真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

二・二六事件 軍法会議判決書の主文と判決理由 処刑

2019年01月05日 | 国際・政治

 

二・二六事件 東京陸軍軍法会議判決書 

 明治維新の精神的指導者であり、「松下村塾」で、大勢の尊王攘夷急進の志士を育成したといわれる吉田松陰に「士規七則」と題された文章があります。その中に
一、凡ソ生レテ人トナル。宜シク人ノ禽獣ト異ナル所以ヲ知ルベシ。蓋シ人ニ五倫アリ、而シテ君臣父子ヲ最大トナス。故ニ人ノ人タル所以ハ忠孝ヲ本トナス。
一、凡ソ皇国ニ生レテハ、宜シク吾宇内(ウダイ)ニ尊キ所以ヲ知ルベシ。蓋シ皇朝ハ万葉一統ニシテ、世々禄位(ヨヨロクイ)ヲ襲(ツ)ギ、人君ハ民ヲ養ヒテ、以テ祖業ヲ続ギタマフ。臣民ハ君ニ忠ニシテ、以テ父ノ志ヲ継グ。君臣一体、忠孝一致、唯吾国ヲ然リトナス。
一、士ノ行ハ、質実欺カザルヲ以テ要トナシ、巧詐過(コウサアヤマチ)ヲ文(カザ)ルヲ以テ恥トナス。光明正大皆是ヨリ行ズ”


というような記述がありますが、二・二六事件蹶起将校は、皇国の臣民として誰よりも忠実にこうした松陰の教えに従って、「昭和維新」のために蹶起し、行動したのではないかと思います。だから、陸相の「大臣告示」を伝えられて、「天皇はわれわれの行動をお認め下さった」とか「蹶起部隊は義軍と認められ、維新に入ったと思った」ということを、事件後に証言したのだと思います。

 でも、最終的には、天皇のため、皇国日本のため、「尊王討奸」をかかげて蹶起した将校たちは、天皇自身から国賊として遇され、「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム」という「大臣告示」を伝えられていたにもかかわらず、その後、”反乱”を意図して蹶起した反乱軍の首謀者にされて、処刑されました。
 吉田松陰の教えに従えば、二・二六事件における蹶起を、反乱として処理するために、策謀をめぐらした政権中枢や軍の上層部こそが、「国賊」であり、「逆賊」であることは否定のしようがないと思います。磯部浅一の陳述の中に、
兵馬大権干犯者を討取ることに依つて藤田東湖の「苟明大義正人心 皇道奚患不興起」(大義を明にし、人心を正せば、皇道なんぞ興起せざるを憂えん)が実現するものと考えます。

というような証言もありました。現在では、彼らの要人殺害は許されない野蛮な行為ですが、明治維新以後の皇国日本においては、蹶起将校達は、まさに模範的な臣民であったと思います。だから、処刑される直前に”天皇陛下万歳”を叫んでいることも、当然のことですが、そういう一途な蹶起将校を「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム」という「大臣告示」もろともに葬り去った権力者が、その後も変わることなく、権力を行使し続けた国が日本であることを見逃すことができません。。
 戒厳令下の上告なし、弁護人なし、非公開・即決の特設軍法会議では当然かもしれませんが、下記判決理由は、被告人の陳述や行動を並べたてた後、突然、”法律ニ照スニ…”と飛躍しており”理由”になっていないように思います。また、事件関係者の一部や、事件で尊王討奸の対象となった人達が不問に付されていることにも疑問が残ります。
 だから、二・二六事件は、尊王攘夷急進派によって明治維新後につくられた皇国日本の野蛮性と欺瞞性が表面化した事件だろうと、私は考えるのです。

資料1は、「新訂 二・二六事件 判決と証拠」北博昭・伊藤隆(朝日新聞社)から、資料2は『二・二六事件「昭和維新」の思想と行動』高橋正衛(中公新書)から一部を抜粋しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※ 縦書きを横書きに変更している関係で、右は上に左は下に読みかえてください。          

