夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

成人式

2010-01-30 21:51:02 | ショートショート

 昔は今と違って、そりゃ陽気なもんだった。娘っこはすっかり着飾って、正月三日より華やかな位だったし、ついこの間まで悪童だったのがスリーピース着込んで三々五々と出かけていく。どこやらの公会堂で誰やらのお話を聞いて、インタビュウでもされようものなら「20才になって、まずやりたいのは選挙権の行使です」とか、「20才に早くなりたいと思っていたけれど、成ってみたら、この先、年を取りたくないわね」とか、のたもうたりする。まぁ、昔は平和だったんだねぇ。

 確かにひ弱な奴が多かったよ。何しろ、大学の入学式にまで親がついていくんだから。甘えん坊ですぐ参いっちゃうし、我慢なんてこれっぽっちも出来やしない。家庭を持ったところで「子供が子供を抱いていらア」なんて言われたもんさ。それだけ良き時代だったんだな。闘争心をむき出しにする必要なんて無かったんだ。先行きに何の希望も無くたってTVやマンガみて一日ぶらぶら過ごせるんなら、それがユートピアってものじゃないか。

 近頃の若い者は昔に比べりゃ、確かにしっかりしてる。成人式を迎えるずっと前からもう一人前だよ。こっちが付け入る隙なんてありゃしない。だからって、成人式を迎えた途端、親から子供を引き離すことは無いじゃないか。親熊が子熊を置き去りにるのとは訳が違うんだ。子供が独立したって親は親だ。時には孫連れて会いに来たり、年とったら面倒みようという気持ちがあったっていいじゃないか。それがどうだい、近頃の奴は。20歳になったらサッサと遠くに行ってしまう。もう会えないような遠くへだよ。

 あの子も小さい頃は可愛かったなあ。「遊ぼう、遊ぼう」って離れなかったものな。それが学校に行くようになってからだよ。相手にされなくなったのは。今じゃこっちのこと、どう思っているのか、分かりゃしない。ああ、明日の成人式には行かないよ。でもスペースポートには行く積もりだ。他の親たちも大勢行くのだろうよ。でも、あの子の母親は寝込んじまったからなあ。この地球が人間で一杯なのは分かってるよ。コロニーの建設に人手が足りないっていうのも知ってるさ。だからって、成人式を終えた若者を強制的に遠い星に移住させるなんて、政府のやり方は良くないよ。でも、明日はサヨナラって言われても、涙は流さん積もりだ。

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物語はこのように始まり、そして、多分、その続きは読者の想像に委ねられるのでしょう。働き手を失った惑星の物語として、或いは、新天地を求めて旅立った若者の物語として。

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ゴルフが嫌いになったわけ

2010-01-27 19:53:39 | ショートショート

 こんな日にゴルフなんぞやろうなんていうのが、土台間違いだったのだ。「生命の危険なき限り決行。欠席する奴はエチケット知らず」 こういう案内状を出した奴の気が知れない。だいたい、個人プレーの筈なのに、団体遊技と化した世間の風潮が嘆かわしい。それでも、アウトの3番までは降りみ降らずみ、何とかなったが、それから先はもういけない。今や本降り雨ン中、ひたすら行軍、泥塊バッシャン、こちらは真っ黒。ボールはと見てとれば、雨の彼方へ優雅に飛んでいく。スコアなんて、もうどうでもいいから、早くクラブハウスに戻りたい。単なるつき合いで、こんな無益な労働を強いられるなんて不愉快極まりない。はっきり言って、ゴルフは嫌いだ。

 やっとの思いで、懐かしのクラブハウスに到着。食事はカレーかミニステーキのランチしかないと言う。食欲はあまり無いが、水だけ頼む訳にもいかない。和服のウエイトレスにカレーを頼んだら、どういう訳かやけに待たせる。催促したら注文は伺っていませんとぬかしやがる。さては、さっきのウエイトレス、狐だったか、それとも目の錯覚か。ひょっとして、この世の綻びだったのかも知れぬ。こんな目にあうから、ゴルフは嫌いなのだ。

