真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ハマス、”死に物狂いの反抗”

2024年10月18日 | 国際・政治

 ウクライナ戦争が始まって以来、私は何度も、イラン政府報道官、ジャフロミー氏の、「アメリカ は善悪を逆さに見せることにおいて先端を走っている」という言葉をとり上げてきました。ジャフロミー氏は、「アメリカは、様々な時代において真実を実際とは間逆に見せて、直接・間接的に戦争の中心的存在となってきた」とも指摘しているのですが、それは、アメリカの影響下にあると思われる朝日新聞の、下記の記事でも、うかがい知ることができると思います。直接的に関わっているにもかかわらず、ウクライナ戦争におけるアメリカの悪質な関与が不問に付され、ロシアとの関係における戦争支援の在り方だけが問題にされているのです。

 

緊急連載 ノーベル平和賞被団協に 

<瀬戸際の世界 80年後も核の脅し  「なぜ国際社会はロシアを止められない」>

 黒く焼け焦げた建物の前で、住民のナディア・ゼムスコワさん(67)が泣いていた。今年2月、ウクライナの首都キーウ。集合住宅がミサイルで攻撃され、4人が亡くなった。ロシアの侵攻が続く2年半余り、何千回と攻撃が繰り返され、市民が殺され続けてきた。「なぜ国際社会はロシアを止められないの?ロシアがこわいから?」ゼムスコワさんはそう言って、自宅を指さした。ロシアが怖いから、わたしたちへの支援をためらうのか──ウクライナの人々が何度も口にしてきた、欧米支援国への問いかけだ。国境から数百キロも離れた上空から発射されるミサイル。ロシア領内奥深くの軍事拠点を攻撃しなければ命を守れない。だが、最大の支援国である米国は、提供兵器をこうした攻撃に使うことを認めていない。背景のあるのは核の存在だ。

 

 トランプ氏が主張しているように、圧倒的な経済力と軍事力を持つアメリカが、他国にも働きかけて、ウクライナ戦争を止める気になれば、すぐに止められるのだと思います。でも、ウクライナ戦争は、ロシアの影響力拡大を恐れ、ロシアを弱体化させ、孤立化させ、できればプーチン政権を転覆したい意図を持つ、アメリカのバイデン政権が主導する戦争だから続いているのだと思います。それは、ロシアの侵攻が始まる前、ウクライナとの国境にロシア軍が終結していた時、バイデン大統領が、記者会見で、”プーチン大統領がウクライナ侵攻を決断したと確信している”と述べ、”攻撃は数日中にも始まり、首都キーウ(キエフ)が標的になる”との見方を示しておきながら、侵攻を止めるための動きをまったくしなかったことにあらわれていたと思います。

 

 下記の「細目にわたる懲罰」は、「イスラエル、イラク、アメリカ ─戦争とプロパガンダ3─E.W. サイード:中野真紀子訳(みすず書房)から抜萃したものです。

 私は、ジャフロミー氏の、「アメリカ は善悪を逆さに見せることにおいて先端を走っている」ということを、E.W. サイード氏が、パレスチナの問題を例に、具体的に解説しているような文章になっていると思いました。もちろん、それは、私が勝手に結びつけて受け止めた個人的な感想ですが、ジャフロミー氏の指摘は、パレスチナの問題にもそのまま当てはまることだということです。

 

 E.W. サイード氏の下記の記述は、完全に人間性を否定され虐げられたパレスチナの人たちの日常やや苦しみを伝えています。Lauren Booth氏は、ガザは天井のない監獄ではなく、強制収容所だと言っています。だから、それがハマスの”死に物狂いの反抗”としてイスラエル襲撃につながったのだと思います。でも、そういうことは、イスラエルやアメリカにとっては、どうでもいいことであり、考えたくもないことであり、知られたくないことなのだと思います。

 だから、アメリカの影響下にある日本の主要メディアにとっては、ハマスは単なる「テロリスト集団」なのです。

 パレスチナ人がなぜハマスを組織したのか、ハマスに加わったパレスチナの若者は、どんな日常生活を送り、どんな思いで武器を手にし、圧倒的に優位な立場にあるイスラエル襲撃に加わったのか、そんなことは問題として取り上げてはいけないのだと思います。

