真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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『マオ 誰も知らなかった毛沢東』 一部抜粋

2017年03月11日 | 国際・政治

 元自衛隊航空幕僚長の田母神俊雄氏やアパグループ代表の元谷外志雄氏が取りあげた『マオ 誰も知らなかった毛沢東』の著者は、「日本語版によせて」のはじめに、「この毛沢東伝は、十余年にわたる調査と数百人におよぶ関係者へのインタビューにもとづいて書き上げたものです。インタビューに応じてくださった方々は、中国はもちろんのこと、日本を含む世界各国に及んでいます。

 わたくしたちが新しく入手した情報は、多くが原資料によるものです。これによって毛沢東に関する新しい理解が得られ、また、毛沢東の重要な決定や政策を新しい角度から読み解くことができました」と書いています。毛沢東の生涯を辿り、その全体像を明らかにしようと、大変な作業をされたことがわかります。

 しかしながら、同書で取りあげられている「張作霖爆殺事件」をはじめとした個々の事件の記述には、様々な問題が含まれていると思います。日本では、「張作霖爆殺事件」に関しては、関東軍の当時の状況や文書資料、関係者の証言などをもとに、多くの歴史家や研究者が、事件の首謀者を「河本大作」であると認定するに至っています。そして、それが定説として認められています。河本大作の義弟・平野零兒氏によって残された「私が張作霖を殺した」という河本大作自身の口述も公にされています。
 社会科学の一分野としての歴史学で、定説に対する異論を展開する場合には、そうした研究を踏まえて、その問題点や誤りを指摘し、深化・発展させるものでなければならないと思います。
 したがって、定説とは無関係に、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』の本文を補足するかたちで、下記のように、★印を付けて小書きされた文章をもとに、「張作霖は、スターリンの命令で爆殺された」と結論づけるようなことは、あってはならないと思います。

 「張作霖爆殺事件」のような謀略の歴史的事実について、「ソ連情報機関の資料」をもとに、定説に対する異論を展開するのなら、「史料批判」は欠かせない作業であり、その史料が信頼できるものなのか、その客観性や確実性を、様々な文書資料や証言、時代背景などをもとに検証する必要があるのではないでしょうか。そして、「ソ連情報機関の資料」に基づく歴史と、日本の歴史家によって定説とされた歴史のどちらが正しいのかを確定してゆく作業がなければならないと思います。そうした作業をなすことなく、元自衛隊航空幕僚長の田母神俊雄氏やアパグループ代表の元谷外志雄氏のように『マオ 誰も知らなかった毛沢東』のなかで、★印を付け小書きされた文章を根拠に、「張作霖は、スターリンの命令で爆殺された」というのが、あたかも「正しい歴史」であるかのように主張するのは、いかがなものかと思います。

 さらにつけ加えれば、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』のなかには、下記に抜粋した文章のように、「この交換条件は、スターリンにとって非常に魅力的だった。とくに、中国が日本と全面戦争に突入というのは、クレムリンの首領には願ってもない話だった。日本は1931年以来中国を蚕食しつづけていた。中国東北を併合したあと、日本は1935年11月に華北にも別の傀儡政権を作ったが、それでも蒋介石は対日全面戦争に踏み切ろうとしなかった。スターリンは、いずれ日本が北へ転じてソ連を攻撃するのではないかと心配していた」というような表現が、そこここに出てきます。でも、著者はスターリンからそういう内容の話を直接聞いて書いたわけではありません。「張学良は大総統に取って代わろうと企んでいた。英仏を合わせたよりも広い東北を治めてきた張学良としては、蒋介石の配下に甘んじることは面白くなかった。張学良は中国全土を支配したかったのである」などという文章も、私は同じではないかと思うのですが、著者は、スターリンや張学良の気持ちを推察して書いているのだと思います。でも、多くの人に読んでもらおうとする「伝記」では許されても、社会科学の一分野としての歴史学の書では、そうした推察を事実であるかのように記述することは、許されないことだと思います。「推察」は、「推察される」というような表現にするか、あるいは推察の根拠をその都度きちんと示さなければならないと思います。したがって、「張作霖爆殺事件」のような謀略の歴史的事実について、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』を拠り所にするのには、歴史学上は慎重であるべきだと思います。

