夢七雑録

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都電沿線の桜めぐり

2015-04-05 08:38:05 | 都電荒川線に沿って

都電荒川線に沿ってというカテゴリーで、2010年から翌年にかけて都電の一駅散歩を投稿しているが、今回はその追記で、沿線の桜の見所を取り上げている。江戸川橋から上流の高戸橋までは、神田川沿いに桜並木が続いているが、花見の中心となるのは江戸川橋と駒塚橋の間で、駒塚橋から上流は花見客もやや少なくなる。

新江戸川公園は、細川家の下屋敷(抱屋敷)跡で、明治になって細川家の本邸となった敷地のうち、池を中心とした低地の部分に相当する。細川家の屋敷地は目白通りに至る台地が含まれていて、昭和初期に建てられた細川家の洋館は和敬塾本館として現存し、同じく昭和初期の細川家の家政所は永青文庫として今に引き継がれている。新江戸川公園内の松声閣は大正時代に細川家の学問所として建てられた和館だが、現在は老朽化対策と耐震化のため工事中になっている。去年、この公園を訪れた時は、大雪による倒木のため通行止めになっている箇所が幾つかあったが、今年はそのような事は無かったようで、桜を見ながら庭園内をゆっくり見て回ることが出来る。

新目白通り南側の甘泉園にも桜はあるが、訪れる人は多くなさそうである。甘泉園のある馬場の北側の土地は尾張徳川家、大草家、清水家、田安家の下屋敷を経て、明治になると清水家の本邸となる。その後、相馬永胤(専修大学初代学長)が購入して新築・造園を行ったが、所有者はさらに早稲田大学、東京都と変わり、現在は新宿区の公園になっている。日本庭園出入口の構えは江戸名所図会の挿絵、山吹の里の門に似ていると言う話もあるが、江戸時代、山吹の里は面影橋の南側にあったと言われていたので、縁が無いわけでもない。

面影橋の上流にも桜並木は続くが花見客の姿はあまりない。近くの南蔵院や氷川神社にも桜はあり、明治通り沿いにも桜はある。この時期、探せば何処かに桜はあるが、雑司ヶ谷で見所を一つ上げるとすれば、鬼子母神の北側にある法明寺参道の桜並木だろうか。本数は多くはないが、桜の配置が良いせいか絵になる風景である。都電の線路沿いの道に戻ると、環状第5の1号線(雑司ヶ谷)の道路工事がいまも進行中。都電唯一のガードも閉鎖されてしまったが、都電雑司ヶ谷の近くに残された蔵は今も健在である。その先、西側の小学校跡地にはビルが建築中で、上層は高層マンション、下層には近々豊島区役所が移転してくるらしい。ビルの周囲には、豊島区の木でもあるソメイヨシノに因んでか、何本かの桜が植えられている。ひょっとすると、校庭の桜が混じっているかも知れない。

東池袋四丁目を過ぎて先に進むと、造幣局の周辺にも桜が見られる。向原を過ぎると左側に大塚台公園がある。その先を右に入ると桜並木が見えて来る。600mほど続く南大塚の桜並木だが、ちょっと見た限りでは人通りは少なそうである。桜まつりの時は別として、普段は、知る人ぞ知るの花見の名所になっているのだろう。

大塚駅前から都電に乗り飛鳥山で下車。目の前に飛鳥山の桜が広がっているが、飛鳥山公園に行く前に、レンガ造りの建物に合うサクラを見に、醸造試験所跡地公園に行く。幕末、江戸幕府は千川上水の水を堀割で引き入れて反射炉の建設を行ったが、程なく明治となり反射炉は利用されないまま廃炉となる。その後、同じく水を必要とする紡績工場と製糸工場が設置されるが、明治の中頃には他に移っている。明治37年、酒類総合研究所の前身となる醸造試験所が設置され、その時に建てられた赤レンガ酒造工場が現存している。

醸造試験所跡地公園から下って行き、突き当りを左に行く。この道は石神井川右岸の遊歩道で所々に桜も見られる。やがて音無さくら緑地に出る。ここは蛇行していた石神井川の流路跡に作られた緑地だが、そろそろ戻りたいので、松橋を渡って今度は左岸を下流に向かう。

現在の石神井川は音無橋から飛鳥山の下へと潜ってしまい、もとの石神井川の流路は音無親水公園という名の公園となる。公園内には桜が必要十分なだけあるが、谷底から桜を眺めるより、上がって見た方が良さそうな気もする。