                           一 香田清貞以下二十三名
   判決

東京府東京市世田谷区上馬町一丁目四百九十番地
元所属、歩兵第一旅団司令部
                  元陸軍歩兵大尉 香田 清貞
                  明治三十六年 九月 四日生
岐阜県揖斐郡揖斐町大字三輪五十一番戸
元所属 歩兵第三聯隊第六中隊
                   元陸軍歩兵大尉 安 藤 輝 三
                   明治三十八年 二月二十五日生
・・・以下二十一名分は省略

右ノ者等ニ対スル反乱被告事件ニ付、当軍法会議ハ検察官陸軍法務官竹沢卯一干与(カンヨ)審理ヲ遂ゲ、判決スルコト左ノ如シ。


   主文                

被告人村中孝次、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀、竹島継夫、対馬勝雄、渋川善助、
中橋基明、丹生誠忠、坂井直、田中勝、中島莞爾、安田優、高橋太郎、林八郎を各死刑に処す。
被告人麦屋清済、常盤稔、鈴木金次郎、清原康平、池田俊彦を各無期禁錮に処す。
被告人山本又を禁錮十年に処す。
被告人今泉義道を禁錮四年に処す。
・・・押収物件関係略


   理由

被告人村中孝次、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀、対馬勝雄、中橋基明等ハ陸軍士官学校ニ学ビ爾来深ク尽忠報国ノ志ヲ固ムル所アリシガ、翻ツテ四囲ノ環境ヲ顧ミ 痛ク世相ノ頽廃、人心ノ軽佻ヲ慨シ、転(ウタ)タ国家ノ前途ニ憂心(ユウシン)ヲ覚エ、次イデ昭和五年ノ倫敦(ロンドン)条約問題、昭和六年ノ満州事変等ヲ契機トスル、一部識者ノ警世的意見、軍内ニ興レル満州事変ノ根本的解決要望ノ機運等ニ刺戟セラレ、逐次内外ノ情勢緊迫シアルヲ痛感スル所アリ。会々(タマタマ))当時軍内外一部ニ起レル急進的思想ノ影響ヲ受クルヤ、其ノ憂国的至情ハ頓(トミ)ニ昂(タカ)マリ、我国ノ現状今ヤ黙視シ得ザルモノアリト為シ、国民精神ノ作興、国防軍備ノ充実、国民生活ノ安定等方(マサ)ニ国運ノ一大飛躍的親展ヲ要スルノ秋(トキ)ニ当面シアルモノト思惟シ、時難ノ克服打開ニ多大ノ熱意ヲ抱持(ホウジ)スルニ至リ、尚此間軍隊教育ニ従事シ、兵ノ身上ヲ通ジ、農山漁村ノ窮乏、小商工業者ノ疲弊ヲ知得(チトク)シテ、深ク是等ニ同情シ、就中一死報国共ニ国防ノ第一線ニ立ツベキ兵ノ身上ニ後顧ノ憂多シト為シ、
被告人渋川善助亦陸軍士官学校ニ学ビタルガ、思想的ニ当時ニ於ケル学校ノ教育方針ニ容レラレザルモノアリテ、退校セシメラレ、昭和四年頃ヨリ学生興国連盟ニ入リ、次デ興亜塾ニ学ビ、或ハ啓天塾ニ加ハリ、此間社会ノ実情ニ接シ、維新ノ必要ヲ高唱シテ人心ノ覚醒ニ努ムル所アリシガ、陸軍士官学校在校当時ノ知己タル右被告人ノ大部ト相交ハルニ及ビ、此等ト意気相通ズルニ至リ、
