真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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司馬遼太郎 「別国」と祖国防衛戦争の問題

2017年12月10日 | 国際・政治

 司馬遼太郎が、「この国のかたち 四」(文藝春秋)の中で「…だから明治の状況では、日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるでしょう」と書いていることは、”司馬遼太郎と自由主義史観と「明治150年」の施策”で触れました。

 また、”昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである”と書いていることにも触れました。さらに、「この国のかたち 四」(文藝春秋)の「別国」では、下記資料1のように「昭和五、六年ごろから敗戦までの十数年間の”日本”は、別国の観があり、自国をほろぼしたばかりか、他国にも迷惑をかけた」と昭和初期について、ここでも徹底的に批判しつつ、その昭和初期十数年間の”別国”は、統帥権の解釈の変更によって生まれたというようなことを書いています。

 しかしながら、多くの歴史家がそうした捉え方を批判し、様々な事実や資料を取り上げていることを無視してはならないと思います。例えば、中央大学の檜山幸夫教授は「日清戦争 秘蔵写真が明かす真実」(講談社)の中で、軍医として日清戦争に従軍した森鴎外の資料2のような文章を紹介しています。
 戦争特派員・クリールマンの「日本軍大虐殺」の記事によって、アメリカのニューヨークやワシントンで大騒ぎになったという「旅順虐殺事件」は、日清戦争の際の事件ですが、鴎外の文章は、そうした記事を裏付けるものではないかと思います。統帥権の解釈の変更によって、突然日本軍や日本兵が野蛮になったというようなことではないのだろうと思います。特に、鴎外の文章に出てくる中国人蔑視の思想は、統帥権とは直接関係のないことで、むしろ明治時代の皇国史観とかかわりがあるのではないでしょうか。

また、京都大学の高橋秀直助教授は「日清戦争への道」(東京創元社)の中で、ロシアの朝鮮政策に関する資料を取り上げ、資料3のように、ロシアの南下政策(朝鮮支配)というのは、「神話にすぎない」と、書いています。日清戦争前には、ロシアは日本の支配どころか、朝鮮支配さえ考えてはいなかったというのです。

 「祖国防衛戦争」論は、国民を明るく元気にする文章を書きたいという司馬遼太郎の思いこみであり、決定的な根拠はないということだろうと思います。
 でも、国民的大作家といわれる司馬遼太郎の歴史観が、学校教育における歴史の修正や、明治150年の施策と無関係ではないとすれば、その影響は極めて大きく、見逃すことのできない問題だと思います。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       81  別国
 国家がながいその歴史の所産であることはいうまでもない。当然ながら日本でもそうである。日本史のなかに連続してきた諸政権は、大づかみな印象としては、国民や他国のひとびとに対しておだやかで柔和だった。
 ただ、昭和五、六年ごろから敗戦までの十数年間の”日本”は、別国の観があり、自国をほろぼしたばかりか、他国にも迷惑をかけた。

 『この国のかたち』は、主として柔和なほうに触れ、”別国”のほうには、わずかにふれただけだった。しかしながらわずか十数年の”別国”のほうが、日本そのものであるかのようにして内外で印象づけられている。

 わたしは、二十二歳のとき、凄惨な戦況のなかで敗戦を迎えた。
 おろかな国にうまれたものだと、とおもった。昭和初年から十数年、みずからを虎のように思い、愛国を咆哮し、足もとを掘りくずして亡国の結果をみた。
 そのことは、さて措(オ)く。

 この回は、昭和初期十数年間の”別国”の本質について書く。
 ”日本史的日本”を別国に変えてしまった魔法の杖は、統帥権にあったということは、この連続の冒頭のあたりでのべた。
 こまかくいいえば、統帥権そのものというより、その権についての解釈を強引に変えて、魔法のたねとした。この十数年の国家は日本的ファシズムなどといわれるが、その魔法のたねの胚芽のあたりをふりかえってみたい。

 旧憲法的日本は、他の先進国と同様、三権(立法、行政、司法の三権)の分立によってなりたっていた。大正時代での憲法解釈では、統帥権は三権の仲間に入らず、「但し書き」として存在した。要するに統帥権は、一見、無用の存在というあつかいだった。さらには、他の三権のありかたとは法理的に整合しなかった。
 もし統帥権が三権を超越するという考え方が、勢力として確立すれば、議会の承諾を得ることなく、また行政府の代表である総理大臣の知らぬまに、たとえば勝手に軍を動かして他国をーーたとえば満州事変のようにーー侵略することもできるし、他国どころか、日本そのものも”占領”できる。

 自国を”占領”したなどおだやかではない表現だが、実態は支配した、などよりはるかに深刻で、占領したというほかない。
 亡国への道は、昭和六年(1931年)から始まる。このとし統帥権を付与されている関東軍参謀らが、南満州鉄道の柳条湖付近で密かに線路を爆破し、それを中国軍のしわざであるとしてその兵営を攻撃し、いわゆる満州事変をおこした。
 翌七年、”満州国”を独立させた。統帥権の魔法の巧妙さは、他国を占領することによって、やがて自国を占領するというところにある。ついでながら、事変というのは宣戦布告のない戦争行為もしくは状態をいう。

 この”事変”が日本の統帥部(参謀本部)の謀略からひきおこされたことは、いまでは細部にいたるまではっきりしている。
 ”事変”を軍部が統帥権的謀略によってつくりだすことで日本国を支配しようとしたことについては、陸軍部内に、思想的合意の文書というべき機密文書が存在した。

 『統帥綱領』『統帥参考』
 が、それである。この文書については、以前にふれた(第一巻「機密の中の”国家”)。『綱領』のほうは亜昭和三年(1928年)に編まれ『参考』のほうは昭和七年(1932年)に編まれた。
 編んだのは統帥権の機関である陸軍の参謀本部であった。この書物は軍の最高機関に属し、特定の将校だけが閲覧をゆるされた。修辞学的にいうと、統帥権の保持者である天皇といえどもみせてもらえなかったはずである。

 『綱領』が編まれた昭和三年といえば、統帥権を分与されている陸軍の参謀将校によって満州軍閥のぬしの張作霖が爆殺されたとしである。統帥権に準拠していればどんな超法行為でもできるという意味で、魔法の杖だった。
 また、『参考』が編まれた昭和七年といえば、”満州国”樹立のとしであって、この翌年に国際連盟を脱退することになる。偶然の暗号というよりも、マニュアルどおりにすすんだという印象がある。
 むろん、そんな本がこの世に存在するなど、陸軍の高級軍人の一部のほか、当時の日本人のたれも知らなかった。同書が復刻されたのは昭和三十七年(1962年)、財団法人偕行社によってである。当時の販価は1500円で、どのくらい刷られたものかわからないが、いま古本屋をまわってもよほど幸運でないと見つからない。

 その本のなかに「非常大権」という項目がある。
 簡単にいえば、国家の変事に際しては、軍が日本のすべてを支配しうる、というものである。以下直訳する。
「軍と政治は原則としてわかれているが、戦時または国家事変の場合は、兵権(注・統帥権のこと)を行使する機関(注・参謀本部のこと)は、軍事上必要な限度において、直接に国民を統治することができる。それは憲法三十一条の認めるところである。この場合、軍権(統帥権のこと)の行使する政務(政治行動のこと)であるから、議会に対して責任を負うことはない」
 という。このみじかい文中で兵権と軍権という類似語がたがいに無定義につかわれている。兵権も軍権も同じ意味で、統帥権のことである。

