夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

中野七福神

2024-01-18 10:32:01 | 七福神めぐり

沼袋駅近くの中野沼袋氷川神社に中野区唯一の七福神、中野七福神が祀られている事を知り出かけてみた。西武新宿線の沼袋駅の北口から東に向かい、線路沿いに進むと左側に中野沼袋氷川神社がある。先ずは中野沼袋氷川神社を参詣。神社は南北朝時代に始まると伝えられ、現在の御祭神は須佐之男命である。新編武蔵風土記稿の中野村の項に氷川社とあるのがこの神社に該当するのだろう。中野七福神は氷川神社の境内の南西側にあり、平成21年に奉斎されたという。毘沙門天、弁財天、大黒天、恵比寿神、そして、布袋尊、福禄寿、寿老人にお参りして外に出る。

線路沿いに東に向かって歩いて行くと妙正寺川に出る。ここからは左岸または右岸を北に向かって歩く。江古田橋まで来たら川から離れて北に向かい、新青梅街道に出て交差点を渡り北側の歩道で西に向かう。坂を上がり交番を過ぎると右手に歴史民俗資料館があり、2月11日まで「七人の福神たち」というタイトルで七福神の館蔵品展(無料)を開催中だったので入ってみた。この後、新青梅街道を西に少し行き沼袋の交差点で左に折れ、坂を下れば沼袋駅に出る。

 

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武蔵野吉祥七福神

2014-01-15 19:36:24 | 七福神めぐり

 武蔵野吉祥七福神が開設された7年ほど前に、武蔵境駅を起点に吉祥寺駅まで、このコースを歩いたことがある。その時は、神社に長い行列が出来ていたため、遥拝で済ませた記憶があるが、今回は参拝客が少ない時期を見計らって、吉祥寺駅を起点に武蔵境駅まで、六ヶ所の札所を歩いてみた。距離は9kmほど。コースは、吉祥寺駅~大盛寺・井の頭弁財天(弁財天)~武蔵野八幡宮(大国)~安養寺(布袋)~大法寺(福禄寿)~延命寺(毘沙門、寿老人)~杵築大社(恵比寿)~武蔵境駅である。

 吉祥寺駅から続く人込みをすり抜け、井の頭弁財天に向かう。玉川上水を渡って黒門を通り大盛寺から下る、江戸時代からの参詣道を歩いてみようかとも思ったが、日の短さに気づき、あっさり却下。参詣もそこそこに、井の頭公園を後にし、駅周辺の雑踏に戻る。外来者によって混雑しているこの有様を、地元の人はどう思っているのだろう。

 吉祥寺通りを北に向かうと五日市街道に出る。街道の両側には武蔵野八幡宮のほか、4ケ寺が集まり四軒寺町を形成している。明暦の大火のあと、吉祥寺門前町からの移住者により吉祥寺村が開かれた時、これらの寺社は、この地に創建されたか、他から移されたのだろう。交差点を渡り武蔵野八幡宮を参拝。七福神のうち大黒天はインドのシヴァ神に由来するが、やがて、音読みの同じ大国主命にすり替わる。寺院では大黒を、神社では大国を祭ることが多いそうで、この八幡宮でも大国を祭っている。

 八幡宮の東隣が安養寺である。この寺の開基についての説明は、寛政重修諸家譜に照らしてみると気になる点もあるのだが、遠い昔のことゆえ、分からぬ事もあるのだろう。安養寺を出て東側の細い道を北に進み、左に曲がって、次の角を右に行くと車道に出る。右側の信号で渡り、北に向かって進めば、左側に大法寺がある。

 大法寺の前の道を西に行き吉祥寺通りに出る。ここから八幡宮まで戻り五日市街道を西に向かうのが分かりやすくて良いのだが、道幅の割に交通量の多い街道筋を歩きたくないので、今回は別の道をたどる。吉祥寺通りを渡って西に向かい、月見小路に突き当たって右に折れ、直ぐ先の角を左折、吉祥寺ホームを過ぎて坂を下り、工事中の雨水貯留施設の横を通る。この付近は窪地になっているらしく、浸水対策が必要ということらしい。その先、青葉小路に突き当たって左に折れ、成蹊東門通りを右に、東門の前を左に行く。五日市街道に出て右に行き、歩道橋の先を右に入って、成蹊大学の正門の前を左に折れる。けやき並木の道は右に曲がっていくが、曲がり終えたところで左の道に入り、西に向かう。

 道は歩きやすくはあるが、西へ西へと進むばかりで、少々退屈になってくる。ようやく中央通り。緑町の信号を渡って、コンビニの左側の道をさらに西に向かう。やがて、右の方に、中島飛行機の製作所跡に作られた武蔵野中央公園が見えてくる。公園に入ってみたい気もするが、先を急ぐゆえ、割愛。左側には延命寺通りの標識があり、この道に入って南に向かうと、延命寺の横を通って五日市街道に出る。右に行けば延命寺の入口。延命寺は毘沙門天と寿老人を祭っているので、ここ迄で六福神となる。

 延命寺を出て南側の歩道で五日市街道を西に向かう。少々歩いたところで、左側に遊歩道を見出す。道の名はグリーンパーク遊歩道。戦後、中島飛行機の跡地に開設した東京スタジアム・グリーンパーク野球場と三鷹駅とを結ぶ国鉄武蔵野競技場線の跡という。この道を南に向かうと、池のある関前公園となり、その先で伏見通りに出る。遊歩道の続きを歩き、井の頭通りを越えると、都市計画道路(調布保谷線)の先の区間が開通したらしく、開放的な風景が広がっている。明るくなった境浄水場を右手に見ながら、遊歩道のような歩道を歩き、鉄道橋の跡に架けられた“ぎんなん橋”で玉川上水を渡る。ここから先の歩道は堀合遊歩道と名を変えるが、武蔵野競技場線の跡である事に変わりはない。二つ目の信号で右に行くと、もう一つ遊歩道がある。砂などを運ぶために武蔵境駅と境浄水場の間に敷設された引込線の跡で、戦時中、この引込線の一部を利用して中島飛行機までの線路が敷設されたが、戦後はもとの引込線に戻り、今は本村公園という名の遊歩道になっている。この遊歩道を左に進む。

 本村公園はすぐ終わりとなるが、その先、武蔵境駅方向に道が続いている。この道を進み、信号を左にJRのガードを潜る。右に行けば武蔵境駅だが、直進して杵築大社の前に出る。参拝を終えて今回の七福神めぐりは無事終了。境内には明治時代に築かれた富士塚もあるが、今回はパス。この分なら、明るいうちに帰れそうだ。

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東海七福神

2012-01-08 10:56:00 | 七福神めぐり

 東海七福神は、旧東海道品川宿近辺の社寺をめぐるもので、旧東海道散歩を兼ねて歩けば、見どころの多いコースにもなる。コースは、品川神社(大黒天)~養願寺(布袋尊)~一心寺(寿老人)~荏原神社(恵比寿神)~品川寺ホンセンジ(毘沙門天)~天祖諏訪神社(福禄寿)~磐井神社(弁財天)である。

