真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

先住民を抑圧する排他的な宗教国家

2024年10月25日 | 国際・政治

 下記は、「イスラエル、イラク、アメリカ ─戦争とプロパガンダ3─E.W. サイード:中野真紀子訳(みすず書房)のあとがきの一部です。訳者の中野真紀子氏が、パレスチナ人とユダヤ人の戦いの大事な点をしっかり踏まえて、現在に至る経緯をわかりやすく解説しているような内容なので、抜萃しました。

 

 注目したいのは、下記のような点です。

〇 イスラエルは先住民を抑圧する排他的な宗教国家である

〇 抑圧された記憶が、裏返されて他者の抑圧につながるというなら恐ろしい話だ。自らが抑圧者となって他者を同じ目に合わせなければ、過去の埋め合わせができないというのなら、迫害は永遠に繰り返す連鎖ということになってしまう。

〇 オスマン帝国のもと、様々な人種や文化や宗教が複雑に絡み合うパレスチナでは、人々が多様性を維持しながらおおむね平穏に共存していた。そこに排他的で暴力的な民族対立を持ち込んだのは、19世紀末に始まる欧州ユダヤ人の移住である。

〇 1948年のイスラエル建国と第一次中東戦争の結果、歴史的にパレスチナと呼ばれた土地はイスラエルが確保した領土以外は周辺アラブ諸国に併合され(東エルサレムを含む西岸地区はヨルダンに、ガザはエジプトに)、「パレスチナ」はいったい消滅してしまう。

〇 パレスチナ人としてのアイデンティティがよみがえる契機となったのが、1967年の戦争での汎アラブ主義の大敗北と、イスラエルによるガザ、西岸地区の占領支配の開始である。

〇 難民たちが目覚めたナショナリズムは、失われた祖国の解放を目標に掲げながら、70年以降ベイルートを拠点として、南アや中南米など世界の他地域の解放運動と積極的に連帯していった。

〇 在外パレスチナ人運動が停滞する中で、1987年にガザで民衆蜂起が起こり(第一次インティファーダ)、軍事占領下の人々の独立が急務であることがあらためて認識された。

 

 こうしたことを踏まえると、イスラエルの政治家や軍人が「テロリスト」と呼ぶ「ハマス」誕生の責任がイスラエルおよびイスラエルを支援する国の側にあることが明らかだと思います。

 だから、ハマスの殲滅を掲げパレスチナ自治区ガザへの攻撃を続けるイスラエルを支援する一方、ロシアのウクライナ侵攻を厳しく非難し、制裁を加えるアメリカのバイデン政権は、「二重基準」だと非難する声が、現在国際社会で高まっています。

 民間人の犠牲は膨らみ続け、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の職員や救援医師にも犠牲者が出ているため、国際司法裁判所(ICJ)は攻撃の停止を命じたにもかかわらず、攻撃は続いています。西側諸国が国際法に従い、対処すれば止められるのに・・・。

 

 こうした状況は、イギリスやアメリカを中心とする西側諸国が、長きにわたってイスラエルの犯罪行為を黙認し、支援し、加担して来た結果だと思います。

 イスラエルは、最近、ガザ地区のみならず、ヨルダン川西岸地区も攻撃対象に加え、パレスチナ人殲滅や追い出しの作戦を展開しているようです。でも、こうした武力による領土の奪取や拡大は、「領土不拡大の原則(太西洋憲章・カイロ宣言)」に反するもので、国際法で禁じられていることです。

 

 ふり返れば、第二次世界大戦後 日本が、”満洲、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域”を中華民国に返還し、また、”朝鮮を自由且独立のものたらしむる(カイロ宣言)”ことになったのは、この領土不拡大の原則に基づくものだったのだと思います。

 また、日本を含む西側諸国は、ロシアのウクライナ侵攻や中国の台湾海峡及び南シナ海における習近平政権の軍備増強を”力による現状変更”として非難しているにもかかわらず、イスラエルの武力による領土の拡大(力による現状変更)は、黙認し続けてきたのです。