 インの最初のホールは、打ち下ろし。豪快さだけが売り物らしい。雨はどうやら上がったが、今度は風が吹き出した。第1打は見事、大スライスだったが、風のおかげでフェアウエイをキープ。他人のいい当たりは全てOB。こういう時だけ、ゴルフは楽しい。しかし第2打は凄まじい勢いで右へすっ飛び、前方を見ていたキャディを直撃。ソケットの感じは無かったので、風のせいなんだろう。キャディは歩けそうもないというので、仕方なくキャディバックを自分で担ぐ。こんなことになるから、ゴルフが嫌いになるのだ。

 次のホール辺りからは、スライスもフックも風まかせ。小砂眼入してプレーどころではなくなった。前方を見ると、先発組もグリーンサイドにしゃがみこんで、風よけをしているらしい。こんな異常気象は滅多に無いのだが、ウエザーコントロールの奥深く潜んでいたバグが暴れ出したのだろう。こんな日でも、他の奴はゴルフ嫌いにならないのだろうか。

 風が少し止んだのでプレー続行。次に向かったのは、真っ直ぐ、広々、平坦のドラコン向きのホール。思いっきりボールをひっぱたいたら、爆発音がして煙がたなびいた。間違ってスモークボールを打ったのかと思ったが、クラブのヘッドまですっ飛んでいた。どこで損するか分かったものじゃない。まったく、ゴルフなんて大嫌いだ。

 ゴルフの楽しみは、一風呂浴びた後、その日の成績をサカナに飲むことだと、皆は言っている。本当だろうか。アルコールが苦手な上に、ブービー賞さえ取れない有様で、無理して残っていても、何も楽しいことはない。結局、適当な理由をでっちあげて、先に帰ることにした。クラブバスは直ぐに出発、それじゃ皆さん、お先に失礼と思った途端、最初のカーブを曲がり損ねてバスは空中に飛び出した。

 気がつくと、病院の床の上に寝かされていた。事故のことが頭をよぎったが、それにしては怪我人が多すぎる。ベッドも足りないのだろう。突然、床が大きく揺れた。「地震だ」思わず、そう叫ぶと、隣に寝かされていた中年男が「余震だな」とつぶやき、それから、おもむろにこちらを向いた。「あんた、プレイランドに居たんだってね。本物そっくりのゴルフのシュミレーションゲームやってるとこだろう。でも、あんた運がいいよ。地震でプレイランドは全壊。生存者は殆どいないって話だから」 だから、ゴルフは・・・・。

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お知らせ

2010-01-24 08:10:52 | Weblog
 わが家の花暦、今回はウメです。気温が思いのほか上昇した日があって、梅が一輪、もう一輪、さらに一輪、群れになって咲きました。もうすぐ春ですねぇ。

 さて、古い資料を整理していたら、30年も前に書いた雑多なメモが出てきました。本来なら、即廃棄処分とすべきものですが、次の連載までの間の穴埋めが必要なこともあり、ブログの恥はかき捨てというわけで、仕立て直して公開することにしました。例によって単なる与太話ゆえ、あまり、お勧めは出来ないのですが。 夢七

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浅草名所七福神

2010-01-20 22:36:30 | 七福神めぐり

 浅草名所七福神は9社寺を巡るもので、寿老人と福禄寿が二か所ある、変則的な七福神巡りである。そのコース、浅草寺(大黒天)―浅草神社(恵比寿)―待乳山聖天(毘沙門天)―今戸神社(福禄寿)―不動院(布袋尊)―石浜神社(寿老人)―吉原神社(弁財天)―鷲神社(寿老人)―矢先稲荷神社(福禄寿)を、江戸の絵図で紙上散策を試みる。


(1)浅草寺(台東区浅草2-3)

 風雷神門(雷門)から浅草寺の支院の並ぶ道(現在の仲見世通り)を行く。人通りも多いが、茶店なども多い道である。しばらく行くと左手に伝法院の表門がある。正面は仁王門(現在は宝蔵門)、右手(現在は左手)には五重塔が聳えている。仁王門をくぐれば、まもなく本堂に出る(現在、本堂は改装工事中)。

(2)浅草神社(台東区浅草2-3)
 浅草寺の参拝を終えたら、東側にある三社権現(浅草神社)を参拝する。

(3)待乳山聖天(台東区浅草7-4)
 随身門(二天門)を出て山之宿町(花川戸2)で左に折れ、奥州街道を進んで聖天町(浅草7)に出る。ここで待乳山聖天を参拝する。

(4)今戸神社(台東区今戸1-3)

