真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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悲劇縦走 平泉澄 NO2

2017年07月19日 | 国際・政治

 学生に対し、「百姓に歴史がありますか」「豚に歴史がありますか」などという言葉をなげかけ、また「百姓が何百万おろうが、そんなものは研究の対象にはならない」というような指導をしたという皇国史観のリーダー平泉澄は、自らの戦争責任について、「本来学者の身であって、政治、外交、軍事の方面に、何等の地位も権限ももたず、従って責任も軽い筈である」というのですが、「悲劇縦走」で、自らの責任の大きさを語っているように、私には思えます。

 下記に抜粋した「七十四 終戦(其二)」の文章にあるように、自ら阿南陸相に下記のようなことを”強くお願いした”と書いているのです。まさに軍の作戦に介入する、学者らしからぬ提案です。
”…東大工学部航空研究所員高月教授の苦心製作したる発動機は、之を満州に於いて実験したる所、東京より太平洋、アメリカ大陸、更に大西洋を越えてフランスにまで到達し得べき事、明かになりました、然らばこの長距離を以て米国本土を襲撃する事、容易でありませう、若しそのガソリンを半減して爆弾を積めば米軍の要地を破砕し、その油田を焼却し、米軍の半をその本土防衛の為に釘付けにする事も出来るでありませう。攻守の勢いを一変すべく、何とぞ此の案を御詮議いただきたく、而して若し此の案を御採用の時は、その一番に私を便乗させて下さい…”
 
 また、敗戦間際になお、茨城県沿岸防衛軍野田善吾中将の要請に応じて石岡や水戸で将士に講演したのをはじめ、広島市宇品の暁部隊、江田島の海軍兵学校、神ノ池の海軍航空隊等々、日本全国を飛びまわり講義・講演を続けていたことを書いています。その上、宮城事件の首謀者たちとも密に連絡を取り合い、
「陸海軍としては、天皇制の存続を保証せられないかぎり、応諾する事は出来ない」として、今一押し、押す態勢を取らうではないか
などと話し合っているのです。「至純の忠誠」を語り、「只々一途に己か本分の忠節を守り、義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟」して戦うことを説いて回ったのでしょう。戦時中、日本軍兵士の士気を鼓舞することで、平泉澄以上に活躍した人はいないと思います。

 「 Ⅱ わだつみの友へ-学徒出陣二十五年に」と題して色川大吉氏が、平泉澄の講義について下記のようなことを書いています。

学徒出陣壮行会が行われる数日前、私は東大文学部の階段教室で平泉澄教授の日本思想史の最終講義を聞いた。そのとき平泉澄が教壇で短刀を抜き放って、「国をおもひ眠られぬ夜の霜の色 ともしび寄せて見る剣(ツルギ)かな」と誦じ、終わって「しばらくお別れです」「いや、永久にお別れです」といって出てゆかれたのには、驚き、あきれた。”「歴史家の嘘と夢」色川大吉(朝日選書8)

 「永久にお別れです」ということは、「死んでこい」ということを意味するのではないかと思いますが、文学部長の今井登志喜教授(西洋史)は
 ”「前途ある若き諸君を、今痛恨の思いをもって戦場に送る。今回の政府の措置は、まさに千載の痛恨事とせねばならぬ。願わくは諸君、命を大切に、生きてふたたびこの教室に会せんことを」と涙とともに訴えられた。
というのですから、平泉澄の思想の人命軽視は否定しようがないと思います。
 平泉澄の考え方では、どんなに大勢の日本兵が死んでも、「己か本分の忠節を守り」、自ら立派に死んだということで、大した問題にならないのかも知れません。したがって、平泉澄が、兵士の死に対する自身の「責任」の問題に向き合うこともないのだろうと思います。
 
 平泉澄の文章に、赤紙一枚で召集され、地獄の苦しみを味わって死んでいった兵士や残された家族に思いを寄せる文章を見つけることが困難なのは、そうした考え方からくるのだろうと思います。


 敗戦が避けられない状況の中でなお
当時私が同士同学と共に米軍の撃破に鋭意奔走してゐましたのは、終戦阻止の為にあらずして、終戦を可能ならしむる為、そして彼に痛撃を与へる事によって、終戦の条件を少しでも善くしたいと願ったからであります。
などという、平泉澄は、「朕の命令」を利用して、理不尽な戦争を続けた軍を支えたこと、否定しようがない事実だと思います。人命よりも「終戦の条件を善く」することが大事だとするところに、「神国日本」・「皇国日本」の正体が示されているのではないでしょうか。 