 コロンビア大学のトマス・バーンスタイン教授は、同書について「彼らの発見の多くは確認不可能なソースからのものであり、他は公然とした推論あるいは状況証拠に基づき、いくつかは事実ではない」というような指摘しているといいます。私は、踏まえておくべきではないかと思います。

 下記は、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』ユン・チアン/ジョン・ハリディ/土屋京子訳(講談社)から、張作霖爆殺事件「ソ連特務機関犯行説」に関わる「第十六章 西安事件」の一部を抜粋したものです。
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                        第三部
                     第十六章 西安事件
                   1935~36★毛沢東41~42歳
 1935年10月、長征の末に毛沢東が黄土高原にたどりついたとき、とりあえず生きのびること以外に毛沢東が目標としたのは、ソ連支配地域までのルートを開拓することだった。そうすれば、武器その他の支援物資を受け取って勢力を拡大できるからだ。一方、蒋介石のほうは紅軍を柵の中に封じておきたいと考え、その任に少し前まで中国東北の軍閥だった「少帥」こと張学良を指名した。張学良は陝西(シャンシー)省の省都西安に司令部を置いていた。毛沢東の根拠地も同じ 陝西省で、西安からは北に300キロほど離れていた。
 武器の引き渡しに使えるソ連支配地域は二つあった。ひとつは新疆(シンチャン)で、根拠地から西北西へ1000キロ以上離れている。もうひとつは外モンゴルで、真北に500キロ強の距離にある。張学良率いる約30万の大軍は、この両方面を制する位置に駐留していた。
 張学良のアメリカ人パイロット、ロイヤル・レナードは、この世慣れた人物の横顔を、「わたしが最初に受けた印象は……まさにロータリー・クラブの会長、という感じだった。恰幅が良く、羽振りが良く、くつろいだ愛想の良い物腰で……わたしたちは、ものの五分で友だちになった……」と書き残している。東北軍閥の父張作霖(「大帥」)が、1928年6月に暗殺された★あと、張学良は父親の地盤を引き継いで中央政府に帰順し、そのまま東北の支配者としてとどまった。1931年に日本が東北を侵略すると、張学良は20万の軍を率いて関内(長城以南)に退き、その後さまざまな重要ポストを蒋介石から与えられた。表向き、張学良は蒋介石夫妻と親密な関係を装っていた。蒋介石より13歳年下の張学良は、蒋介石を「自分の父親同然に思っている」と公言していた。

 ★張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという。

 しかし、蒋介石の背後で、張学良は大総統に取って代わろうと企んでいた。英仏を合わせたよりも広い東北を治めてきた張学良としては、蒋介石の配下に甘んじることは面白くなかった。張学良は中国全土を支配したかったのである。そのために、張学良はヨーロッパに滞在中の1933年、ソ連の人間に近づいて訪ソを打診した。が、ソ連側はこれを警戒し、張学良の申し入れを断った。わずか4年前の1929年にスターリンが中国東北に侵攻し、その後中東鉄道の強行接収をめぐって、ソ連は短期間ながら張学良と戦火を交えたばかりだった。しかも、張学良はファシズムを賞讃する発言をし、ムッソリーニと家族ぐるみの親しい関係にあった。1935年8月に中国共産党の名でモスクワから出された声明は、張学良を「敗類(くず)」「売国奴」と呼んでいた。
 ところが、その年の後半に張学良が毛沢東の見張り役に任命されると、モスクワの態度が一変した。張学良のさじ加減ひとつで中国共産党の置かれた状況が好転し、さらにソ連からの支援物資受け取りも容易になるということで、張学良はモスクワにとって価値ある存在になったのである。毛沢東が陝西省の根拠地に到着して何週間もたたないうちに、ソ連の外交官は張学良(チャンシュエリアン)と踏み込んだ話し合いを進めていた。