 聖天町で奥州街道と分かれ、山谷堀(現在は埋め立てられ緑道となる)を今戸橋(現在無し)で渡ると今戸町(今戸1)に出る。その先、左手に八幡神社(今戸神社)がある。

(5)不動院(台東区橋場2-14)
 瓦などを焼く窯が並ぶ今戸町を過ぎると橋場町となる。総泉寺(梅若所縁の寺。現在は板橋に移る)へ入る大門道を左手に見て北に向かうと、その先に砂尾の不動院がある。

(6)石浜神社(荒川区南千住3-38)
 橋場の渡し場を過ぎて、思川を渡ると真崎稲荷(石浜神社内に祀られている)があり、その先に石浜神明宮(石浜神社)がある。

(7)吉原神社(台東区千束3-20)
 石浜神社から戻り、大門道に入って総泉寺を抜け、田畑の中を進むと山谷町に出る。奥州街道を越え元吉町を過ぎると日本堤である。吉原大門から入れば新吉原で、遊郭内には稲荷社もあるが、今回は中には入らない(吉原神社は遊郭内の稲荷四社と地主神となる稲荷の五社を明治になって合祀した神社で、後に吉原弁財天も合祀している。現在は、大門から旧吉原内に入って吉原神社に行くことが出来る)。

(8)鷲神社(台東区千束3-18)
 吉原の大門の所から日本堤を右に行き、遊郭の北側を回る道をたどると、竜泉寺町に出る。大音寺の前を左に折れると、鷲神社がある(現在は、吉原神社の先を右に入る)。

(9)矢先稲荷神社(台東区松が谷2-14)
 鷲神社から南に行き、立花家の屋敷を右折し、その門前から南に行くと堀割(新堀川。現在は埋め立てられて、かっぱ橋道具街通りとなる)がある。昔、この堀割の西側に三十三間堂があり、その矢の先に稲荷社があったという(三十三間堂は焼失したため富岡八幡の近くに移転したが、稲荷社は元の土地に再建され、現在の矢先稲荷神社となる)。

(注)今回の連載にあたっては、次の資料を参考としました。「全国七福神めぐり」、「復元江戸情報地図」、「天保御江戸大絵図」ほか絵図、「江戸名所図会」、広重「名所江戸百景」、「東京名所図会」、台東区ほかの「史跡散歩」、各種ホームページ、その他。

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千寿七福神

2010-01-17 16:00:24 | 七福神めぐり

 以前の千寿七福神は、長円寺(布袋尊)、千住本氷川神社(大黒天)、勝専寺(毘沙門)、不動院(福禄寿)、千住神社(恵比寿)、源長寺(寿老人)、仲町氷川神社(弁財天)を巡るものであったが、寺に祀られていたご神体を神社に移して新たな千寿七福神がうまれた。巡拝ルートは、たとえば、仲町氷川神社(弁財天)-稲荷神社(福禄寿)―八幡神社(毘沙門)―千住神社(恵比寿)―元宿神社(寿老人)-大川町氷川神社(布袋尊)-千住本氷川神社(大黒天)となる。コースは程々の距離で歩きやすく、また、七福神の赤い幟が各所に立っているので良い目印になる。このコースを、江戸の絵図で紙上散策してみる。

(1)仲町氷川神社(足立区千住仲町48-2)

 千住大橋を渡り河原町を過ぎて掃部堤(墨堤通り)に出る。ここを右に折れて堤の上の道を歩いていくと、少し先に、田畑の中を左へ入る氷川神社への参道がある。西側の鳥居をくぐると正面が氷川神社の社殿である。左手奥には天満宮の祠があるが、関屋から移されたものという(現在の道順では、北千住駅から東京芸大の横を通り、ミリオン商店街を抜けると仲町氷川神社に出る。現在の仲町氷川神社には、弁財天の供養庚申塔が祀られており、七福神詣での対象になっている。また、関屋天満宮も境内に祀られている)。

(2)河原町稲荷神社(足立区千住河原町10-13)
 氷川神社から掃部堤の道(墨堤通り)に戻って西に行き、日光街道を横切り源長寺を右に見て、その先を左に入ると(千住宮元町の交差点を左に折れると)、堤外の耕地に稲荷社がある(社殿の横に、七福神詣での対象となる、福禄寿の石像が置かれている)。

(3)八幡神社(足立区千住宮元町3-8)
 稲荷神社を出て、掃部堤(墨堤通り)を越えて水路(現在無し)に沿って北に行くと八幡神社がある(現日光街道の東側の道を通る。ただし、現在の八幡神社は現日光街道の西側に位置している。なお、七福神詣での対象となる毘沙門天の石像は社殿の横にある)。

(4)千住神社(足立区千住宮元町24-1)

 八幡神社から北に行き熊谷堤に出て、堤の道を北西に行くと、氷川神社と稲荷神社がある(八幡神社から日光街道を北に行き、千住一の交差点で左に入り、道なりに行けば千住神社に出る。この地には稲荷神社が最初にあり、後に氷川神社が勧請されたが、二社あったことから二つ森とも称された。後に二つの神社を合祀して西森神社となり、さらに千住神社となる。境内には、七福神詣での対象となる恵比寿天の石像があり、石像を回転させてハンカチで像に触れるという、変わった願掛けが行われている)。

(5)元宿神社(足立区千住元町33-4)
 熊谷堤の道(千住神社の前の道)を北西に向かい、掃部堤(墨堤通り)と合流してさらに先に進む(千住龍田町)。堤の右手には水路(現在無し)が続いているが、この水路は、北に暫く行った所で、梅田から流れて本宿圦で戸田川(隅田川)に入る水路と交差する(水路は現在無い。元宿小入口付近)。その手前で右に入り水路を渡って北に行き、その先の水路を渡る。そのまま進めば西新井の大師堂に出るが、ここを右に折れると八幡神社(元宿神社)に出る(現在は墨堤通り沿いの右側の道を行き、元宿小入口の信号で右に入る。この付近は、鎌倉時代の街道があり、千住宿ができる前の宿場があったため元宿と呼ばれていた。現在の元宿神社の北側には荒川放水路が流れているが、江戸時代には無く、耕作地が広がっていた。元宿の集落の中心は少し北にあったが、荒川放水路の開削で耕作地もろとも消滅している。なお、七福神詣での対象となる寿老人の石像も境内に置かれている)。

(6)大川町氷川神社(足立区千住大川町12-3)
 八幡神社(元宿神社)を出て東へ行き、右に折れて流れを渡り、その先の道(千住公園の前を通る道)を東に行き、掃部堀(西掃部堀。現在は大正通り)を渡ると氷川神社に出る(荒川放水路の開削工事により、氷川神社は現在の位置に移動している。また、浅間神社にあった富士塚はこの神社の境内に移されている。なお、七福神詣での対象となる布袋尊の石像が境内に置かれている)。

(7)本氷川神社(足立区千住3-22)
 氷川神社を出て、川田堀から分かれる水路(現在無し)に沿って千住五丁目に向かい、安養院の先で右に折れ、宿場沿いの道を進んで行くと氷川神社に出る(この神社は牛場の氷川神社の分社であったが、後に牛場の氷川神社を合祀し本氷川神社を名乗る。現在の社殿は新しいものだが、七福神詣での対象となる大黒天木像は旧社殿に祀られている)。氷川神社を出て、千住宿を南に行けば千住大橋に出る(現在は、北千住駅が最寄り駅)。

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小石川七福神

2010-01-14 21:54:56 | 七福神めぐり

 小石川七福神は、平成になって提唱された新しい七福神だが、これを江戸の絵図上で、次の順路で巡拝してみた。東京ドーム(福禄寿)-源覚寺(毘沙門天)―福聚院(大黒天)―真珠院(布袋尊)―宗慶寺(寿老人)―極楽水―徳雲寺(弁財天)―深光寺(恵比寿神)。

(1)東京ドーム(文京区後楽1-3)
 水道橋を出発地として、水戸藩の屋敷の横を北に行く(小石川七福神の福禄寿は、東京ドーム敷地内の人工庭園内に新しく祀られたもので、場所的には水戸藩邸内ということになる。なお、小石川後楽園内に福禄寿が祀られていたという古記録はあるようだ)。

(2)源覚寺(文京区小石川2-23)


 水戸藩邸を過ぎて富坂への道を左折すると、小石川(有楽町線千川駅近くを水源とする谷端川の下流。現在は暗渠)に出る。ここ(富坂下交差点付近)を右に、流れに沿って北へ行くと、左手に源覚寺がある。こんにゃく閻魔でも知られた寺である。

