真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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軍備で平和は守れない

2024年09月16日 | 国際・政治

 先月(827日)、「僕の答え 軍備で平和は守れない」という中学生の投稿が、朝日新聞の声の欄に掲載されました。私は、「平和」について深く考えている中学生だと感心しました。

 でも先日、岡山県・無職男性(73)の、中学生の投稿に対する反論が掲載されました。下記です。

中学生の投稿「僕の答え 軍備で平和は守れない」を拝読しました。自分の考えをしっかり持たれていて感心しました。

 軍備といえば日本では自衛隊、在日米軍になるのだと思いますが、これらをなくせば日本は平和を守れるのでしょうか。ロシアに侵略されたウウライナは、プーチン大統領に軽く見られたのだと思います。NATOに加盟してないし、そう強い軍事力もない。国民の抵抗心も弱いだろうと見られ、「すぐに降伏する」と思われたのではないでしょうか。

 もしウクライナがNATOの一員ならロシアは侵攻したでしょうか。長年中立を標榜していたスウェーデンとフィンランドが、最近NATOに加盟しました。軍事同盟によってロシアの脅威から自国を守ろうとする動きと思います。太平洋戦争の一事例から「軍備で平和を守れない」と結論づけられるほど、国際社会は単純ではないと思います。”

 この男性は、良心的な日本の国民の一人に違いないとは思います。

 しかしながら、戦争に至った経緯や、両国の言い分をしっかり踏まえて判断されているとは思えませんでした。プーチン大統領が相手とするのは、ゼレンスキー政権を支えるアメリカであり、NATO諸国であることは、侵攻前の演説でわかりますが、そういうことはほとんど考慮されていないように思います。

 ウクライナ側の立場に立つ朝日新聞をはじめとする日本の主要メディアの報道を信じ、マイダン革命に対するアメリカの関与、また、マイダン革命以降のウクライナに対するアメリカの軍事支援などは考慮されていないので、”ロシアに侵略されたウウライナは、プーチン大統領に軽く見られたのだと思います。”という判断になったように思います。さらに言えば、ヨーロッパに対する米ロの確執、すなわちノルドストリーム2を巡るロシアに対する経済戦争ともいえるアメリカの対ロ制裁なども、ほとんど考慮されていないのではないかと思います。

 さらに、”長年中立を標榜していたスウェーデンとフィンランドが、最近NATOに加盟”したという事実も、「軍備で平和を守れない」という考え方を否定できるようなことではないと思います。

 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を受けて、テロとのグローバル戦争(Global War on Terrorism)を宣言した当時のブッシュ大統領は、「世界各地の全ての国々は、今、決断しなければならない。アメリカ側につくのか、テロ側につくかのいずれかだ」と各国に決断を迫りました。グローバル戦争では、敵か味方か、はっきりさせるために、中立は認めないということだと思います。

 したがって、ウクライナ戦争についても、アメリカは中立を認めないという姿勢で、NATOに加盟していない国々に働きかけをしたのではないかと思います。スウェーデンやフィンランドは、決断しなければならなかったのではないかと思うのです。

 

 第二次世界大戦後も、戦争をくり返し、現在も、ウクライナやイスラエルに軍事支援をしているアメリカの外交政策や対外政策をしっかり捉えれば、中学生の主張する「軍備で平和は守れない」が正しいことは、明らかだと思います。

 下記の動画で、アメリカのクリントン大統領は、平和を取り戻すためにベイルート爆撃すると語り、ブッシュ大統領は、イラクの国民を解放するために、また、世界の安全を確保するためにイラクを爆撃すると語ってします。 オバマ大統領も、リビアの国民を保護するためにリビアを爆撃すると語っています。なぜ、話し合いでなく「爆撃」なのでしょうか。アメリカは、圧倒的な軍事力を持っているが故に、話し合いで解決することなく、軍事力を行使し、アメリカの都合の良いように解決するということではないでしょうか。

 

 中学生の投稿に反論した男性は、ハマスがイスラエルを軽く見て襲撃したとでも言うのでしょうか。あり得ない話だと思います。

 イスラエルも、圧倒的な軍事力を背景に、パレスチナで入植活動(事実上、領土占領活動)を続け、抵抗するパレスチナ人を痛めつけたり、殺害したりしてきたから、パレスチナの若者を中心に抵抗する組織が生まれ、ジハード(聖戦)の思想が拡大・深化していったのではないでしょうか。


 また、『「イスラーム国」の脅威とイラク』吉岡明子・山内大編(岩波書店)には、下記のような記述があります。

イラク戦争は、アラブ、イスラーム世界のみならず世界各地の「反米」意識を駆り立てていたので、イラクに駐留する米軍を攻撃対象として、シリア、サウジアラビアなどから多くの戦闘員が入り込んだのである。