 下記は、「悲劇縦走」平泉澄(皇學館大学出版部)から抜粋しました。
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                    七十四 終戦(其二)

 ・・・
 兎も角正月九日の阿南大将邸、大将と私とは色々話をしました。その中で、私が強くお願ひした事が二つあります。その第一は、陸軍部内に於いて当時噂があり、もしくは計画せられてゐた、陛下御動座の案を、断然破棄していただきたい、と云ふ事であります。卒然として私の説を耳にして、「あなたは陛下の御安泰を冀はないのか」と、憤りを帯びて反問した人もあります。私が陛下の御安泰を祈らぬわけはありませぬ。然し私は何よりも天皇の御徳に傷のつく事を恐れるのであります。過去の歴史を顧れば、苦難に遭遇し給うた天皇は、数多くおはしまし、殊に絶海の孤島に沈淪し、寒山幽谷に埋没し給うたと申上げてよい痛ましい晩年を送らせ給うた方々、後鳥羽天皇、順徳天皇、後醍醐天皇、後村上天皇の如き、その御事蹟を仰ぎ見る時、私共は泣いても泣ききれないのであります。しかも、同時に、その苦難が、日本の道を明かにし給はむとの思召より発してゐる所に、私共は無限の感動を覚えるのであります。今若し宣戦の大詔を発せられたままで、命を棄てて前線に向ふ軍隊と、苦難に喘ぐ国民を置去りにして、陛下を何処かへ御移し申上げて了ったとあっては、君臣の間の道義は、一体どうなるのでありませうか。皇子皇女は、どうぞ安全な場所へお移し申上げて下さい。陛下には何とぞ今のまま宮城におはしまして御統裁遊ばされたく、若しお移りになるのであれば、一歩でも前の方へお進み願上げます、と云ふのが、国体護持を本願とする私の願望でありました。先きに皇紀二千六百年記念事業として、吉野山なる後醍醐天皇御陵の前の山道を、陛下御親拝の便宜を計り、自動車道を開かうといふ宮内省と奈良県との案に反対して、先帝の御苦難を回想し給うての御親拝ならば、此処は御車を横付にし給ふべきではなく、出来れば御ひろひ、いけなければ御駕篭を御使用願ふべき所ですと主張して、その筋の怒りを受けた事がありますが、今の問題はそれ以上に重大であって、是れは下手をすれば一大事と考へ、第一に阿南大将にお願したのでありました。
 大将は、即座に快諾せられました。云はれますには、「全く同感であります。自分は先きに中佐でありました時、多くの反対を押切って、宮中の防空壕、心をこめて造り、強固の上にも強固を期して築造しましたが、その後、陸軍次官在任中、之を拡大強化しました。今後一層注意して万全を期する事にしませう。皇后陛下始め皇子皇女方は別であって、安全な所にお移り願ふべきでありませうが、陛下には宮城以外に御動座をお願申上ぐべきで無い事、全く同感です」と云はれました。