 品川駅の高輪口を起点に、第一京浜に沿って南に向かう。江戸時代なら海岸沿いの景色の良い道であったのだろうが、今は交通量の多い国道沿いゆえ、歩くのは煩わしくもある。それも少しの辛抱で、間もなく八つ山橋に出る。八つ山は谷山とも書き、品川宿の入口近くの小山だったが、お台場を築くために削られ、今は跡形もない。

 八つ山橋を渡って京浜急行の踏切を過ぎると、旧東海道が江戸時代の道幅のままで現れる。この道は、八つ山口から鈴が森口までの3.8kmの間、そのままの幅で続いており、江戸時代のことを思い浮かべながら歩くには好もしい道である。

 以前、品川宿を散歩したとき、問答河岸の標柱があり、近くに説明板のようなものがあったが、汚れていて読めなかった事がある。その内容だが、品川宿の入口にあった荷揚げ場が、三代将軍家光と沢庵禅師の問答に因んで、問答河岸と呼ばれていたという事であったらしい。この標柱の少し先に、相模屋という旅籠があったという。品川宿は北から順に、徒歩新宿、北品川宿、南品川宿で構成されていたが、このうちの徒歩新宿(かちしんじゅく)は、徒歩人足を出すことを条件に新たに設けられた宿場で、相模屋があったのは、この徒歩新宿である。相模屋は旅籠とはいえ実際は妓楼で、外壁が土蔵のようであったため土蔵相模と呼ばれていた。相模屋は、水戸の浪士や勤皇の志士も利用したとされ、幕末の歴史の舞台ともなった場所である。広重の名所江戸百景の中に「月の岬」と題する風景版画があるが、この版画も相模屋を描いたものという。広重は八つ山が月の岬と考えていたようだが、通説では、月の岬は三田の聖坂の上にあったとされ、江戸名所図会でも聖坂の上としている。

 旧東海道の途中から左に坂を下って北品川橋に行く。橋の近辺は船溜まりになっていて、古いものと新しいものが混在する面白い風景が見られる。現在の目黒川の下流は直線的に流れているが、昔は品川橋の下流から大きく北に曲がっていて、その河口に当たるのが、この船溜まりの辺りであったらしい。川の東側には洲崎と呼ばれる岬が北にのびていて、突端に洲崎弁天が祭られていた。広重の名所江戸百景の中の「品川すさき」に描かれているのは、この洲崎弁天である。この弁天社を継いだのが、現在の利田神社で、その境内には、陸に上がった迷い鯨の供養塚、鯨塚がある。

 ペリーの来航により脅威を感じた江戸幕府は湾内各所に台場を築いたが、その一つである御殿山下台場は、洲崎の東側に陸続きで築かれていた。現在、その記念碑が台場小学校の前に設置されている。この記念碑には、明治時代に設置された品川灯台のミニチュアが置かれているが、江戸時代の台場には、むろん、大砲が据え付けられていた。なお、台場小学校の周辺道路を地図で見ると、五角形の台場の形になっている。

 旧東海道から、善福寺と法禅寺の間を抜けて品川神社に行く道は、江戸時代からの道でもある。江戸時代、品川神社は、北品川の鎮守でもあったので、北の天王社と呼ばれていた。現在は、東海七福神の一、大黒天を祭る神社でもある。石段の左手には富士塚があるが、明治になって築かれたものという。

 品川神社から国道を渡り京急の下をくぐる。その先、正徳寺の手前の細い道を入る。行き止まりになりそうな道だが、江戸時代からの道で、そのまま進めば養願寺の境内に出る。この寺は虚空蔵菩薩を祭るほか、東海七福神の一、布袋尊を祭っている。

 養願寺の向かいにあるのが、東海七福神の一、寿老人を祭る一心寺である。この寺は幕末に地元の人の寄進により建てられた、比較的新しい寺である。一心寺で参拝を済ませ、また旧東海道を歩く。この辺りからは北品川宿となる。先に進むと左手に聖跡公園がある。本陣の跡という。さらに進むと、目黒川に架かる品川橋に出る。この橋は、北品川と南品川の境界にあったので、昔は境橋あるいは中橋と呼ばれていた。

 品川橋の手前を右に行くと荏原神社に出る。東海七福神の一、恵比寿神を祭る神社である。この神社は、江戸時代、貴船社とも呼ばれていたが、南品川の鎮守であったため、南の天王で通っていた。昔の目黒川は、北に蛇行して荏原神社の北側を流れていた。つまり、この神社は目黒川の南側、南品川側にあったのだが、川が直線的な水路に改修された結果、今では目黒川の北側に位置することとなった。

 旧東海道をさらに進むと右側に天妙国寺がある。南品川宿はこの辺までで、ここから先は門前町になる。この先、青物横丁駅に通じるプラタナスの並木という道路に出る。江戸時代、この道は池上道と呼ばれ、池上本門寺への参詣道であったが、古代の東海道の道筋とも考えられている。この道路を渡った少し先に、江戸六地蔵の一つを祭る品川寺がある。品川寺は、東海七福神の一、毘沙門天を祭っている。

 品川寺の隣にある海雲寺は荒神様で知られ、千躰荒神祭は参詣客で混雑する。その隣にあった海晏寺は、広い敷地を有し紅葉の名所でもあったが、鉄道と国道に分断されて、今の敷地は国道の西側だけになっている。ここから先も、旧東海道は歩きやすい道が続き、やがて、立会川に出る。橋を渡って右に行くと、東海七福神の一、福禄寿を祭る天祖諏訪神社に出る。立会川の北側の諏訪神社と南側の神明社を合祀した神社という。先に進むと鈴が森の刑場跡があり、その先で旧東海道は国道と合流する。江戸時代の東海道は、現在の国道の道筋に相当するが、当時は海岸沿いの道であった。

 国道沿いに歩いて大森海岸駅の先にある磐井神社に行く。この神社は東海七福神の弁財天を祭っており、今回の七福神めぐりでは最後の場所となる。江戸時代の磐井神社は鈴森八幡宮と称していたが、総社磐井神社とも称していたという。平安時代に編纂された延喜式の神名帳には、武蔵国荏原郡に磐井神社の名が記されており、現在の磐井神社がこれに該当すると考えられている。ところで、古代の東海道は現在の大森駅の西側を通っていたとする説があり、大森駅西口の前を通る八景坂の下は、昔、海だったという伝承もある。これが事実だとすると、古代の東海道は現在の磐井神社の社地からやや離れた台地上を通っていたことになり、かつ、現在の磐井神社の近辺は海だった可能性がある。平安時代の磐井神社が、島の上に鎮座していたかどうかは分からないが、鈴ケ森の地は笠島と呼ばれていたので、ひょっとすると、鈴ケ森の場所は笠の形をした浮洲のような島だったかも知れない。万葉集の「草陰の荒藺の崎の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ」という歌において、荒藺を八景坂の南にあった新井宿とする説があるが、鈴ケ森が笠島だったとすると、この歌とも符合する。ただし、歌枕の地である笠島は、宮城県の名取市とするのが通説のようなので、あまり当てにならない話ではあるが。

