「幻の大戦果 大本営発表の真相」辻泰明・NHK取材班(NHK出版)によると、「幻の大戦果」を生んだ台湾沖航空戦の作戦は、T作戦といわれ、立案者は真珠湾奇襲攻撃成功の立役者、大本営海軍部作戦課参謀の源田実中佐であったといいます。
T作戦は、アメリカ海軍空母部隊が台風に遭遇して、活動の自由を制限されているあいだに、その悪天候をついて奇襲攻撃をかけようというものでした。また、台風がこない場合、あるいは、あまりにも気象条件が悪い場合は、夜間攻撃をおこなうというのです。夜間ならば、敵戦闘機の行動も制限されるからだといいます。
さまざまな条件が、日本側にだけ理想的なかたちで揃わないと成功の望めないT作戦も、立案者が源田中佐であったために、異議を唱える者がいなかったようですが、それが、壊滅的な敗北と、問題の「幻の大戦果」を生んだことを見逃すことができません。
「幻の大戦果」が、どういう状況の中で、どのようなかたちで生み出されたのかは、資料2の「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」堀栄三(文芸春秋)の「Ⅳ 山下方面軍の情報参謀に」に明らかです。そればかりでなく、同書には、
”この姿こそあのギルバート、ブーゲンビル島航空戦の偽戦果と同じではないか?今村大将のタロキナ上陸の米軍撃退作戦の失敗の原因となった、あれでは?”
とあり、小さな損害を与えただけなのに、大戦果を報じるという過ちは台湾沖航空戦以前からくり返されていたことが分かります。とんでもないことだと思います。そういう意味で、同書にの「まえがき」に書かれている下記の文章は重要だと思います。
”昭和20年の敗戦まで、軍は日本の最大の組織であった。しかも最も情報を必要とする組織であった。その組織がいかなる情報の収集・分析処理・管理のノウハウを備えていたのか、あるいはいなかったのか? いかなる欠陥をもっていたのか?──その実態を体験的に述べることは、日本の組織が内在的に持ちやすい情報に関する問題点を類推させることにも役立つのではなかろうか。
物語の大部分は、自(オノズ)ら太平洋戦争の職場が主体であるが、企業でも、政治でも、社会生活の中でも、情報が極めて重要な役割を占めている今日、それぞれの分野や組織で情報に関係する人びとにとって、それなりの示唆を与えるものではないかと思っている。”
同じような意味のことが、「幻の大戦果 大本営発表の真相」辻泰明・NHK取材班(NHK出版)にも書かれていました。下記です。
”台湾沖航空戦と、その誇大戦果創出の過程から得ることのできる教訓、あるいは、現代に通じる問題点は、大きく分けて三つある。
第一の問題点は、よくいわれる「情報の軽視」である。が、それは、単に情報を軽視したのみとはいいきれない問題を含んでいる。むしろ情報の処理のしかたのほうに問題があるといえるだろう。情報そのものは、いろいろと摂取してはいるのだが、それが組織の中を流通していかないのである。
陸軍と海軍のあいだで情報の共有がされず、陸軍ないし海軍の中でも、作戦部と情報部のあいだで情報がうまく伝わらない。そういう現象が台湾沖航空戦とそれにつづくフィリピンでの決戦では致命的なかたちをとって現れてしまった。
組織を人間の肉体にたとえれば、情報は、”血液”のようなものであろう。血液がうまく循環していかない時、肉体は壊死してしまう。情報が円滑に流れない組織は、いつしか硬直化し、やがて死を迎えざるをえないのである。
近年、頻発する企業の不祥事においても、「部門間の風通しの悪さのために、情報が一部にとどまってしまった」とか、「社長はほうとうになにも知らなかった」という発言が繰り返された。
この点で、日本型組織といわれるものは、はなはだ脆弱な側面をもっている。公の場で議論することが少なく、どこかわからないところで意思決定がおこなわれる。会議の場で話される建前と会議以外の場で話される本音が、百八十度ちがうこともままある。