江戸時代には歌舞音曲禁止の上野の花見を嫌って、飛鳥山まで繰り出すことがあったらしい。そう言えば落語の「長屋の花見」も飛鳥山で花見をしている。江戸の浮世絵版画を見ると桜のほかに松が目立つが、今は花見の名所ともなれば、人また人、桜また桜になっている。

旧渋沢家飛鳥山邸の庭園を歩き、大正時代の晩香盧と青渕文庫を外から眺める。この庭園にも桜はある。明治12年、渋沢栄一は別荘として建てて間もない飛鳥山邸に、国賓として来日中のグラント将軍を午餐に招待している。

都電の荒川遊園地前からすぐに桜並木が始まり、あらかわ遊園の中の桜へと続いている。遊園地の裏手は隅田川で、もう少し天気が良ければ川沿いに散歩したい気もする。ところで、小台までの区間、補助90号線の拡幅に関連して都電の軌道の移設工事が行われていた。

尾久の原公園は旭電化の工場跡地を防災公園としたもので、有志によりシダレザクラが植えられたことから、開花の頃は見事な景観を見せるようになり、シダレザクラ祭りも開催されている。ただ、この公園に関しては、ダイオキシン汚染対策を進める必要があるらしい。

三河島水再生センターには桜が多く植えられており、荒川二丁目付近では車窓に桜が続くようになる。水再生センターの人工地盤の上に作られた荒川自然公園にも桜はある。また、荒川八丁目口に行けば桜並木がある。

荒川公園は荒川区役所の前庭のような公園で、しだれ桜が多く植えられている。ここでは花見の会も行われるらしい。桜が多く見られる場所は他にもある。三ノ輪橋の付近では、荒川一中前の線路沿いや正庭通りに桜がある。

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荒川一中前から三ノ輪橋へ

2011-04-02 10:46:04 | 都電荒川線に沿って

 荒川一中の停留所から少し戻って、三ノ輪商店街を歩く。最初のうちは閑散としていて、シャッターの閉まっている店も幾つか見かけるが、そば屋の砂場総本家から先は、活気ある商店街になっている。買い物客の間を抜けて商店街の先を右に折れると三ノ輪橋の停留所に出る。大正2年に三ノ輪線のターミナルとして、三ノ輪の名で開業した停留所である。三ノ輪橋停留所は関東の駅百選に選定されているが、レトロ風に改修されているらしく、趣のある停留所になっている。その積りで見るせいか、停留所だけではなく、電車を待つ人、周囲の家並み、買い物帰りに近くを通る人の何れもが、昭和という時代に連なっているように思えてくる。

 都電荒川線の早稲田から三ノ輪橋まで12.2Km。その沿線を歩いてみると、今や遠くなりかけている昭和という時代を、都電荒川線が、何とか繋ぎとめてきたのではないかという気さえしてくる。もし、都電荒川線が、他の都電の路線と同様に廃止されていたら、その沿線は今どうなっていたのだろうか。


 三ノ輪橋の停留所に別れを告げ、ビルの下の古いアーケードを抜けて、日光街道を渡る。振り返ると、王子電気軌道株式会社が昭和2年に建てた三ノ輪王電ビルが、持主は変わっても、当時の姿を残したまま、そこに建っていた。

 日光街道を歩きJRのガードを潜って、停留所名にもなっている三ノ輪橋の跡を見に行く。石神井川から分流された下郷用水、またの名を音無川と呼ばれていた用水は、飛鳥山に続く台地の下を通り、日暮里から三ノ輪に流れ、山谷堀を経て隅田川に落ちていた。三ノ輪橋は、この用水に架かっていた橋だが、今はこの用水も暗渠化され、三ノ輪橋も消滅している。三ノ輪橋跡の標柱の傍らで、日光街道の車の流れを見ていても、江戸時代の音無川の清流と三ノ輪橋を想像する事は難しい。せめて、山谷堀の方向でも眺めようかと、少し先まで行ってみる。すると、通りの向こうに、空に向かって伸びつつある東京スカイツリーの姿が見えた。