(3)福聚院(文京区小石川3-2)
 源覚寺から北に行き、伝通院の裏門から入って坂道を上がる(源覚寺を出て次の信号を左に入り、善光寺坂を上がる。伝通院裏門は現存しない)。坂を上がったところが、伝通院の中門で、門の前に大黒天で知られた福聚院がある。

(4)真珠院(文京区小石川3-7)
 福聚院から、伝通院境内の子院が並ぶ道を少し下って行くと真珠院がある(現在は、伝通院境内ではなく、外の道を通ることになる)。

(5)宗慶寺(文京区小石川4-15)

 真珠院から道を下っていき、伝通院の門(現在は無い)を出る。門を出た先は、小石川久保町(小石川4)で、折れ曲がりの道を行くと、松平播磨守の屋敷(この屋敷の跡地を通過する道路が、現在の播磨坂である)の前に出る。ここを右に、坂(吹上坂)を下ると宗慶寺に出る。宗慶寺には、極楽水という名水があり、古くから弁財天が祭られている(現在はマンション・パークタワーの南側に極楽水の跡があり、弁財天の祠がある)。

(6)徳雲寺(文京寿小日向4-4)
 松平播磨守屋敷の前を通って大塚通り(春日通り)に出る。ここを右に折れ、御箪笥町(小日向4)で坂(藤坂)を下れば徳雲寺に出る(現在は春日通り側から入る)。

(7)深光寺(文京区小日向4-9)。
 徳雲寺から道なりに行くと、右側に深光寺がある。帰りは大塚通りを戻る(現在は、丸ノ内線茗荷谷駅が最寄り駅である)。

(注)
 以上の10コースのほか、今年になって歩いた2コースを、次回以降、追加することにしました。

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日本橋七福神

2010-01-11 20:05:38 | 七福神めぐり

 日本橋七福神は、戦後に提唱された七福神で、八社を巡るものである。以前、日本橋三越主催の七福神巡りに参加したことがあるが、今回は、日本橋を起点・終点として、江戸の絵図上を、次の順路で巡拝してみる。小網神社(福禄寿・弁財天)-茶の木神社(布袋尊)―水天宮(弁財天)-松島神社(大黒)―末広神社(毘沙門天)―笠間稲荷神社(寿老人)―椙森神社(恵比寿)―宝田恵比寿神社(恵比寿)。

(1)小網神社(中央区日本橋小網町16)
 日本橋の北詰から東に行き、朝から活気を呈している魚河岸を通り、江戸橋の北側に出て、江戸橋を通る道(昭和通り)を渡る。江戸橋の下流には、日本橋川から北に入り込んでいる二つの堀割があるが、西側の堀割(西堀留川)を荒布橋で渡ると、白壁の蔵が並ぶ小網町一丁目、さらに、東側の堀割(東堀留川)を思案橋で渡った先が小網町二丁目である(現在は両方の堀は埋め立てられ、橋も無くなっており、また、小網町は日本橋小網町となって、丁目も無くなっている)。小網町二丁目から、左側の道をたどると、安藤家の屋敷の手前にイナリがある。その先はトウカンボリ(洞侃堀)で、左手の堀を稲荷堀という。このイナリ、江戸稲荷百番付にある、洞侃堀の安藤稲荷(現存する明星稲荷)のようだが、ひとまず拝んで次へ行く(現在の小網神社は、もと小網稲荷神社と称し、古くは小網山稲荷院万福寺に祀られていた稲荷社である。万福寺は太田道灌の創建とされ、小網町の名も万福寺の山号から出たという。江戸時代になると、万福寺は田所町に移り、さらに浅草新寺町に移転したとされる。小網稲荷神社が、旧地とされる小網町に遷座するのは、明治の神仏分離令により万福寺から分離してからという。万福寺は後に廃寺となるが、その万福舟乗弁天は、小網神社が受け継いで、福禄寿と弁財天の二神を祀る)。

(2)茶の木神社(中央区日本橋人形町1-12)
 思案橋を渡ったあと、松島町方面に向かう。この辺り一帯は、大名の中屋敷や下屋敷などの武家地である(明治になると、土地が払い下げられ、新しい町が形成されていくが、茶の木神社も、そうした町の一つ、蛎殻町(日本橋人形町1)の一角に祀られたのであろう。この神社、もとは、佐倉藩堀田家屋敷内に祀られていた稲荷社という)。

