遠い昔のことだが、旅のお坊様が、この村に立ち寄られたことがあった。その坊様は大事そうに梅の盆栽をかかえていた。そんな物を持ち歩いて旅をするというのも妙な話だが、何でも、どこかの村で何かのお礼にと贈られたものを、捨てる事も出来ず、そのまま持ち歩いているということだった。村の近在にも野梅はあるにはあったが、盆栽の梅の風格に村人は魅せられ、そのうちの誰かが、その梅を所望した。結局、この盆栽は村に置かれることになった。
その梅は、まだ寒い時期に他に先駆けて花を付けた。梅は村人の期待通りの品格を持っていた。そうこうしているうちに、村人の中にその梅を露地植えにしたらと言い出す者が現れた。その通りにすると、村人の丹精もあったのか、梅は年々成長して見事な花を付けた。しかし、どうしたことか実はならなかった。そのうち挿し木で梅を増やす者が現れ、それを真似する者が次から次へと現れて、いつの間にか、村には立派な梅林が出来上がっていた。あの坊様が二度目に村を訪れたのは、そんな頃だった。坊様は満足そうにその様子を眺め、村人に礼を言い、また来るからと言い終えて去っていった。それから間もなく、村の梅林の評判が広まって、早咲きの梅を見ようと、大勢の風流人がこの地を訪れるようになった。それからというもの、この梅を挿し木する者があちこちに現れ、半島の隅々まで、この梅の木が広がることになった。
それから何年かたって、悪い虫がはびこったことがあり、梅の勢いが衰え、村の梅林は見る影もないほどに衰えた。あの坊様がこの村を三度目に訪れたのは、親木も枯れかけたそんな年のことだった。坊様は悲しそうな顔をすると、ふっと何処かに行ってしまわれた。翌日、村人は枯れかけた親木を掘り起こし、火を付けて燃やしてしまった。そんな事があってから暫くすると、親木から分かれた梅が、次から次へと枯れていった。村人は、あの坊様は梅の精ではないかと噂しあったが、中には、あの梅は不老長寿を得ようとして失敗したのだと、まことしやかに言いふらす者まで現れた。
坊様が持ち込んだ親木から分かれた梅の木は、今や、一本も無く、ただ、言い伝えだけが今に残っている。梅に代わって、この半島に持ち込まれたのは桜である。ソメイヨシノの若木を売り歩く者が居たのは、だいぶ前の事だが、今はもう、半島の至る所にソメイヨシノが植えられ、その季節になると、半島はソメイヨシノの花で蔽われるようになった。しかし、挿し木や接ぎ木によって増えていく、この花も、伝説の梅と同じように永遠の命を得ようとした、儚い試みであるのかも知れない。そして、その試みもいつか破れて、半島の桜は一斉に枯れてしまうのだろう。その時に備えて、八重山吹を株分けして、大量に栽培している人が居ると、どこかで聞いたような気がする。
次の連載まで、少々時間稼ぎをする必要があるため、場つなぎに、ショートショートを3回分、投稿することに致しました。何れも、つまらぬ話ゆえ、パスしていただいても構いません。 夢七。
「もうすぐ春ですネェ」
雪だるまを作った。何故か疲れてしまったので、そのまま寝てしまった。朝になったら、だるまはカチンカチンになっていて、竹竿でぶったたいても平気な顔をしていた。お湯をかけたら顔は小さくなったが、そのくせ妙にふてぶてしくなった。蹴飛ばしたら白いアザが出来たので、一寸安心してスコップでばっさりやってしまった。それから、だるまの胴体でカマクラを作る事にした。人間が入れるサイズではないので、犬猫用の積もりだったのだが、犬も猫もいなかったので、ドントに火を付けて炬燵にする事にした。しばらくすると、ピンクの雪がチラチラ降ってきた。その雪のおかげで、カマクラもピンクになったのかと思ったが、そうではなく、カマクラの内部が燃えているだけだった。その熱で、こっちの肉体も気化して、気持ちよさそうにカマクラの上を漂っている。あらまぁ、と口に出したら、世界が広がって全てが一体となった。心地よい悟りの世界は、簡単に得られるものなのだと、その時はそう思った。