 自らの悪事を隠す必要があるアメリカやイスラエルにとっては、ハマスは、殲滅されるべき残虐なテロリスト集団である、ということだけが大事なことなのだ思います。

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                         細目にわたる懲罰

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 パレスチナからのニュースを読み、殺戮と破壊の恐ろしい映像をテレビで観ているうちに、個々の報道から推測されるイスラエル政府の政策、とりわけアリエル・シャロンが考えていると思われることに、わたしは呆然としてしまった。シャロンのF16戦闘機の一つがガザを爆撃し、九人の子どもを虐殺したと言う最近の事件の後、彼がパイロットに祝辞を述べ、偉大なイスラエルの勝利を自慢したと伝えられたとき、病的に錯乱した精神がどんなことをなしうるかについて、わたしは以前よりはっきりした考えを抱くようになった。そのような精神が何を計画し、命ずるかということだけでなく、どのようにして他の人々までも同じような妄想じみた犯罪的思考に引きずり込むのかという、もっとたちの悪いことも含めて、イスラエル当局側の思考をさぐってみるのは、気持ちがいいとは言えないが、無意味なことではない。

 だが欧米では、パレスチナ人の自爆攻撃にろくでもない関心が執拗に向けられたため、それよりずっと悪質なものが現実のひどい歪曲によって完全に覆い隠されている。悪質なものとは、きわめて意図的、計画的にパレスチナの人々に襲いかかる、イスラエル当局の(たぶんシャロン特有の)危害である。自爆攻撃は非難すべきものだが、それは長年の虐待と無力と絶望から直接的に生じたものであり、わたしの意見では故意に仕組まれた結果である。アラブ人やムスリムは暴力に走りやすいとされているが、そんな架空の性格はこの問題とはまったく関係がない。シャロンが望んでいるのは平和ではなく、テロリズムである。それを誘発する状態を作り出そうと彼はあらゆる手段を使っている。その恐怖だけを残し、パレスチナ人の暴力、恐ろしく虐げられた民族の死にもの狂いの反応は、前後関係やそれを生み出したひどい苦しみという背景をすべて剥ぎ取られてしまっている。これを見ることができないというのは、人間性の欠陥である。それで悲惨さが少しでも緩和するわけでもないが、少なくとも本当の歴史と本当の地理のなかにそれを位置づけることになるはずだ。

 しかし、そのようなパレスチナ人のテロ ──もちろんそれはテロである── の位置づけは、表面に出ることが一瞬たりとも許されない。切り離された現象、理由のない純粋な悪事としての注目は、それほどに呵責のないものだ。そのような悪事に対抗して、イスラエルが、純粋な善の行為という想定で繰り広げている気高い戦いとは、300万人のパレスチナ系一般住民にさまざまなかたちで不釣り合いに大きな暴力を加えるというすさまじい行為である。わたしが話しているのは、イスラエルによる世論操作のことばかりではない。イスラエルは、対テロ戦争というアメリカの等価物を利用していることも重要で、それなくしては、イスラエルがこれまでしてきたようなことは実行不可能だったろう(実際、毎晩テレビ視聴者が見守る中なかで、細目にわたるサディズムを一つの社会全体に加えておきながら、処罰を免れるという奇跡をやってのけた国は、この地上では、イスラエルの他に思い当たらない)。この悪事が、いとも簡単にアメリカ人の空想と強迫観念を無分別に誇張して、ジョージ・W・ブッシュの反テロ軍事作戦の一環に意識的に仕立てあげられていることは、そのやみくもな破壊性の少なからぬ部分を説明するものである。熱意にに溢れた(私に言わせれば、腐敗しきった)アメリカの知識軍団が、アメリカ帝国主義の善良な目的と必然性についての巨大な虚構をつくり出しているのと同じように、イスラエル社会は数多くの学者やシンクタンクの政策提言者、防衛関連や広報関連の仕事に就いついている退役軍人たちを動員して、イスラエルの安全のために必要だとされる非人間的な(パレスチナ人への)懲罰政策を合理化し、説得力を持たせる作業に従事させている。

