繰り返しになりますが、米国をはじめとする海外の歴史家や日本研究者ら187名が、連名で「日本の歴史家を支持する声明」を発表するに至ったのは、安倍政権が、これまで「従軍慰安婦」問題をはじめとする歴史の問題にきちんと向き合おうとせず、国連人権委員会の勧告や諸外国の議会決議を無視し、逆に日本に不都合な史実を覆そうとする歴史修正主義的な姿勢を見せているからだと思います。
そうした安倍政権の姿勢が影響しているのでしょうが、ビジネスホテル大手のアパグループが客室に日中戦争中の南京大虐殺を否定したり、「従軍慰安婦」の存在を否定したりする本を置いているとして、同社を非難する声が上がり、国際問題にまで発展してしまいました。
中国国内の予約サイトがアパホテルのボイコットを決定し、中国外務省も、「日本の一部勢力がいまだに歴史を直視しようとせず、さらには否定し、歴史を歪めようとさえしていることが、またもや示された」と発表したのです。
韓国のオリンピック委員会を兼ねる大韓体育会も、札幌市における冬季アジア大会での韓国選手団の宿泊先の変更を要請し、同市のアパホテルから札幌プリンスホテルに変更されたといいます。また、ソウル聯合ニュースは、誠信女子大教授が、日本のビジネスホテルチェーン、アパホテルの今後の利用自粛を韓国国民に呼び掛ける運動を行うと明らかにした事実を伝えています。
問題となっている本はアパグループの元谷外志雄代表の著書ですが、同書の中の近現代史にかかわる部分について、アパグループのホームページには
”本書籍の中の近現代史にかかわる部分については、いわゆる定説と言われるものに囚われず、著者が数多くの資料等を解析し、理論的に導き出した見解に基づいて書かれたものです。国によって歴史認識や歴史教育が異なることは認識していますが、本書籍は特定の国や国民を批判することを目的としたものではなく、あくまで事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたものです”
とあります。
私は、定説を覆し、「本当の歴史」を主張するのであれば、元谷外志雄氏が自らの見解を展開するだけではなく、多くの歴史家や研究者によって確立された「定説」の誤りや矛盾を、きちんと指摘する必要があると思います。定説を無視して、自らの見解を「本当の歴史」と主張することはできないと思うのです。
例えば、張作霖爆殺事件の首謀者は、関東軍高級参謀河本大作であることが日本では定説となっていますが、元谷外志雄氏は『マオ 誰も知らなかった毛沢東』ユン・チアン/ジョン・ハリディ/土屋京子訳(講談社)の中の下記の文を引いて、この文章の記述が「本当の歴史」であると主張しているようです。
”張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロッキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍のしかけにみせかけたものだという。”
でも、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』は、毛沢東を取り巻く様々な人の証言をもとに、毛沢東の生涯を描くことがねらいで、個々の歴史的事実を研究対象とするものではないため、上記の文章は、本文を補足するかたちで、★印を付けて小書きされたもので、「ソ連情報機関の資料」というものが、どこに保存されていた、どういう資料であるのか、また、どのような経緯で張作霖爆殺が実行されたのか、命令に関係した人物や実行した人物の証言は存在するのかなどについては、何も触れられていません。さらに、情報源を明らかにすることなく、「日本軍のしかけにみせかけたものだという」と、伝聞であることを示す表現をしています。たったこれだけの、それも小書きの文章で、多くの資料や関係者の証言を基に、歴史家が歴史的事実とした日本の定説を覆してしまうことは、とても無理であると思います。
また、張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説を最初に主張したというドミトリー・プロホロフ、ロシア人歴史作家も、「ソ連特務機関犯行説」の根拠が「ソ連共産党や特務機関の秘密文書を根拠とする」ものではなく「ソ連時代に出版された軍指導部の追想録やインタビュー記事、ソ連崩壊後に公開された公文書などを総合し分析した結果から、張作霖の爆殺はソ連特務機関が行ったのはほぼ間違いない」と、彼が自分自身で推察したものであることを明らかにしているといいます。したがって、「スターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍のしかけにみせかけた」という決定的な「ソ連情報機関の資料」というものは、発見されていないということではないかと思います。