 

 だからアメリカを中心とする西側諸国は、今も、法の上に存在するといえるように思います。

 西側諸国は、イスラエルによる違法なパレスチナの軍事占領も、高い塀を築いてパレスチナ人を狭い地域に閉じ込め、検問所を設けて自由な出入りをさせないという人権侵害も、武力を利用した入植地拡大も、ずっと見逃し続けてきたのです。随分おかしなことだと思います。だから、アメリカを中心とする西側諸国主導の国際社会は、改められるべきだと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー                                                                 

                        訳者、あとがき

 

 催眠にかかったように戦争に向けてつき進んでゆくアメリカ。もはやイラクとの戦争は既定事実だとでもいうようだ。そのアメリカの政権中枢に深く食い込み、国の政策を左右しているのはイスラエルの利害である。国防総省に陣取りブッシュ政権を事実上動かしているネオコン(新保守主義者)勢力にとっては、イスラエルの利害とアメリカの利害は同じものである。誕生の瞬間からアメリカと特別な関係を結び、その庇護のもとに成長してアメリカの中東出先機関と見られてきたイスラエルだが、ここへきて逆にアメリカの政策がイスラエルに操られるという現象が顕著になってきている。

 「アメリカのイスラエル化」という言葉さえ聞かれるが、そのイスラエルは先住民を抑圧する排他的な宗教国家である。ヨーロッパでの迫害の歴史のトラウマにより「存続の危機」という妄想に取りつかれ、「犠牲者」という(まるで遺伝形質であるかのような)自己認識のもとに、病的なまでに過剰な反撃を被支配民に加えている。抑圧された記憶が、裏返されて他社の抑圧につながるというなら恐ろしい話だ。自らが抑圧者となって他者を同じ目に合わせなければ、過去の埋め合わせができないというのなら、迫害は永遠に繰り返す連鎖ということになってしまう。このようなイスラエルのあり方と「犠牲者」の犠牲者として苦しむパレスチナ人とのシンメトリカルな関係を描き、暗に警告も発しているのが「細目にわたる懲罰」と「無力のどん底」の二本のエッセイである。

・・・

 パレスチナのアイデンティティ

 オスマン帝国のもと、様々な人種や文化や宗教が複雑に絡み合うパレスチナでは、人々が多様性を維持しながらおおむね平穏に共存していた。そこに排他的で暴力的な民族対立を持ち込んだのは、19世紀末に始まる欧州ユダヤ人の移住である。ヨーロッパにおける国民国家の形成にあたって「国民」として同化しえぬ《他者》として排除された人々だ。迫害の高まりに直面して、ヨーロッパの外に自らの祖国を建設することに出口を求めたユダヤ人のナショナリズムがシオニズムである。この運動は当時の西欧の植民地主義も取り込んで、パレスチナの地に他民族を排除・抑圧する排他的な単一民族国家をつくりあげた。同地のアラブ系住民は、先住民として征服・駆逐され、記憶から抹消された。 

 1948年のイスラエル建国と第一次中東戦争の結果、歴史的にパレスチナと呼ばれた土地はイスラエルが確保した領土以外は周辺アラブ諸国に併合され(東エルサレムを含む西岸地区はヨルダンに、ガザはエジプトに)、「パレスチナ」はいったい消滅してしまう。地図の上からの消滅は、人々の意識からの消滅でもあった。「アラブは一つ」とするエジプト革命後の汎ハブアラブ主義台頭もあいまって、イスラエル対アラブの対立という図式が前面に押し出され、当事者であるパレスチナ難民の姿はその影に埋没する。パレスチナ出身者であることにネガティブで挑発的なイメージがつきまとい、うしろめたささえ感じたとサイードが述懐している時期である。

 

