真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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イスラエル軍の暴走、国連暫定駐留軍の監視塔砲撃

2024年10月15日 | 国際・政治

 今年5月、アメリカのトランプ前大統領に有罪の評決が下されました。不倫の口止め料をめぐって業務記録を改ざんした罪に問われていたのです。それを受けて、バイデン米大統領の陣営は声明を発表し、「私たちは今日、ニューヨークで法の上に立つ者はいないということを目の当たりにした」とその評決を歓迎しました。

 でも、そのバイデン大統領は、イスラエルのネタニヤフ首相とともに、あたかも自分達が国際社会で、法の上に立つ者のような振る舞いを続けていると思います。

 

 というのは、国連レバノン暫定駐留軍(UNIFIL が、”イスラエル軍の戦車が国連レバノン暫定駐留軍(UNIFIL)の監視塔に砲撃を加えるなど、UNIFILの拠点を意図的に繰り返し攻撃している”とのUNIFIL statementを発表したことでもわかると思います(UNIFIL statement (13 October 2024) | UNIFIL (unmissions.org)。それは、”国際法と安全保障理事会決議1701(2006)の甚だしい違反である”と告発しているのに、イスラエルは受け入れず、さまざまな言い逃れをしているのです。

 

 また、声明のなかには、”午前640分頃、同じ位置にいた平和維持軍は、100メートル北で数発の砲弾が発射され、煙が発せられたと報告した。防護マスクを着用していたにもかかわらず、15人の平和維持要員は、煙がキャンプに入った後、皮膚の炎症や胃腸反応などの影響を受けた。平和維持軍は治療を受けています。”というような内容もあります。有毒ガスが使われたのでしょうか。詳細が明らかにされるべきだと思います。

 こうしたイスラエルの蛮行は、圧倒的な経済力と軍事力を持つアメリカの支援さえあれば、何でもできてしまうということを示しているように思います。だから、パレスチナでも、平然と国際法違反や安全保障理事会決議違反をくり返しているのだと思います。

 そして、そうした蛮行が、イスラエルの建国前後から続いていることも見逃してはならないと思います。下記の、「イスラエル、イラク、アメリカ ─戦争とプロパガンダ3─E.W. サイード:中野真紀子訳(みすず書房)には、過去のレバノン侵攻や、イラクをめぐるアメリカとイスラエルの無法者ぶりが明らかにされています。

 次のような文章は、その一つです。

”・・・現代の中東において一つの主権国家が別の主権国家に対し軍事的手段による政権交代(レジームチェンジ)を企てた最初の本格的な試みは、このようにして終わった。この事件を持ち出したのは、いま起こっていることの面倒な背景を説明するためだ。シャロンは現在イスラエルの首相となり、彼の軍隊とプロパガンダ機構はふたたびアラファトとパレスチナ人を囲い込み、「テロリスト」と呼んで人間扱いを止めている。ここで思い出したいのは、「テロリスト」という言葉が、イスラエルによって1970年代半ばからパレスチナ側のいっさいの抵抗活動を表現する言葉としてシステマティックに用いるられはじめたことだ。以来ずっとそれが続いており、特に1987年─93年の第一次インタファーダの時期には、抵抗と純粋なテロ行為の間の区別が取り払われ、その結果として武力闘争の理由から政治色が消されてしまった。1950年代と60年代に、アリエル・シャロンは悪名高い101部隊を率いて、ベングリオン首相の承認のもとにアラブの民間人を殺し、彼らの家を破壊したことによって「偉勲」を立てた。・・・”

 現在のレバノン侵攻は、こうした過去を無かったことにして受け止めてはならないと思います。

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                      イスラエル、イラク、合衆国

 198264日、レバノンの多数の地域にイスラエルの戦闘機が激しい爆撃を加えた。二日後、イスラエル軍はレバノンの南部国境を越えて侵攻した。当時のイスラエル首相はメナヘム・ベギン、国防大臣はアリエル・シャロンだった。侵略の直接の理由は、ロンドンで起こったイスラエル大使の暗殺未遂事件だった。だがそのとき(現在と同じように)、ベエギンとシャロンはその責任を「テロ組織」PLOに負わせ、同組織が南レバノンにおける停戦をほぼ一年近く遵守してきたにもかかわらず侵攻したのである。数日後の613日、ベイルートはイスラエル軍に包囲された。侵攻開始にあたってイスラエルの政府報道官が目標地点として挙げたのは、レバレッジ国境から北方35キロのアワリー川だったにもかかわらず。やがて、シャロンがヤセル・アラファトを殺そうと、この反抗的なパレスチナ指導者の周囲をことごとく爆撃していることが明白になる。包囲攻撃に伴い、人道支援が途絶し、水と電気の供給が停められ、持続的な空爆によって何百というベイルートの建物が破壊され、8月下旬に包囲戦が終了するまでに、パレスチナ人とレバノン人を合わせて18千人が犠牲になった。そのほとんどが民間人だった。

 レバノンは1975年春に始まった凄惨な内戦ですでにがたがたになっており、イスラエル軍が1982年以前に侵入したのは一度だけだったが、早い時期から(レバノンの)キリスト教右派民兵組織によって協力者として求められていた。東ベイルートに拠点を置くこれらの民兵組織は、シャロンの軍隊の包囲戦にはじめから終わりまで協力した。812日の凄まじい無差別爆撃、そしてあのサブラーとシャティーラの両難民キャンプでの大虐殺を経て、ベイルート包囲戦は終わった。シャロンの一番の同盟者はファランジェ党のバシール・ジェマイエルで、この人物が813日、議会によってレバノン大統領に選ばれた。

 

 ジェマイエルは、パレスチナ人が「民族運動」の側についてレバノンの内戦に介入するという愚をおかしたことを憎んでいた。「民族運動」は左派とアラブ民族主義諸政党の緩やかな連合体で、後者に含まれるアマルという政党は今日の「ヒズボラ」シーア派運動に成長し、20005月に(南レバノンに居座り続けた)イスラエルを徹底させる主役となった。シャロンの軍隊が当選させたといってもよいジェマイエルは、イスラエルの露骨な属国扱いを受けそうなことに抵抗を示したらしい。彼は914日に暗殺された。その2日後に難民キャンプの大虐殺が始まった。イスラエル軍はキャンプの周りに非常線を張り、復讐に燃えるバシール(・ジェマイエル)の仲間の急進派キリスト教徒たちが誰にも邪魔されることなく忌まわしい仕事に専念専念できるように取り計らってやった。

 国連と(もちろん)合衆国の監督のもとに、8月にはフランス兵がベイルートに入っていた。PLOの兵士たちは821日からレバノンを撤収しはじめていたが、フランス兵に少し遅れて合衆国や他のヨーロッパ諸国からの兵力もレバノンに入ることになっていた。91日までにPLOの退去は完了し、アラファトと少数の側近や軍人たちはチェニスに身を寄せた。一方レバノンの内戦はその後も続き1990年頃にようやく(サウジアラビアの)タイフで合意が結ばれた。その結果、多かれ少なかれ昔どうりの宗派制度が復活し、そのまま今日に至っている。1994年のなかば、アラファト──依然PLOの議長だった──と同じ顔ぶれの側近や軍人たちの一部が、いわゆる「オスロ合意」の一環としてガザに入ることを許される。今年の早い時期に、シャロンはベイルートでアラファトを殺しそこなったことを悔やむ言葉を吐いたと伝えられた。とはいえ、その努力が足りなかったわけではない。何十ヶ所もの隠れ家や司令部は瓦礫となるまで破壊され、多数の人命が失われた。思うに、アラブ人は1982年の出来事によって、イスラエルは最新技術(飛行機、ミサイル、戦車、ヘリコプター)を投入して民間人を無差別に攻撃するだけでなく、たとえ指導者や首都が標的にされていたとしても、そのような行為を止めるために合衆国や他のアラブ諸国が何かをするということはないという考えに慣れっこになってしまったようだ(この出来事についてのはさらに詳しい説明は、ラシード・ハーリーディ、ロバート・フィスク・パスク、ジョナサンランドルの著書などに載っている)。

 

 現代の中東において一つの主権国家が別の主権国家に対し軍事的手段による政権交代(レジームチェンジ)を企てた最初の本格的な試みは、このようにして終わった。この事件を持ち出したのは、いま起こっていることの面倒な背景を説明するためだ。シャロンは現在イスラエルの首相となり、彼の軍隊とプロパガンダ機構はふたたびアラファトとパレスチナ人を囲い込み、「テロリスト」と呼んで人間扱いを止めている。ここで思い出したいのは、「テロリスト」という言葉が、イスラエルによって1970年代半ばからパレスチナ側のいっさいの抵抗活動を表現する言葉としてシステマティックに用いるられはじめたことだ。以来ずっとそれが続いており、特に1987年─93年の第一次インタファーダの時期には、抵抗と純粋なテロ行為の間の区別が取り払われ、その結果として武力闘争の理由から政治色が消されてしまった。1950年代と60年代に、アリエル・シャロンは悪名高い101部隊を率いて、ベングリオン首相の承認のもとにアラブの民間人を殺し、彼らの家を破壊したことによって「偉勲」を立てた。彼は1970─71年のガザ鎮圧の責任者だった。1982年の軍事侵攻を含め、これらの試みはどれひとつ、パレスチナ人を追い払うことには成功しなかったし、軍事的な手段による地図の描き替えや、政権のすげ替えにもイスラエルの完全な勝利を保証するほどには成功しなかった。

 

 1982年と2002年の主な相違は、いま虐待され、包囲されているパレスチナ人たちがいるところは、1967年に占領されたパレスチナの領土であり、占領による破壊と略奪、経済の破壊、共同体の社会生活基盤全体の破壊にもかかわらず、彼らがとどまり続けた場所であるということである。主な類似は、不釣り合いに大規模な手段が投入されていることである。たとえば、何百台もの戦車やブルドーザーがジェニーンのような町や村、ジェニーンにあるものやデヘイシャのような難民キャンプに入り込み、殺戮と施設の破壊、救急車や救急隊員の仕事の妨害、水や電気の切断などを行っている。合衆国はこれらすべてに支持を与えており、その大統領は20023月から4月にかけてイスラエルがもっとひどく暴れまわった時期に、シャロンを平和主義者と呼ぶほどのことまでした。シャロンの意図が「テロの根絶」をいかに大きく超えていたかを暗示しているのは、彼の軍隊が中央統計局、教育省、財務省、保健省、文化施設などに入り込んで、すべてのコンピューターを破壊し、ファイルやハードディスクを持ち去り、オフィスや図書室を破壊したことだ。これらみな、パレスチナ人の集団としての生活を近代以前の水準に戻してやるためになされたことだった。

 アラファトの失策や、オスロ交渉中やそれ以降の情けない政権のいたらなさについて、これまで批判してきたことを今もう一度くり返そうと思わない。ここでも、よそでも、すでに十分すぎるほど詳述してきたことだ。加えて、いまこの原稿を書いている時点で、アラファトは文字どうり首の皮一枚で命をつなぎとめている。ラーマッラーの崩れかけた議長府は包囲され、シャロンは殺しそこなったものの、ありとあらゆる手段を用いてアラファトを痛めつけている。わたしが心配なのは、敵よりも段違いに強力な人々、イデオロギー、制度などにとって、政権のすげ替えという発想が、魅力的な展望となっていることだ。いったいどんな思考法によれば、軍事大国には以前は考えられなかったような巨大なスケールで政治や社会の変化をもたらす自由が与えられていると考えたり、そのような変化が当然もたらす途方もない被害について気することはないと考えたりすることが、そんなに容易になるのだろう。自分の側にはそれほど犠牲が出ないだろうという見通しが、いったいどうして、正確無比な空爆、きれいな戦争、ハイテク戦争、を全面的な地図の塗り替え、民主主義の創出、等々についての幻想をこれでもかとばかりに掻き立てのだろうか。このような幻想が全能、ゼロに戻してやり直し、「われわれ」の場合に重要なことは究極的に支配する、といった考えの台頭につながっているのだ。

 

 アメリカが今進めている。イラクの政権を交代させるキャンペーンのなかで、視界から消えているのはイラク国民だ。彼らの大半は、十年にわたる経済制裁がもたらした貧困と栄養失調と疾病によって、酷い犠牲をこうむってきた。これは、イスラエルの安全と安価な石油の豊富な供給を強力な二本柱として組み立てられたアメリカの中東政策に完全に合致するものだ。無愛想な専制支配者が治める国民国家の存在にも関わらず、慣習や宗教や文化や民族性や歴史といったものの複雑なモザイクがアラブ世界(とりわけイラク)を作り上げているのであるが、そうしたものは、合衆国とイスラエルの戦略設計者たちの目には映らない。5000年におよぶ歴史を持つイラクは、いまでは主に、周辺諸国にとっての「脅威」(弱体化し、包囲された現在の状態状態では全くのナンセンスだ)、あるいは合衆国の自由と安全にとっての脅威(もっとナンセンスだ)と考えられている。サダム・フセインのおぞましい性格については、ここでわざわざ私が非難を付け加えるまでもないだろう。およそどのような基準に照らしてもこの男は退けられ、処罰されるのがふさわしいということは当たり前のことだろう。最大の罪は、彼が自国民を脅かしていることだ。

 しかし、最初の湾岸戦争が起こる前の頃から多様性に富み反映しているアラブの大国というイラクの本当のイメージは姿を消した。メディアや政策論議の中で広げられたイメージは、サダムの率いる残忍なごろつきどもが巣食う砂漠の国というものだ。イラクの現在の凋落が、たとえば、アラブ世界の出版産業をほぼ壊滅させたということ(イラクはアラブ世界で最大の読書人口を持っていた)、イラクは教育のある有能な専門職が大きな中産階級を形成するアラブ世界では数少ない国であったこと、イラクには石油と水と肥沃な土地があること、イラクはこれまで常にアラブ世界の文化の中心にだったこと(文学、哲学、建築、科学、医学が素晴らしい発達を遂げたアッバース朝はいまもアラブ文化の基礎をなしているが、これはイラクの寄与である)。他のアラブ人やムスリムにとってもイラク人の苦しみという血の流れを続ける傷口は、パレスチナ人の苦しみと並んで、持続的な悲しみの源となっていること──こういうようなことは、文字ど通り決して語られることはない。だが、その巨大な石油埋蔵量については話題にされる。そこでの議論は、「われわれ」がこの石油資源をサダムの手から奪って支配下に置けば、サウジアラビアの石油にそれほど依存しなくてよくなるだろうというものだ。

ただ、こういうことも、アメリカ議会やメディアを荒らしまわっているさまざまな論争のなかでは、めったに要因として引用されることはない。だがここで指摘しておきたいのは、イラクの石油埋蔵量はサウジアラビアに次いで世界第2位であり、現在イラクが開発可能な約一兆一千億ドル相当の石油── 大半はすでにサダムがロシア、フランス、その他若干の国々に開発権を与えている──は合衆国の戦略の鍵を握る目標であり、イラク国民議会が合衆国以外の石油消費国に対する切り札として用いてきたカードである(これについての詳細は『ネーション』107日号に掲載されたマイケル・クレアの論文を参照されたい)。プーチン─ブッシュ交渉のかなりの部分はこのイラクの石油のどれほどを合衆国企業がロシアに保証する用意があるかを巡るものだ。それは、先代ブッシュ大統領がロシアに提案した30億ドルに薄気味悪にほど似ている。ブッシュ親子はどちらも結局は石油実業家なのであり、彼らの頭のなかではこのようなたぐいの計算のほうが、イラクの民生インフラの再破壊というような中東政治のデリケートなポイントよりもずっと大きな位置を占めているのだ。

 このように、憎まれ者の「他者」を人間扱いしなくなる最初の一歩は、彼らの存在を少数の執拗にくり返される単純な表現、イメージ、概念へと還元してしまうことなのだ。それによって良心の呵責を感じることなしに敵を爆撃することがずっと容易になる。911日以降は、イスラエルやアメリカが、それぞれパレスチナ人に対して、イラクに対してそうすることが極めて容易になった。ここで気をつけておきたいのは、圧倒的な優位をもって、同じような政策、同じような容赦ない段階的計画が、基本的に同じアメリカ人とイスラエル人によって押し進められているということだ。合衆国では、ジェイソン・ヴェストが『ネイション』(92/9日号)に書いたように、極右の安全保障問題ユダヤ研究所(JILSA)や安全保障政策センター(CSP)の出身者が、国防総省や国務省の委員会に入り込んでいる。たとえば、ウォルフォウィッツ国防副長官いラムズフェルド国防長官によって任命されたリチャードパールが議長をつとめる委員会などがそうだ。イスラエルとアメリカの安全保障は等しいものとされ、JINSAは「合衆国の退役将校をイスラエルに連れて行くのに予算の大部分を」使っている。帰国すると、彼らは新聞の論説欄やテレビ番組で、リクード党の主張を売り歩く。国防総省の国防政策委員会は、メンバーの多くがJILSCSP出身者でかためられており、『タイム』誌が823号に掲載した同委員会についての記事のタイトルは、「秘密戦争評議会の内幕」である。

 


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