ほんの一時の昼寝から目覚めた途端、後楽園の雪景色は素晴らしいという声が聞こえた。誰かが記憶の引き出しから顔を出して、大声をあげたらしい。他にする事もなかったので、ともかく出かけることにした。池袋で地下鉄に乗ると、珍しく席が一つ空いていた。さっさと座って前をみると、若そうな女性が一人。他には誰も居ない。赤いコートと赤いスカートという取り合わせが奇妙でもあり、魅力的にも見えた。髪は長くて、意図的かどうかはともかく、俯いた顔をすっかり隠している。眠いので、そのまま目をつぶった。暫くして目を開けると、彼女の睫だけが見えた。本を読んでいるのかとも思ったが、その割には落ち着きが無かった。白い顔に白い足、靴だけが黒かった。次に目を開けたとき、顔には睫しかなかった。地下鉄の照明が一瞬消えたせいなのだろうと思い、そのまま目を閉じた。再び眼を覚ますと、茗荷谷駅になっていた。向かいの席は空席で、下には水たまりが出来ていた。窓の外を見ると、積もっていた筈の雪は、すっかり消えていた。
写真は、西側の松本橋から横十間川の向こうの亀島橋を眺めたもので、遊歩道の工事が行われていた頃のものである。現在は亀島橋からさき旧中川合流点まで、竪川は暗渠化され竪川河川敷公園として公開されている。竪川の護岸には、護岸ギャラリーという名で、画家や美大生、生徒、それに一般参加の作品を含む壁画が描かれている。その壁画も年を経るにつれ色も褪せ、壁面にはひび割れが生じ、草が生え木の枝も伸びて、当初の姿を著しく損じているようにも見える。確かに、制作者にとっては、作品を完成した時が最良の状態で、後は退化していくだけなのかも知れないが、受け手にとっては、必ずしも、古いものが悪いという訳ではない。時には、壁面の傷や草や木と、本来の壁画との取り合わせが面白く感じられたりもする。劣化もまた美なりというわけだ。
少し前のことになるが、完成する前の竪川河川敷公園を歩いていたことがある。当時は丸八通りから東側は未完成で、竪川の水面が顔を覗かせており、川の北側は開発事業が進行中で、造成地の中に由緒ありげな塚が一つ取り残されていた。近づいてみると、塚の場所にあった社殿は既に仮宮に移されていて、参詣者のための仮の道が作られていた。それが、亀戸の浅間神社で、古墳時代の遺跡の上に富士塚が作られ、その上に社殿が建てられたということであった。仮宮をそっと拝んでから北に行き、京葉道路を渡って、さらに北に行き、途中で西に向かった。すると、広い道路にぶつかった。こんな所にこんな道路があるとは知らなかったが、構わずに、その道路を渡った。しばらく歩いたところで、見たような場所に出た。周りを見回してみると、塚があった。一瞬ぎょっとした。浅間神社の塚だったのだ。慌てて北へ行き、京葉道路を渡ろうとしたが、そこで、無限ループに陥りそうな気がして、踏みとどまった。実は、北へ行く積りで北西に行き、西に行く積りで南西に行き、京葉道路をそれと気付かずに渡って、元の場所に戻っただけの事だったのだが、その時は、浅間神社の塚に招き寄せられたような気がした。それから暫くして、この塚を発掘したところ、下から古い塚が現れたという記事を新聞で読んだ。多分、土地の造成工事により塚が消滅してしまうため、事前に発掘したのだろうと、その時は考えていた。
今回、暫くぶりにこの地に来てみると、浅間神社は現在地に移されていて、富士塚であり浅間神社本殿跡地でもある場所が、整備されて残されていた。この辺りは、オトタチバナヒメの笄が漂着した浮洲で、笄を埋めて祠を立てたという、笄塚の伝承が残っている。この笄塚の上に創立されたのが浅間神社で、その時期は室町時代か近世初期という。笄塚の上に富士塚を築き、その上に浅間神社を建てたということであろうか。明治になると、現在の富士塚が築かれ、浅間神社も改築されている。発掘によって出現した古い塚は、もとの富士塚だということだが、笄を納めた塚がどうなってしまったのかは分からない。なお、ヤマトタケルとオトタチバナヒメについての伝承は、ここだけではなく、近くの北十間川沿いの吾嬬神社や、品川の寄木神社、それに、走水や木更津の周辺にも残っている。
香取神社から明治通りを南に行き、亀戸駅を通りすぎて、京葉道路を左に折れると、サンストリートがある。1997年にセイコーインスツル工場跡にオープンした商業施設で、写真は当時の様子を示す。最近はイベントが多く開かれているせいか、けっこう賑わっているように見えるが、この施設、2012年までの期限付だそうで、その後がどうなるかは分からない。このサンストリートに貧乏神社が祀られるようになったのは、いつ頃だろうか。この神社、最初は2階にひっそりと祀られていたが、今は堂々と1階に進出している。貧乏神も受け入れてもらえる状況になったわけだが、さりとて、ついて来られても困るので、ちょいと蹴飛ばしてから外に出る。サンストリートの西側は桜並木の亀戸緑道公園で、春には桜まつりが開催される。この道を南に歩いて行くと人道橋に出る。ここまで来てやっと、この緑道が都電の軌道跡だったことに気付かされる。緑道は、橋を越えた先で大島緑道公園と名前を変えて続いていくが、今回は、人道橋から、もと、竪川だったところに下りる。
横十間川に沿って北へ行くと、亀戸銭座旧跡の標柱がある。この場所で公団団地を造成した際、多数の銅銭が発掘されたという話を聞いたことがあるが、銭座、金座、銀座などは各地にあるので、他にも同じような話があったのかも知れない。ついでながら、この標柱の近くに「まちなみ景観賞」の銘板が置かれている。団地自治会が植栽の手入れをしていることが評価され、江東区から表彰されたのだそうだ。横十間川に沿って、もう少し歩くと、天神橋がある。ここで蔵前橋通りを右に折れて亀戸天神に行く。
亀戸天神の1月の神事にウソ替えというのがある。前年のウソを納めて新しいウソを求めるという事なのだが、一度始めてしまうと、途中では止めにくく、毎年のようにウソ替えに行っていたことがある。そのうち、面倒になって止めてしまったのだが、民芸品としてとっておけば良かったかもしれない。亀戸天神は梅の名所でもあるが、年間で最も混雑するのは藤の季節の方である。この時期には、屋台も出て、境内の料亭はもとより周辺の店も繁盛して、くず餅の船橋屋には行列が出来ていたりする。亀戸天神の池は心字池だが、今は改修されて直線の多い池になっている。改修後、花の勢いが多少衰えたように思ったが、多分、気のせいだろう。亀戸天神の祭事では、このほかに、菜御供、例大祭・献灯明、菊祭りなどの行事があるが、どの行事も、どこか親しみやすい雰囲気を持っている。
さて、前回、「あの町この町」で錦糸町を取り上げましたが、折角なので隣町の亀戸を引き続いて取り上げることにしました。題して「気ままに亀戸散歩」。では次回。 夢七
錦糸町駅北口を出ると、黄金の勾玉を二つ組み合わせたような巨大な輪が宙に浮いているのが目につく。ローレン・マドソンの制作した「ECHO」というモニュメントで、平成9年9月に設置されたものである。勾玉は楽譜のヘ音記号を表し、左右の五本のワイヤは五線譜を表している。二本の支柱に貼られたタイルは、バッハ、モーツアルト、ベートーヴェン、ストラヴィンスキーなどの作曲家の作品を表し、西側の柱は1750年まで、東側の柱は2000年までを受け持っているという。北口再開発の一環としてすみだトリフォニーホールが建てられた事もあり、音楽都市すみだを象徴するものとして、このモニュメントが設置されたのだそうである。ただ、柱のタイルのうち、どれがバッハで、どれがモーツアルトなのか、曲名は何なのかは、よく分からない。
(15)錦糸町周辺の水路
錦糸町周辺の堀割のうち、北側にあった南割下水は埋め立てられて、今はその痕跡すら無くなっている。東側の横十間川は現在も水流があり、竪川と交差する先では、両川岸に遊歩道が作られている。この遊歩道は、新設されたクローバー橋で小名木川を越え、横十間川親水公園ともつながるようになっている。南側の竪川は、大横川と交差する場所の西側に水路を残して暗渠となり、高速道路の下には竪川親水公園が作られている。錦糸町の夏の名物行事である、錦糸町河内音頭は、この竪川親水公園を会場として開催されている。大横川は、業平橋から撞木橋までは大横川親水河川という親水公園として整備されてきた。この公園は、北から順に、釣川原ゾーン、河童川原ゾーン、花紅葉ゾーン、パレットゾーン、ブルーテラスゾーンに分けられるが、京葉道路・江東橋付近のブルーテラスゾーンは最後まで残り、北口地区開発と同じ時期に整備が行われた。