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板橋七福神

2012-01-02 10:54:35 | 七福神めぐり

 板橋七福神の一枚刷りの説明(「光明」第六十二号より)には、彫金こと田中金太郎という彫師が、昭和11年に白木造りの七福神を彫り、板橋区南町の西光院に奉納したこと、その後、この七福神は近隣の真言宗豊山派の寺に一体づつ分けられた事が記されている。この七体の七福神を巡拝するのが、板橋七福神ということになる。対象となる寺院は板橋区と練馬区にまたがって各地に点在しており、歩くだけなら半日で回れないこともないが、七福神めぐりとしては距離が長いので、ウオーキングの積りで回った方がよさそうである。七福神像の御開帳は元旦から7日までだが、今回は、御開帳の期間外であっても楽しめるよう、江戸時代の道の探訪を兼ねた、寺院めぐりウオーキングコースとして考えてみた。

(1)西光院(板橋区南町31-1)

 板橋七福神には、決められた参拝順序が無いので、今回は、発端となった西光院から始めることにした。最寄駅は東上線の大山駅か、有楽町線の千川駅である。千川駅からだと、2番出口を出て、つるかめランド(ジョナサン)の角を曲がり、東に向かって20分ほど歩けば西光院に達する。寺の創建は江戸時代初期とされ、本尊は阿弥陀如来。七福神は大黒天を祭っている。現在の住所は、板橋区南町だが、江戸時代は豊島郡中丸村に属していた。
 西光院を出て左に行き、南町の交差点を渡って直進。川越街道を渡って最初の角を右に行き、高速道路の下の山手通りを渡る。その先、暗渠化された谷端(ヤバタ)川の上に作られた緑道に出る。橋の名は中丸橋である。西光院から中丸橋までの道は、御府内沿革図附図にも記載されている江戸時代からの道であり、谷端川までは中丸村の範囲になっていた。谷端川は、千川駅近くの淡島神社の弁天池を水源とし、千川上水からの助水を受けて南に流れ、椎名町駅の南側を回り込んで北に流れ、その後、下板橋駅の北側を回り込んで大塚駅方面に流れ、下流は水道橋駅付近で神田川に流れ込む川である。谷端川沿いには、大正時代に入っても田圃が残っていたが、昭和に入ると次第に、宅地化・都市化が進むことになった。
 谷端川を渡ると、現在の池袋本町、江戸時代の池袋村となる。渡ってすぐ、細い道に突き当たる。池袋村絵図にも記された江戸時代からの道で、右にいくと重林寺に出る。左に行くとすぐ、子育地蔵の祠がある。雑司ヶ谷と小石川の分岐点にあった地蔵を再建したものという。祠の横の細い道に入ると、少し先で、緩やかな坂の途中に出る。今は何の変哲もない道だが、江戸時代から、中山道や川越街道に出る便道としてよく利用された道であり、伊能忠敬の江戸府内図に記載されている道でもある。この道を右に行くと、雑司ヶ谷への道と、現・春日通りの道筋を通る小石川への道に分かれる。今回は、この道を左に行くが、少し先で再び谷端川跡の緑道に出る。橋の名は西前橋である。
 西前橋を渡った先は、現在の大山金井町、江戸時代の金井窪村となる。東上線の踏切を渡り、子易神社、宗仙寺を過ぎると、間もなく高速道路下の四ツ又の交差点に出る。ここは、江戸時代から、川越街道(旧)と交差する四つ角だった場所である。ここを左に行くと川越街道(旧)の上板橋宿に出る。今回は右に行き現在の中山道に出る。少し先に板橋郵便局があるが、その手前を右斜め前方に入る道は、千川上水の流路跡である。

 (2)観明寺(板橋区板橋3-25-1)

  板橋宿は、平尾宿、仲宿、上宿に分かれている。日本橋に近いのは平尾宿で、宿場町はJR板橋駅近くから始まっていたが、今は現・中山道によって分断されている。板橋郵便局の先で現中山道を渡り、左の板橋宿に入って、少し先の観明寺に行く。寺は室町時代初めの創建と伝えられる。本尊は正観音。七福神は恵比寿を祭る。観明寺の門は、近くにあった加賀藩下屋敷の通用門を移築したものという。下板橋宿絵図を見ると、平尾宿と仲宿の裏手、石神井川沿いの土地を加賀藩下屋敷が占有していたのが分かる。広さは22万坪。石神井川も屋敷内を流れていた。
 観明寺を出て先に進むと、王子新道の表示がある四つ角に出る。右に行く道が、明治になって開かれた王子新道で、左の道は、小石川や雑司ヶ谷から池袋、金井窪を経て、四ツ又を直進してきた道である。

(3)文殊院(板橋区仲宿28-5)

 王子新道の四つ角を過ぎて仲宿を歩いていくと、右手に遍照寺がある。左手には乗蓮寺という格式のある寺があったが、今は赤塚に移転して東京大仏で知られる寺になっている。下板橋宿絵図には乗蓮寺の北側を西に入る道が記されている。この道は旧川越街道に出ていたが今は途中で切れている。さらに進んで板橋宿の本陣があったというライフの横を入ると、本陣飯田家の菩提寺であった文殊院に出る。本尊は文殊菩薩。七福神は毘沙門天を祭る。文殊院の前の道は、お成り道と呼ばれており、将軍が鷹狩をする際に通ったとされているが、「いたばしの古道」には、大蛇がうなり声をあげたので「うなり橋」と呼んだという説も紹介されている。
 文殊院から戻って旧中山道を越え西に行き、現中山道を渡ると、右手に氷川神社がある。その前の道、豊島病院通りを西へ進む。この道は、下板橋宿絵図にも記載された江戸時代からの道である。この絵図には、下板橋宿の手前に設けた千川上水の洗堰から、使用しない水(悪水)を石神井川に落とす水路が記されており、西に行く道はその上を渡るようになっていたが、今は、この水路も暗渠化されている。下板橋宿(板橋宿)から西に行くと上板橋村に出る。ここからは、明治13年の迅速測図や明治以降の村絵図などをもとに、江戸時代の道を探しながら先に進む。

(4)長命寺(板橋区東山町48-5)

 豊島病院通りを先に進み、豊島病院の前を過ぎ、東上線のガードをくぐる。その先、仲町の交差点に出たら、ここを左に行く。この道は、一説に鎌倉街道の西回りの中道とされる道であり、そのまま進むと現川越街道に出る。ここは、旧川越街道と現川越街道との接点となる場所である。また、清戸道すなわち現在の目白通りから、椎名町駅近くの長崎神社の横を通って北上する江戸時代からの道も、この辺りで旧川越街道に合流していた。今回はショートカットして、轡神社角を右に行く。突き当たった先は、旧川越街道の上板橋宿である。
 上板橋宿は川越街道の一番目の宿場で、江戸に近い側から、下宿、中宿、上宿に分かれていた。宿場の規模が小さかったので、本陣などは置かず名主宅がその代わりをつとめていたという。今は宿場の雰囲気こそ無いが、どこか懐かしい商店街が続く道である。途中の稲荷社に掲示されている上板橋宿の略図からすると、稲荷社の辺りが中宿で、中板橋駅入口の交差点から先が上宿であったらしい。上宿の道は緩やかな下りとなって石神井川に出るが、その途中、左に入る道は薬師道と呼ばれ、新井薬師への参詣道である。石神井川に架かる下頭橋を渡ると道は二つに分かれる。旧川越街道は、左側の道である。この道をたどると交通量の多い交差点に出る。川越街道と環七通りを渡り、交差点の角の長命寺に行く。
 長命寺の創建は江戸時代前期。江戸時代は上板橋村に属していた。寺の周辺は豊島氏庶流という板橋氏の居城跡の候補地ともいう。七福神は福禄寿を祭っている。なお、上板橋宿絵図によると、下頭橋と長命寺の間で旧川越街道は用水路を渡っていた。この用水路は、あげ堀と呼ばれていた水路で、上板橋宿絵図には石神井川に戻されるまでの水路が記載されているが、今は、この水路も暗渠になっている。