斯クテ前記被告人等ハ、此ノ非常時局ニ処シ、当局ノ措置徹底ヲ欠キ、内治外交共ニ萎靡(イビ)シテ振ハズ、政党ハ党利ニ堕シテ国家ノ危急ヲ顧ミズ、財閥亦私慾ニ汲々トシテ国民ノ窮状ヲ蔑(ナイガシロ)ニシ、特ニ倫敦条約成立ノ経緯ニ於テ、統帥権干犯ノ所為アリシト為シ、斯クノ如キハ畢竟(ヒッキョウ)、元老、重臣、官僚、軍閥、政党、財閥等、所謂特権階級ガ国体ノ本義ニ悖リ、大権ノ尊厳ヲ軽ンジ、相倚(ヨ)リ相扶(タス)ケテ私利私慾ヲ肆(ホシイママ)ニシ、国政ヲ紊(ミダ)リ、国威ヲ失墜セルガ為ナアリト為シ、一君万民タルベキ皇国本然ノ真姿ヲ顕現セシムガ為、速カニ此等、所謂特権階級ヲ打倒シテ、急激ニ国家ヲ革新スルノ必要アリト痛感シ来レルガ、其ノ急進矯激性ガ国軍一般将士ノ健(堅?)実中正ナル思想ト相容レザリシニ由リ、茲ニ自ラ維新ノ志士ヲ以テ任ズルニ至リ、思想傾向相通ズル歩兵大尉大蔵栄一、同菅波三郎、同大岸頼好等ノ同志ト気脈ヲ通ジ、天皇真率ノ下挙軍一体タルベキ軍内ニ、所謂同志観念ヲ以テ横断的団結ヲ敢テスルニ至リ、益々同志ノ指導獲得ニ努ムル所アリ。此ノ前後ヨリ前記被告人等ノ大部ハ、北輝次郎及西田税(ミツギ)トノ関係交渉ヲ深メ、其ノ思想ニ共鳴スルニ至リシガ、特ニ北輝次郎著『日本改造法案大綱』タルヤ、其ノ思想根底ニ於テ絶対ニ我ガ国体ト相容レザルモノアルニ拘ラズ、其ノ雄勁(ユウケイ)ナル文筆ニ眩惑セラレ、素ト(朴?)純忠ニ発セル研究思索モ、漸次独断偏狭トナリ、不知不識ノ間正邪ノ弁別ヲ誤リ、国法ヲ蔑視スルニ至リ、此ノ間昭和七年血盟団事件、及五・一五事件生起シ、深ク同憂者等ノ蹶起ニ刺激セレルル所アリテ、益々国家革新ノ決意ヲ固メ、右目的達成ノ為ニハ非合法手段モ亦敢テ辞スベキニ非ズト為シ、終(ツイ)ニ軍紀軍律上断ジテ黙過シ難キ統帥ノ根本ヲ紊リ、兵力ノ一部ヲ僭用(センヨウ)スルモ已(ヤ)ムナシト為ス危険思想ヲ包蔵スルニ至リ、斯クテ昭和八年頃ヨリ一般同志間ノ連絡ヲ計リ、又ハ相互会合ヲ重ネ直接行動ノ目標及実行方策ニ関シ意見ノ交換ヲ為スト共ニ、或ハ同志ノ醵金(キョキン) 其ノ他資金ノ調達、不穏文書ノ頒布等、各種ノ措置ヲ講ジ、同志ノ獲得ニ努ムルノ外、一部被告人等ハ軍隊教育ニ当リ、其ノ独断的思想信念ノ下ニ、下士官兵ニ革新的思想ヲ注入シテ、其ノ指導ニ努メ、次デ村中孝次、磯部浅一等ガ、其ノ叛乱陰謀事件並ニ誣告事件ニ関連シ、濫(ミダ)リニ不穏ナル文書ヲ頒布セルニ原由(ゲンユ)シテ昭和十年官ヲ免ゼラルルヤ、著シク其ノ感情ヲ刺戟セラレ、且上司ヨリ此運動ヲ抑圧セラルルニ及ビテ愈々(イヨイヨ)反撥ノ念ヲ生ジ、之ヲ以テ軍内ニ反対派アリテ策動ヲ為スガ故ナリト為シ、其ノ運動頓(トミ)ニ尖鋭トナリ、更ニ天皇機関説ヲ繞(メグ)リテ起レル国体明徴問題ノ進展ト共ニ、益々其ノ運動熾烈ヲ加ヘ、時恰(アタカ)モ教育総監ノ更迭アルニ及ビ、之ニ関スル一部ノ言ヲ耳ニシ、軽々ナル推断ヲ為シ、一途ニ統帥権干犯ノ事実アリト為シ、憤激セルガ、会々(タマタマ)相沢中佐ノ単身永田中将殺害スルアリテ深ク此ノ挙ニ感動シ、前記被告人等ハ、一部ノ重臣、財閥ノ陰謀策動アリト為シ、就中此等重臣ハ倫敦(ロンドン)条約以来再度兵馬大権ノ干犯ヲ敢テセル元兇ナルモ、而モ此等ハ国法ヲ超越シテ存在スル人物ナルヲ以テ、合法的ニ之ガ打倒ヲ企図スルモ、到底目的ヲ達シ得ザルニ由リ、我レ亦国法ヲ超越シ、宜シク直接行動ヲ以テ此等ニ天誅ヲ加ヘザルベカラズ。而モ此行動ハ、現下非常時ニ処スル広義ノ独断的義挙ナリト断ジ、遂ニ擅(ホシイママ)ニ軍ノ一部ヲ僭用シテ此ノ挙ニ出デ、以テ其ノ衝動ニ依リ人心ヲ是正シ、更ニ之ヲ契機トシテ、国体ノ明徴、国防ノ充実、国民生活ノ安定ヲ庶幾シ、且、『日本改造法案大綱』ノ主旨ニ則リツツ軍上層部ヲ推進シテ、所謂昭和維新ノ実現ヲ齎(モタラ)サシメンコトヲ企図し、…。
・・・
法律ニ照スニ、被告人村中孝次、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀ノ判示行為ハ各陸軍刑法第二十五条第一号ニ、被告人竹島継夫、対馬勝雄、渋川善助ノ叛乱行為ヲ為シ、謀議ニ参与シタル判示行為、及被告人中橋基明、丹生誠忠、坂井直、田中勝、中島莞爾、安田優、高橋太郎、麦屋清済、常盤稔、林八郎、鈴木金次郎、清原康平、池田俊彦ノ叛乱ヲ為シ、群衆ノ指揮ヲ為シタル判示行為ハ、
各同条第二号前段ニ、被告人今泉義道、山本又ノ判示行為ハ、各同条第二号後段ニ該当シ、被告人村中孝次、磯部浅一、渋川善助ニ対シテハ、各刑法第六十五条第一項、第六十条ヲ適用スベキトコロ、本件罪状ニ付按ズルニ
被告人等ガ国家非常ノ時局ニ当面シテ激発セル慨世憂国ノ至情ト、一部被告人等ガ、其ノ進退ヲ決スルニ至レル諸般ノ事情トニ付テハ、之ヲ諒トスベキモノアリト雖モ、其ノ行為行動タルヤ、聖諭(セイユ)ニ悖リ、理非順逆ノ道ヲ誤リ、国憲国法ヲ無視シ、而モ建軍ノ本義ヲ紊リ、苟(イヤシク)モ、大命無クシテ断ジテ動カスベカラザル皇軍ヲ僭用シ、下士官兵ヲ率ヰテ反乱行為ニ出デシガ如キハ、赫々(カクカク)タル国史ニ一大汚点ヲ印セルモノニシテ、其ノ罪寔(マコト)ニ重且大ナリト謂フベシ。仍(ヨッ)テ、
・・・
仍テ、主文ノ如ク判決ス。
   昭和十一年七月五日
      東京陸軍軍法会議
                                     裁判長判士陸軍騎兵大佐 石本 寅三
                                     裁判官陸軍法務官    藤井 喜一
                                     ・・・以下略  