(3)水天宮(中央区日本橋蛎殻町2-4)
 武家地の中を、松島町方面に進む(現在は、茶の木神社から交差点を渡ってすぐの所に、水天宮があるが、江戸時代、この辺りは大名屋敷などの武家地で、水天宮のある場所も武家地であった。明治になって、三田の久留米藩邸に祀られていた水天宮を移したのが、現在の水天宮という)。

(4)松島神社(中央区日本橋人形町2-15)
 武家地を通りぬけ、周囲を大名屋敷などに囲まれた松島町(日本橋人形町2)に行く。この町の中に、松島稲荷神社(松島神社)がある。松島稲荷神社は、江戸稲荷百番付にも選ばれた稲荷社で、芸能関係者が多く参詣している稲荷社である。中村座があり芝居町とも呼ばれている堺町は、松島町からそう遠くない場所にある。

(5)末廣神社(中央区日本橋人形町2-25)

 松島町から東に行き、浜町堀に沿って北に行くと、西側に入り込む堀がある。堀の北側は難波町(日本橋人形町2)で、元の吉原(葭原)の遊郭が浅草に移った後に作られた町の一つである。ここを左へ行くと、屋敷の角にイナリがある。江戸稲荷百番付で、難波町の末廣稲荷として取り上げられているのは、この稲荷のようなので早速参拝。末廣稲荷神社(末廣神社)は、古くからこの地にあり、移転前の葭原で信仰されていたが、移転後に出来た町々でも産土神として信仰されているということである。

(6)笠間稲荷神社(中央区日本橋浜町2-11)
 松島町を出て、浜町堀を小川橋で渡るが(現在、堀は埋め立てられて、橋も無くなっているが、一部が緑道になっている)、渡った先も、武家地である(この場所も明治になると、新しい町が形成されるようになる。そうした町の一角に、笠間稲荷神社も祀られたのだろう。この社は、もともと、笠間藩邸内にあった稲荷社という)。

(7)椙森神社(中央区日本橋堀留町1-10)
 浜町堀沿いの浜町河岸を北に行き、栄橋を渡る(現在は堀も橋も無い)。富沢町(日本橋富沢町)、長谷川町(日本橋堀留町2)を通り、人形町の通りに出て右に折れ、その先、杉の森新道に入ると、椙森稲荷神社(椙森神社)の参道がある。この神社は江戸稲荷百番付で小結をつとめ、また、富くじでも知られた神社である。

(8)宝田恵比寿神社(中央区日本橋本町3)

 椙森稲荷神社から、新材木町(日本橋堀留町1)、堀留二丁目(日本橋堀留町1)を経て、大伝馬町二丁目(日本橋大伝馬町)に出る。江戸の初めの頃までは宿駅だったところで、伝馬役で名主もつとめ馬込勘解由の屋敷もここにあり、屋敷内に宝田稲荷を祀ったということである(明治になって、宝田稲荷は現在地に移るが、これが現在の宝田恵比寿神社である。この神社を中心とする、べったら市は、江戸時代に始まったとされるが、現在も続いている)。ここから、木綿店が軒を連ねる大伝馬町一丁目(日本橋本町3)を過ぎ、本町通り(日本橋本町3)を通って、日本橋の大通りを左に行き、日本橋に出る。

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亀戸七福神

2010-01-08 19:59:43 | 七福神めぐり

 この七福神は、亀戸天神を参詣してから回るのが良さそうである。亀戸天神を起点に、江戸の絵図上を、次の順路で巡拝してみる。龍眼寺(布袋尊)―天祖神社(福禄寿)―普門院(毘沙門天)―香取神社(恵比寿、大黒)―東覚寺(弁財天)―常光寺(寿老人)。

(1)龍眼寺(江東区亀戸3-34-2)
 亀戸天神へは、両国橋を渡り、竪川に沿って東に行き、横十間川を北に行き、天神橋で右に入れば神社の前に出る(現在なら、亀戸駅から明治通りを北に行き、蔵前橋通りを西に行けば神社の前に出られる)。亀戸天神の参拝を終えてから西側に出て、横十間川を北にたどると、川沿いにある龍眼寺に出る。この寺は、天祖神社の別当寺であり、萩の寺としても知られた寺でもある。

(2)天祖神社(江東区亀戸3-38-35)