(5)安養院(板橋区東新町2-30-23)

 長命寺を出て川越街道を左に行き、最初の角を左に入る道は、迅速測図に記載された旧道で、おそらく江戸時代からの道と思われる。この道は、上板橋小を過ぎ、二つ目の四つ角を左に折れ、次の角を右に折れて、突き当って左に行けば安養院に出られる道だが、分かりにくいので、今回は、長命寺を出て環七を右に少し歩き、右斜め方向に入る道を選ぶ。この道は、明治34年の上板橋村略図に記載されている道で、氷川神社の前を通って安養院の前に出る道である。安養院は鎌倉中期の創建とされ、本尊は阿弥陀如来。江戸時代は上板橋村に属していた。七福神は弁財天を祭る。
 迅速測図や上板橋村略図には、あげ堀の水路も記載されている。詳細は「練馬の歴史と文化財」の田柄用水の記事に譲るが、あげ堀というのは、石神井川から取水して水位を上げた用水のことで、現・光が丘方面から流れてきた田柄川の下流と安養院付近で交差し、氷川神社の前を通って長命寺方向に流れていた。この用水は灌漑用で、安養院の南側の石神井川沿いは水田が続く土地であったが、今は様変わりしている。
 安養院を出て石神井川を台橋で渡る。次の信号で、左前方に行く道を上がり、環七通りを渡る。その先、左前方に行く道を上がって下ると整肢療護園の信号に出る。台橋からここまでの道は、明治以前の道とは異なる道である。ここから先の道は大谷道と呼ばれ、川越街道の間道として江戸時代から利用されていた道であったらしい。

(6)西光寺(板橋区大谷口2-8-7)

 整肢療護園の信号から先、坂を下る。今は田圃も小川も姿を消しているが、付近一帯は昭和30年代頃まで田圃だった場所で、えんが堀と呼ばれる水路が石神井川に流れ込んでいた。えんが堀というのは妙な名だが、「いたばしの地名」には、小河川を表す江川から来たとする説と、排水路(悪水路)の呼び名という説が紹介されている。個人的には排水路説を支持するが、この種の地名の由来は判然としない事が多いようである。なお、地形的にみれば、板橋七福神の能満寺の近くから流れてきた自然河川が、そのまま石神井川に流れ込んでいたのが本来の姿で、後に灌漑用水路または排水路として下流部を整備したのが、えんが堀と思われる。
 さて、道を先に進むと上り坂となる。その手前に、北豊島郡誌記載の向原の溜池を水源とする小川が流れていたらしいが、今はその姿を見る事が出来ない。道を先に進み、坂を上がると西光寺の看板がある。入口を示す矢印に従って右に折れ、次の角を左に曲がって、西光寺の門前に出る。西光寺の本尊は正観音。江戸時代、寺は上板橋村に属していた。七福神は布袋尊である。
 西光寺の門前の道を南へ歩いて行くと、大谷口給水所前のT字路からくる道に出るが、今回は少し寄り道をする。西光寺裏手の大谷道、今の大谷口中央通りに出て、大谷口給水所前のT字路に出る。目の前には、大谷口水道タンク跡に建てられた給水所の塔が聳えている。T字路のすぐ先を左に入り、大谷口上町公園に行く。公園の西側は深い谷になっている。上板橋村略図には、この谷底にあったとされる池が記され、この池からの流れが、向原の溜池からの流れと合流して石神井川に流れ込む水路が記載されている。この池は、北豊島郡誌に記載されている大谷口の溜池と思われる。池の広さは1396坪あったという。上板橋村略図には、大谷口上町公園の横を通る道も記載されている。この道は、上板橋宿の上宿から来る薬師道であろう。なお、T字路から大谷道を東に行くと川越街道(旧)に出る。その先に続く道は、下板橋宿の乗蓮寺の横に出る道であったが、今は、都養育園付近で道が途切れてしまっている。

(7)能満寺(練馬区旭丘2-15-3)

 大谷口給水所前のT字路から南に行く。この道筋は、鎌倉街道の中道に相当するという説もあり、東側には旧道と思われる道が一部残っている。先に進むと右側の土地が低くなっている事に気付く。向原の溜池は道の右側の谷底にあったらしい。さらに進むと七差路に出る。そのまま進めば、千川駅からも近い要町三の交差点に出る。その先を直進する道は、千川上水路跡に沿って西武池袋線を越え、中野通りにつながって新井薬師方面に向かう道である。今回は、七差路で右に行く道を進む。この道は迅速測図に記載されている道であり、おそらく江戸時代からの道と思われる。少し先で広い道(441号)を渡って直進し、豊島高を過ぎると、道は下りとなる。下りきった辺りは、昭和30年頃まで水田地帯だった場所である。ここを流れていたのは、能満寺近くを流れていた小川と、現・千早高付近を源流とし千川上水の築樋と立体交差していた小川とが合流した川であったと思われる。大正6年の上板橋村略図によると、この川は北に流れて、北豊島郡誌に小竹の溜池として記されている、江古田駅北口の浅間神社の裏手にあった御手洗池から流れ出た小川を合わせ、さらに、武蔵野病院近くにあったと思われる毛呂の池からの小川も合わせ、北流して石神井川に落ちていた。その下流が、えんが堀である。
 道を先に進み、坂を上って旭丘中の角を左に入ると能満寺の横に出る。さらに進んで右に折れると、能満寺の入口がある。その参道は、近辺が農村だった頃の懐かしい雰囲気を残している。能満寺は江戸時代の初めの創建と伝えられる。夏に雪が降って景色が良いことから堂宇を建てたという由緒から、夏雪山の山号を持つ。本尊は不動明王。七福神は寿老人を祭る。能満寺は、多摩郡江古田村の住人により開発されたことから江古田新田と呼ばれていた地域にあり、江戸時代は、長命寺、安養院、西光寺とともに上板橋村に属していた。その後、能満寺は板橋区に属するようになるが、板橋区と練馬区が分かれたため、現在の所在地は練馬区になっている。
   