資料2---------------------------------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       Ⅵ 彼らをつき動かしたもの
真崎甚三郎

 ・・・
真崎と青年将校はその性向において、また動機の純不純さにおいて、まったくちがう人間ではあったが、両者は軍の統帥権や国体観においては一致する点があった。これが両者を結びつけていったのである。まず、二月二十六日の真崎の行動を追いつつ、彼の意図を考えてみよう。
 彼は午前四時過ぎに亀川哲也から事件起こるの報をきいた。真崎は亀川に鵜沢総明のところにすぐ行けと命じた。鵜沢は西園寺につながっている。真崎はさらに伏見宮邸に参殿、事件の情況を具体的に言上したうえで大詔渙発への尽力を要請し、加藤寛治大将とも連絡して、伏見宮と加藤の同時参内を取りきめている。そして天皇へのこの日の一番の拝謁は伏見宮であった。
 こうして彼は勲一等旭日大綬章を胸に佩(ハイ)して、八時半には陸相官邸にあらわれる。自信満々、不遜な態度で、反乱軍の統領のごとくあたりを睥睨(ヘイゲイ)して官邸の玄関に立った。(63ページ参照)
 ついで川島陸相に会う。「なにごとか」を語ったと前に書いたが、それは次のような応答である。

真崎 こうなったらしかたがないだろう。
川島 ごもっともです。
真崎 くるべきものがきたのだ。
川島 私もそう思います。
真崎 これでいこうじゃないか。(「蹶起趣意書」、「陸軍大臣要望事項」をさす)
川島 それより仕方がありませぬ。
真崎 いつ参内する。
川島 もう少し様子を見て。
真崎 僕は軍事参事官を説いてみる。

 この会談のあとで真崎は川島を宮中におくりこむ。
ーーーーーーーーーーーーーー
63ページ
真崎大将官邸に現わる
 八時半、真崎大将が官邸に現われた。臨時陸軍省、参謀本部のおかれた九段の憲兵司令部に集まった省部(陸軍省と参謀本部とを合わせた略称)の部長、課長は、「陸相官邸に真崎大将ありとのことに対し”誰が知らせたか、なぜ行ったか”と声高く非難した」と記録されている。ところがその真崎大将は得意然たる態度で室内に入り、川島陸相となにごとかを要談したという。
 磯部の「行動記」によれば、「歩哨の停止命令をきかず自動車が官邸に入ってきた。近づいてみると真崎将軍だ。『閣下、統帥権干犯の賊類を討つために蹶起しました。情況をご存知でありますか』という。『とうとうやったか、お前たちの心はヨオックわかっとる、ヨオーックわかっとる』と答える。『どうか善処していただきたい』と告げる。大将はうなづきながら邸内に消える」とある。磯部の憲兵聴取書では、同じく、「お前たちの精神はようわかっとるということを、二度か三度つづけていわれました」と記している。
 ・・・
ーーーーー
大臣告示の伝達過程
 ・・・
香椎中将が宮中から電話で警備司令部の安井藤治参謀長(のち中将、軍司令官、鈴木貫太郎内閣の国務大臣)にこの「告示」を伝えたのは三時三十分。安井参謀長は軍隊特有の習慣である「復誦」(先方の言ったことを、こちらであらためてその通り言って、相手の「良し」をきく)を二度まで香椎司令官にしている。安井参謀長は電話でききながら、福島久作参謀に口述筆記させたのである。その安井参謀長が、これを叛乱軍に示したのが、七十四-五ページ(下記)の「陸軍大臣告示」なのである。

  陸軍大臣告示
 
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
ニ、諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム 
三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼(キョウク)ニ堪ヘズ
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニ依り邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ

 同時に警備司令部(第一師団、近衛師団を統率している)から、第一師団長、近衛師団長に下達されたのは午後四時である。これは印刷して下達された。
 堀第一師団長はただちにそれを部下一同に示した。橋本近衛師団長は自分のところにとどめて示さなかった。(林八郎「遺書」)
 はたして香椎ー安井ー福島の下達においてまちがいが起ったのだろうか。
 この「告示」が叛乱軍の行動を是認するものとして、夕刻から、とくに参謀本部内で問題になりはじめた。「だいいち荒木がいかん、真崎がいかん」という声があがり、それよりもこれは軍の統帥の破壊だという意見もでる。
 この夜、憲兵司令部(臨時の陸軍省)に川島陸相がきて、陸相が原案をもっていて、「行動」ではなく「真意」であることがわかり、「諸子ノ真意ハ国体顕現ノ・・・」と刷りなおして、これを軍の正文としてしまったのである。
 翌二十七日、村上軍事課長が安井参謀長を訪れて、警備司令部からでた「告示」に重大な誤りがある、そして責任は安井参謀長にありと暗に言ったため、安井参謀長が憤然として、「参謀長が司令官の命令をあやまってうけているとはなにごとだ、自分は、言われたとおりにしたのだ」と反撃、村上大佐に、「ともかく戦術上ああなったのだ、参謀長一人悪者になってくれ」と言われて、ようやくおさまったとのことである。カギはこの辺にありそうである。
・・・
 しかし彼らは敗退した。そして、叛乱軍将校たちは軍当局の不信義、卑劣さをこの「大臣告示」によって示して、後世にのこそうと、血を吐くような文書を獄中で記したのである。
 また磯部は、「申合書」「二つの大臣告示」をはっきりと知っていた。彼は「獄中遺書」に次のように記している。
 大臣告示は・・・二通りあるのですが、
「諸子の行動は国体の真姿顕現にあるものと認む」というのが第一案です。ところが奴らはいろいろごまかすために大臣告示は三つ出ているということを言いだして、告示など無価値なりといいのがれをしているのです。用心々々。
・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                              Ⅷ 処刑
死刑執行
七月十二日、午前五時四十分、香田清貞以下十五名は刑執行言渡所で「本日刑を執行する」ことを言渡された。七時より、刑は執行された。彼らはカーキ色の夏外被を着用、目隠しされ、看守に両側から腕を支えられ、夏草を一歩一歩ふんで刑架についた。将校十三名、民間人二人は刑架を背にして筵の上に正座させられ、晒木綿で両腕、頭部、胴を刑架にしばりつけられて水を与えられた。
 第一回 香田、安藤、竹島、対馬、栗原
 第二回 中橋、丹生、坂井、田中、中島
 第三回 安田、高橋、林、渋川、水上
 銃殺を担当したのは佐倉連隊の山之口甫大尉の指揮する一隊、射手は中尉、少尉であった。
 第一回は午前七時、第二回は八時、第三回は八時半であった。刑は銃殺による執行であり、実砲の音をまぎらすため、煉瓦塀の向うの練兵場では機関銃の空砲の音が盛んに鳴っていた。この日は曇りの日であった。
 翌十二年八月十九日、村中、磯部、北、西田が同じ場所で、同じように銃殺された。この日は、真夏の晴れあがった日であった。

 最後の言葉(上は執行を言渡されたとき、下は刑架前での言葉)
 昭和十一年七月十二日

 国家の安泰をお願いします。刑務所にいる間、一同様より精神的歓待を受けまして、ありがとうございました。
 天皇陛万歳        
                                   香田清貞(34歳)

 別に御座いませんが、松陰神社のお守りを身につけて射たれたいと思います。家族の者が安心いたしますから。
 天皇陛下万歳 秩父宮殿下万歳
                                   安藤輝三(32歳

 ・・・
 面会のとき申してありますから外に何もありません。いろいろお世話様になりました。
 天皇陛下万歳  皇国万歳
                                   渋川善助(32歳

 昭和十二年八月十九日
 永い間お世話様になりました。所長殿より看守長、看守の方々によろしく申してください。大変お世話になりました。
                                    村中孝次(34歳)
 お陰様で元気であります。大変厄介になりました。アバズレ者でわがままを申してご迷惑をおかけしましたが、所長殿は一番よく私の気持ちを知っているでしょう。所長殿より職員一同によろしく申して下さい。これは妻の髪の毛ですが、処刑のとき、棺の中に入れることを許して下さい。
                                    磯部浅一(32歳)

・・・

  

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  

”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

                                    
 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする