真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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二・二六事件蹶起将校の「獄中手記・遺書」が語る真実

2019年01月24日 | 国際・政治

 薩長が主導する尊王攘夷急進派は、明治維新によって、万世一系の天皇が統治する「皇国日本」をつくりました。ところが、その「皇国日本」は、薩長のための日本という面があり、藤田東湖や吉田松陰がいうような「君臣一体、忠孝一致」の皇国にはなりませんでした。

 そこで、昭和十一年二月二十六日、青年将校たちが、「尊王討奸」をかかげ「国体ノ本義ニ悖リ、大権ノ尊厳ヲ軽ンジ、相倚(ヨ)リ相扶(タス)ケテ私利私慾ヲ肆(ホシイママ)ニシ、国政ヲ紊(ミダ)リ、国威ヲ失墜セル」「元老、重臣、官僚、軍閥、政党、財閥等」の「所謂特権階級」を打倒して、「皇国本然ノ真姿ヲ顕現セシムガ為」蹶起し、昭和維新を実現しようとしたのが、いわゆる「二・二六事件」だと思います。

 ところが悲しいことに、蹶起した青年将校たちは、幕末に尊王攘夷をかかげ、幕府要人を次々に暗殺したり、「異国人は神州を汚す」として「異人斬り」をくり返した志士の野蛮性をそのまま引き継いでいます。明治維新以降、神道が国教化されたために、社会が大きく変化したにもかかわらず、国を支える思想は、昭和に至っても幕末のそれとほとんど変わらず、人権や人命尊重の思想が広まり、深まることはなかったのだと思います。

 下記資料1は、二・二六事件の中心メンバーの一人、磯部浅一の行動記から抜粋したものですが、 
 彼は、
”私は元来松陰の云つた所の 賊を討つのに時機が早いの おそいのと云ふ事は 功利感だ 悪を斬るのに時機はない 朝でも 晩でも 何時でもいゝ 悪は見つけ次第に討つ可きだとの考へが青年志士の中心の考へでなければいけない

と言っています。人権や人命よりも、皇国(神州)における「」を重んじ、「」を討たなければならないと考えていたことがわかります。吉田松陰の尊王論などに心酔し、現人神、天皇のために私利私欲に走る賊は討たなければならないという信念を持って、彼は行動したのだと思います。人権や人命尊重は、二の次の問題だったのでしょう。   
 大日本帝国憲法や軍人勅諭、教育勅語などで示された皇国(神州)の精神をしっかり身につけていたからこその蹶起であるだけに、その野蛮性は見逃すことができません。
 また、蹶起将校たちにとっては、当時の日本が、皇国(神州)では許されない「奸賊」の力が強い国であったということも、見逃すことができません。

 その後の日本軍夷兵士による捕虜斬殺や捕虜虐待、また、外国の軍隊ではほとんど例のない「万歳突撃」や「特攻」などの日本軍の野蛮性もまた、幕末の尊王思想や「國家統治ノ大權ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ傳フル所ナリ」という「国体」の精神と無縁ではないと思いますが、それはさて置き、国を憂える真面目で純粋な青年将校たちの蹶起は、狡猾な政治家や軍首脳によって、たくみに鎮圧されたことが、磯部浅一の獄中手記でわかります。まさに「奸賊」の勝利といえる経過が語られています。
 したがって、日本は、明治維新以来敗戦に至るまで、皇国(神州)の建前や精神とは矛盾する価値観で行動する「奸賊」の力が強い国であった、と言えるのではないかと思います。

 蹶起将校が、人を殺したという理由で裁かれたのであれば、理解できます。でも、磯部浅一は、「辞世」(資料3)に、「…天つ神国つみ神の勅をはたし 天のみ中に吾等は立てり…」と書いています。こうした辞世を書く磯部浅一が、天誅を下そうとした人たちに逆に「大命に抗したり」ということで処刑されたのです。蹶起将校が皆、口をそろえて「奉勅命令」は下達されなかったと言っているにもかかわらず、その事実をうやむやにしたまま、軍法会議で蹶起将校に死刑を宣告し、処刑した事実が、皇国(神州)日本の野蛮性とともに、二・二六事件の何たるか物語っているように思います。

 下記資料1~3は、「二・二六事件 獄中手記・遺書」河野司編(河出書房新社)から抜粋しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       磯部浅一 行動記 第二