 能満寺の近辺は昭和30年頃まで水田があった場所である。湧水がどの程度あったかは分からないが、千川上水からの分水もあったらしく、南側の千川上水跡から区境に沿って分水路の跡と思われるものが確認されているという。この分水は明治16年頃の千川上水路図には記載されていないが、少なくとも西武鉄道の前身である武蔵野鉄道が開業した大正4年以前に分水されたと思われる。千川上水が西武池袋線の線路を越える場所からも分水があったとされるが、もともと踏切の辺りが湧水地であった可能性もある。なお、明治以降も千川家による水路の見回りは行われており、水利組合も結成されていたようなのので、勝手に分水したわけではないのだろう。
 能満寺の最寄り駅は西武池袋線の江古田駅である。能満寺を出て右に行き、変電所の前を右に折れ、旭丘小を過ぎ、日大芸術学部の裏手を歩いていけば、江古田駅に出られる。今回のコースは、今でこそ緑の少ないルートになっているが、昭和30年代までは、田畑があちこちに残り、小川も流れている、緑豊な郊外の道を歩くコースであったろう。

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番外・雑司が谷七福神めぐり

2011-01-06 19:16:49 | 七福神めぐり

 2011年、都電荒川線の沿線に七福神めぐりが新登場した。雑司ヶ谷七福神がそれである。そこで、雑司ヶ谷七福神をめぐる、鬼子母神前~都電雑司ヶ谷~東池袋四丁目のルートを歩いてみることにした。


(1)鬼子母神(豊島区雑司が谷3-15-20)「大黒天」
 今回の七福神めぐりの起点は都電の鬼子母神前の停留所である。踏切を通る道は江戸時代からの鬼子母神道で、ここを西北に行くと直ぐ右側に欅並木の鬼子母神の参道がある。江戸時代、この参道の両側には料亭や茶屋が軒を連ねていたといい、中でも参道入口近くにあった茗荷屋は有名で、広重が江戸高名会亭尽の一つとして描くほどであった。参道を進んで行くと右側に、蝶屋という料亭の跡に建っていた五軒長屋を改修した並木ハウス・アネックスがあり、中に雑司が谷案内処が設けられている。裏手には手塚治虫が住んでいた並木ハウスも健在である。雑司ヶ谷案内処では、雑司ヶ谷七福神のマップ入りパンフレットを配布しており、色紙も販売している。参道をさらに進み、突き当りを左に折れた先が鬼子母神である。なお、右に行く道は江戸時代からの鬼子母神道の一つで、本納寺、清立院を経て護国寺に出る道である。
 
 正月三が日は鬼子母神の参詣者が長い列を作っている。七福神詣でをする際は、ここでかなりの時間を費やしたあと、大黒天を参拝することになる。鬼子母神堂の由来は、清土という場所で掘り出された鬼子母神像を法明寺内の東陽坊(大行院。現在は無い)が預かり、後になって、稲荷の森に堂を建てて像を祀ったのが始まりとされる。鬼子母神像は天保の頃まで御開帳もあったようだが、今は秘仏として厨子に納められたままになっている。秘仏の身代わりとなる前立ち本尊は天女形のようだが、遊歴雑記では鬼子母神像に角があったとしており、本当のところは分からない。稲荷の森の稲荷とは鬼子母神境内の武芳稲荷のことだが、この稲荷の鳥居の近くにあるのが、創業1781年の上川口屋という駄菓子屋である。鬼子母神境内には、元禄の頃に始まり正徳の頃に飴を売り出して評判になった川口屋があったが、この店もその伝統を継承している店のようで、近くを流れる弦巻川に因んだ鶴丸の紋を用いている。

 最近になって境内に建てられた大黒堂は、羽二重餅本舗により復活した「おせん団子」を売る店だが、残念ながら営業日は限られている。雑司ヶ谷七福神の対象となる大黒天は、この店内に祭られており、雑司ヶ谷七福神のパンフレットには、鬼子母神の夫神と記されている。江戸名所図会では、本殿に鬼子母神像、相殿に夫神の円満具足天と子の十羅刹女と記しているが、ほかに、鬼子母神の傍らに大黒天も祭られていたという話もあり、また、当初の大黒天は陶製であったが、明治の末頃に木彫りの像が納められたという説もあって、実態はよくわからない。

(2)観静院(豊島区南池袋3-5-7)「弁財天」

 鬼子母神堂から北に行く道は二つあり、左の道は法明寺に、右斜め方向に行く道は大行院の跡地に出るが、何れも江戸時代からの道である。法明寺の前の道は丸池を水源とする川の跡で、上流部を布引川、下流部を弦巻川と呼んだ。この小川を渡った先に法明寺の仁王門があったが、戦災で焼失して現在は無い。法明寺の支院である観静院は右側にあり、院の中に入ると左手に石に彫られた弁財天がある。

(3)大鳥神社(豊島区雑司が谷3-20-14)「恵比寿神」

 弦巻川跡の道を東に行くと大鳥神社に出る。この神社の前身は鬼子母神境内にあった鷺大明神だが、明治の神仏分離により、耕向亭という料亭の跡地である現在地に大鳥神社として移されている。鷺大明神は疱瘡除けの神であるが、神像が仏教系の像であったため鬼子母神に残され、大鳥神社には移されていない。境内には真新しい恵比寿神の祠が祭られているが、大鳥神社が創始された時に恵比寿神も合祀していたという事があったからという。この大鳥神社は酉の市でも知られている。酉の市は足立区花畑の大鷲神社が始めたものだが、今では各地で開催されている。

(4)清土鬼子母神(文京区目白台2-14-9)「吉祥天」

 大鳥神社から都電の踏切を渡って弦巻通りを歩くが、次の目的地までは少々距離がある。三角寛の旧居を利用した料亭を過ぎ、菊池寛旧宅跡も通り過ぎると下り坂になる。その先、幟を目印に右側の細い道を入ると、清土鬼子母神の裏手に出るが、分かりにくい道である。清道鬼子母神の正面入口は不忍通り側にあるので、迷ったら高速道路下の小篠坂に出て右に折れ、その先の不忍通りを右に折れると良いだろう。清土鬼子母神の堂は、鬼子母神が掘り出された清土出現所にある。境内には星跡の清水と呼ばれる三角井戸があり、その右側に吉祥天の像が建てられている。雑司ヶ谷七福神では、寿老人の代わりに吉祥天を七福神の一つとしているが、寿老人と福禄寿を同一神として福禄寿で代表させ、吉祥天を代わりとすることもあるようである。なお、仏教では吉祥天を鬼子母神の娘神としている。

(5)清立院(豊島区南池袋4-25-6)「毘沙門天」

 小篠坂に出て左に行き本浄寺に出て左に折れ、寺の南側の道に入る。江戸時代の鬼子母神道に相当する道である。左手が崖になっている道を上がって行き、左から上がってくる道と合して右に曲がっていく。そのまま進み、旧宣教師館の表示がある所を右に入ると、アメリカ人宣教師マッケレーブ旧宅の雑司が谷旧宣教師館がある。もとの道を直進すると、雑司ヶ谷霊園に出る。ここを左に折れて霊園の外周の道を歩く。この道も鬼子母神道に相当し、江戸時代には、護国寺裏門から鬼子母神に出る道であった。この道を歩いて行くと御岳坂という下り坂に出るが、坂の上から清立院に入る。この寺には木彫りの毘沙門天が祭られている。

