敗戦後の、東北の一寒村で繰り広げられる光景が、東日本大震災を経験
した現在の心象に、オーバーラップし響いてきます。
“ 「おばこ来たかやと・・たんぼのはんずれまで、出てみたば・・」
清江の歌が聞こえてきた。
「おばこ来もせず、用のない、 たんばこ売りなど、ふれて来る。」
夜半のしんとした冷気にふさわしい、透明な品のある歌声だった。
それも初めは、良人を慰めるつもりだったのも、いつか、若い日の
自分の姿を思い描く哀調を、つと立たしめた、臆する色のない、澄み
冴えた歌声に変った。私は聞いていて、自分と参右衛門と落伍してい
るのに代って、清江がひとりきりりと立ち、自分らの時代を見事に背
負った舞い姿で、押し寄せる若さの群れにうちむかってくれている
ように思われた。 ” (『夜の靴』)
隣家の祝儀の宴を終えて、杉戸一枚隔てた寝室に這入った夫婦、夫から
促され妻が歌い始めます。しーんとした家の中に、「庄内おばこ節」の旋
律だけが聴こえています。
もちろん、実際に清江が、若き日を思い浮かべていたとか、自分らの時
代を見事に背負っているということがポイントなのではなく、そのように
受け止める、私(作家)の感性こそが大切なのです。
横光が住んだ山口集落と荒倉山です。
山口公民館にある、ピカピカ過ぎる文学碑(写真に撮りにくい)
駅前から続くまっすぐな道
正面は荒倉山と鞍越峠
昔泥々の道も今は舗装
駅前の「白土工場」は今も変わらず
水澤化学の工場
羽前水沢の駅
横光はここから帰京した2年後に50歳で亡くなっています。
私たちは、『フラガール』でも、『釣りバカ日誌』でも、福山でもAKB
でも、なんでも自由きままに選ぶことはできるわけです。
けれども、最初に云ったように、敗戦後と震災後の状況がオーバーラ
ップするような感覚の中で、その喪失感に対置するものとして、小説家
横光利一の世界があるということです。少なくとも・・・。
(講談社学芸文庫)