 ・・・

一時パット高まった気分が段々落ちついて、東京も各地も同志はジックリ考える様になった、特に、在京の同志は一様に中佐にすまぬ、在京青年将校のいく地のない事が天下の物笑ひの種になるぞ猛省一番せねばならぬ秋だ、との考を起した様子がありありと見えた 栗原中尉の如きは 気鋭の青年将校を集めては絶えず慷慨痛憤していた、栗原君は某日余を訪ねて泣いた。「磯部さん あんたにはわかったもらへると思ふから云ふのですが、私は他の同志から栗原があわてるとか、統制を乱すとか云つて 如何にも栗原だけがわるい様に云われている事を知っている 然し私はなぜ他の同志がもつともつと求心的になり私の様に居ても立つても居れない程の気分に迄進んで呉れないかと云ふことが残念です。栗原があわてるなど云つてわたしのかげ口を云ふ前に、なぜ自分の日和見的な怯懦(キョウダ)な性根を反省して呉れないのでせうか 今度相澤さんの事だつて青年将校がやる可きです。それに何ですか青年将校は 私は今迄は他をせめていましたが、もう何もいひません 唯自分でよく考へてやります 自分の力で必ずやります 然し希望して止まぬ事は 来年吾々が渡満する前迄には 在京の同志が 私と同様に急進的になつて呉れる事です、いや日本中の同志が私と同様に急進的になつて呉れたら維新は明日でも 今直ちにでも出来ます 栗原の急進 ヤルヤルは口癖だなどと 私の心の一分も一厘も知らぬ奴が勝手な評をする事は 私は剣にかけて許しません 私は必ずやるから 磯部さん その積りで盡力して下さい」と 私は栗原から胸中を打ち明けられて自分でも先来期する当があつたので 「僕は僕の天命に向かつて最善をつくす 唯誓っておく 磯部は弱い男ですが 君がやる時には何人が反対しても私だけは君と共にやる 私は元来松陰の云つた所の 賊を討つのに時機が早いの おそいのと云ふ事は 功利感だ 悪を斬るのに時機はない 朝でも 晩でも 何時でもいゝ 悪は見つけ次第に討つ可きだとの考へが青年志士の中心の考へでなければいけない 志士が若いうちから老成して政治運動をしているのは見られたものではない、だから私は 今後刺客専門の修養をするつもりだ、大きな事を云つて居てもいざとなると人を斬るのはむすかしいよ、御互い修養しよう 他人がどうの こうのと云ふのは止めよう 君と二人だけでもやるつもりで準備しよう、村中、大蔵、香田(清貞)等にも私の考へや君の考へを話し 又むかふの心中もよくきいてみよう」と語りあつたのである

 ・・・ 
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
        嘆願
   謹シミテ
百武侍従長閣下ニ嘆願奉リマス
                                北 輝次郎
                                        両人ハ  
                                西田  税 

 昭和十一年二月二十六日事件ニ関シテハ絶対ニ直接的ナ関係ハ無イノデアリマス、然ルニ陸軍現首脳部ハ故意ノ曲解ヲ以テ両人ヲ死刑ニセントシテオリマス、此ノ□上専断ナ裁判ハ上ハ
天皇陛下ノ御徳ヲ汚シ奉リ、下ハ国民ノ義心ニサカラヒ君国ノ為メ忍ビ難キモノデアリマス
速カニ事ノ真相ガ 上聞ニ達シ、両人ノ無実ノ罪ガトケル様ニナルコトヲ国家ノ為メ念願スル余リ、順序ヲ紊ルノ罪ヲ顧ミル暇ナク、両人助命ノ為メ閣下ノ御盡力ヲ賜リ度ク、伏シテ嘆願シ奉ル次第デアリマス
    恐懼謹言 磯部浅一  血判

ーーーーーー

                              獄中手記

 北、西田両氏の如き人を殺す様な日本は最早、少しの正義も残つておりません。日本国に少しでも正義が存在しており、一人でも正義の士が厳存して居るならば、必ず両氏はたすかると信じます。私は日夜両氏の助かる様、精魂を尽くして御祈りをしています。
 必ず両氏は助かります、
どうぞ此の確信のもとに百万の御手段を御とり下さる様にねがひます。