 龍眼寺から北へ、横十間川沿いに行くと神明宮(天祖神社)に出る(現在は、龍眼寺の横を入り、斜め左に行った所に天祖神社がある。)

(3)普門院(江東区亀戸3―43-3)
 神明宮から横十間川沿いに北に行くと、北十間川に突き当たる。横十間川の西側、会席茶屋の南側にあるのは柳島妙見・法性寺で、北辰妙見大菩薩を祀っている。北十間川に出て、川に沿って南東方向に向かい、境町で右に入ると、清香庵という梅屋敷(現在無し。跡地は亀戸3。広重の描いた「亀戸梅屋舗」をゴッホが模写したことで知られる)がある。ここを南に行くと普門院に出る(現在の天祖神社から、北十間川に出ずに普門院に出る経路もあるが、道は少し分かりにくい)。

(4)香取神社(江東区亀戸3-57-2)
 普門院から東に行くと、香取神社の前に出る。天智天皇の頃の創立という古社である。

(5)東覚寺(江東区亀戸4-24-1)
 香取神社から、東に少し行くと東覚寺に出る(弁天堂は、平成になってから建立されたもの)。

(6)常光寺(江東区亀戸4-48-3)

 東覚寺からは、曲がりくねった道をたどると、六阿弥陀寺の一つ、常光寺に出る。彼岸の頃は、六阿弥陀詣での参詣客で溢れる寺である。この寺への道は、北十間川に沿って歩いた方が分かりやすいかも知れない。帰途は、南に行き、竪川に沿って両国橋に出る(現在なら、亀戸水神駅が最寄りだが、亀戸駅まで歩いてもよい)。

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港七福神

2010-01-05 19:29:21 | 七福神めぐり

 この七福神は、戦前から行われていた七福神が元になっているが、対象となる社寺は現在とは異なっていたようである。ここでは、現在の港七福神を、江戸の絵図で巡拝する。宝珠院(弁財天)-熊野神社(恵比寿神)-十番稲荷(宝船)―大法寺(大黒天)-氷川神社(毘沙門天)-桜田神社(寿老人)-天祖神社(福禄寿)-久国神社(布袋尊)。

(1)宝珠院(港区芝公園4-8)

 五重塔(現在は無し)を仰ぎつつ、赤羽橋を渡って、毎朝肴市が開かれるという広場に出る。増上寺へは、その先の赤羽門(赤羽橋交差点付近)から中に入る。門の左手には、閻魔堂のある宝珠院があり、右側には白蓮池という池があって、弁財天は、池の中の島に祭られている(現在、池は小さくなったが、現存している。ただし、弁財天の方は、宝珠院に祀られている)。参拝のあと、赤羽門を出て、赤羽橋北側の広場に戻る。橋の南側は久留米藩の屋敷で、その西北には水天宮の白い幟が見えている(この水天宮は、明治になって日本橋蛎殻町に移され、日本橋七福神の一つとなる)。

(2)熊野神社(港区麻布台2-2)
 赤羽橋北側の広場から、土器坂(桜田通り)を上がる。坂の名は、土器職人が住んでいたことによるという。坂の途中、左手に熊野権現(熊野神社)がある。太田道灌との所縁から太田稲荷とも呼ばれていたという社である。

(3)十番稲荷神社(港区麻布十番1-4)

 熊野権現から土器坂を少し戻り、斜めに入る道をたどり中ノ橋に出る。橋の手前を西に、新堀川沿いの町並みを行き、飯倉新町を通って、麻布永坂町に出る。ここに稲荷(長竹稲荷)があり、その先の麻布坂下町にも稲荷(末広稲荷)がある(戦前に行われていた七福神には、長竹稲荷と末広稲荷の両方が入っていた。戦後、両方の稲荷社が合祀されて十番稲荷神社となるが、現在は十番稲荷神社から宝船を出す形で、港七福神に参加している)。

(4)大法寺(港区元麻布1-1)
 麻布坂下町から一本松坂(大黒坂)を上がっていく。ものを売る店があったり、茶店があったりする坂道である。この坂の途中、右側に大黒天を祀る大法寺がある。

(5)氷川神社(港区元麻布1-4)
 大法寺から坂を上がり、右から上がってくる闇坂と合流した先に、伝説の一本松がある。ここから道は左に曲がっていくが、その先の左側に、麻布の総鎮守である氷川神社がある。