ドミトリー・プロホロフという人物が、当時の関東軍内部の動きはもちろん、当時の日本軍の様々な命令文書や関係者の証言を十分踏まえた上で、「ソ連特務機関犯行説」を主張しているのか、気になるところです。
下記は、河本大作の「私が張作霖を殺した」に関わる義弟・平野零兒の記述です。歴史家や研究者が明らかにした当時の満州の歴史的事実と矛盾のない記述だと思います。 「目撃者が語る昭和史第3巻 満州事変」新人物往来社から抜粋しました。
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戦争放火者の側近
河本大作大佐義弟 平野零兒
戦争敢行者 ・・・略
河本大作の口述
私は河本と共に中共で戦犯として罪に坐した。彼は日本で開かれた国際軍事裁判でもA級戦犯になるだろうと、私は敗戦直後には思っていたが、一時証人に出廷させるか否かが、田中隆吉の証人出廷の時に問題になった程度で、敗戦後も日本の復興を企図して山西に残って、梟雄軍閥閻錫山の顧問となって、多くの日本人を残留させたが、当時の蒋介石等国民党軍は、 閻錫山の庇護によって、中国の戦犯にも扱わなかった。ある時国民党政府から、一応の訊問に形式的にやってきたが、ことなく帰ってしまった。
解放になって二日目、河本は西北公司の総顧問の机を整理し、解放当局の接収組に引き継ぎをやっているところを、太原公安局第三科に連行された。第三科は戦犯や、反革命者の取り調べを受けるところで、後には審訊科と名まえが変わった。その後一ヶ月余り経って、私は三科の科長から、私が書いた「河本大作伝稿」の提出を求められた。これはかつて私が河本の口述を基として筆録したもので、その一部分は私の不在中、その稿本のプリントの一部が、当文藝春秋誌上に河本大作手記として『私が張作霖を殺した』という一文となって、発表されたことを帰国してから知った。当時私はこの記録を、主として張作霖爆死事件を秘録として書いたので、そのコピーは、伝記の依頼者であった昭徳興業株式会社の重役で九州大学医学部教授故高岡達也医学博士に一部と河本の家族のもとに一部、そして太原へは私が一部を保存したもので、本誌に掲載された資料は、家族の保存した分を戦後私の友人Oが、これを文藝春秋社に提供したものであったと知れたが、私の保存した分は解放直後に証拠になると思って、私は社宅のカマドで焼却してしまっていた。
太原公安局で河本は、自己の経験全部の坦白を命じられ一切を供述して書いたが、その真実を裏付けるため、私が比較的正確な彼の伝記を所持していることを申し出たので、公安局は私にその提出方を要求したのであったが、その始末なので、私は執筆者として、記憶をたどり改めて書いて出すことにした。そのため私は前後八ヶ月、公安局に拘留を受け、そこでこれを認めた。この時には、私は河本の大きな罪悪の秘密はやはり張作霖事件が最も重大と思っていた。しかし実際は中国にとっては、河本に対して張作霖事件は、あまり問題ではなかった。それは張作霖事件は、当時にあっては某重大事件として、国の内外には大きな問題であったが、国際裁判では、戦争犯罪は大体1931年以後の問題を取り上げることになっていて、それ以前には遡らないことになっていたからであった。張作霖事件は、1928年6月のことに属するからである。解放後の中共当局でも張作霖事件については、私が考えていたほどこれのみを重要視はしていなかった模様であった。
河本の大陸雄図
彼は確かに張作霖事件によって、その存在が世間的に一部には知られたが、陸軍部内の大陸派として、中国に対しては古くから侵略的野望を抱いていた。それは日本の国家のため、東洋の平和のためという盲信のもとに彼は、日露戦争の陸軍少尉として遼陽の戦いで負傷した後、講和後、明治39年、鉄道警備に当たった安奉線陽山の守備隊長から更に安東守備隊副官となった時代に既にその思想を強く抱いた。
