には敗戦中国兵 ─ その掠奪癖・放火癖は昔から国際的に定評があった ─ のやったことを日本兵のせいにされるということである。”
という指摘です。日本軍が南京城に迫って来たとき、中国軍が清野作戦(焦土作戦)を展開したことはよく知られていますし、ラーベの日記などにも「城門のちかくでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように指示されている」などと、その事実が記録されています。でも、それは中国軍の作戦であり、中国兵の「掠奪癖・放火癖」というようなものではないと思います。ほんとうに、「掠奪癖・放火癖」が国際的に定評があったというのであれば、その根拠を示す必要があるのではないでしょうか。「掠奪癖・放火癖」というような言葉を使って、中国人を貶めるような内容の文章を公にするときは、客観的な調査結果や諸外国との比較に基づく資料を示して、「国際的な定評」を裏付けることが求められると思うのですが、何も示されていません。
 
 日本軍が「掃蕩」ということで包囲殲滅戦を展開し、一般住民を多数虐殺したことや、「徴発」という名目で略奪した後、民家への放火を繰り返したことは、中国人の証言をまつまでもなく、日本側の記録や日本兵の証言で明らかです。渡部氏には、「南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言」松岡環氏(社会評論社)や南京事件 京都師団、「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士人陣中日記」小野賢二・藤原彰・本多勝一編(大月書店)、「関係資料集」井口和起・木坂順一郎・下里正樹編集(青木書店)、「南京戦史資料集」(偕行社)、「わが南京プラトーン 一召集兵の体験した南京大虐殺」東史郎(青木書店)などの資料を無視せず、しっかり検証をしてほしいと思います。

 第二として、渡部氏は「戦闘員の死者である。これは、いくら多くても戦果であり、虐殺とは言わない」ととして、「追撃戦の戦果を虐殺と取り違えている人もある」と主張されています。確かに、追撃戦で死者がでたら、それは戦闘行為であり、虐殺ではないと思います。でも、日本軍は戦意を喪失し武器を捨てた敗残兵や投降兵を多数殺害しました。後ろ手に縛りあげ、並ばせて機関銃で撃ち殺したり、「刺突訓練」と称して、新兵に縛り上げた中国人を突き殺させた殺害が、追撃戦の戦果でしょうか。誰が追激戦の戦果を虐殺と言っているのでしょうか。主張されていることは、全く的外れではないかと思います。

 第三に、「便衣ゲリラの処刑は正当である」とのことですが、安全区に逃げ込んだ中国兵が武器を取って日本軍に抵抗した事件があったでしょうか。安全区の中で、武器を所持した中国兵に殺された日本兵がいたでしょうか。南京安全区国際委員会のメンバーは、武器を所持した中国兵を安全区に入れないようにするために懸命の努力をし、日本側に彼らの安全を要求したのではないでしょうか。もし、抵抗される不安があるのであれば、その解消について、話し合うべきではなかったでしょうか。繰り返し抗議を受けながら、問答無用とばかりに無抵抗の元中国兵と思われる中国人を引っ張り出して、裁判もなく処刑することが正当でしょうか。民間人も含まれていたことが「気の毒」で済まされてよいのでしょうか。
 ハーグ陸戦条約の「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」第二款 戦闘、第一章 害敵手段、攻囲、砲撃の第23条に「特別の条約により規定された禁止事項のほか、特に禁止するものは以下の通り」として
その3で、はっきりと「兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること」を禁じています。

 さらに、第四として、「捕虜にしても食わせたり管理したりするのが大変なので武装解除したうえで、処置する方針だったという。この場合の処置とは、兵士を釈放してやるという意味の軍隊用語のレトリックのことである」と指摘されています。でも、それは間違いであると思います。例外的に釈放したケースもあったようですが、処置(処分・処理・処断)という言葉は処刑を意味しているということです。
 「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共…」の記述でよく知られている第十六師団の師団長「中島今朝吾日記」には、
一、後ニ到リテ知ル処ニ依リ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約1万5千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊ガ処理セシモノ約1300其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約7~8千人アリ尚続々投降シ来タル
一、此7~8千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百 2百ニ分割シタル後適当ノケ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ
などという記述があります。「大ナル壕ヲ要シ…」とあることからも、殺害であることが分かります。
 宮本省吾陣中日記の12月17日には、「本日は一部南京入場式に参加、大部は捕虜兵の処分に任ず」という記述があり、翌日の12月18日には「午后敵死体の片付をなす」あるのです。
 「処分」とか「処理」とか「処断」、「処置」という言葉は明らかに「処刑」という意味で使われており、レトリックなどではないということです。南京戦において、日本軍は中国軍の退路を断つ作戦を展開しました。捕虜を釈放するのであれば、退路を断つ作戦の意味が問われます。
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              3章 国際政治を激変させた戦後の歩み
              ── なぜ、わずか40年で勝者と敗者の立場が逆転したのか                            
(1) 敗者の悲劇 ────  「東京裁判」と「南京大虐殺」                              

