夢七雑録

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新江戸川公園

2016-11-28 18:53:48 | 公園・庭園めぐり

11月28日の「いい庭の日」の前後に「秋の東京いい庭キャンペーン」が行われている。そこで、対象の一つになっている新江戸川公園に行ってみた。江戸川橋で下車して江戸川公園を通り、芭蕉庵に寄ってから、新江戸川公園に行く。公園の塀を改修したらしく南門が新設されているが、今回は正門から入ることにした。

正門の左手に細川家の学問所であった松聲閣があり、修復工事を終えて今年から公開されている。集会室は有料で要予約だが2階の展望所は無料ということなので、改修後はじめて中に入った。途中の廊下から見た裏庭も日本庭園らしく整えられていた。

階段を上がり展望所に行く。山茶花という二間続きの和室で、廊下に出ると公園全体が展望できるようになっている。庭園の景観は明治時代の細川家本邸だった頃とほぼ同じらしい。

松聲閣を出て、団体が通り過ぎるのを待って、中門から庭園に入る。庭園の改修も行われていたらしく、以前より眺めが良くなっているような気がする。

大池の畔から土橋の方向を見る。紅葉は今が盛りといったところ。この池にはコサギが生息していた筈だが、今日はその姿を見ない。どこか別の場所に移ったらしい。

池の向こうに石造の十三重塔が見える。本来の十三重塔は供養塔だと思うが、江戸時代以降は庭園の添景物として使われてきたらしい。池には小さな島も見えるが、中島だろうか。

松聲閣の周りは芝生が張られ、樹木の刈込や伐採も行われたらしく、開放的になっている。園路のそばには鹿威しが新設され、軽やかな音を響かせている。

松聲閣の東側、庭園に面する区画は垣で囲まれた表庭になっている。視界の邪魔になるものを排除した小庭で、部屋からは庭園全体が良く見通せるだろう。

表庭には水琴窟も新設されていた。水琴窟は幕末から明治にかけて流行したが、維持管理が難しいせいか造られなくなった。それでも最近は、公園などでも見かけるようになった。

この庭園には、北西側の湧水を利用して池に流れる水路、遣り水が造られていた。しかし今は湧水も僅かになっているので、湧水だけで池の水位を保つことは難しいようである。

池には滝が付きもので、この庭園にも小さい滝がある。もともとは湧水から引いて落としていたと思われる。

この日は、新江戸川公園から永青文庫への道が開放されているという事なので、林の中の道を上がってみた。円形にくり抜かれた門を抜けると永青文庫の建物があり仙厓の展覧会が開催中であったが、今回の目的は庭園なので建物の外観だけ見て公園に戻る。

永青文庫から池に下って、中池と小池を仕切っている石橋を渡る。今回は南門には出ずに、中池の南側を進む。土橋の向こうには松聲閣が見えている。

土橋を過ぎて大池の南側を進むと築山があるが、低いので展望が開けるという程ではない。築山の下は岬のように池に突き出ていて、雪見燈籠と松と雪吊の対比が面白い。

雪見燈籠のある場所の左側は州浜になっている。池の向こう側には、やや見えにくいが、十三重塔がある。

冬の庭園の景物は雪吊である。新江戸川公園の雪吊の競演をしばし眺め、それから帰途に就く。公園北西側の児童遊園があった辺りは、新たに庭園を造るため工事中で、改修が終わる来年の3月頃には、新江戸川公園は改称された公園名でリニューアルオープンする事になりそうである。

 

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清瀬の中里富士

2016-11-13 11:02:26 | 富士塚めぐり

清瀬駅北口を出て、けやき通りを歩く。けやき並木が続く歩道の所々には、彫刻作品が置かれている。途中の郷土博物館は帰りに寄る事にし、郷土博物館東の信号の次の角を左に入る。道はやがて下り坂となり、坂の下で左に曲がると左側に富士山神社(浅間神社)の鳥居があり、富士塚が見えてくる。この富士塚は中里富士と呼ばれ、東京都の有形民俗文化財に指定されている。なお、富士塚の所有者は東光院(丸嘉講武州田無組中里講社)になっている。寺の土地を借りて富士塚を築いたのだろうか。