(6)桜田神社(港区西麻布3-2)
 氷川神社を出て、本村上ノ町の四つ辻(仙台坂上交差点付近)を右に行き、次の四つ辻(愛育病院前交差点付近)を右に折れる。しばらく北に向かって歩くと桜田中町(西麻布3)に出る。ここの左側に霞山稲荷(桜田神社)がある。この稲荷は、もと、桜田霞が関にあったが、住民共々この地に移住し、稲荷は霞山を称し、町は桜田町になったという。

(7)天祖神社(港区六本木7-7)
 桜田中町から北に向かい、竜土材木町から竜土町(六本木7)に出る。ここに、竜土神明宮(天祖神社)がある。

(8)久国神社(港区六本木2-1)
 竜土神明宮から六本木町へ行く道(外苑東通り)を歩き、途中で左に入る道(現在の東京ミッドタウンの横の道)をたどり、次の角を右に折れ、その先を左に折れて、三河台の道(六本木4)を歩く。そのまま進むと氷川神社(赤坂6)の前に出る。さらに行くと南部坂に出る。右に折れて坂を下り、さらに右に行くと久国稲荷(久国神社)に出る。帰りは、氷川神社の横を通って赤坂に出る(現在は、六本木一丁目駅が最寄りの駅になるが、六本木駅もそう遠くない)。

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新宿山ノ手七福神

2010-01-02 08:29:56 | 七福神めぐり

 新宿山ノ手七福神は昭和初期に作られたものである。今回は、江戸の絵図上を次の順路で巡拝する。善国寺(毘沙門天)―経王寺(大黒天)―厳島神社(弁財天)―法善寺(寿老人)―永福寺(福禄寿)―鬼王神社(恵比寿神)―太宗寺(布袋尊)。

(1)善国寺(新宿区神楽坂5-36)
 神楽坂を上がっていくと、坂の途中、左側に善国寺がある。この寺は徳川家の祈願所であり、毘沙門天の寺として庶民の信仰を集めてもいる。毘沙門天は、寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に現れたとされることから、狛犬の代わりに虎の形の石寅が置かれている。

(2)経王寺(新宿区原町1-14)
 神楽坂の上から左に行く(大久保通り)。御箪笥町、山伏町、市ヶ谷柳町を経て、牛込原町に出る(この辺り、古い地名が現在も残っている)。ここに、経王寺がある。牛込は火事が多い土地であったが、ここの大黒天は焼け残ったため、火伏せの大黒天として知られるようになったという。

(3)厳島神社(新宿区余丁町8)

 経王寺から西に行き、若松町の分かれ道で左の道をとる。馬ノ首団子坂という、妙な名前の坂を下っていくと、左側に厳島神社、通称抜け弁天がある。この弁財天は、源義家が社殿を建てたのが始まりとされており、また、江戸六弁天の一つでもある。

(4)法善寺(新宿区新宿6-20)
 抜弁天の境内を通りぬけると、法善寺がある。この寺の裏手に七面の社があり、かつては境内に桜が多かったため、上野の山に負けない程の花見客が訪れたということだが、それも昔の話で、今は花見の場所ではなくなっている(現在、この寺には、身延山の鎮守である七面明神が祀られている)。

(5)永福寺(新宿区新宿7-11)
 法善寺から戻って、抜弁天の斜め前にある永福寺に行く(この寺には、江戸では珍しい五葉の松の大木があったという)。

(6)鬼王神社(新宿区歌舞伎町2-17)
 久左衛門坂(職安通りの北側を通る坂)を下って、西大久保村の村道を行くと、稲荷社がある(現在、この稲荷社は鬼王権現を合祀して、稲荷鬼王神社になっている)。

(7)太宗寺(新宿区新宿2-9)

 西大久保村を斜めに通る道を歩き、番衆町に出て、成覚寺の前を過ぎ、門前町を右に折れると内藤新宿で、太宗寺がある。この寺は甲州街道に面しており、江戸六地蔵の一つが置かれていた(六地蔵とは、江戸の出入り口に当たる六ヶ所の寺、品川寺、東禅寺、太宗寺、真性寺、霊巌寺に置かれた地蔵尊のことである)。ここからは、甲州街道を通って帰路に就く(現在の最寄り駅は新宿御苑駅だが、新宿駅まで歩いても遠くはない)。

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