 こうしてイラクで反米抵抗運動として生まれた「イスラーム国」の前身組織は、しかし、2008年には多くが掃討された。その結果、彼らの多くはイラクを離れ、周辺国に逃げ込んだ。それが再びイラクに舞い戻るまでに「成長」したのは、第五章で見るように、逃げのびた先のシリアで「内戦」が起きたからである。

 イラク戦争がなければ、「イスラーム国」は生まれなかったと言えるのではないでしょうか。イスラエルやアメリカを中心とする西側諸国が、圧倒的な軍事力を背景に、人権侵害や不法行為をくり返したから、抵抗する組織が生れ、残虐な事件が起きたのではないでしょうか。

 ハマスのイスラエル襲撃に関し、 国連のグテーレス事務総長は、中東に関する安保理の会合で、イスラム組織ハマスがイスラエルに対して実施した攻撃について、「ハマスによる攻撃は他と無関係で起こったのではないことを認識することも重要だ。パレスチナの人々は56年にわたり、息の詰まるような占領を受けてきた」と語り、また、「パレスチナの人々が、自分たちの土地が入植によって着実に侵食され、暴力に苦しめられるのを見てきた」とも語りました。

 原因と結果を逆様にしてはいけないと思います。

 だから、「軍備で平和を守れない」と私は思います。

 ユネスコ憲章に「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」とありますが、”人の心の中に平和のとりでを築”くのに、「軍備」は邪魔であると思います。核兵器廃絶を実現し、「軍縮」を進めることが、国際社会の平和のために最も大事な課題だと思います。 

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            序「イスラーム国」はイラク戦争とシリア内戦で生まれた

                                                  酒井啓子

    一 「イスラーム国」登場

 2014610日、イラクで第二とも第三とも言われる北部の古都、モスルが、「イラクとシャームのイスラーム国」と称する武装勢力によって、制圧された。のちに「イスラーム国」と改名してカリフ制を宣言した稀代の存在に、世界が震撼した瞬間であった。

 おりしもイラクでは4月に第3回国会選挙が実施され、当時のヌーリー・マーリキー首相が三選か、と新政府の組閣が待ち望まれているときだった。石油生産量も順調に伸び、日本企業も含めて外国企業のイラク進出に弾みがかかっていた。そのさなかの晴天の霹靂である。

 モスルを制圧した武力勢力は一気に南下、1週間のうちに、北部最大の製油所があるベイジや、2006年に処刑されたフセイン元大統領の生地であるティクリートを支配下におさめ、シーア派の聖地のひとつであるサーマッラーに迫る勢いを見せた。

 その一方で、モスル陥落の一日後には、「イスラーム国」はイラク西部にも進撃を開始した。ヨルダン国境に面した西部のアンバール県では2013年から反政府暴動が再燃、激しい掃討作戦が本格化し、戦闘状態が続いていた。もともと反政府活動が盛んだったファッルージャをはじめとして、国境の町カーイムヤ県庁所在地のラマーディーなどの主要都市を、一週間もたたないうちに手中におさめた。また東部のディヤーラー県でも、6月半ばには激しい戦闘が繰り広げられた。

 「イスラーム国」はさらに首都バグダードへと進撃を続け、イラク全土が「イスラーム国」下に落ちるのも時間の問題かと、世界に危機感が駆けめぐった。モスルの北に位置するモスル・ダムを一時的に「イスラーム国」が占拠したことも、イラク崩壊を予見させるものだった。チグリス川の水量を管理モスル・ダムが決壊すると、イラクの主要都市はいっせいに水没の危機にさらされる。

 イラクは世界で五本の指に入る潤沢な石油埋蔵量を持つ国である。2003年にブッシュ政権下のアメリカが、国の多大な軍事力と経済力を費やしてイラク戦争を敢行し、国の威信をかけて戦後のイラクに「民主的な」国づくりを推進してきた国である。そのイラクが、やすやすと「イスラーム国」に乗っ取られることは、アメリカにとってはあり得ないこと、見たくない結末だった。



 残虐性に集まる人々

 さらに「イスラーム国」は、その残虐性で世界を驚愕させる。進撃直後から、捕まえたイラク治安部隊の兵士を集団で射殺処刑したり、斬首したりする映像を、「イスラム国」が自らインターネットなどで配信し、シーア派住民やイラク政府に対して、あからさまな敵対姿勢を示してきた。しかし、7月後半から「イスラーム国」が制圧地域下に住むキリスト教徒に対して弾圧を開始、多くのキリスト教住民がそれを逃れて難民化したり、世界遺産にも値する古来からある教会が破壊されたりしたことは、欧米メディアによって激しい不快感を持って報じられた。