この富士塚は、柳瀬川の右岸段丘の端に、周辺より9m高く赤土で築かれている。富士塚には、高田富士に倣って富士山の溶岩を用いたものが多いが、中里富士のように溶岩を用いない例もある。中里富士の築造は丸嘉講武州田無組中里講社で、「清瀬村中里富士講社起源」によると、文政8年(1825)再築で、明治7年に七尺五寸高く再築とある。中里富士の祠の銘に文政8年とあるので文政8年再築は確からしいが、最初の築造年については分からない。丸嘉講の開祖は赤坂伝馬町の近江屋嘉右衛門で、品川富士を築いたのも丸嘉講に属する品川丸嘉講である。丸嘉講田無組は、近江屋嘉右衛門の弟子の安右衛門(善行道山)によるところが大きく、「清瀬村中里富士講社起源」では、享保18年(1733)に田無を経て中里に経典が伝えられたのが、田無組中里講社の始まりとしている。

中里富士の登山路は電光型で傾斜も急ではなく、土留もされているので歩きやすく、頂上も滑りにくい工夫がされている。山頂にある石造物のうち、左から2番目が仙元大菩薩の祠、その隣の石碑には大日如来と思われる像が刻まれている。中里富士には、○の中に嘉と記した講紋を付けた丸嘉講の石碑のほか、合目石、小御岳の石碑、富士山登拝の途中に参詣する高尾山や道了尊の石碑、小祠などが建てられている。なお、麓の右側にある地蔵菩薩や庚申塔は年代からみて富士塚を築造する以前のものだろう。中里富士は全体として、江戸時代の神仏習合の姿を残しているように思える。

中里富士には火の花祭りの説明版が置かれていた。火の花祭りは吉田の火祭り(鎮火祭)をもとにした祭で毎年9月1日に開催されているそうだが、まだ見た事はない。この行事は東京都の無形民俗文化財(風俗習慣)に指定されており、山頂での儀式のあと、巨大な藁束に点火するという。その灰を持ち帰ると火災除けや魔除け、畑にまくと豊作になるらしい。なお、都内では駒込の富士神社でも山仕舞い行事として篝火をたく鎮火祭が行われている。

<参考資料>「日本常民文化研究所調査報告2」「富士山文化」「富士信仰と富士講」「ご近所富士さんの謎」

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品川神社の品川富士

2016-11-06 17:09:47 | 富士塚めぐり

品川富士は品川神社の境内にある。品川神社の最寄り駅は京急の新馬場駅だが、今回は品川駅から歩く。品川駅を東口に出て歩行者専用歩道のスカイウエイを南に向かい、八ツ山方面に進んで歩道橋を下り、都バス品川営業所の先の角を右に折れ、信号を渡って上がると旧東海道に出る。ここからは旧品川宿を南に向かい、聖蹟公園入口の次の角を右に進むと、品川神社の下に出る。ゆっくり見て歩きたい道筋だが、今回は急ぎ足で通り過ぎる。

品川富士の入口は品川神社の石段の中ほど左側にある。品川富士については、正徳寺住職の日記に明治2年5月29日に富士塚浅間神を馬込村より移したとある。この富士塚は廃仏毀釈の影響で後に壊されたらしく、再建したことを示す明治5年の再建碑が残されている。大正11年には国道建設のため品川神社境内の東側が削られたため、富士塚も西に移動して再建されたようで、この時に登山経路も現在のように変更されたらしい。

品川神社の石段途中にある鳥居をくぐる。ここは一合目に相当し猿田彦の祠がある。ここから五合目までは石段で楽に上がれて、眺めも良い。五合目は品川神社の社殿がある境内とほぼ同じ標高であり、五合目から下は台地の東側の斜面を利用している事になる。

五合目から上は黒ボク石で覆われた富士塚となる。狭く急な石段を上がれば、すぐに山頂である。山頂は富士塚としては広い方で眺めも良い。富士塚は神社の境内にあたる台地の端に築かれ、高さは5mほどだが、国道と境内との高度差があるので、国道から見た品川富士の高さは15mぐらいになる。この富士塚は品川区の有形民俗文化財に指定されている。