 イスラエルの安全は、いまや伝説の獣である。一角獣のように、それはどこまでも追い求められるが、決して見つかることはない。永遠に、今後の行動目標にとどまるのだ。時が経つうちに、イスラエルはますます安全でなくなり、隣国からはいっそう疎まれれるようになったが、そのことは一瞬の注意にも値しないらしい。だが、イスラエルの安全が私たちの倫理世界を規定して当たり前という見方に、異議を唱える者がいるだろうか。もちろん、アラブやパレスチナ指導者たちではない。彼らは30年間というものイスラエルの安全のためにあらゆる譲歩を行ってきたのだ。このことは問題にされてもよいのではないだろうか。何しろイスラエルは核兵器を持ち、合衆国の納税者から無制限に供給される陸・海・空軍力を背景に、国の規模に比例させれば、世界のどの国よりも大きな損傷をパレスチナ人や他のアラブ人に加えてきたのだから。結果として、パレスチナが経験させられている日々の細かな出来事は隠蔽され、さらに重要なことは、自衛やテロ撲滅という理屈で覆い隠されてしまう。テロリスト、テロリストの爆弾製造所、テロリスト容疑者等々、無限にリストが続くテロ撲滅は、シャロンや嘆かわしいジョージブッシュにはうってつけの仕事だ。テロリズムという観念はひとり歩きを始め、なんども重ねて正当化されているが、そこには何の証明も、論理も理屈も合理的な議論もない。

 たとえばアフガニスタンは散々に破壊され、百人近いパレスチナ人が「標的となって」暗殺されたが、(イスラエル兵に一斉検挙され、いまも拘置されている何千人もの容疑者についてはいうまでもない)、このように殺された人々はみんな本当にテロリストだったのか、テロリストだと証明されたのか、あるいはテロリストになるところだったのか、そういうことは誰も尋ねない。この人々はただ断定されただけで、危険だと決めてかかられたのである。ラナアン・ギシン(イスラエル政府報道官)、アヴィ・パズネル(政府報道官)、あるいはドール・ゴールド(首相顧問)のような横柄な報道官が1人か2人いて、おまけにアメリカ政府内にはアリ・フライシャー(ホワイトハウス報道官)のように無知と無定見に弁明をだれ続ける人物がいるというのであれば、狙った獲物はすでにしとめたも同然だ。疑念や、質問や、異議はいっさいなし。証明の必要もなければ、うんざりする気配りの必要もない。テロリズムとその偏執的な追跡は、いまや完全な円環構造を形成し、予言が自己達成するような殺人と、選択の機会も発言の機会も与えられない敵を緩慢な死へ追いやることへと変形してしまったのだ。

 アミーラ・ハス、ギデオン・レヴィ、アモス・エロン、タニア・リーボヴィッツ、ジェフ・ハルパー、イスラエル・シャミールなど少数の勇敢なジャーナリストを除いては、イスラエルのメディアにおける公論は、品質的にも誠実さにおいても恐ろしく後退している。愛国心と政府へのやみくもな支持が、懐疑的な熟考と真摯な倫理観にとって代わったのだ。イスラエル・シャハクやヤコブ・タルモンやホシャ・レイボヴィッチなどの時代は過ぎ去ってしまった。「安全」と「テロリズム」についての愚劣な議論が、イスラエルの和平推進派や、さらには退潮いちじるしい左派の抗議の声にとって代わった観があるが、そのような主要論調から逸脱する勇気を持った学者や知識人(たとえばゼヘブ・スターンヘル、ウリ・アブネリ、イラン・パペのような人々)は、ほとんど思い浮かばない。イスラエルとユダヤ人の名において毎日のように犯罪が行われているというのに、知識人たちがさかんにまくしたてるのは、戦略的撤退について、あるいは入植地を含むべきかどうか、あるいは例の巨大なフェンスの建設を続行するべきかどうか(現在の世の中で、これ以上ばかげた考えが実行に移されたことがあっただろうか? 数百万の人々を檻に閉じ込め、彼らは存在しないと主張するのだ)などというくだらない議論ばかりだ。その様子は、軍司令官や政治家にこそ似合うものであり、独立した判断力と一定の道徳基準を持つ知識人や芸術家にふさわしいものではない。ナディン・ゴーディマ、アンドレ・ブリンク、アソル・フガートなどの南アフリカの白人作家たちは、アパルトヘイトの弊害について曖昧さやごまかしのない口調できっぱりと公言した。この人たちに匹敵するようなイスラエル人はどこに居るのだろう?そんなものはイスラエルに全く存在しない。この国では、作家や学者たちは言葉を濁し、政府のプロパガンダを復唱するのみに陥っている。本当に第一級の著作や思考は学術機関からでさえも姿を消している。

 だがここで、この数年のあいだイスラエルを虜にしている行動や考え方に話を戻すため、シャロンの計画について考えてみよう。それが帰結するところは、窒息と、明らかな殺人と、日常生活の重圧という緩慢で系統的な手段によって、一つの民をまるごと抹消すること以外の何物でもない。カフカの『流刑地』にていう非凡な作品は、途方もなく手のこんだ拷問装置を見せびらかす気の変な役人の物語である。この機械の目的は、犠牲者の身体中に文字を彫りこむことであり、針を埋め込んだ複雑な装置で全身に細かい文字を刻まられていく囚人は、究極的には出血多量で死に至る。これはまさに、シャロンと彼の死刑執行人たちがパレスチナ人にかけていることであるが、それに対する抗議は、最低限の、しるしだけのものにとどまっている。パレスチナ人は一人残らず囚人になっている。ガザは、電気を通した鉄道網で三方を囲まれている。動物のように閉じ込められて、ガザの人々はい移動もできず、働くことも、自分たちの野菜や果物を売ることも、学校へ行くこともできなくなっている。空からはイスラエルの飛行機とヘリコプターに狙われ、地上では戦車と機関銃によって七面鳥のように打ち倒される。貧困と飢えが蔓延し、ガザは人類の悪夢と化している。ささやかなエピソードの一つ一つ(エレツ検問所や入植地付近で起きていることのような)に、何千という兵士によって、一人一人のパレスチナ人に年齢や性別や健康状態にはおかまいなしに加えられる侮蔑、懲罰、耐えがたい無力化が反映されている。医薬品は国境でとどめ置かれ、救急車は砲撃されたり拘留されたりする。民間人に対する組織的な集団的懲罰として、何百という家がなぎ倒され、何十万という樹木や耕地が破壊された。この人々の大半は、すでに1948年にイスラエルによって自分たちの社会を破壊されて難民となった人々である。パレスチナ人の語彙からは「希望」というものが抹消されており、残っているのはむき出しの反抗だけだ。そしてシャロンと彼の手先のサディストたちは、テロリズム排除するために占領が必要ださえずりつづけている。刻々と侵食を続けるこの占領はすでに35年も続いているのだ。この作戦そのものが、すべての植民地支配に絡む残虐行為がそうであるように、無益なものであるということ、あるいは、それはパレスチナ人の反抗を煽るだけで、弱めることにはならないということは、シャネルの閉鎖した心には届かない。

 西岸地区は、千台のイスラエル軍戦車によって占領されている。その目的は民間人を砲撃して威嚇することだけだ。外出禁止令は、長ければ2週間も連続する。学校や大学閉鎖されるか、そこに行くことができない。主要九都市のあいだの移動が阻まれているだけでなく、各都市の内部でさえ移動ができないのだ。どの町も、いまでは荒廃しきっている。──建物は壊され、事務所は略奪され、水道・電気システムは故意に破壊された。商業活動は壊滅した。子供たちの半数が栄養失調に陥っている。住民の三分の二が、貧困レベルとされる一日二ドルを割り込んだ生活をしている。ジェニーン(イスラエルの装甲部隊による難民キャンプの破壊という重大な戦争犯罪も、コフィ・アナンのような卑怯な国際官僚がイスラエルの脅迫に屈したため調査されることはない)では、戦車が子供たちに発砲し、殺しているが、それさえもパレスチナ民間人の殺戮という途切れることのない流れの、ほんの一滴でしかない。これを実行しているイスラエル兵たちは、イスラエルの不法な軍事占領に無条件で忠実な奉仕を提供しているのだ。パレスチナ人は一人残らず「テロ容疑者」である。この占領の真髄は、若いイスラエルの新兵が、検問所において、パレスチナ人にありとあらゆる形の私的な責め苦と屈辱を加えることが無制限に許されていることだ。太陽の照りつけるところで何時間も待たされる。医療品や生産物が腐るまで留め置かれる。好き放題にぶつけられる侮蔑的な言葉と乱打、パレスチナ人の生活を窒息地獄のようにしている無数の検問所では、千人単位で順番を待たされている民間人に、突然ジープや兵士が狂暴に襲いかかる。何十人もの若者を太陽の照りつける中で何時間もひざまずかせる。男たちの衣服を脱がせ、子供たちの前で親を侮蔑し、恥をかかせる。ただの個人的な気まぐれで病人の通過を禁止する。救急車を停車させ、砲撃する。パレスチナ側の死者数(イスラエル側の4倍)は日々上昇しているが、集計されることはまれだ。「テロ容疑者」とその妻子の数は増えているが、彼らの死は「われわれ」も遺憾に思っている、というのがイスラエルの言い草だろう。