 国際社会の「イスラーム国」に対する危機感がピークに達したのは、少数宗教であるヤズィード派信者が殲滅の危機に陥ったことであろう。83日、「イスラーム国」はモスル北西部のスィンジャールを包囲したが、その町は、ヤズィード派が多く居住する町であった。キリスト教徒以上に異教徒視された彼らは、「イスラーム国」により殺害されたり、女子は強姦・誘拐され奴隷として売却されたりといった生命の危機にさらされた。包囲中餓死した者も少なくない。こうした状況に対して、米軍は88日、初めてイラク領内で「イスラーム国」への空爆を実行した。

 国際社会の反発、「イスラーム国」に対する軍事行動の必要性が叫ばれるのに並行して、「イスラーム国」はその攻撃の矛先をアメリカ人、イギリス人に向け始めた。8月後半から9月前半にかけては「イスラーム国」に拉致されていたアメリカ人ジャーナリスト2人、イギリス人の人道支援活動家かひとりが斬首され、その映像が公開された。特に処刑シーンでは「イスラーム国」の戦闘員が流暢なイギリス英語を話しながら、刑を執行する姿が映し出され、その頃から「イスラーム国」に参加する欧米出身者の存在が問題視されていった。

 治安・諜報関係を専門とする民間調査機関のソーファン・グループが20176月に発表した報告書によれば、同年3から5月時点でシリアで活動する欧米出身の戦闘員は、ロシアからが最多で800人強、次いでフランス、イギリスがそれぞれ700人強、400人程度だという。ロシアからはチェチェン独立紛争の戦士が多いものと推察できるが、フランス、イギリスからは、移民出身者に限らず新たな改宗者も少なくないと言われる。日本でも、10月半ばに「イスラーム国」への渡航計画していた若者が、「私戦予備および陰謀」の疑いで家宅捜査を受けた。



 「イスラーム国」の起源

 このように、突然姿を現すなり国際社会を恐怖の淵に陥れた「イスラーム国」とは何なのだろうか。シリアやイラクの一部で、反政府勢力の一つとして小規模なゲリラ活動をしていたに過ぎないと見過ごされていた「イスラーム国」が、なぜ、世界を震えあがらせるようなモンスターへと成長してしまったのだろうか。

 「イスラーム国」の前身は、本書六章で詳しく述べられているように、イラク西部で反米・反政府活動を繰り広げてきた、ジハード主義(武力による聖戦)を掲げるイスラーム主義武装組織であった。そもそもイラクでこういった組織が出現した背景には、この地域に住むイラクのスンナ派住民がイラク戦争後、政治中枢から排除され、不利益を被ったことがある。当時イラクの戦後復興を担っていた駐留米軍や、アメリカに任命された亡命イラク人を中心とする政治家たちは、前政権の影響力を根絶やしにするために、前政権を支えていたのはスンナ派社会だと見なして徹底的な掃討作戦を展開した。西部のアンバール県では、こうした措置に抵抗するための反政府組織が次々につくられたが、慣れないゲリラ活動に、外国からの戦闘員に協力を仰いだ。イラク戦争は、アラブ、イスラーム世界のみならず世界各地の「反米」意識を駆り立てていたので、イラクに駐留する米軍を攻撃対象として、シリア、サウジアラビアなどから多くの戦闘員が入り込んだのである。

 こうしてイラクで反米抵抗運動として生まれた「イスラーム国」の前身組織は、しかし、2008年には多くが掃討された。その結果、彼らの多くはイラクを離れ、周辺国に逃げ込んだ。それが再びイラクに舞い戻るまでに「成長」したのは、第五章で見るように、逃げのびた先のシリアで「内戦」が起きたからである。

 2010年末から11年にかけて、多くのアラブ諸国では「アラブの春」と呼ばれた一連の民衆による反政府運動が起きた。最初にチュニジアで、大規模な民衆デモの繰り返しが当時のベン・アリー政権の崩壊をもたらすと、その勢いは瞬く間に他のアラブ諸国にも波及した。エジプトでは20111月末から首都カイロで100万を超える民衆が集まり、ムバーラク大統領退陣を呼びかけた結果、30年間にわたるムバーラク政権は終焉を余儀なくされた。リビア、イエメン、バハレーンなどでも同様の大規模民衆でもが発生し、前者二ヵ国では一応の政権交代が実現した。

 長期独裁政権に終止符を打つ「アラブの春」の勢いはシリアにも及び、20113月、ヨルダンとの国境にあるダラアという町で、反政府デモが発生した。最初は平和裏のデモ行動だったが、シリア軍による容赦ない鎮圧行動や内外のさまざまなな勢力が介入したことによって、シリアでの反政府活動は錯綜し、政府との対決は内戦と化して、シリア全土が混乱に陥った。「イラクとシャームのイスラーム国」が成立したのはこのような環境の下でのことであり、内戦で発生した権力の空白につけ込むような形で、「イスラーム国」は拠点を築いていったのである。


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