空母はほんとうのところ、いったい何隻沈めたのか、敵の部隊はほんとうに、もう残っていないのか。現代の問題に例をとって言いかえれば、不良債権といわれるものは、ほんとうのところ、いったいどれくらいあるのか。
当事者はわかっていても、その情報が、ほかには明かされない。その結果、曖昧な危機感ないしは根拠のない楽観だけが助長され、誤った意思決定がつづくことになる。
また、考えさせられるのは、幻の大戦果を生み、その結果、その後も無理な作戦が続いて、多くの犠牲者を出すことになったにもかかわらず、源田中佐(戦後、自衛隊初代航空総隊司令、第三代航空幕僚長、参議院議員)をはじめとする当時の軍人や政府の高官が、日本の戦後政治にも大きな影響力を持ち続け、戦時中の不都合な事実が、闇に葬られる傾向があることです。
中国の戦争に関わる施設に、「前事不忘 後事之師」という言葉があったのを思い出します。
下記資料1は 「幻の大戦果 大本営発表の真相」辻泰明・NHK取材班(NHK出版)から、資料2は「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」堀栄三(文芸春秋)から抜粋しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第一章 逆転の秘策
起死回生の秘策・T作戦
T作戦は、頭脳優秀な参謀によって練られた。きわめて複雑かつ精巧な作戦であった。その目的と戦法を理解するには、ミッドウェー海戦ののちの太平洋戦争の局面の推移を知る必要がある。
ミッドウェーで空母四隻を失ったあと、日本軍は、ガダルカナルやラバウルでの消耗戦を余儀なくされることになった。消耗戦とは、一回の決戦で勝負が決まることなく、長時間にわたる戦いのうちに、次第に、艦船や航空機を消耗していく戦いのことである。こうなると、消耗した航空機や艦船をいかに補充できるかが、戦争のゆくえを左右することになっていく。つまりは、その国の工業生産力が最終的な勝敗の鍵を握ることになったのである。
ミッドウェー海戦以後、空母部隊の再建に励んでいた日本海軍は、この海戦にあたって、空母九隻、艦載機四三〇機あまりを投入するまでに戦力を回復していた。だが、工業力の差はいかんともしがたく、アメリカ海軍は、日本軍をはるかに上回る空母十五隻と艦載機九〇〇機あまりを投入してきたのである。しかも、それまでの消耗戦の過程で多くのベテラン搭乗員を失っていた日本軍航空部隊の技量は高いものではなかった。
結果は、日本海軍の惨敗であった。
日本海軍は主力空母三隻が撃沈され、四隻が損傷、航空機三〇〇機以上を失う。これに対し、アメリカ海軍は艦船の沈没はなく、航空機一○○機を失うにとどまった。
艦隊決戦に敗れた日本は、いよいよ追い詰められたかたちとなった。空母を十五隻も有し、かつ、着々と兵力を増強しつつある大艦隊が、日本に迫ってくるのである。洋上に浮かぶ航空基地として、敵に対し機動的に空から攻撃を加えることのできる能力をもつ空母部隊は、こんにちでいえば、戦略核ミサイルに匹敵するような、最強兵器であった。
南方(東南アジア)の資源地帯に、石油をはじめとする軍需物資を頼っている日本にとっては、その輸送路を空から襲われれば、たちまち息の根を止められてしまう。
なんとしてでも、アメリカ海軍空母部隊を打ち破り、その進撃を阻止しなければならなかった。
こうした背景のもと、マリアナ沖海戦から一か月あまりのちの昭和19年7月23日、大本営での打ち合わせの席上、アメリカ海軍空母部隊撃滅の秘策が発表された。
それがT作戦である。立案したのは、真珠湾奇襲成功の立役者であり、大本営海軍部作戦課参謀の源田実中佐。この時、出席した柴田文三大佐のメモには、源田中佐が示した目標が記されている。
「エセックス級空母十隻撃沈破」
エセックスとは、当時最新最強のアメリカ海軍正規空母の形式名である。排水量およそ二万七千トン、速力三十三ノット、搭載機数約百機。それまでの戦訓を活かし、強固な対空火器を備えた、文字通りの不沈艦であった。
そのエセックス級を一挙に十隻屠ろうというのである。当時、アメリカが太平洋方面の作戦で使うであろうエセックス級空母を、日本側は十隻と予想していたから、その全部を撃沈するか撃破しようというのであった。
それが、いかに達成困難な目標であるかは、直前の6月に生起したマリアナ沖海戦の結果を考えてみれば、明らかであった。マリアナ沖海戦において、アメリカ軍空母部隊よりも先に敵を発見した日本軍空母部隊は、ただちに航空機を発進させ、先制攻撃を加えることに成功した。にもかかわらず、一隻の空母を撃沈することもできず、攻撃隊はおびただしい損害を出したのである。
その原因は、ひとつには、アメリカ軍空母が有する戦闘機による迎撃によって、攻撃を妨害されたことであり、もうひとつは、空母をはじめとするアメリカ軍艦船の対空砲火によって攻撃隊の航空機が撃墜されたことであると考えられた。
どうすれば、敵の戦闘機や対空砲火をかいくぐって、空母を撃破することができるのか。
源田中佐は、そのための秘策を考え出していたのである。
台風と照明弾
それは、台風を利用するということであった。
T作戦のTとは、この台風を表す英語Typhoon の頭文字をとったものだといわれている(魚雷=Torpedo のTをとったという説もある)。
アメリカ軍空母部隊の進攻が予想される時期、つまり9月から10月にかけて、その進路にあたる西太平洋上では、台風が発生する。その台風に、アメリカ海軍空母部隊が遭遇して、活動の自由を制限されているあいだに、悪天候をついて奇襲攻撃をかけようというのである。
台風を利用するとは、蒙古来襲の時に吹いた神風を思わせるが、源田中佐は単に縁起をかついだわけではない。台風によって、近代艦船が沈没することはないにしても、揺れが激しければ、航空機の発着艦はできなくなる。つまり、敵戦闘機がわが攻撃隊を待ちかまえていることはできなくなるはずだというのである。また、もうひとつの障害である対空砲火も、艦船の揺れによって照準が定めにくくなるにちがいない。こうして敵の戦闘機と対空砲火を封じてしまえば、空母を撃破することは充分可能になる。それが、源田中佐が着想したT作戦の骨子であった。
だが、この構想には、難点がひとつあった。
すなわち、台風の悪天候下で、はたして満足な攻撃ができるものだろうかということである。悪天候下においては、たしかに敵の行動も不自由ではあるが、味方の行動も不自由となる。暴風雨の中を航空機が飛んで、敵を発見し、なおかつ有効な攻撃をおこなうことができるか。
さらにまた、台風も、そうそう都合よく発生するとはかぎらない。敵を発見し、攻撃するという際に、敵が台風にみまわれていなかったら、どうするのか。そういう疑念に対する答えも、源田中佐は
用意していた。
台風がこない場合、あるいは、あまりにも気象条件が悪く、味方機の活動が制限されることが考えられる場合は、代案として、夜間攻撃をおこなうというのである。夜間ならば、敵戦闘機の行動も制限される。台風による荒天の時ほどではないが、昼間よりは、攻撃に有利であろう。
が、しかし、ここでまた別に、夜間では攻撃目標である肝腎の敵艦隊が発見できないではないかという疑念が湧く。
この疑念に対する答えもあった。
あらかじめ敵を発見する役目をになった索敵機を先行させ、後続する攻撃隊が到着するころをみはからって、照明弾を投下、その明かりに敵艦が照らされているあいだに攻撃しようというのである。しかも、攻撃隊の航空機には、当時、最新の電探(電波探知機=レーダー)を搭載し、敵の発見を容易にする準備まで整えておくというのだ。
・・・
一見、周到に組み立てられていかにみえるT作戦は、きわめて脆弱な側面をもっていたのである。この作戦が成功するためには、こちらの都合のよい時と場所に台風が発生しているかどうかということを別にしても、悪天候時あるいは夜間に、味方が確実に敵の位置を捕捉すること、敵の戦闘機が遊撃してこないこと、また、敵艦船が確実に照明によって照らし出されることなどといった、さまざまな条件が理想的に揃う必要があった。ちょうど精巧につくられた模型が、一か所、部品がはずれただけで、ばらばらに崩壊してしまうように、T作戦も、これらの前提条件が揃わなかったっ場合は、すべてが裏目に出る危険をはらんでいたのである。そして、現実に、いざ実戦となった時、これらの前提条件は、次々に崩れ去っていったのである。
しかしながら、源田中佐といえば、開戦劈頭、だれもが不可能と思っていたハワイ真珠湾奇襲計画の具体案を策定した人物であった。その源田中佐が考えた作戦に異議が唱えられる気配はなかった。また、会議の出席者にとってみれば、このT作戦だけが、追い詰められた日本を救いうる頼みの綱であるようにもみえたにちがいない。
T作戦のための準備は、次々に進められ、部隊編成がおこなわれた。その実行部隊はT攻撃部隊と名づけられた。
・・・
資料ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
Ⅳ 山下方面軍の情報参謀に
1 台湾沖航空戦の”大戦果”
昭和19年10月、堀は完成した『敵戦法早わかり』を、第一線部隊に普及させるため、在比島第十四方面軍に出張を命じられた。
作戦参謀なら立川あたりから専用機で発つであろうが、当時の情報参謀はそうはいかない。作戦とと情報は権力にまで段差があった。堀は汽車で宮崎に行き、新田原飛行場で南方行の便を探して、マニラに向かうことになった。
12日の夜は車中で明かした。昼近くやっと佐土原駅に着いた。ちょうど駅前にいた軍のトラックをつかまえて、新田原飛行場に到着した。堀は一刻も早くマニラ便に乗って飛び出すことを期待していたが、意外にも飛行場は閑散として静かであった。
汽車の中で見た新聞や、乗客たちが興奮して話し合っていた通り、台湾沖では航空戦が行われている最中であった。指揮所の入り口には貼紙があった。
『只今、台湾沖にて航空戦が行われています。沖縄、台湾には空襲警報が発令中のため、南方行の便は全便中止します』
それでもと思って指揮所の主任将校に、予約してあるマニラ行の輸送機を尋ねたが、空襲警報である以上何ともしようがない上に、沖縄付近に低気圧があって、この分では南方行は二、三日は無理だから、今夜は旅館で泊ってくれと言う。「そうだったのか」と一度は思ったその瞬間、堀の口から別な言葉が飛び出していた。
「俺は大本営の情報参謀だ!こんな大戦争が近くで行われているときに、どうして旅館でごろごろしていられるか、どんなボロ飛行機でもいいから鹿屋まで何とかしてくれ!」
堀の頭の中を、稲妻のようにピリッと閃くものがあった。
── 航空戦だ! いままでの戦法研究で疑問符のつけてある航空戦だ。この目で見てみよう。
いまや絶好の機会であった。「俺は大本営の情報参謀だ!」── いま想い出しても、新米愚鈍参謀の冷汗の出るような一世一代の台詞であった。戦法研究から出た危機感が、戦局を憂慮する使命感を動かして、どうしてもジッとしてはいられなかった。
航空指揮所が工面してくれたボロ偵察機で、鹿屋の海軍飛行場に着いたのが午後一時過ぎ。飛行場脇の大型ピストの前には十数人の下士官や兵士が慌ただしく行き来して、大きな黒板の前に坐った司令官らしい将官を中心に、数人の幕僚たちに戦果を報告していた。
「〇〇機、空母アリゾナ撃沈!」
「よーし、ご苦労だった」
戦果が直ちに黒板に書かれる。
「○○機、エンタープライズ撃沈!」
「やった! よし、ご苦労!」
また黒板に書き込まれる。
その間に入電がある。別の将校が紙片を読む。
「やった、やった、 戦艦二撃沈、重巡一轟沈」
黒板の戦果は次々に膨らんでいく。
「わっ」という歓声が、そのたびごとにピストの内外に湧き上がる。
堀の頭の中には、いくつかの疑問が残った。敵軍戦法研究中から脳裏を離れなかった「航空戦が怪しい」と考えたあれであった。そのあれが今、堀の目の前にある。
── 一体、誰がどこで、どのようにして戦果を確認していたのだろうか?
── この姿こそあのギルバート、ブーゲンビル島航空戦の偽戦果と同じではないか?今村大将のタロキナ上陸の米軍撃退作戦の失敗の原因となった、あれでは?