 張学良は、上海や主都南京(ナンチン)に足を運んでソ連と秘密裏に協議を進めた。カムフラージュのため、張学良はプレーボーイの評判を利用してわざと軽薄な行動を見せた。アメリカ人パイロットは、ある日、張学良から「飛行機を垂直バンクで飛ばしてくれ、と頼まれた。片翼を街路につっこんだまま、友人らが逗留しているパーク・ホテルの前を飛んでくれ、というのだ。われわれの乗った飛行機は、ホテルの正面から三メートルもないほど近くを飛んだ。モーターの爆音が窓ガラスをカタカタと鳴らした」と回想している。この派手なショーをやってみせたとき、ホテルには張学良の女友達の一人が宿泊していた。「こんなことを言うと、あなたは笑うでしょうけれどね」と、1993年、九十一歳になっていた張学良は著者に話してくれた。「当時、戴笠(タイリー)[国民党特務の大物]は必死になってわたしの居所を探していました。で、わたしが女の子たちといいことをしていると思っていたようです。だが、実際には、わたしは密談していた…」
 張学良はソ連に対して、中国共産党と同盟する用意があること、しかも、「日本との決戦」に臨む--すなわち蒋介石が渋っている対日宣戦布告をする--用意があることを、はっきりと伝えた。そして、それと引き換えに、自分が蒋介石に代わって中国の支配者になるための後押しをしてほしい、と求めた。
 この交換条件は、スターリンにとって非常に魅力的だった。とくに、中国が日本と全面戦争に突入というのは、クレムリンの首領には願ってもない話だった。日本は1931年以来中国を蚕食しつづけていた。中国東北を併合したあと、日本は1935年11月に華北にも別の傀儡政権を作ったが、それでも蒋介石は対日全面戦争に踏み切ろうとしなかった。スターリンは、いずれ日本が北へ転じてソ連を攻撃するのではないかと心配していた。
 スターリンの狙いは、中国を利用して日本を中国の広大な内陸部へおびきよせ、泥沼にひきずりこむこと、そして、それによって日本をソ連から遠ざけることだった。モスクワは自らの狙いを包み隠したまま中国国内における対日全面戦争の気運を煽ることに力を入れ、大規模な学生デモに手を貸した。また、ソ連のスパイ、とくに孫文(スンウェン)夫人で蒋介石の義姉にあたる宋慶齢(ソンチンリン)は、圧力団体を結成して南京政府に行動を求めた。
 蒋介石は日本に降伏する気はないものの、宣戦布告する気もなかった。現実的に見て中国に勝ち目はなく、日本と対決すれば中国の破滅につながると考えていたからだ。そこで、蒋介石は降伏するでもなく全面戦争に出るでもない、きわめて異例などっちつかずの態度を選んだ。それが可能だったのは、中国が途方もなく大きく、また、日本が徐々にしか侵略してこなかったからである。蒋介石は、そのうちに日本がソ連のほうを向いて中国のことを忘れるのではないか、という希望さえ抱いていたかに思われる。
 張学良の提案はソ連にとって好都合だったが、スターリンは張学良を信用していなかった。かつての東北軍閥ごときに中国を統(ス)べて対日全面戦争を戦うほどの力量があろうとも思っていなかった。もし、中国が内戦状態に陥ったら、かえって日本に征服されやすくなる-そうなれば、ソ連にとって日本の脅威が倍加するだけだ。
 とはいえ、モスクワも張学良の提案を即座にはねつけるほど単純ではない。ソ連は提案を検討するふりを装って、気を持たせつづけた--ー張学良(チャンシュエリアン)から中国共産党に対する協力をひきだすためである。ソ連の外交官は張学良に対し、秘密裏に中国共産党との直接コンタクトを確立するよう指示した。中国共産党の交渉担当者と張学良との第一回目の話し合いは、1936年1月20日におこなわれた。
 ・・・(以下略)

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