夢七雑録

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高田富士と池袋富士塚

2016-07-27 21:17:21 | 富士塚めぐり

(1)富士信仰と富士塚

日本古来の山岳宗教が仏教などの影響を受けて大系化された宗教を修験道と称し、その修行者を修験者または山伏と呼ぶ。富士信仰は古くからあったと考えられるが、中世になると、平安末期に富士に登頂した末代上人を開祖とし富士山南麓の村山を拠点とする村山修験によって、修験道を中心とした富士信仰が広まる。富士塚を築いて富士浅間社を勧請する事も行われるようになり、15世紀終りには各地に富士塚が置かれるようになったという。江戸時代の初め、修験者であった長谷川角行は教義を整え信者の組織化をはかって富士講の開祖となる。その後、角行の後継者は正統派を任ずる村上派と身禄派に分派するが、庶民に受け入れやすい教えを説く身禄派がやがて勢力を拡大し、高田富士を嚆矢として多くの富士塚を築くようになる。一般に富士塚と言えば、このような、身禄の流れをくむ富士講によって築かれた富士塚のことを指すようである。

 

(2)高田富士

高田の植木職人で、登拝経験の豊富な大先達でもあった藤四郎は、身禄の弟子でもあり、身禄の遺文を受けて、富士山の東にあたる江戸の水稲荷境内に、富士山を写した東身禄山、すなわち、世に高田の富士山と呼ばれた富士塚を築いた。富士塚の高さは3丈余(約10m)、富塚という古墳の上に築いたと言われている。江古田の富士塚は古墳の南側を崩して積み上げたとする説があり、これと同じ方法がとられたとすれば、富塚の一部を残して積み上げ、踏み固めを行って、富士の溶岩である黒ボク石で覆ったと思われる。富士山を遠くで眺めれば秀麗な姿をしているが、実際に登ってみれば岩だらけである。大先達として、黒ボク石は現実の富士の姿を現すために必要であったと思われるが、軽量で運びやすいという利点もあった。黒ボク石は、桂川・相模川を経て海路により江戸に運ばれたようである。藤四郎が築いた高田富士は江戸で評判を呼んだらしく、江戸名図会にも取り上げられている。なお、江戸名所図会では、高田富士の完成を安永9年としているが、現在では安永8年(1779)完成が定説のようになっている。

もともとの高田富士は、宝泉寺の北側に位置する水稲荷の境内にあった。水稲荷は、早稲田大学との土地交換により昭和38年には現在地に移転したが、高田富士については解体反対運動があって遅れ、昭和41年になってようやく水稲荷境内の現在地に移転した。移設された高田富士が旧来の姿をどこまで残しているかは不明だが、富塚については高田富士と分離されて水稲荷の社殿裏手に移されている。高田富士は通常非公開で、海の日とその前日(今年は7月17.18日)に行われる高田富士祭りの時だけ公開されている。

富士祭りは夕方からの方が賑やからしく、昼間は人も少ない。入口に置かれている資料などを見てから少し下ると浅間神社に出る。その横から登山路が始まり、ジグザクに坂を上がれば、さほど急なところも無く頂上に達する。周囲は木が茂って眺めは得られない。頂上に祀られている奥宮を拝礼し、鐘を叩いてから別の道で下りると、大先達の藤四郎が船津胎内を発見したことに因む胎内が設えられている。富士塚の麓をたどって浅間神社に戻ると、誰が叩いているのか鐘の音が聞こえてきた。その音を聞きながら外に出た。

 

(3)池袋富士塚

明治時代、修験道による富士信仰は衰退するが、それぞれの土地に根付いた民間信仰としての富士講は昭和の頃まで存続し、富士塚の築造も行われていた。池袋氷川神社(豊島区池袋本町3-14)の境内にある池袋富士塚については、次のような話が伝えられている。池袋講の先達の家には小さな富士塚があったが、世に出すようにという夢のお告げがあった。そこで講の人たちとも相談し、氷川神社内に富士塚の築造を始めたという。明治45年のことである。池袋富士塚は、高さ5m、東西13m、南北18m。セメントを使って黒ボク石を積み上げている。登山路は電光形で、平成9年に改修されて歩きやすくなっている。この富士塚には、奥宮、小御嶽社、烏帽子岩、経ケ岳、題目碑、合目石、講碑、角行像、天狗像、胎内なども設けられており、数少ない富士塚のひとつとして、平成10年に豊島区の史跡に指定されている。富士講はすでに無いが、7月1日には氷川神社によるお山開きが行われ、通常は非公開の富士塚も公開されている。

<参考資料>「ご近所富士山の謎」「富士塚考」「豊島区の富士講と富士塚」「新宿区史跡散歩」「豊島区史跡散歩」「江戸名所図会」

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下谷坂本・江古田・長崎の富士塚をめぐる

2016-07-15 19:26:53 | 富士塚めぐり

2013年7月に投稿した富士山世界遺産登録記念という記事のうち、富士塚に関する記事を分離し、追加修正を行ったうえで、改めて富士塚めぐりとして投稿することとした。

 