 パレスチナ人としてのアイデンティティがよみがえる契機となったのが、1967年の戦争での汎アラブ主義の大敗北と、イスラエルによるガザ、西岸地区の占領支配の開始である。これ呼応して、当初は周辺アラブ諸国によってアンマン(ヨルダン)につくられたPLO(パレスチナ解放機構)が民族運動組織として自立しはじめ、69年に就任したアラファト議長のもと、自力でパレスチナの解放をめざすようになる。難民たちが目覚めたナショナリズムは、失われた祖国の解放を目標に掲げながら、70年以降ベイルートを拠点として、南アや中南米など世界の他地域の解放運動と積極的に連帯していった。領土主権をもたない亡命者の運動であることが、この運動を民主的で開かれたものにし、他のアラブ民族運動とは大きく異なり、偏狭なナショナリズムを超えた次元で考えることを可能にしたようだ。「PLOの永遠の功績」とサイードがをたたえるのは、このような広がりをもったパレスチナ人のアイデンティティを可能にしたことである。

 だが、これに危機感をもったイスラエルは1982年レバノンに軍事侵攻し、南レバノンからPLO勢力を一掃する。ベイルート陥落により、広義のアイデンティティに基づく解放運動は壊滅的な打撃を受ける。軍事的にパレスチナ全土を解放することはもはや不可能となり、イスラエルとの共存の道を探るしか選択肢がなくなったからである。在外パレスチナ人運動が停滞する中で、1987年にガザで民衆蜂起が起こり(第一次インティファーダ)、軍事占領下の人々の独立が急務であることがあらためて認識された。これを受けて翌88年、PLOは正式に「解放」路線を放棄し、パレスチナの分割を認めてイスラエルを承認し、交渉を通じたパレスチナ国家の建設をめざして動き出す。運動の主体は占領地のパレスチナ人に移り、独立国家の建設が目標となったが、それが最終的に行きついたのはオスロ合意だった。

 

 オスロ体制は主権国家の建設にはほど程遠いアパルトヘイトにちかいもので、その数多くの欠陥については、合意発表の直後からサイードは具体的で徹底した批判を一貫してぶつけてきた。だが、そうした批判の底流にあったのは、パレスチナ運動の変質への批判である。この運動は当初より領土主権も持たない人々の解放闘争という側面と、占領下の人々の独立(すなわち国民国家の建設)の側面という矛盾する二つの要素を抱え込み、両者のバランスの上に可能性と広がりを生み出していた。だが、80年代後半に前者が放棄され、西岸とガザにおけるパレスチナ国家の建設へと目標が集約されていくなかで、PLOの変質が進み、他のアラブ国家と変わらぬ地域支配権の維持に専念する専制的で腐敗した組織になっていった。変質したPLOがイスラエル・アメリカと手を結んで進めた自治国家建設の試みは、せいぜいうまくいっても(行くはずはないが)パレスチナにアラブの専制国家をもう一つ作ることにしかならない。そんなものが運動の目標ではなかったはずだというのがサイードの言い分だ。では、それに代わるどのようなヴィジョンがイスラエルという国家の存在を認めたうえで、描けるというのだろうか。

 90年代後半になってサイードが、ニ国民国家という言葉を使いはじめたのは、これに対する回答だったのではないかと思う。PNCPalestine National Council)議員として88年のアルジェ会議に参加したサイードがは、いったんパレスチナの分割と二国家並立という解決案に賛成したはずである。だが、分割が何を意味するかが次第に明白になるにつれ、二つの国家を完全に切り離すのではなく、二つの国民が互いに同等の権利を認め合いながら一つの領土を共有するという方向で考えを仕切りなおしたようだ。それが決して従来の考え方からの飛躍ではないことは、「生れついてか、選び取ってか」でパレスチナ人のアイデンティティとして論じているものからすれば明らかであろう。その考えの根本にあるのは、一つのアイデンティティを押し付けて人々を文化や国民といったものへ押し込め、分断することの虚構性、そういうものを通じて支配されることへの抵抗である。

 ・・・

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« シャロン、ネタニヤフ、アメ... | トップ | モルドバとウクライナ戦争 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

国際・政治」カテゴリの最新記事