 イスラエルはよく民主主義国として言及される。もしそうであるならば、それは良心の欠けた民主主義国家、国の魂が。弱者の懲罰に夢中になっており、統治者シャロンの病的な精神構造を忠実に反映している民主主義国家である。シャロン将軍の唯一の考え(この言葉が適当ならばだが)は、パレスチナ人を殺し、おとしめ、身体を損ない、追い払うことによって、「やつらが降参する」のを待つことだ。シャロンは自分の作戦(現在のものも過去のものも)の目標として、それ以上に具体的なものは何ひとつ提供してないし、カフカの物語の饒舌な役人のように、無防備なパレスチナ民間人を虐待する自分のマシンを自慢している。また同時に、シャロンはグロテスクな虚言を吐いているが、それを忌まわしくも煽っているのは彼の相談役や哲学者や軍司令官たち、加えて忠実なアメリカの家来たちの大合唱である。パレスチナ人の軍事占領などというものは存在しないし、パレスチナ側の戦車も、兵士も、武装ヘリも、大砲も、語るに足るような政府さえも存在していない。それでもイスラエルが発明した「テロリスト」と「暴力」は存在する。これはイスラエルがみずからのノイローゼをパレスチナ人の身体に刺青し、それに対する実効性のある抗議がイスラエルのぐずな哲学者や知識人や芸術家や平和活動家たちの大多数から出ないようにするための発明だ。パレスチナの学校、図書館、大学はもう何ヶ月間も通常の機能を停止している。それなのに、欧米の「著述の自由」擁護団体や、アメリカにおける学問の自由を声高に擁護する団体は、いまだに抗議の声を上げていない。イスラエルでも欧米でも、このようなパレスチナ人の知識や学習の権利、留学の権利を完全に廃棄するような事態に対し。何らかの声明を出した学術団体はいまだ見たことがない。

 要約すると、パレスチナ人がじわじわと死んで行かねばならない理由は、イスラエルの安全という、ほんの目と鼻の先にあるのだが、この国の特別な「不安感」のために決して実現しないものを、獲得できるようにしてやるためなのだ。世界中がこれに思いやりを示すように求められるが、その一方で、パレスチナの孤児、老いて病んだ女たち、犠牲者を出したコミュニティ、拷問された囚人の声は、耳に届くことも、記録されることもないまま捨て置かれる。このようなおぞましい行為も、ただのサディスト的な残虐行為ではなく、もっと大きな目的に奉仕しているのだと、わたしたちは告げられる。何となれば、「二つの陣営」がはまり込んでいる「暴力の連鎖」は、いつか、どこかで、阻止されねばならないのだから。たまには、わたしたちも立ち止まり、憤りを込めて表明すべきだろう──軍隊と国をもつ陣営は一つしかなく、もう一方の側は国もない追放された民であり、何の権利も、自衛手段ももたない人々なのだ。苦悩や具体的な日常を表現する言語はハイジャックされてしまった。あるいは大きく歪められた結果、わたしの見るところ、完全な作り話の他には使い道がなくなったようだ。その作り話を目隠しにして、さらに多くの殺戮や。精緻な拷問をゆっくりと、うるさくこだわりながら、容赦なく推進しようとしているのだ。これが、パレスチナ人を苦しめているものの正体だ。だが、どの道イスラエルの政策は、最終的には敗北する。

 

 

 

 

 


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