富士塚の頂上に奥宮は無いが、富士塚の裏手にあたる品川神社の境内には浅間神社がある。品川富士を築いたのは、身禄の三女はなの弟子であった赤坂伝馬町の近江屋嘉右衛門を講祖とする丸嘉講に属する品川丸嘉講で、この富士講による山開きの神事は品川区の無形民俗文化財に指定されている。

江戸時代、牛頭天王社(現在の品川神社)の山続きは御殿山と呼ばれ、桜の名所としても知られていた。そこで、品川神社の帰りに寄ってみる事にした。品川神社の石段を下りて左へ、次の角を左に入って進むと権現山公園の下に出る。道は右に曲がり上り坂となり、その先で下りとなり跨線橋に出る。左に跨線橋を渡ると御殿山庭園に出る。江戸の面影がどの程度残っているか分からないが、桜の季節に来てみたい場所である。その先、翡翠原石館に出て左に折れ、公開空地を通り抜け、小関通りに出れば、大崎駅はさほど遠くない。

<参考資料>「日本常民文化研究所調査報告2」「富士信仰と富士塚」「ご近所富士さんの謎」

 

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木曽呂の富士塚

2016-11-03 18:02:41 | 富士塚めぐり

国指定の重要有形民俗文化財の富士塚は4件あり、そのうち下谷坂本、江古田、豊島長崎の各富士塚は既に紹介済みなので、今回は木曽呂の富士塚を取り上げる。武蔵野線の東浦和駅を出て右へ、東浦和駅前の交差点を左に下って、見沼代用水西縁を渡り、右へ行くと見沼通船堀がある。その南側に行き、通船堀を左に見ながら、竹林の中を歩いて行く。

竹林の途中に通船堀についての説明板があった。その中から抜き出した地図を上に示す。通船堀は、見沼代用水の東縁及び西縁の水路と芝川の間に設けられた運河で、国の史跡に指定されており、木曽呂の富士塚もこの史跡に追加指定されている。竹林の道が終わったところで橋を渡り、通船堀を右に見ながら進むと、途中に芝川と見沼代用水との水位差を調節するための閘門式の関があった。桜の頃を想像しながら、堀に沿って先に進むと芝川に出る。

芝川を右に行き八丁橋を渡ると水神社がある。この神社も通船堀の史跡に追加指定されている。芝川に沿って北に少し行くと、見沼代用水東縁と芝川を結ぶ通船堀に出る。通船堀を右に見ながら進むと、ここにも閘門式の関が設けられている。さらに進むと、行く手に木曽呂の富士塚が見えてくるが、樹木が茂っているため全体の姿はつかめない。

見沼代用水東縁に出て右へ行き、橋を渡って先に進み、信号の手前を左に入る。道はやや上りとなる。そば店があった場所の先、日本料理の看板を左に入ると、浅間神社の鳥居が見えてくる。木曽呂の富士塚は、その左側にある。

木曽呂の富士塚は台地の上にあり、塚の高さは5.4m、直径は20m。寛政12年(1800)に、丸参講によって盛土で築かれている。この富士塚を発願した蓮見知重(蓮見知道居士)の石碑の裏には、その由緒が記されている。なお、石碑の上にある大日如来像は修復されているようである。

北側から富士塚に登る。頂上には火口を模した深さ1mほどの穴があったそうだが、今は殆ど埋まってしまっている。頂上からの眺めは樹木が茂っているため今は良くはないが、葉が枯れ落ちた頃に来れば、富士山を遥拝する事も出来るのだろう。

頂上から南側に下りると、富士塚の南側を下っていく道があった。この道を下りていくと、途中に胎内らしきものがあったが、今は入れないらしい。この辺りの斜面はかなり崩れたらしく、改修したようである。見上げると、崖上に富士嶽神社の石宮らしきものが見えた。

麓の道まで下りて右に行くと、ここにも胎内らしきものがあった。この付近の斜面も崩れたらしく、改修したように見える。この胎内も入れないらしいが、昔は南側と西側の胎内がつながっていたという。ところで、胎内も富士塚の構成要素の一つとすれば、台地上に築かれた高さ5.4mの塚に加えて、この斜面も富士塚に含まれることになる。通船堀から眺めると、見沼代用水東縁の上に、富士山の姿を写しとった高さ12mの木曽呂富士が聳えているという事である。

 

<参考資料>「日本常民文化研究所調査報告4」「富士山文化」

 

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