 右の文中、「兵権ヲ行使スル機関ハ軍事上必要ナル限度ニ於テ直接ニ国民ヲ統治するコトヲ得ルハ憲法三十一条ノ認ムル所ナリ」(原文のまま)というくだりにでてくる憲法第三十一条についてふれたい(むろん、戒厳令ではない。戒厳令についての規定は、憲法第十四条である)。
 憲法第三十一条は、第二章の「臣民権利義務」のなかにある。
 その章には、この憲法の近代的な性格を著す条文が含まれている。日本臣民は裁判をうける権利をもち、所有権を侵されることがなく、また居住・移転の自由、信教や言論、著作、印行、集会、結社の自由をもつなどである。第三十一条は、それらの条文のあとに設けられている。
 「本章(注。臣民権利義務)ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」
 という。この憲法第三十一条は、要するに国家の大変なときは、国民の権利や自由はこれを制約したり停止したりできるというものである。
 一見、おそろしげにみえるが、当時、どこの国の憲法にもこの一項は入っていて、人間のくらしでたとえると入院治療とかわらない。入院中、その人の自由は制限され、医師の指示下におかれるようなものである。むろん、あくまでも常態ではなく、一時的なものである。

 この憲法第三十一条でいう事変とは、なにか。むろんさきにふれた”満州事変”の事変ではない。”事変”がどういう意味かについては、すでに明治二十一年、憲法草案の条文逐条審議の段階において問題になった。
 もし、事変の解釈をあやまって非常大権が発動されたりすればはじめから憲法などをつくる必要もなく、いわば無法の国家になってしまう。そんなむちゃな国家をつくるつもりは、むろん明治人にはなかった。

 ・・・

 この憲法第三十一条には、事変のほか、戦時ということばもつかわれている。戦時とは字義どおりで、わざわざふれるまでもない。
 昭和初年、陸軍の参謀本部が秘かに編んだ『統帥綱領・統帥参考』にあっては、その条項をてこに統帥権を三権に優越させ、”統帥国家”を考えた。つまり別国をつくろうとし、げんにやりとげた。

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                        はじめに
 ・・・
 鴎外は、日清戦争に従軍した体験をもとに、明治42(1909)年8月1日に発行された雑誌『昴』第8号に、森林太郎の名前で「鶏」という作品を発表している。この作品は、主人公の陸軍少佐参謀の石田小介が小倉の聯隊に赴任するところから始まるが、そのなかに石田の下宿先へ、日清戦争の時に軍司令部にいた麻生という輜重輸卒が、鶏を持って訪ねてくる場面がある。

 「ふむ。立派な鶏だなあ。それは徴発ではあるまいな。」
麻生は五分刈りの頭を掻いた。
「恐れいります。つひ(イ)、みんなが徴発徴発と申すもんですから、あゝいふことを申しましてお叱りをうけました。」
「それでも貴様はあれ切り、支那人の物を取らんやうになつたから感心だ。」
「全くお蔭を持ちまして心得違を致しませんものですから、凱旋いたしますまで、どの位肩身が広かったか知れません。大連でみんなが背嚢を調べられましたときも、銀の箸が出たり、女の着物が出たりして恥を掻く中で、わたくし丈は大息張りでござりました。あの金州の鶏なんぞは、ちやんが、ほい、又お叱りを受け損なう処でござりました。支那人が逃げた跡に、卵を抱いてゐたので、主はないのだと申しますのに、そんならその主のいない家に持って行つて置いて来いと仰やつたのには、実に驚きましたのでござります。」

 麻生が持ってきた鶏を、石田は食べようとせずに、そのまま飼うことにした。その飼っている鶏が南隣の畠を荒らしたため、隣家の40歳くらいの女が石田に、

 豊前には諺がある。何町歩とかの畑を持たないでは、鶏を飼ってはならないといふのである。然るに借屋ずまひをしてゐて鶏を飼ふなんぞといふのは僭越も亦甚しい。サアベルをさして馬に騎つてゐるものは何をしても好いと思ふのは心得違である。…女はこんな事も言ふ。借家人の為ることは家主の責任である。サアベルが強(コワ)くて物が言へないやうなら、サアベルなんぞに始から家を貸さないが好い。

