(34)梢橋
鎌倉橋から川沿いに歩いて行くと、洒落たデザインの「梢橋」が現れる。コストも余分に掛っていそうだが、それなりの理由があるのだろう。神田川に架かる橋は、見栄えのしないものが多いが、橋巡りの途中で、このような橋に遭遇すると、一寸ばかりほっとする。この橋の少し先の右側に、遊歩道が作られている。神田上水は自然河川をそのまま使っていたため、大なり小なり蛇行していたが、神田川が改修されて人工的な流路になると、あちこちで旧水路跡が取り残されることになった。また、小さな支流の跡が残っている場合もある。この遊歩道も、そうした水路の跡なのだろうか。
(35)藤和橋
続いて現れる「藤和橋」も、藤に因んだ洒落たデザインになっている。設計者の遊び心なのか、地元民の強い要望を入れてのことなのか、それとも単に予算が余っただけなのかは分らないが、こういう橋を見ながら歩くのは、退屈しないでいい。次の橋に行く途中、右側に横長の池がある。ポンプに支障があって水が入れられずに空池になっているのは残念だが、石組もあって立派な池である。
(36)八幡橋
次の「八幡橋」の名は、太田道灌の創建という下高井戸八幡神社に由来し、橋も神社の参道を意識したデザインになっている。江戸から明治の初めごろまで、神田川の右岸は斜面になっていて、橋もなかったらしいが、明治の終わりごろになると、ここに橋が架けられて参道も出来る。最初は、宮ノ下橋と呼んでいたようだが、後に、表参道にあたる玉川上水の橋の名を受けて、「八幡橋」となる。神社のある場所は、東に張り出した低い丘の上にあるが、今は何の眺めも得られない。
(37)むつみ橋
住宅街の中を川沿いに進んで、「むつみ橋」に出る。さすがに、4か所も続けて凝ったデザインの橋にするわけにいかなかったのだろう、ここは、ありきたりの橋になっている。以前は、八幡橋から神田橋までの間は田圃で、幾つかの橋も架かっていたようだが、今は神田川の流路も変わり、宅地化も進み、道も出来て、新たな橋が架けられている。
(38)弥生橋
さらに進むと「弥生橋」に出る。橋の欄干の配置が双曲線のようになっているが、自転車でも楽に通行できそうだ。今回は橋を渡らずに通り過ぎ、先を急ぐ。距離表示によると、先はまだまだ、遠そうだ。
(39)向陽橋
次の「向陽橋」は、近くの中学校の名を付けた橋である。ついでに言うと、この中学校の敷地は、お屋敷森古墳の跡なのだそうである。この古墳は、大正時代に発掘されたが、埋葬品は全て散逸してしまったという。古墳の跡とみられる、南北100m東西50mの小丘は、戦前まで残っていたようだが、戦後は完全に消滅して学校の敷地となる。発掘前に史跡に指定されていれば、今ごろは古墳公園になっていたかも知れないのだが。
(40)幸福橋
続いての橋は「幸福橋」。その名にあやかろうと、しばし休憩。橋の上から覗くと、鯉が二、三匹。それと、コサギが一羽。思わず声をだすと、その声に驚いたのか、コサギは水面ぎりぎりに飛び、橋の下を潜って、何処かへ行ってしまった。
(41)神田橋
次の「神田橋」は、車道と歩道が別の橋になっている。この橋を通る道を荒玉水道道路といい、梅里から喜多見まで一直線の道になっている。昭和の初期に、多摩川の水を送るための水道管を埋設した際、その上に作られたのがこの道路で、「神田橋」も、この道路が作られた時に架けられ、神田上水を渡る橋ゆえ、神田橋としたのだろう。当時は、上流の八幡橋から下流の永福橋までは田圃で、その中を道路が横断していた。
(42)かんな橋
次の橋は「かんな橋」。ここからは右岸を歩く。この辺りの神田川の遊歩道は、周辺に緑が多く、快適に歩けるのが何よりだ。少し足を速めて、次の「永福橋」を渡る。少々疲れたので、しばし休憩。第一日は、ここで終わりにしたい気分。