(6)中野ビル(豊島区南池袋2-12-5)「布袋尊」

 清立院の石段を下り宝城寺に沿って歩いて行き、都電のガードに出る。ここを右に行けば都電荒川線の都電雑司ヶ谷の停留所に出る。停留所から明治通りに向かって東通りを歩く。東通りは江戸時代からの道で、御鷹部屋から板橋道に出る道である。途中、墓地を過ぎた先の眼鏡店の向かい、中野ビルの前に布袋尊が祭られている。この石像は石材店に置かれていたもので、戦火を被った跡がある。

(7)仙行寺(豊島区南池袋2-20-4)「福禄寿」

 中野ビルの先の角を右に折れ、突き当って右に行くと仙行寺に出る。小石川から移ってきた寺という。堂の前には、木彫りの小さな福禄寿像が祀られている。この寺から少し歩けば池袋駅に出られるが、グリーン大通りに出て右に行けば東池袋四丁目の都電停留所に出られる。

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浅草名所七福神

2010-01-20 22:36:30 | 七福神めぐり

 浅草名所七福神は9社寺を巡るもので、寿老人と福禄寿が二か所ある、変則的な七福神巡りである。そのコース、浅草寺(大黒天)―浅草神社(恵比寿)―待乳山聖天(毘沙門天)―今戸神社(福禄寿)―不動院(布袋尊)―石浜神社(寿老人)―吉原神社(弁財天)―鷲神社(寿老人)―矢先稲荷神社(福禄寿)を、江戸の絵図で紙上散策を試みる。


(1)浅草寺(台東区浅草2-3)

 風雷神門(雷門)から浅草寺の支院の並ぶ道(現在の仲見世通り)を行く。人通りも多いが、茶店なども多い道である。しばらく行くと左手に伝法院の表門がある。正面は仁王門(現在は宝蔵門)、右手(現在は左手)には五重塔が聳えている。仁王門をくぐれば、まもなく本堂に出る(現在、本堂は改装工事中)。

(2)浅草神社(台東区浅草2-3)
 浅草寺の参拝を終えたら、東側にある三社権現(浅草神社)を参拝する。

(3)待乳山聖天(台東区浅草7-4)
 随身門(二天門)を出て山之宿町(花川戸2)で左に折れ、奥州街道を進んで聖天町(浅草7)に出る。ここで待乳山聖天を参拝する。

(4)今戸神社(台東区今戸1-3)

 聖天町で奥州街道と分かれ、山谷堀(現在は埋め立てられ緑道となる)を今戸橋(現在無し)で渡ると今戸町(今戸1)に出る。その先、左手に八幡神社(今戸神社)がある。

(5)不動院(台東区橋場2-14)
 瓦などを焼く窯が並ぶ今戸町を過ぎると橋場町となる。総泉寺(梅若所縁の寺。現在は板橋に移る)へ入る大門道を左手に見て北に向かうと、その先に砂尾の不動院がある。

(6)石浜神社(荒川区南千住3-38)
 橋場の渡し場を過ぎて、思川を渡ると真崎稲荷(石浜神社内に祀られている)があり、その先に石浜神明宮(石浜神社)がある。

(7)吉原神社(台東区千束3-20)
 石浜神社から戻り、大門道に入って総泉寺を抜け、田畑の中を進むと山谷町に出る。奥州街道を越え元吉町を過ぎると日本堤である。吉原大門から入れば新吉原で、遊郭内には稲荷社もあるが、今回は中には入らない(吉原神社は遊郭内の稲荷四社と地主神となる稲荷の五社を明治になって合祀した神社で、後に吉原弁財天も合祀している。現在は、大門から旧吉原内に入って吉原神社に行くことが出来る)。

(8)鷲神社(台東区千束3-18)
 吉原の大門の所から日本堤を右に行き、遊郭の北側を回る道をたどると、竜泉寺町に出る。大音寺の前を左に折れると、鷲神社がある(現在は、吉原神社の先を右に入る)。

(9)矢先稲荷神社(台東区松が谷2-14)
 鷲神社から南に行き、立花家の屋敷を右折し、その門前から南に行くと堀割(新堀川。現在は埋め立てられて、かっぱ橋道具街通りとなる)がある。昔、この堀割の西側に三十三間堂があり、その矢の先に稲荷社があったという(三十三間堂は焼失したため富岡八幡の近くに移転したが、稲荷社は元の土地に再建され、現在の矢先稲荷神社となる)。

(注)今回の連載にあたっては、次の資料を参考としました。「全国七福神めぐり」、「復元江戸情報地図」、「天保御江戸大絵図」ほか絵図、「江戸名所図会」、広重「名所江戸百景」、「東京名所図会」、台東区ほかの「史跡散歩」、各種ホームページ、その他。

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千寿七福神

2010-01-17 16:00:24 | 七福神めぐり

 以前の千寿七福神は、長円寺(布袋尊)、千住本氷川神社(大黒天)、勝専寺(毘沙門)、不動院(福禄寿)、千住神社(恵比寿)、源長寺(寿老人)、仲町氷川神社(弁財天)を巡るものであったが、寺に祀られていたご神体を神社に移して新たな千寿七福神がうまれた。巡拝ルートは、たとえば、仲町氷川神社(弁財天)-稲荷神社(福禄寿)―八幡神社(毘沙門)―千住神社(恵比寿)―元宿神社(寿老人)-大川町氷川神社(布袋尊)-千住本氷川神社(大黒天)となる。コースは程々の距離で歩きやすく、また、七福神の赤い幟が各所に立っているので良い目印になる。このコースを、江戸の絵図で紙上散策してみる。

(1)仲町氷川神社(足立区千住仲町48-2)

 千住大橋を渡り河原町を過ぎて掃部堤(墨堤通り)に出る。ここを右に折れて堤の上の道を歩いていくと、少し先に、田畑の中を左へ入る氷川神社への参道がある。西側の鳥居をくぐると正面が氷川神社の社殿である。左手奥には天満宮の祠があるが、関屋から移されたものという(現在の道順では、北千住駅から東京芸大の横を通り、ミリオン商店街を抜けると仲町氷川神社に出る。現在の仲町氷川神社には、弁財天の供養庚申塔が祀られており、七福神詣での対象になっている。また、関屋天満宮も境内に祀られている)。

(2)河原町稲荷神社(足立区千住河原町10-13)
 氷川神社から掃部堤の道(墨堤通り)に戻って西に行き、日光街道を横切り源長寺を右に見て、その先を左に入ると(千住宮元町の交差点を左に折れると)、堤外の耕地に稲荷社がある(社殿の横に、七福神詣での対象となる、福禄寿の石像が置かれている)。

(3)八幡神社(足立区千住宮元町3-8)
 稲荷神社を出て、掃部堤(墨堤通り)を越えて水路(現在無し)に沿って北に行くと八幡神社がある(現日光街道の東側の道を通る。ただし、現在の八幡神社は現日光街道の西側に位置している。なお、七福神詣での対象となる毘沙門天の石像は社殿の横にある)。