堀は、ピストでの報告を終って出てきた海軍パイロットたちを、片っ端から呼び止めて聞いた。
「どうして撃沈だとわかったか?」
「どうしてアリゾナとわかったか?」
「アリゾナはどんな艦型をしているか?」
「暗い夜の海の上だ、どうして自分の爆弾でやったと確信して言えるか?」
「雲量は?」
「友軍機や僚機はどうした?」
矢継ぎ早に出す堀の質問に、パイロットたちの答えはだんだん怪しくなってくる。『敵軍戦法早わかり』作成時に艦型による米軍艦の識別は頭にたたき込まれているから、パイロットたちの返事のあいまいさがよく分かった。
「戦果確認機のパイロットは誰だ?」
「………」
返事がなかった。その時、陸軍の飛行服を着た少佐が、ピストから少し離れたところで沈みがちに腰を下ろしていた。陸軍にも俄か仕込みの電撃隊があったのだ。
「参謀!買い被ったらいけないぜ、俺の部下は誰も帰って来てないよ。あの凄い防空弾幕だ、帰ってこなけりゃ戦果の報告も出来ないんだぜ」
心配げに部下を思う顔だった。
「参謀! あの弾幕は見た者でないとわからんよ。あれを潜り抜けるのは十機に一機もないはずだ」
と、ウェワクで寺本中将が言った通りのことを付け加えた。
── 戦果はこんなに大きくない。場合によったら、三分の一か、五分の一か、あるいはもっと少ないかも知れない。第一、誰がこの戦果を確認してきたのだ、誰がこれを審査しているのだ。やはり、これが今までの○○島沖海軍航空戦の幻の大戦果の実体だったのだ。
堀はそう直観した。ブーゲンビル島沖航空戦では、後になってみると、大本営発表の十分の一にも足りない戦果であった。
航空部隊の気持ちもわからぬではない。航空戦、それも夜戦であっては、月か星に見えるだけで、戦闘の状況を逐一観察出来るはずがない。
その上日本における指揮官は、外国型に較べて泰然とした大物でないと部下がついて来ない。細かい粗さがしは部下の失笑を買う。勢い日露戦争の大山元帥式の太っ腹な態度を指揮官像とする者が多い。
「よし! わかった、ご苦労」
司令官にそう言わせる前に参謀の念入りな審査が必要だ。しかし、ピスト内では誰ひとり審査している者がいないのである。パイロット以外に戦場を見た者がいないのが航空隊だった。
ピストに戻ると、内部の興奮はさらに高まって、「轟沈、撃沈」と書かれていくたびに歓声は一層大きくなっていった。
堀が大本営第二部長宛てに(参謀は所属長に報告するのが原則)緊急電報を打ったのは、その日夕方七時頃であった。起案は薄明かりの飛行場の芝生の上で書いた。書き終わったときはもう真っ暗だった。
「この成果は信用できない。いかに多くとも二、三隻、それも航空母艦かどうかも疑問」
これが打った電報の内容であった。
・・・
海軍航空隊戦の戦果については、この一年間疑問を持ち続けてきたが、なぜ戦果が過大なものに化けるのかのからくりの真相を、目のあたりに見る思いがした。
「いま何をするのが一番大事か?」── 土肥原将軍は堀にそう教えた。
日本は「捷号」という国運を賭けての作戦を発動するか、しないかの土壇場にきている。この一大決断のときに、判断の資料を提供するのが新米ながらも情報参謀の使命であろう。東京の作戦当事者に、ブーゲンビル島沖航空戦の結果を信じて、タロキナ大反撃を命じた今村第八方面軍司令官の轍を踏ませてはならない。それだけが堀の脳裏に残っていた。
またその反面、「この重大なときに作戦参謀がどうして鹿屋に馳せ参じないのか、陸軍の作戦参謀の中に連合艦隊参謀を兼務してきた者もあったはずだ」そうも思った。これが作戦課の情報不感症というものだ。
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「この戦果は怪しい」という職人的勘が走ったのは、一年の戦法の研究を通して、各種の情報、戦例、戦闘の実情、日米両軍の戦力の比較、制空制海の戦理、航空機の特性などを見てきた知識の総蓄積から出た閃きのようなものであった。問題はそのとき決して感情を入れないことである。作戦当事者が誤るのは、知識は優れているが、判断に感情や期待が入るからであった。それゆえ作戦と情報は、百年も前から別人であるように制度が出来ていたのであった。
情報の職人には、経験と知識と、深層、本質を冷徹に見る使命感が大事である。後世史家たちが、陸大の教育に情報教育が不足していたと、批判する向きが多いが、実戦における 情報の仕事はかくも微妙なものである。