(16)錦糸町と映画
昭和61年に建てられた楽天地ビルには、戦前からの江東劇場と本所映画に加えて、リッツ劇場、キンゲキ、錦糸町スカラ座、キネカ錦糸町の4館が入ったが、このうち、西友が運営するキネカ錦糸町は特色ある映画館で、東欧映画を専門として独占上映も行っていた。その一例が、トビリシ生まれのアルメニア人で、民族に根差した独特の語法で映画を制作した、パラジャーノフ監督の作品の上映である。その後、6館の映画館は、時代の趨勢もあって、シネコンに再構成され、現在は4スクリーンで上映を行っている。マイナーな映画作品は、もう上映の機会が無いのかも知れない。
(17)本所七不思議と河童
本所七不思議とは、①置いてけという声がして釣った魚がいなくなる「おいてけ堀」、②夜中に拍子木を叩くと後ろの方でも拍子木が鳴る「送り拍子木」、③天井から足が出て足を洗えという「屋敷」、④屋台のそば屋の明かりが消える「あかりなしそば」、⑤囃子の音が聞こえるが行っても何も無い「狸ばやし」、⑥葦の葉が片側しか生えない「片葉の葦」、⑦夜中の提灯に近づくと消える「送り提灯」の七つである。なお、「落ち葉なき椎」や「津軽の太鼓」、「消えずの行燈」を入れる場合もある。錦糸町は、このうち、「おいてけ堀」で知られている。おいてけ堀が堀割であったとすると、錦糸堀と称された南割下水が該当しそうだが、池であったとすると、竪川沿いにあった池のどれかが該当しそうである。明治43年の地図に、横十間川の東側にオイテケ堀と記された池があるが、明治13年の地図に、この池は記されていない。明治13年の地図を見ると、現在の錦糸堀公園の近くに池が記されているが、オイテケ堀に該当するかどうかは分からない。所詮、七不思議の場所など、あまり詮索する必要はないのかも知れない。なお、置いてけと声を出したのは河童だと考えて、平成7年、錦糸堀公園に河童の像が建てられている。
(注)今回の連載にあたっては、「錦糸町百景1~3」「墨田区史跡散歩」「宝永御江戸絵図」「東京都市地図」のほか、各種の資料やHPなどを参考にしました。
平成12年、錦糸町駅北口地区再開発事業のために結成された組合は、役目を終えて解散した。この年の12月、錦糸町そごうが閉店となる。北口再開発の目玉でもあったデパートの早すぎる撤退は地元に衝撃を与えたが、平成14年になって、そごうの跡はアルカキット錦糸町として再生し、現在に至っている。
(12)半蔵門線とオリナス
平成15年、半蔵門線錦糸町駅が開業する。また、錦糸公園北側の精工舎工場跡地に、平成18年、オリナスがオープンする。オリナスは専門店の集合体であるモールと、大型店で構成されるコアからなる大型の商業施設である。
(13)錦糸公園の再整備
現在、錦糸公園の再整備工事が進行中である。公園の北東側では、現在の体育館に代わる総合体育館が建設中だが、計画では公園全体も模様替えになるようである。ところで、公園の西南にある千種稲荷社は、昭和3年に錦糸公園を造成する際に放置されていた稲荷社を祀ったもので、反対意見を押し切って公園内に祠を祀り、千種講を作って今日までお守りしてきたという。今回の公園の再整備で、この稲荷社がどうなるのか、気になるところである。同じく、公園の西南には、熊さんこと篠原勝之氏の制作したオブジェがあるが、こちらの方は、どうなるのだろう。
平成9年3月、最初にアルカイーストがオープンした。同年10月には、錦糸町そごうが開店。また駅北口に「ラガール(現在はテルミナ2)」もオープンした。なお、同月には、アルカタワ-ズ錦糸町の完成にともない、神輿を含む祝賀パレードが行われた。