語るに落ちた最重要証人の証言
 ・・・
 この数の感覚を照明するものに、東京裁判におけるマギー牧師の証言がある。この人は「南京大虐殺」の証言者としては最も重要であり、しかも、人格的に信用のある人物である。
 したがって、彼の口から出た言葉が大虐殺を広めるのに最も有力なものだったのだが、このマギー牧師が、東京裁判の反対尋問において「何人が殺されるのを目撃したか」と聞かれて、まことに正直にも「たった一人」と答えているのである。
 しかも、その目撃した状況は次のようなものであった。日本兵の歩哨が一人の中国人に誰何した(「誰か」と呼びとめて聞いた)。ところが、この中国人が逃げ出したという。それを歩哨が背後から撃った、というのだ。
 歩哨の誰何を受けて逃げる者があったら、日本以外の警官なら少なくとも威嚇射撃し、止まらなければ撃つであろう。
 はじめから撃つ国もある。いわんや戦闘状態が終わるか終わらないかの戦場である。これは絶対に、いかなる尺度をもってしても大虐殺ではない。
 また、マギー牧師が、女を犯そうとした日本兵を見つけたところ、日本兵はあわてて銃剣を忘れて逃げていった。それでマギー牧師は、その銃剣を持って兵士を追いかけた、というような証言をしている。女にいたずらをしようとして、中立国の牧師さんに見つかったら必死に逃げる日本兵。このどこに何十万人も市民を虐殺している軍隊の姿があるのだろう。

 マギー牧師は、東京裁判で日本軍の世紀の大虐殺を証言するつもりだったのに、正直で嘘のつけなかった人だったために、まさに語るに落ちたのである。マギー牧師は、南京の安全区国際委員会のメンバーで、日本軍の占領中、その行動を監視するために、どこにも自由に行けたひとである。その行動の自由を持った反日的アメリカ人が、目撃した被害者は一人であるし、強姦事件も一件で、しかも、普通の大都市には、もっと悪質なものがありそうな程度のものにしぎなかった。その他はコソ泥を目撃したのが一件である。この程度なら、どこの大都市のお巡りさんでも日常見るところである。

 あとはすべて、戦場の伝聞であり、これは中国においては白髪三千丈になりやすい。
 ただ、ここで殺傷があったケースが三つばかりある。
 第一には敗戦中国兵 ─ その掠奪癖・放火癖は昔から国際的に定評があった ─ のやったことを日本兵のせいにされるということである。

 第二には、戦闘員の死者である。これは、いくら多くても戦果であり、虐殺とは言わない。特に逃げ出した敵を追撃するのは、最も効果の上がることである。
 ところが、戦後の「日中戦争」の専門家と称する人の中には、追撃戦の戦果を虐殺と取り違えている人もあるから、時代の違いは恐ろしい。「万人坑」などというものの中に、多くの死体を埋めてあったから、それを市民虐殺の証拠とする論法も使われているが、戦場の死体が主であったと考えるのが自然である。 

 第三には便衣ゲリラである。多くの中国敗残兵は、欧米人の管理の下にある安全区に逃げこんだ。安全地区では、実際に武器が隠されているのが発見されている。すると、ゲリラ狩りになるが、その処刑は正当であるが、間違って殺された民間人もあるであろう。便衣ゲリラに対しては憎しみが籠もっているから、殺し方は残虐になりやすい。そうして殺された人はまことに気の毒である。まさにそのゆえに便衣ゲリラはやってはいけないのである。

 第四に、捕虜として投降した者で殺された可能性のある者である。
 捕虜にしても食わせたり管理したりするのが大変なので ─ 日本軍自体が常に補給不足に悩んでいた ─ 武装解除したうえで、処置する方針だったという。この場合の処置とは、兵士を釈放してやるという意味の軍隊用語のレトリックのことである。シナの兵士の大部分は無理矢理に軍隊に入れられた者である。放されれば郷里に帰るだろう。
 もっとも、ある場合にはほんとうに処刑した場合も、少なくとも一カ所であったらしいが、それは捕虜の反抗というような特別な状況の下において、ごく限られたものである。しかもそれは合法である。アメリカ軍は捕虜を認めぬ方針で殴殺する場合が多くあったが、日本軍では例外的偶発事件と言ってよい。 
  

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