(4)千住神社(足立区千住宮元町24-1)

 八幡神社から北に行き熊谷堤に出て、堤の道を北西に行くと、氷川神社と稲荷神社がある(八幡神社から日光街道を北に行き、千住一の交差点で左に入り、道なりに行けば千住神社に出る。この地には稲荷神社が最初にあり、後に氷川神社が勧請されたが、二社あったことから二つ森とも称された。後に二つの神社を合祀して西森神社となり、さらに千住神社となる。境内には、七福神詣での対象となる恵比寿天の石像があり、石像を回転させてハンカチで像に触れるという、変わった願掛けが行われている)。

(5)元宿神社(足立区千住元町33-4)
 熊谷堤の道(千住神社の前の道)を北西に向かい、掃部堤(墨堤通り)と合流してさらに先に進む(千住龍田町)。堤の右手には水路(現在無し)が続いているが、この水路は、北に暫く行った所で、梅田から流れて本宿圦で戸田川(隅田川)に入る水路と交差する(水路は現在無い。元宿小入口付近)。その手前で右に入り水路を渡って北に行き、その先の水路を渡る。そのまま進めば西新井の大師堂に出るが、ここを右に折れると八幡神社(元宿神社)に出る(現在は墨堤通り沿いの右側の道を行き、元宿小入口の信号で右に入る。この付近は、鎌倉時代の街道があり、千住宿ができる前の宿場があったため元宿と呼ばれていた。現在の元宿神社の北側には荒川放水路が流れているが、江戸時代には無く、耕作地が広がっていた。元宿の集落の中心は少し北にあったが、荒川放水路の開削で耕作地もろとも消滅している。なお、七福神詣での対象となる寿老人の石像も境内に置かれている)。

(6)大川町氷川神社(足立区千住大川町12-3)
 八幡神社(元宿神社)を出て東へ行き、右に折れて流れを渡り、その先の道(千住公園の前を通る道)を東に行き、掃部堀(西掃部堀。現在は大正通り)を渡ると氷川神社に出る(荒川放水路の開削工事により、氷川神社は現在の位置に移動している。また、浅間神社にあった富士塚はこの神社の境内に移されている。なお、七福神詣での対象となる布袋尊の石像が境内に置かれている)。

(7)本氷川神社(足立区千住3-22)
 氷川神社を出て、川田堀から分かれる水路(現在無し)に沿って千住五丁目に向かい、安養院の先で右に折れ、宿場沿いの道を進んで行くと氷川神社に出る(この神社は牛場の氷川神社の分社であったが、後に牛場の氷川神社を合祀し本氷川神社を名乗る。現在の社殿は新しいものだが、七福神詣での対象となる大黒天木像は旧社殿に祀られている)。氷川神社を出て、千住宿を南に行けば千住大橋に出る(現在は、北千住駅が最寄り駅)。

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小石川七福神

2010-01-14 21:54:56 | 七福神めぐり

 小石川七福神は、平成になって提唱された新しい七福神だが、これを江戸の絵図上で、次の順路で巡拝してみた。東京ドーム(福禄寿)-源覚寺(毘沙門天)―福聚院(大黒天)―真珠院(布袋尊)―宗慶寺(寿老人)―極楽水―徳雲寺(弁財天)―深光寺(恵比寿神)。

(1)東京ドーム(文京区後楽1-3)
 水道橋を出発地として、水戸藩の屋敷の横を北に行く(小石川七福神の福禄寿は、東京ドーム敷地内の人工庭園内に新しく祀られたもので、場所的には水戸藩邸内ということになる。なお、小石川後楽園内に福禄寿が祀られていたという古記録はあるようだ)。

(2)源覚寺(文京区小石川2-23)


 水戸藩邸を過ぎて富坂への道を左折すると、小石川(有楽町線千川駅近くを水源とする谷端川の下流。現在は暗渠)に出る。ここ(富坂下交差点付近)を右に、流れに沿って北へ行くと、左手に源覚寺がある。こんにゃく閻魔でも知られた寺である。

(3)福聚院(文京区小石川3-2)
 源覚寺から北に行き、伝通院の裏門から入って坂道を上がる(源覚寺を出て次の信号を左に入り、善光寺坂を上がる。伝通院裏門は現存しない)。坂を上がったところが、伝通院の中門で、門の前に大黒天で知られた福聚院がある。

(4)真珠院(文京区小石川3-7)
 福聚院から、伝通院境内の子院が並ぶ道を少し下って行くと真珠院がある(現在は、伝通院境内ではなく、外の道を通ることになる)。

(5)宗慶寺(文京区小石川4-15)

 真珠院から道を下っていき、伝通院の門(現在は無い)を出る。門を出た先は、小石川久保町(小石川4)で、折れ曲がりの道を行くと、松平播磨守の屋敷(この屋敷の跡地を通過する道路が、現在の播磨坂である)の前に出る。ここを右に、坂(吹上坂)を下ると宗慶寺に出る。宗慶寺には、極楽水という名水があり、古くから弁財天が祭られている(現在はマンション・パークタワーの南側に極楽水の跡があり、弁財天の祠がある)。

(6)徳雲寺(文京寿小日向4-4)
 松平播磨守屋敷の前を通って大塚通り(春日通り)に出る。ここを右に折れ、御箪笥町(小日向4)で坂(藤坂)を下れば徳雲寺に出る(現在は春日通り側から入る)。

(7)深光寺(文京区小日向4-9)。
 徳雲寺から道なりに行くと、右側に深光寺がある。帰りは大塚通りを戻る(現在は、丸ノ内線茗荷谷駅が最寄り駅である)。

(注)
 以上の10コースのほか、今年になって歩いた2コースを、次回以降、追加することにしました。

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日本橋七福神

2010-01-11 20:05:38 | 七福神めぐり

 日本橋七福神は、戦後に提唱された七福神で、八社を巡るものである。以前、日本橋三越主催の七福神巡りに参加したことがあるが、今回は、日本橋を起点・終点として、江戸の絵図上を、次の順路で巡拝してみる。小網神社(福禄寿・弁財天)-茶の木神社(布袋尊)―水天宮(弁財天)-松島神社(大黒)―末広神社(毘沙門天)―笠間稲荷神社(寿老人)―椙森神社(恵比寿)―宝田恵比寿神社(恵比寿)。

(1)小網神社(中央区日本橋小網町16)
 日本橋の北詰から東に行き、朝から活気を呈している魚河岸を通り、江戸橋の北側に出て、江戸橋を通る道(昭和通り)を渡る。江戸橋の下流には、日本橋川から北に入り込んでいる二つの堀割があるが、西側の堀割(西堀留川)を荒布橋で渡ると、白壁の蔵が並ぶ小網町一丁目、さらに、東側の堀割(東堀留川)を思案橋で渡った先が小網町二丁目である(現在は両方の堀は埋め立てられ、橋も無くなっており、また、小網町は日本橋小網町となって、丁目も無くなっている)。小網町二丁目から、左側の道をたどると、安藤家の屋敷の手前にイナリがある。その先はトウカンボリ(洞侃堀)で、左手の堀を稲荷堀という。このイナリ、江戸稲荷百番付にある、洞侃堀の安藤稲荷(現存する明星稲荷)のようだが、ひとまず拝んで次へ行く(現在の小網神社は、もと小網稲荷神社と称し、古くは小網山稲荷院万福寺に祀られていた稲荷社である。万福寺は太田道灌の創建とされ、小網町の名も万福寺の山号から出たという。江戸時代になると、万福寺は田所町に移り、さらに浅草新寺町に移転したとされる。小網稲荷神社が、旧地とされる小網町に遷座するのは、明治の神仏分離令により万福寺から分離してからという。万福寺は後に廃寺となるが、その万福舟乗弁天は、小網神社が受け継いで、福禄寿と弁財天の二神を祀る)。