 一体なぜ、北、西田両氏を殺す様な次第になつたかを探求してみませう。
 寺内が重臣とケツ託して極刑方針を進んでゐるからであることは表面の現象です。「二月事件を極刑主義で裁かねばならなくなった最大の理由は、三月一日発表の「大命に抗したり」と云ふ一件です。
青年将校は奉勅命令に抗した、而して青年将校をかくさせたのは、北、西田だ、北等が首相官邸へ電ワをかけて「最後迄やれ」と扇動したのだ、と云ふのが軍部の遁辞です。
 青年将校と北と西田等が、奉勅命令に服従しなかったと云ふことにして之を殺さねば軍部自体が大変な失態をおかしたことになるのです。
 即ち、
 アワテ切った軍部は二月二十九日朝、青年将校は国賊なりの宣伝をはじめ、更に三月一日大アワテにアワテて「大命に抗したり」の発表をしました。所がよくよくしらべてみると、奉勅命令は下達されてゐない。下達しない命令に抗すると云ふことはない。サァ事が面倒になつた。今更宮内省発表の取消しも出来ず、それかと云つて刑務所に収容してしまつた青年将校に、奉勅命令を下達するわけにもゆかず、加之(シカノミナラズ)、大臣告示では行動を認め、戒厳命令では警備を命じてゐるのでどうにも、かうにもならなくなつた。軍部は困り抜いたあげくのはて、
 ①大臣告示は説得案にして行動を認めたるに非ず
 ②戒厳命令は謀略なり
との申合せをして
 ㋑奉勅命令は下達した。と云ふことにして奉勅命令の方を活かし、
 ㋺大命に抗したりと云ふ宮内省発表を活かして
一切合財の責任を青年将校と北、西田になすりつけたのです。この基礎作業は寺内がしたのではなくて、川島を中心とする当時の軍首脳部がしたのです。
 二月事件を明らかにするには、どうしても此の軍部のインチキをバクロせねば駄目です。
「大命に抗したり」「国賊なり」と云ふ黒い幕で蔽はれたまま、如何にこちらが大臣告示と戒厳命令を主張しても一切はむだです。泥棒が忠孝仁義を説く様なものです。
 北、西田両氏を救ふには、此の点を充分に考へて作戦を立てねばならんと思ひます。即ち軍部の云ひ分である所の「青年将校を扇動し勅命に抗せしめたるは北、西田なり」に対して、こちらはアク迄も「奉勅命令は下達せられず、下達せざる命令に抗すると云ふ理屈なし、抗せざる青年将校に対して抗したりと発表せる軍閥と重臣の、陛下と国民に対する責任を問ふ」と攻撃してゆかねばならぬと思ひます。
「奉勅命令に抗したりや否やと云ふ問題は、司法問題としては大した事はない、それよりも反乱をしたと云ふことが大事な問題だ、だから奉勅命令については、吾々(法ム官)は力コブを入れてしらべる必要はない、吾々の必要なのは反乱の事実だ」と云ふのが、法務官の云ひ分でありました。然しコレハ軍部の極めてズルイ遁辞です。奉勅命令を問題にされると、軍部はタマラない立場におかれるからです。
 すべて道はローマに通ずではありませんが、すべての問題は奉勅命令のインチキから発してゐるのです。ですから、その出発点のインチキを先づ第一に攻撃せねばなりません。これが為には川島、香椎、山下、村上等を俎上にのぼせねばなりません。

 これを俎上にのぼすことが、寺内を危地に陥し、湯浅を落すことになるのです。
 世間でも、刑務所内の同志でも、唯感情的に寺内をウランだりしてゐる風がありますが、唯寺内ダケヲウランでも駄目です。
 奉勅命令と大臣告示と警備命令(戒厳命令)をシッカリと認識して、二月事件当時にさかのぼつて堂々と理論的に攻撃し、国民の正義心に訴へて軍部そのものをヤッツケる事をせねばならんのではありますまいか。

 或る法務官が私に「青年将校はエライ、こんな人達を殺すのは惜しい。実は下士官兵を罰しないことにしたので、青年将校を殺さねばならなくなった」ともらしました。然り然りです。川島、真崎、香椎、山下等を罰しない事にして北、西田を殺さんとしてゐるのですぞ。

  三、四附記しておきます。

 一、所謂奉勅命令はとうとう下達されませんでした。私は今でもその命令の内容をよく知らない位です。日本一の大事な命令が、とうとう下達されないで始末つたのです。二月二十九日午後、私共が陸軍省に集まつた時、幕僚が不遜な態度をとつて国賊呼ばわりをしましたので、たまりかねて「何ダッ、吾々が何時奉勅命令に反抗したか、奉勅命令は下達されもしないではないか、下達されない命令に抗するも何もあるか」と云ひましたら、一中佐が「アッそれはしまった。下達されなかつたか。これはしたり」と云つて色をかへたのです。

二、無能無智な法ム官(検察官)が吾々に対する論告の時、日本改造方案には皇室財産を没収するとかいてあるから国体に容れずと称し、又、私有財産百万円限度は結局私有財産を認めない共産主義に落ちるのだと曲言しました。私は「皇室財産没収ニ非ズ、下附ナリ」「私有財産ハ確認セザルベカラズ」と著者は断言してゐる等等と云ひて、改造方案については、法ム官の不明をヒドクナジリましたが、彼等は言を曲げて、曲げて、ヒンマゲテ 西田、北両氏をオトシ入れようとしたのです。