鎌倉橋から川沿いに歩いて行くと、洒落たデザインの「梢橋」が現れる。コストも余分に掛っていそうだが、それなりの理由があるのだろう。神田川に架かる橋は、見栄えのしないものが多いが、橋巡りの途中で、このような橋に遭遇すると、一寸ばかりほっとする。この橋の少し先の右側に、遊歩道が作られている。神田上水は自然河川をそのまま使っていたため、大なり小なり蛇行していたが、神田川が改修されて人工的な流路になると、あちこちで旧水路跡が取り残されることになった。また、小さな支流の跡が残っている場合もある。この遊歩道も、そうした水路の跡なのだろうか。
(35)藤和橋
続いて現れる「藤和橋」も、藤に因んだ洒落たデザインになっている。設計者の遊び心なのか、地元民の強い要望を入れてのことなのか、それとも単に予算が余っただけなのかは分らないが、こういう橋を見ながら歩くのは、退屈しないでいい。次の橋に行く途中、右側に横長の池がある。ポンプに支障があって水が入れられずに空池になっているのは残念だが、石組もあって立派な池である。
(36)八幡橋
次の「八幡橋」の名は、太田道灌の創建という下高井戸八幡神社に由来し、橋も神社の参道を意識したデザインになっている。江戸から明治の初めごろまで、神田川の右岸は斜面になっていて、橋もなかったらしいが、明治の終わりごろになると、ここに橋が架けられて参道も出来る。最初は、宮ノ下橋と呼んでいたようだが、後に、表参道にあたる玉川上水の橋の名を受けて、「八幡橋」となる。神社のある場所は、東に張り出した低い丘の上にあるが、今は何の眺めも得られない。
(37)むつみ橋
住宅街の中を川沿いに進んで、「むつみ橋」に出る。さすがに、4か所も続けて凝ったデザインの橋にするわけにいかなかったのだろう、ここは、ありきたりの橋になっている。以前は、八幡橋から神田橋までの間は田圃で、幾つかの橋も架かっていたようだが、今は神田川の流路も変わり、宅地化も進み、道も出来て、新たな橋が架けられている。
(38)弥生橋
さらに進むと「弥生橋」に出る。橋の欄干の配置が双曲線のようになっているが、自転車でも楽に通行できそうだ。今回は橋を渡らずに通り過ぎ、先を急ぐ。距離表示によると、先はまだまだ、遠そうだ。
(39)向陽橋
次の「向陽橋」は、近くの中学校の名を付けた橋である。ついでに言うと、この中学校の敷地は、お屋敷森古墳の跡なのだそうである。この古墳は、大正時代に発掘されたが、埋葬品は全て散逸してしまったという。古墳の跡とみられる、南北100m東西50mの小丘は、戦前まで残っていたようだが、戦後は完全に消滅して学校の敷地となる。発掘前に史跡に指定されていれば、今ごろは古墳公園になっていたかも知れないのだが。
(40)幸福橋
続いての橋は「幸福橋」。その名にあやかろうと、しばし休憩。橋の上から覗くと、鯉が二、三匹。それと、コサギが一羽。思わず声をだすと、その声に驚いたのか、コサギは水面ぎりぎりに飛び、橋の下を潜って、何処かへ行ってしまった。
(41)神田橋
次の「神田橋」は、車道と歩道が別の橋になっている。この橋を通る道を荒玉水道道路といい、梅里から喜多見まで一直線の道になっている。昭和の初期に、多摩川の水を送るための水道管を埋設した際、その上に作られたのがこの道路で、「神田橋」も、この道路が作られた時に架けられ、神田上水を渡る橋ゆえ、神田橋としたのだろう。当時は、上流の八幡橋から下流の永福橋までは田圃で、その中を道路が横断していた。
(42)かんな橋
次の橋は「かんな橋」。ここからは右岸を歩く。この辺りの神田川の遊歩道は、周辺に緑が多く、快適に歩けるのが何よりだ。少し足を速めて、次の「永福橋」を渡る。少々疲れたので、しばし休憩。第一日は、ここで終わりにしたい気分。