(2)茶の木神社(中央区日本橋人形町1-12)
 思案橋を渡ったあと、松島町方面に向かう。この辺り一帯は、大名の中屋敷や下屋敷などの武家地である(明治になると、土地が払い下げられ、新しい町が形成されていくが、茶の木神社も、そうした町の一つ、蛎殻町(日本橋人形町1)の一角に祀られたのであろう。この神社、もとは、佐倉藩堀田家屋敷内に祀られていた稲荷社という)。

(3)水天宮(中央区日本橋蛎殻町2-4)
 武家地の中を、松島町方面に進む(現在は、茶の木神社から交差点を渡ってすぐの所に、水天宮があるが、江戸時代、この辺りは大名屋敷などの武家地で、水天宮のある場所も武家地であった。明治になって、三田の久留米藩邸に祀られていた水天宮を移したのが、現在の水天宮という)。

(4)松島神社(中央区日本橋人形町2-15)
 武家地を通りぬけ、周囲を大名屋敷などに囲まれた松島町(日本橋人形町2)に行く。この町の中に、松島稲荷神社(松島神社)がある。松島稲荷神社は、江戸稲荷百番付にも選ばれた稲荷社で、芸能関係者が多く参詣している稲荷社である。中村座があり芝居町とも呼ばれている堺町は、松島町からそう遠くない場所にある。

(5)末廣神社(中央区日本橋人形町2-25)

 松島町から東に行き、浜町堀に沿って北に行くと、西側に入り込む堀がある。堀の北側は難波町(日本橋人形町2)で、元の吉原(葭原)の遊郭が浅草に移った後に作られた町の一つである。ここを左へ行くと、屋敷の角にイナリがある。江戸稲荷百番付で、難波町の末廣稲荷として取り上げられているのは、この稲荷のようなので早速参拝。末廣稲荷神社(末廣神社)は、古くからこの地にあり、移転前の葭原で信仰されていたが、移転後に出来た町々でも産土神として信仰されているということである。

(6)笠間稲荷神社(中央区日本橋浜町2-11)
 松島町を出て、浜町堀を小川橋で渡るが(現在、堀は埋め立てられて、橋も無くなっているが、一部が緑道になっている)、渡った先も、武家地である(この場所も明治になると、新しい町が形成されるようになる。そうした町の一角に、笠間稲荷神社も祀られたのだろう。この社は、もともと、笠間藩邸内にあった稲荷社という)。

(7)椙森神社(中央区日本橋堀留町1-10)
 浜町堀沿いの浜町河岸を北に行き、栄橋を渡る(現在は堀も橋も無い)。富沢町(日本橋富沢町)、長谷川町(日本橋堀留町2)を通り、人形町の通りに出て右に折れ、その先、杉の森新道に入ると、椙森稲荷神社(椙森神社)の参道がある。この神社は江戸稲荷百番付で小結をつとめ、また、富くじでも知られた神社である。

(8)宝田恵比寿神社(中央区日本橋本町3)

 椙森稲荷神社から、新材木町(日本橋堀留町1)、堀留二丁目(日本橋堀留町1)を経て、大伝馬町二丁目(日本橋大伝馬町)に出る。江戸の初めの頃までは宿駅だったところで、伝馬役で名主もつとめ馬込勘解由の屋敷もここにあり、屋敷内に宝田稲荷を祀ったということである(明治になって、宝田稲荷は現在地に移るが、これが現在の宝田恵比寿神社である。この神社を中心とする、べったら市は、江戸時代に始まったとされるが、現在も続いている)。ここから、木綿店が軒を連ねる大伝馬町一丁目(日本橋本町3)を過ぎ、本町通り(日本橋本町3)を通って、日本橋の大通りを左に行き、日本橋に出る。

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亀戸七福神

2010-01-08 19:59:43 | 七福神めぐり

 この七福神は、亀戸天神を参詣してから回るのが良さそうである。亀戸天神を起点に、江戸の絵図上を、次の順路で巡拝してみる。龍眼寺(布袋尊)―天祖神社(福禄寿)―普門院(毘沙門天)―香取神社(恵比寿、大黒)―東覚寺(弁財天)―常光寺(寿老人)。

(1)龍眼寺(江東区亀戸3-34-2)
 亀戸天神へは、両国橋を渡り、竪川に沿って東に行き、横十間川を北に行き、天神橋で右に入れば神社の前に出る(現在なら、亀戸駅から明治通りを北に行き、蔵前橋通りを西に行けば神社の前に出られる)。亀戸天神の参拝を終えてから西側に出て、横十間川を北にたどると、川沿いにある龍眼寺に出る。この寺は、天祖神社の別当寺であり、萩の寺としても知られた寺でもある。

(2)天祖神社(江東区亀戸3-38-35)

 龍眼寺から北へ、横十間川沿いに行くと神明宮(天祖神社)に出る(現在は、龍眼寺の横を入り、斜め左に行った所に天祖神社がある。)

(3)普門院(江東区亀戸3―43-3)
 神明宮から横十間川沿いに北に行くと、北十間川に突き当たる。横十間川の西側、会席茶屋の南側にあるのは柳島妙見・法性寺で、北辰妙見大菩薩を祀っている。北十間川に出て、川に沿って南東方向に向かい、境町で右に入ると、清香庵という梅屋敷(現在無し。跡地は亀戸3。広重の描いた「亀戸梅屋舗」をゴッホが模写したことで知られる)がある。ここを南に行くと普門院に出る(現在の天祖神社から、北十間川に出ずに普門院に出る経路もあるが、道は少し分かりにくい)。

(4)香取神社(江東区亀戸3-57-2)
 普門院から東に行くと、香取神社の前に出る。天智天皇の頃の創立という古社である。

(5)東覚寺(江東区亀戸4-24-1)
 香取神社から、東に少し行くと東覚寺に出る(弁天堂は、平成になってから建立されたもの)。

(6)常光寺(江東区亀戸4-48-3)

 東覚寺からは、曲がりくねった道をたどると、六阿弥陀寺の一つ、常光寺に出る。彼岸の頃は、六阿弥陀詣での参詣客で溢れる寺である。この寺への道は、北十間川に沿って歩いた方が分かりやすいかも知れない。帰途は、南に行き、竪川に沿って両国橋に出る(現在なら、亀戸水神駅が最寄りだが、亀戸駅まで歩いてもよい)。

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