 第一の、問題は之で解決して、私は大いに安堵しました。次には第二の問題であります。日米の戦勢、昭和十七年六月ミッドウェーの戦を界として、攻守、所をかへました。彼れは図に乗って進み、我れはやむを得ず、退いて守る態勢となりました。然るに攻撃に出づる者は、その時機と、その場所とを、己れの自由に選択し、而して防守する者は、戦場と時機との二つを彼れに制約せられて、初めより頗る不利であります。それ故に小を以て大と戦ひ、劣勢にして優勢を討たうとするには、先づ攻勢を取戻すべきでありませう。たまたま昭和十九年七月、東大工学部航空研究所員高月教授の苦心製作したる発動機は、之を満州に於いて実験したる所、東京より太平洋、アメリカ大陸、更に大西洋を越えてフランスにまで到達し得べき事、明かになりました、然らばこの長距離を以て米国本土を襲撃する事、容易でありませう、若しそのガソリンを半減して爆弾を積めば米軍の要地を破砕し、その油田を焼却し、米軍の半をその本土防衛の為に釘付けにする事も出来るでありませう。攻守の勢いを一変すべく、何とぞ此の案を御詮議いただきたく、而して若し此の案を御採用の時は、その一番に私を便乗させて下さい。直接のお役には立ちませぬが、いよいよ米本土襲撃となり。その一番機に平泉まで乗込んで戦死したとなれば、ミッドウェー以来の萎靡沈滞を一掃して、三軍の士気旺盛となり、踊躍して海を越える者、相継ぐでありませう。是れが私の阿南大将に提言した第二の点でありました。大将は楽しく之を聴いて居られましたが、やはり無理があり不可能であるとしてか、可否を云はれず、云はば黙殺の形でありました。大将は、実践の経験から見て、米軍恐るるに足らず、そのやうな無理をしないでも、大丈夫勝てると信じて居られるようでありました。
 昭和二十年正月九日、午後五時より七時に至る二時間、阿南大将との懇談、要点は以上の通りでありました。今後はいつでもお会ひ出来ると思って、談他事に及ばず、久振りの御帰宅ですから、いそいで辞去しましたが、実際お会ひしたのは、その後一回、六月二十二日の夕だけでした。
 その後、形勢日々に非にして、空襲の被害は益々激しくなりました。就中三月九日の如きは、全市火の海と化し、満天炎となったかと想はれ、罹災者五十七万七千余人、戸数十四万五千余戸、死者一万八百三十二人と発表せられました。次に激しかったのは、四月十三日の夜で、被害は木戸侯、尾州徳川家、浅野家、菊池家、岡田大将等の邸宅を主とし、宮中の一部にも及んだと承りました。曙町の寓居が灰となったのも、是の時でありました。…
 ・・・
 六月十三日、井田中佐と畑中少佐、相携えて来訪。同二十二日、阿南大将が会ひたいと云はれるとの事で、その夜おたづねしました。大将は、四月七日陸軍大臣に任ぜられましたが、陸相官邸焼失の為、わづかに焼け残った副官の官舎に居られましたので、そこで七時半より九時半まで懇談しましたが、主たる要用、は、本土防衛の諸方面軍、いづれも平泉の来援を希望する中に、最も熱心なるは、茨城県沿岸防衛軍司令官野田善吾中将、ここへ行って貰へませんか、と云ふ事で、直ちに快諾し、七月十一日出発、十二日は石岡に於いて七百名の将士に、十三日は水戸に於いて六百名の将士に講演し、十四日は山本茂雄連隊長を始め、篤志三十余名の将校と共に、小田、關、大宝の古城址を廻りましたが、巡拝終はって解散する時、山本聯隊長が一同を代表して述べられた感謝の辞は、凛然として懦夫を起たしめ、勇士を鼓舞するものでありました。
 その間に戦勢は、日に日に非となりました。大本営の発表はどうあるにせよ、第一線の情況は、私にはよく分ってゐました。昭和二十年正月には、十七、十八、十九の三日連続、広島市宇品の暁部隊に於いて講演しました。暁部隊は隷下凡そ二十数万、北はアリューシャンより、南はニューギニアに至って奮闘中であります。そのうち交戦中の隊を除き。、北は石巻より、南は鹿児島に至る間の将校一千五百名、講堂を埋め尽くしての集まり、司令官佐伯中将、部付北沢中将、参謀長磯矢少将、練習部長馬場少将いづれも颯爽として不屈の精神漲ってゐました。
 暁部隊を終って、江田島へゆき、海軍兵学校で講義をしてゐるうち、航空本部伊東大佐より依頼があり、茨城県神(カウ)の池航空部隊へ行く事になり、二十日夕、岩国の講義を午前に繰上げて、午後一時四十四分岩国発東京行の急行に乗りましたが、途中たびたび爆撃を受けて不通の箇所があり、結局列車は京都止り、二十一日暮れの七時にようやく新橋へ着きました。
 正月二十三日は神(カウ)の池の海軍航空隊、司令は岡村基春大佐、豪壮精悍を以て鳴る人、小田原大佐の二期下で、その指導を受けたと云って居られました。副長五十嵐中佐、飛行長岩城少佐、いづれも百戦の勇士でした。講演は三時半より五時半まで、題は「尽忠」、聴者は士官と下士官と合せて数百名、すべて搭乗員であって、その三分の一は特攻隊と云ふ事でした。驚いたのは此の人々、私の講演を最後として神の池を立ち、その夜のうちに全部前線へ向って飛び去った事でありました。その中に京都青々の同学緒方襄中尉(二十四歳)も在って、爽かな挨拶の言葉を残して、やがて、沖縄の空に花と散りました。
 二月九日には霞ヶ浦海軍航空隊へ行き、二晩つづけて講演。司令は和田三郎大佐、ガダルカナル以来歴戦の勇士、磊々落々たる人物でした。飛行長は河本中佐、穏かなお方で、飛行場を案内していただきました。左足の無い角野少佐、指の無い關谷大尉が、熱心に後輩を指導して居られる姿を見たのは、是の時でした。
 四月十日には、仙台青々の同学寺田壽夫氏より葉書が届けられました。
 「小生此度第二次宇佐八幡護皇隊員として本日出撃仕り候、唯々必死必中、以て皇国護持之道に殉ずべく候、先生の御健祥切に祈上候、歌一首詠み遺し置き候、
  戀闕
  桜花 散りの間際に 益荒男は
      君をおもひて 心悲しも  四月四日」
 此の人の写真、特殊の事情あって気の毒に思ひ、三十年の後まで、私は旅行のたびに持ちあるき、方々の景色を見せて、心を慰めて貰ひました。
 四月二十六日、七日は、土浦へ行って、海軍気象学校で講演しました。校長は関少将。五月十一日は、大津の海軍航空隊で講演、司令は松木通世大佐、此の部隊は、いよいよ重大なる使命を帯びる事となり、一段の緊張でありました。
 六月十二日の夕七時五十分沖縄の部隊に対して感謝と激励の言葉を放送しました。恐らくは是れが最後であらうといふ事で、感慨悲痛でありました。西片町より放送局まで、焼跡ばかりつづいて、帰りは暗黒、爪先さぐりに歩くのでした。
 かやうにして戦況は、特に報告や説明を受けるまでも無く、私には自然に明瞭でありました。それ故に不満に思ひましたのは、政府や重臣の怠慢であります。小磯内閣は、為すなくして退陣し、代って鈴木内閣は、昭和二十年四月七日成立しました。その鈴木首相の人物、立派である事はいふまでもありませぬが、さて何をしようとされるのか、それが一向に分りませぬ。大廈将(タイカマサ)に倒れむとするに、悠揚迫らず出納帳つけてゐる番頭に似て、旧例古格口やかましい様な政府、例をあぐれば皇国正史編修の議、驚いた事には、昭和十八年の八月に閣議決定となり、私に協力を要請して文部省の企画課長が来訪したのが八月三十一日、それは不急不要なるのみならず、寧ろ有害であるとして、数箇条の難点をあげて中止を勧告しましたが、文部大臣は耳を傾けず、たびたびの会議に反対しましたが毫も反省なく、小磯内閣に引継ぎ、鈴木内閣に継承せられ、やがて発令せられて国史院創立を見たかと思ふ間もなく終戦となって、一切ご破算となった如き、先見の明なく、断行の勇なき、著しい例といふべきでありませう。
 他方、平和主義者の講話策は、極秘のうちに論議せられてゐましたが、是は亦、実に恥づべきものでありました。それを知りましたのは、徳永中将の懇請により、二十年六月三十日、海軍技術研究所に赴いて相談に応じた時からであります。研究所には、専門委員として大学教授等の学者を集めて審議を重ねて来たが、どうも心配だから私にも参加してほしいとの事でありましたので、七月六日、同二十日の二回出席して、研究報告の発表を聴きました。その内容は、くわしく記録して置きましたが、到底発表するに忍びざるもの、言語道断でありました。此のやうな説が、海軍の機関に入って堂々と陳述せられてゐるとは、説をなす者の不逞はいふまでもなく、国の衰へ窮まり、病はすでに膏肓に入ったものかと嘆息した事でありました。
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                     七十五 終戦(其の三)

 昭和二十年七月、大学より選ばれたる専門委員によって、所もあらう海軍技術研究所に於いて、滔々陳述せられたる研究報告が、言語道断の放言でありました事は、私をして国の健康状態のすでに危篤に陥ってゐる事を痛感せしめ、此の状態に陥るまで放置して、決戦の奮励もしなければ、終戦の努力も一向に見られざる当局の怠慢を嘆くのでありました。
 当時私が同士同学と共に米軍の撃破に鋭意奔走してゐましたのは、終戦阻止の為にあらずして、終戦を可能ならしむる為、そして彼に痛撃を与へる事によって、終戦の条件を少しでも善くしたいと願ったからであります。一年前の十九年六月二十五日、同学数名会合し、時局に就いて意見をまとめ、和平絶対反対といふに落着いた由、私に申し出た事があります。その時の私の答、手帳に控へがあります。
 「諸兄は宣戦の大詔を何と拝読せるや、陛下は初めよりこの戦乱の一日も早く終りて和平の再び来らん事を望ませ給ふ也、和平絶対反対などは、いふべき事にあらず、我等の考ふべきは、実にその条件に在り、(日露戦争の時など児玉参謀総長は出馬に際して、和平の事を政治家に依頼して出かけたり)」
 切迫せる戦勢と優柔なる政府、之を見くらべて嘆いてゐるうちに、二十年八月六日、広島に原子爆弾が落され、八日の夜、軍務局の畑中少佐西片町へ来訪、相談がありました。あくる九日、海軍軍令部より電話、昨夜ソ連宣戦布告、ソ連国境に戦始まった由、さては一昨日ソ連大使館にて庭の手入中なりと云はれたのは、機密書類の焼却であったのか、と驚いた事でした。九日午後一時半、徳永中将西片町へ来訪あり、事態緊迫、憂慮に堪へず、信頼し得る将士、陸海提携、国体の守護に当たるべしとして、御相談がありました。よって直ちに、陸軍の阿南大将に書状をしたため、同時に竹下・井田両中佐、畑中少佐にも手紙を届けました。その夜は憂憤の士数名西片町へ来訪、鳥巣氏と窪田少佐とは、そのまま一泊。夜中の三時に島田少佐より電話、人々の態度、それぞれの反応を報じてくれました。明くる十日、横須賀の海軍航空隊司令柴田武雄大佐来訪。その司令辞去して間もなく徳永中将来訪、情勢は甚だ悲観すべき事を告げられ、ついで書状を以て更に奮励すべき由、申越されました。
 よって十一日宮内省へ参り、宗秩寮総裁松平慶民子爵をたづねて、陛下の思召くはしく承りました。子爵は、政治的色彩の全くない無色透明、純忠至誠のお方で、御信任頗る厚く、間もなく宮内大臣に任ぜられた人であります。松平子爵によって宮中の御様子はよく分かりましたので、次には内務省へ行き、情報局に第二部長加藤祐三郎氏をたづねました。これは頗る有能な士で、ここ数日の複雑に紛糾せる問題を明快に記憶し分析して、戦争指導会議及び閣議の模様、一々掌を指すが如くに説明、そして最後に聖断は下り、連合国の申入を受諾する事に決したのです、と告げてくれました。よって其の日の午後、東大の研究室に於いて、数通の書状をしたため、之を全国各地主要の同学に告げました。十二日もつづいて書状をしたため、就中阿南大将には、「国内特に陸軍の一隅危激の輩、暴発妄動のおそれ有之、小生も力の及ぶ限り防止いたすべく候へども、微力にて不安に候、何とぞ閣下の御高配願上げ候」とお頼みしたのでありました。同時に竹下・井田両中佐及び畑中少佐にも、連名で一書を送り、「小さき事にこだわらず、大局に御着眼ありたく候、又右翼的妄動をせず、あくまで忠誠の臣として御奉公下され度、御依頼申上候」と頼みました。
 ・・・
 しかるに私が、しきりに暴発を誡めてゐるうちに、畑中少佐飛んで来て桑港(サンフランシスコ)放送を伝へてくれました。それによれば米国務長官バーンズは、連合国を代表して日本の降伏条件を承諾するといふのでありますが、その中に、日本の天皇及び政府は、降伏条件を実行に移す間、連合国最高指揮官に従属すべきものとし、日本国民は、国民の自由意思に従ふ政体を樹立すること許さる云々とあるのを見て、陛下に対し奉って、臣子の情まことに忍ぶべからざるものあると共に、一体連合国は、日本に天皇制廃止を強ひようとしてゐるのか、どうか、分からなくなり、非常に心配しました。そこで、畑中少佐と相談して、「陸海軍としては、天皇制の存続を保証せられないかぎり、応諾する事は出来ない」として、今一押し、押す態勢を取らうではないか、と云ふ事になりました。…
 ・・・
 あくる十三日午前九時半ごろ、研究室に畑中少佐来訪、その話によれば、今朝、首相は陸相を招いて、彼の回答は、言葉は拙なれども、趣旨は大体あれにてよしと云はれ、而して海軍大臣米内大将は、固く執って和平の進行を図りつつあり、此の上は海軍部内にて海相の更迭を計るやうにいたしたい、との事でありました。是に於いて私は、宮中の思召がいかにあるか、又軍がいかやうに分裂してゐるか、を知り得ましたので、
 「此の状態に於いて断乎として戦を遂行する為には、現実に必勝の兵器と戦術とあるを要す、その用意は」
と尋ねたところ
 「その用意はなし、只やるだけだ」
との答でありましたから、その軽率無謀を固く誡め、国家存亡の重大事、慎重に考へて足を踏みはづさないやうにしなければならぬ、と説きました。
 ・・・(以下略)

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