 三、法務官等は方案をソシャクする頭をもってゐません。幕僚は一ガイに方案を民主主義だと云ひハルノデス。そのクセ彼等の戦時統制経済思想は、反国体的なおそる可き思想なのです。ですから、どうしても思想的に一大鉄槌を幕僚等に加へる必要があるのです。

 四、満井中佐、求刑十年、。大蔵大尉、同八年。ササ木大尉、同七年、末松大尉、同七年、(志村、杉野中尉、六年、五年)、福井幸、加藤春海、杉田氏等各々五、六年とかの事です。菅波大尉は公判中ですが、どうもアヤシイです。ひどい事に成りはせんかと思ひます。

 五、目下、真崎御大はサキ坂?(匂坂春平)法務官(少将相当)と対戦中らしく、数日前は相当ひどく激論したらしくあります。真崎の云ひ分は「我輩は責任なしと云はざれども、我輩より当時の陸軍大臣以下の当局者の責任の方を先にしらべる可きだ。大臣告示に関しては川島はじめ軍の長老たる全軍参事官の責任ではないか、寺内も当然に責任を負ふ可き也」となかなかいいところを突いてゐる様です。真崎御大があく迄全軍参事官の責任を主張して進めば、寺内だつてたまらなくなるのです。もう一息です。遺憾なことは、刑ム所内の戦は如何に有利でも、すべて暗に葬られてしまふことです。

 六、真崎御大がどこ迄も川島及全軍参事官の責任を突いて進んでゆけば、川島は「大臣告示に於いて青年将校の精神行動を認めたのだ」と云はざるを得なくなる筈です。川島がたつた一言をはけば、すべては我が勝利になるのです。寺内は川島の此の一言によつてたほれます。何故なれば、大臣告示は青年将校を認めたものであるのに、認めたるに非ず、単に説得案なりとして、死刑をしてしまつたのですから。
 然らば川島に此の重大なる一言をはかせる為には、如何にすればよいかとの問題が残ります。それは、
 ①真崎にアク迄も川島の責任をとはすこと。
 ②川島を告発すること(有力なる政治家及有力なる軍人=例へば真崎勝次将軍)。

  右の事がうまくいけば北、西田両氏は全くの無罪になるのですがね。
 七 寺内と共に湯浅(当時の宮相)をたたかねばいけないと思ひます。それは次の様な方法もよいと思ひます。
 宮内大臣は三月一日、青年将校を「大命に抗したり」と云ふ理由で免官にしました。所が公判でよくしらべられた結果、「大命に抗したのではない」と言ふことが明らかになつてゐるのです。大命に抗せざるものを抗したりとして、上御一人をアザムキたる専断を攻撃すべきと思ひます。
 この事が特に重要である理由は、北、西田が青年将校を扇動して大命に抗せしめたのだと云ふのが、敵の云ひ分であるからです。戒厳司令部から三宅坂附近を警戒せよと命令されてゐたから、最期迄頑張つていたのです。しかし最後迄、所謂奉勅命令は下達されなかつたのです。軍部の奴は自分が奉勅命令を下達しなかつたことは、たなにあげて北、西田が扇動したと云ふのです。

 八、所謂奉勅命令について
 軍部が青年将校の行動を認めたことは確かです。認めたからこそ、三宅坂附近一帯の地区を警備させる戒厳命令をしたのです。
 然るに奴等は、戒厳命令は青年将校の行動を認めたから下したのではない。青年将校を静まらせる為に謀略的に命令を下したのだと云ふのです。命令に謀略があると云ふならば、皇軍は全くみだれてしまふのです。すべての命令がカケヒキを有してゐるならば、命令の権威はなくなり、命令に服従するものはなくなります。これは恐るべき皇軍の破カイです。軍を毒するは青年将校に非ずして、軍中央部の奴等ではありませんか。
 しかもおそれ多くも天皇宣告の戒厳、その戒厳の戒厳命令が軍隊をダマス為に下されて居たと云ふことになると由々しき国体上の問題です。即ち陛下の命令は謀略である、国民をダマスものであると云ふことになるではありませんか。
 軍中央の国賊的幕僚共は、自分の身をのがれる為に謀略命令などと勝手なことを云つて、つみを 上陛下になすりつけてゐるではありませんか。青年将校が統帥権干犯の賊を討つのだと主張しました所、奴等は統帥権は干犯サレテいないと云ひました。何ぞ知らんや、謀略命令と云ふことそのことが統帥権の干犯され、みだれてゐる一つの証コではありませんか。所謂謀略命令については統帥権問題で軍部をタタキつける事がいいと思ひます。