話は古くなるが、明治36年、日露の風雲急なとき、帝政ロシアの陸相クロパトキン将軍が日本へ来た。時の日本陸相寺内正毅は、小石川砲兵工廠内の後楽園で招宴を開いたことがある。この時寺内陸相は、クロパトキンに、砲兵工廠で打った村田刀を贈ったので、クロパトキンはよろこんで、これを抜いてコウコウたる刀身に見惚れていると、たちまち一天かき曇り、豪雨が降ると共に、激雷が園内の老杉に落ちた。クロパトキンは思わず抜身の刀を取り落とした。河本は士官学校の学生として参列してこの光景を見て、「これは日本は勝つ」と思ったという。そして、『今にこいつと戦ったやるんだ』と力み、戦争になったら軍事探偵をなろうと決心し、シベリアを放浪せねばならぬと、気候の似ている寒い北海道を歩いて偵察の下稽古をやったりした。安東守備時代には、日露の戦いの中で、東亜義軍というのを組織して馬賊を率いて暗躍した橋口中佐に憧れていたが、当時橋口と共に有名だった「花大人」の花田中佐の部下で大久保彦左衛門の末孫だという大久保豊彦が、当時間島が朝鮮のものか、中国のものかという問題の帰属が明らかでないのを、武力で占領してしまうほかないが、それには日本の正規軍がやっては面倒だと、三千の馬賊の頭目である楊二虎に占領させる陰謀をはかっている。それの参謀が必要なので、河本を誘いに来た。河本は渡りに舟と、心を躍らせ、宿願なれりと承諾し、詳しい計画を聞くと、軍資金は三道浪頭の銅山と寛旬県孔雀石礦山を掠め、武器はドイツのシーメンス・シュッケルト会社から買う密約ができているというのであった。そこで河本は、本渓湖に近い橋頭駅の上流約一里半の白雲塞の山塞に行った。彼は日本軍の軍紀に触れねば、そのまま馬賊の参謀になってしまったのだが、守備隊から連れ戻されて失敗に終わった。
彼の大陸の夢はこの時からの連続で、彼の一生を支配したといってもいい。後に陸軍大学在学中に組織した大陸会というのも、第二の日露戦争を企図し、蒙古に根拠を置き、いざとなったらシベリア鉄道を破壊しようと、盟約を結ぶ秘密結社を作り、陸軍青年将校を糾合した。そのうちの一人であった、三村豊少尉が、その頃威を張り出した張作霖を殺そうと、奉天小西辺門で、張作霖に爆弾を投じたが失敗した事件もあった。陸大を出ると漢口派遣軍司令部付参謀大尉となって赴任した頃第一次世界大戦が勃発した時であったが、雲南に起義した葵鍔と唐継堯が三回目の革命を企図したので、当時の大隈内閣は、密かに袁世凱を倒し、葵鍔を助ける政策をとった。河本はその密約を受けて、袁の股肱、曹錕を総帥として幕下に呉佩孚・馮玉祥と共に揚子江を逆航して四川に向かおうとする蔡の進軍を阻もうとするのを助けるために四川に潜行し密かに蔡に有利な条件を作った。そして各所に蜂起した雲南軍に呼応する重慶の周道剛、北方軍の中で蔡の方へ寝返った劉存厚、四川の陳宦の孤立などが縁となって、一時雲南軍の天下となったことがあった。ところが、元来中国軍閻間の争覇をねらって、日本の地歩を占めようとした、一貫した方針のほかには、これを手玉にとって自由に陰謀をめぐらせることのみであった日本の軍部は、袁が死し、段祺瑞の天下に移ると、南北がまた対立し、そこへ張勲等の復辟に名をかる出現があり、中国の内戦は、日本の思う壺にはまった。段が張勲討伐を始めた時、日本の中央は援段方針をとったので、この内戦の死命を制する雲南軍を制討するために河本をして劉存厚を操らせて、遂に雲南軍を鎮圧せしめた。
河本大佐へのアクセサリー
昨日助けた雲南軍を今日は制する道義を破った行動は、河本も気が進まなかったが、上原元帥に、国策と私情は別だと諭されたのだと述懐している。その後のシベリア出兵には、大谷軍司令官の下に参謀として従い、帰還すると参謀本部の演習課員を経て、大正十年北京公使館付武官となり、中国各地を探り、青海と西蔵を残したほかは悉く踏破し、参謀本部に転帰して支那班長となった。
その間に部内にはびこった、薩長の陸軍といわれた部内の派閥が、さらに石川、佐賀閥を加えたのに対抗するための秘密の会を組織し、渋谷の道玄坂の仏蘭西料理屋「二葉」に同志が会合した。小畑敏四郎、磯谷廉介、永田鉄山、板垣征四郎、岡村寧次、山岡重厚、後輩の東条英機、山下奉文等に上級では、荒木貞夫、真崎甚三郎、などとも連繋があったが、ほかに鈴木貞一、黒木親慶、小笠原数夫などを始め全国的に青年将校とも結び、閥族的色彩があるものの陸大入学を阻止したりして暗躍し、そのうちに一旦小倉の連隊付中佐に左遷されたが、間もなく関東軍高級参謀に就任して、大陸を舞台とすることになった。その後に起こったのが、張作霖事件である。
私が河本大佐のアクセサリーになったのは、この頃からである。…
・・・以下略
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