 と、声を張り上げて怒鳴られる。
 この作品は、鴎外が陸軍軍医監に任ぜられたのち、第十二師団軍医部長として小倉に赴任した明治32(1899)年6月19日から、同職を免ぜられ第一師団軍医部長に補せられた明治35(1902)年3月14日までの小倉時代を素材にしたものであることから、日清戦争の国内の状況を描いているともいえよう。このわずかな文章に、戦地での日本兵の情況と日清戦争と日本人、日清戦後の日本とがみごとに描かれている。
 麻生が石田に叱られたのは、日本の兵士が「徴発徴発」といって中国人の住民から略奪するのをとがめられたこと、「ちゃん」という中国人に対する蔑視語を使ったこと、であった。隣の女が石田に怒鳴ったのは、日清戦争に勝利し、その威勢を借りて傍若無人にに振る舞う「サアベル」つまり、軍隊が聖域化し、軍人が闊歩する姿に、民衆がかなりの怒りと反発を感じていたことを表現していよう。

 明治17(1884)年8月、陸軍二等軍医の鴎外は、23歳でドイツに留学し、27歳になった21年9月に帰国した。青年時代にヨーロッパ文化に触れた鴎外は、西洋合理主義と西洋の文明論を身につけるが、文明を意識し、戦場に臨み、日本への野蛮な行為に戸惑いを見せる。自らを文明人と認識する鴎外にとって、戦場や日本の社会における現実は、あまりに文明とかけはなれ、野蛮にさえみえる。そこでの葛藤が、明治という時代をある意味で表現していたといえよう。
 鴎外が、明治42年これを描いたのは、日清戦争後次第に進行し、日露戦争後、顕著となってきた軍紀の乱れと、目にあまる軍人の横暴、そして民衆の中国人への差別に、一つの警鐘を鳴らしたかったからというではあるまいか。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    序論 日本近代化と大陸国家化
 ・・・
 たとえば、極東分割への列強の動きとしてすぐ頭に浮かぶ国家は、ロシアである。ロシアは不凍港を求め沿海州よりの南下を一貫してめざしている、という固定観念がある。しかし、そのロシアは、日清戦争前においては、「朝鮮の獲得は、我々に如何なる利益も約束せぬばかりか、必ずや極めて不利な結果をもたらすだろう」(1888年4月26日の朝鮮政策についての特別会議議事録、本書295頁で後述)と考えており、極東においては南下=朝鮮支配をめざしてはいなかった。一貫した南下政策など神話にすぎないのである。しかし、もちろんロシアは南下をまったく考えていなかったわけではなく、清軍事力の弱さが白日のもとにさらされた日清戦争後においてはそうした政策をとるようになる。つまり、列強には、一貫した不変の政策(たとえばロシアの南下政策)があるわけではなく、その時々の状況のなかでもっとも有利と判断する政策をとるのである。
 ・・・
 上記(本書295頁で後述)の部分ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               第一篇 近代化過程における外交と財政  -1882~1894-
                   第三章 初期議会期の朝鮮政策と財政
 付論 日清戦前期の極東情勢
 ・・・
 第二に朝鮮政策、英露両国は、朝鮮をどのようにしようと考えていたのだろうか。イギリスの朝鮮政策の目的は、すでに見たように、それがロシアの支配下に陥るのを阻止することであり、その支配は考えていなかった。(本書173頁)。一方ロシアはどうだろうか。1888年、侍従武官長・沿アムール総督のコルフと外務省アジア局長ジノヴィエフが朝鮮政策について協議したが、彼らの下した判断は、「朝鮮の獲得は、我々に如何なる利益も約束せぬばかりか、必ずや極めて不利な結果をもたらすだろう」(『19世紀末におけるロシアと中国』29頁)、というものであった。ロシアは朝鮮へ南下しようとは考えておらず、その朝鮮政策の目的は、それが敵対国の手におちるのを防ぐことであり、1886年には朝鮮の領土保全を保障する協定を結ぶことを清に提議していたほどであった。
 ・・・

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