九、反乱罪について
 私は「吾人は反乱をしたのではない、蹶起の初めからをわり迄義軍であつたのに反乱罪にとはれる道理なし。義軍であることは、告示に於て認め、戒厳軍隊に入れられた事によつて明らかになり、警備を命ぜられた事によつていよいよ明々白々ではないか」と強弁しました。所が法ム官の奴等は、「君等のシタ事は大臣告示が下る以前に於て反乱である」と云ふのです。これはおもしろいではありませんか。私は次のように云つて笑っつてやりました。「左様ですか、それは益々おもしろい、大臣告示が下達される以前に於て国賊反徒であると云ふことがそれほど明瞭であるのに、なぜ告示を下し、警備命令を与へたのです。国賊を皇軍の中へ勝手に入れたのは誰ですか、大臣ですか、参謀長ですか、戒厳司令官ですか、国賊を皇軍の中に 陛下をだまして編入した奴は、明らかに統帥権の干犯者ではないか」と、そしたら法ム官の奴は「何しろ中央部の腹がきまらんからねエ、君」と云つてウヤムヤに退却をしました。この事は公判廷に於ては特に強くやりました。所が裁判長の奴、私がチチブの宮様の事を云ふことにカコツケて、「言葉がスギル」と云ふて叱りつけるのです。奴等は道理に於てはグウの音も出ないのですが、権力をカサにきてムリを通すのです。

 十 維新大詔案について。
 維新大詔案は二月二十八日、幸楽へ村上大佐が持参して見せました。そもそもこの大詔案は荒木陸相当時に出来、それを林大臣に申し渡して現在に及んだものらしくあります。この事は真崎御大が証言してゐます。
 然るに、此の大詔案に関して村上大佐(当時の軍首脳部の相談により定つたる言ひのがれならん)は、維新大詔案は自分は知らない。自分の知つてゐるのは軍人が政治運動に関係するのがよくないから、大詔を仰ぎたいと思つてゐたので、それの事を間違へたのだらうと云ふ様な、みえすいたうそを云つてゐます。

 十一、 大臣告示について。
 大臣告示が宮中に於て出来た時の情況は、大体先般大沢先生のところへ出しておいた書きものの中にあるとほりです。二た通りあるのですが、
「諸子の行動は国体の真姿顕現にあるものと認む」と云ふが第一案です。所が奴等は色々ごまかす為に、大臣告示は三ツ出ていると云ふことを云ひ出して、告示など無価値なりと云ひのがれをしてゐつのです。用心用心。

 最後に申しますことは、真崎が不起訴になると北、西田両氏の為にはすこぶる不利です。川島が告発され起訴されたら、両氏が無罪になる所に迄事件が発展すると云ふことです。どうぞ両先生のことをたのみます。私のヤツタ事、ヤリツツあることは、手段としては下手なことであるかもしれません(真崎告発については同志からも色々のことを云はれました、誤解もされました)が、両氏をすくひたい一心です。
 衷情御くみとり下さつて、此の文を参考にして下さい。日本に天皇陛下が居られるのでせうか。今はいられないのでせうか。私はこの疑問がどうしても解けません。

 北、西田両氏の如き真正の士と同志青年の様な真個の愛国者をなぜ、現神人であらせられる天皇陛下が御見分になることが出来ぬのでせうか。

 陛下はなぜ寺内の如き、湯浅の如きをのみ御愛しみになり、御信じになり、塗炭に苦しむ国民と、忠諫(チュウカン)に泣く愛国者を御いつくしみにならないのでせうか。

 私は断じて死にません。川島と香椎と而して全軍部を国賊にするか、死せる十八同志の生命をかへしてもらうか、二つの中一つをとらぬ内は断じて死にません。屁古たれるものですか。どこ迄もやります。大日本の為にどんな事があつても、二先生と菅波三郎君を殺してはなりません。
 どうぞどうぞたのみます。
 ニ先生の為なら、私はどんな事でもします。どんなぎせいにでもなりますから、先生方をたのみます。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  
     辞世
国みよ国をおもひて狂となり
  痴となるほどに国を愛せよ
三十二われ生涯を焼く情熱に
  殉じたりけり嬉しともうれし
天つ神国つみ神の勅をはたし
  天のみ中に吾等は立てり

わが魂は千代万代にとこしえに

  厳めしくあり身は亡ぶとも

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