(1)富士塚めぐり

 富士山には、一度だけ登ったことがある。何十年も前のことだが、その日の登山道は大渋滞で、寒い中を延々と待たされ、途中の山小屋もぎゅうぎゅう詰め、身動きも出来ぬまま一晩を過ごし、翌日は何も見えぬ霧の中をひたすら登り、何とか登頂の目的は果たせたものの、頭痛に悩まされ、早々に山を下りたことを覚えている。それ以来、富士山は眺める山で、登る山ではないと思ってきたのだが、今にして思えば、もう一度ぐらいは登った方が良かったのかも知れない。富士山の登山客は、世界遺産に登録されたこともあって、今後も増加していくのだろう。今となっては、その登山客の一人にはなれそうにないが、その代わりとして、富士山に行けない人のために造られ、富士山に登ったのと同じ御利益があるという富士塚に登ってみることにした。

 富士塚は富士山を摸して築造された塚で、江戸中期以降、庶民の富士山信仰が盛んになるにつれ、江戸を中心に富士講が結成され、高田に築かれた富士塚を初めとして数多くの富士塚が築造されたが、今も原形を保つ富士塚は多くはない。富士塚は富士山と同様に旧6月1日(現在は7月1日)を山開きとするが、現在は講も少なくなり、行事も昔のようには行われなくなっている。都内の富士塚では三カ所が、信仰に関わる国指定の重要有形民俗文化財として指定されているが、まずは、この三カ所から富士塚めぐりを始めたい。

 

(2)下谷坂本の富士塚

小野照崎神社の境内にある富士塚は国指定の重要有形民俗文化財の一つで、文政11年(1828)の築造とされ、高さ5m直径16m、塚全体を富士山の溶岩がおおっている。東北側は一部欠損しているが、正面は完全な形で残っており、万延元年の石門、天保7年の神猿、文政11年の石灯籠のほか、合目の石、役行者像や藤原角行像がある。この富士塚は通常は公開されず、山開きの6月30日と7月1日に限って登ることが出来る。登山門から入って、足元に注意しつつ岩を手掛かりに登る。頭上には提灯が並び、石造物には、しめ縄が付けられている。ジグザグの登山路をたどれば、あっという間に頂上に着いてしまうが、少しは達成感もある。帰りは浅間神社のお祓いを受けることも出来る。 

 

(3)江古田の富士塚

江古田富士塚は、西武池袋線江古田駅北口すぐの浅間神社(茅原浅間神社)の拝殿裏手にある。築造は天保10年(1839)とも文化年間(1804-1817)ともいう。この地にあった古墳を崩して築いたとする説もある。この富士塚の北から東側の低地は、石神井川支流エンガ堀の源流部の一つで、小竹の溜池と呼ぶ池があったという。江古田富士塚は富士山の溶岩でおおわれており、高さは約8m、直径は約30m、富士塚としては比較的規模が大きく、国指定の重要有形民俗文化財になっている。狭いがしっかりした、つづら折りの道を上ると、頂上に鳥居があり、天保10年に造られた唐破風屋根の石祠が置かれている。このほか、経ケ嶽・太郎坊・小御嶽神社の石碑、大天狗・小天狗・神猿の石像、元治2年の講碑などもある。頂上一帯は樹林の中にあり、現在は眺めが得られない。この富士塚は正月三日と、山開きの7月1日、それと9月の祭礼の日の年に3回公開されている。浅間神社の参道は西武池袋線により分断されてしまったが、もともとは、農産物の江戸への輸送路であった清戸道(現在の千川通り)につながっていた。

 

(4)長崎富士塚

 長崎富士塚(高松富士)は文久2年(1862)の築造とされ、高さは約8m、直径は約21mで、全体が富士の溶岩でおおわれている。この富士塚には、頂上の石祠のほか、太郎坊大権現碑・亀岩八大龍王神碑・月三講の講碑・同行碑・登山道の合目石・手水鉢など文久2年築造当時に造立されたものも多く残存し、文久3年の永田講の講碑など他の講碑も建てられており、創建時の原型を良く保っていることから、国の重要有形民俗文化財に指定されている。富士塚は富士山の遥拝所でもあるが、昭和30年頃までは、この富士塚から富士山を望む事が出来たという。現在、この富士塚は山開きの2日間だけ公開されている。今年は7月2日と3日に公開され、麓の浅間神社では獅子舞も奉納されていた。この富士塚の西側の道は、清戸道(現在の目白通り)から分岐して長崎神社の横を通り板橋に通じる江戸時代からの道である。

 

<参考資料>「重要有形民俗文化財・詳細解説」「ご近所富士山の謎」「台東区史跡散歩」「練馬区史跡散歩」「豊島区史跡散歩」「練馬区の富士塚」

 

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カードゲーム(トランプ)の思い出

2016-07-10 13:26:28 | 随想ほか雑記

(1)ブック型トランプ

日本では、プレイングカードの事をトランプ(trump)と呼んでいるが、正しくは、切札(一番強いカード)の事をトランプというらしい。大統領候補となったトランプ氏も同じ綴りだそうだが、それはそれとして、トランプならわが家にもあった筈と思い、家探しをしてみた。すると、銀行で貰った未開封のトランプとブック型のミニトランプが出てきたが、昔よく使っていたバイスクルのカードは、何時の間にか処分してしまったらしく見当たらなかった。ミニトランプは安物ではなさそうだが、高級品でもなさそうである。メーカーは判然としないが、ブックの背表紙からするとユニバーサル社かも知れない。年代的には戦前のものに違いないが、旅行などの際に度々持ち出していて、使い古しになっているゆえ値は付かないだろう。一応、札は揃っているので、まだ使えそうだが、このままそっと、しまっておきたい気もする。

 

(2)コントラクトブリッジ

もう半世紀も前のことだが、コントラクトブリッジ(ブリッジ)の講習会に誘われ、ほんの気まぐれで出てみたことがある。そして、数日後には、初心者にもかかわらすブリッジのメンバーになっていた。ブリッジは4人で行う競技で、向かい合う者がペアを組み、ペアとペアが勝負を競う事になるため、メンバーが揃わないとゲームが始められないという事情があった。また、ルールが複雑で予備知識無しではゲームに参加できないこともあって、講習会への参加はメンバーになる事を意味していたらしい。結局、毎日のようにブリッジをすることにはなったが、楽しくもあった。その後、昼休をブリッジで過ごす人の数が次第に増えていき、それに伴い、こちらも観戦する側に回ることが多くなった。それから何年かが経過したある日、職場でのトランプは禁止というお触れが出された。囲碁や将棋は何の御咎めもないのに、知的で紳士的なゲームであるブリッジが何故ダメなのかという批判もあったが、お触れが取りやめになる事はなかった。トランプと言えばポーカー、ポーカーと言えば賭け事というイメージがあったのかも知れない。そんな事があってから、ブリッジを止めてしまったため、今ではブリッジのルールもおぼろげになっている。

 

<オートブリッジ>

本棚を整理していたら、ブリッジを一人で学ぶのに使うオートブリッジという道具が出てきた。ブリッジでは、こちらが間違うとペアを組む相手にも迷惑がかかるので、もう少し勉強してみようと購入したのがこのオートブリッジで、外国製である。ブリッジでは、プレイに先だってビッドによる競り(オークション)が行われるが、どのようなビッドをすれば良いのか、また、プレイの段階ではどのような順番でカードを出せば良いのか知る必要があり、これを学ぶための道具がオートブリッジということになる。オートブリッジには、カードの様々な配られ方に対して、最適なビッドやカードの出し方を印刷した紙、つまり、棋譜のようなものが多数添付されている。この紙をオートブリッジ用の器具に入れて使うのだが、器具の窓を手でスライドさせて順番に表示するだけの全手動型の器具である。この道具を使用した痕跡は僅かにあるものの、あまり使われないまま今日まで眠っていた事になるが、今では何の役にも立たない、ただの思い出の品になってしまっている。

 

(4)サクライ・コンベンション

ブリッジにおける競り(オークション)を、より有利に行うための巧妙な方法として、コンベンションというビッドの仕方が考えられている。ブリッジを始めた頃、日本人の名を付けたサクライ・コンベンションというのがある事を知り、いつかやってみたいと思っていたのだが、残念ながら、その機会が訪れる事はなかった。今では、このコンベンション自体を知っている人も少ないかも知れないが。

(注)サクライ・コンベンションについて

ペアを組む相手が1NTをオープンした時、こちらの手が良く6NTか7NTの可能性があれば3Dをビッドする。相手は12ポイント持っていれば3NT、13ポイントなら3S、14ポイントなら3Hと答える。これを受けて、両方の点を合わせ33ポイントなら6NT、37ポイントなら7NTへ行き、32ポイント以下なら3NTで終わる。なお、本当にダイヤが良い時は4Dをビッドする。

 

(5)その他のカードゲーム

ババ抜きや神経衰弱に始まって、これまで様々なトランプのゲームを行ってきたが、ブリッジの他にもう一つ上げるとすれば二八(ニッパチ)だろうか。数人で出かけた出張の帰り、客もまばらな列車の中で延々と二八を続けていた日の事を今も思い出す。トランプの一人遊びの本を買ってきて、暇つぶしに遊んでいたのは、ずっと昔の事である。今では、一人遊びについての記憶も、微かに残っているだけになっている。

 

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