 都電に沿って歩いて、王子を過ぎた頃からは、度々、東京スカイツリーを見かけるようになった。その一方で、早稲田から三ノ輪橋までの間、東京タワーを見た記憶は無い。或いは、見えていても気付かなかったのかも知れない。そして、昭和の時代を繋ぎ留めているように思える都電荒川線の、その終点の果てに、東京スカイツリーはどこか誇らしげに聳えている。東京スカイツリーが、テレビ塔としての主たる役割を引き継いだ、そのあと、昭和の真っただ中にあった東京タワーは、恐らく、その存在感を徐々に失っていくのだろう。昭和という時代の何がしかの輝きを道連れにして。
(完)

 今回の連載にあたっては、次の資料を参考とさせていただきました。
「王電・都電・荒川線」「今日ものんびり都電荒川線」「都電荒川線歴史散歩」「東京都市地図」「明治・大正・昭和東京一万分の一地形図集成」「豊島区地域地図第4集」「豊島郡の村絵図」「江戸情報地図」「文京区史跡散歩」「新宿区史跡散歩」「豊島区史跡散歩」「北区史跡散歩」「荒川区史跡散歩」「旧鎌倉街道探索の旅・中道編」「新版・江戸名所図会」「東京ぶらり暗渠探検」その他の資料。ホームページなど。

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荒川区役所前から荒川一中前へ

2011-03-26 10:44:32 | 都電荒川線に沿って

 荒川区役所前停留所からサンパール荒川に戻って、旧道を歩き踏切を渡る。この道をしばらく行くと、千住間道に合流する。千住間道は弧を描くようにして明治通りと日光街道を結んでいる。この道路が開設されたのは、大正から昭和にかけてと思われるが、旧道の小塚原道が古くから千住間道と呼ばれていたかどうかは分からない。千住間道を先に進むと荒川総合スポーツセンターの建物の前に出る。この場所は、光の球場とも呼ばれた東京スタジアムが建っていた所でもある。球場の竣工は昭和37年。大毎オリオンズの本拠地として使用されたが、11年目にして早くも閉鎖の憂き目にあっている。私ごとだが、昔、日米野球を観戦したのは、確か、この球場だったと思うのだが。

 総合スポーツセンターの角を左に曲がって行くと、この地にあった千住製絨所の初代所長を務めた井上省三の胸像がある。千住製絨所は被服生地製造を目的として明治12年に設立された官営の工場で、少し先の荒川工業高には、製絨所の煉瓦塀が今も残っている。天王社(素盞雄神社)に向かっていた旧道の小塚原道は、千住製絨所が設置されたことで分断されたため、三河島から千住大橋方面に行く場合、製絨所敷地の周囲を通ることになり、少し遠回りになっている。荒川工業高の横を入って、道なりに歩いてスーパーの前を過ぎると、左手にふるさと文化館があり、その先に素盞雄神社がある。  

 スーパーに戻って、その横を入ると、製絨所の煉瓦塀が今も残っている。この道を歩いていくと千住間道に出る。ここを右に行き、次の信号で千住間道を渡って少し歩き、荒川一中前の停留所に行く。地元の請願により設置された停留所で、開業は平成12年、都電では最も新しい停留所である。その割には、昔から存在していたかのように、この場所に溶け込んでいる。


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荒川二丁目から荒川区役所前へ

2011-03-20 13:02:16 | 都電荒川線に沿って

 荒川二丁目の停留所を後にして、線路沿いに歩き、次の踏切を渡って荒川公園に行く。荒川区役所の前庭のような公園で、噴水池があり、また、さほど広くはないが池があって釣りをしている人が何人か居る。公園の外に出て、騒がしい明治通りを歩道橋で渡り、警察署の横にある地蔵堀石地蔵に行く。もともと、この石地蔵は、明治通り北側にあるサンパール荒川の位置に南向きに置かれていて、村人が旅する時には道中の無事を石地蔵に祈っていたという。荒川公園南側の明治通りの場所は、江戸時代、三河島村の主要道路であった新堀道(日暮里道)が通っていたところだが、石地蔵が置かれていたのは、新堀道から分かれる小塚原道の分岐点にあたり、村絵図にも記載されている。新堀道の道沿いには、石神井川の分流である下郷用水(音無川)から分水した用水が流れていて、都電三ノ輪停留所の周辺にあった大名屋敷に水を供給していた。この用水から余分な水を荒川(隅田川)に落とすための排水路が分岐していたが、石地蔵のあった場所は排水路の分岐点でもあった。この排水路は地蔵堀と呼ばれ、途中まで小塚原道に沿って流れたあと、北に流れて、現・アクロシティ付近で荒川(隅田川)に流れ込んでいたが、現在は全区間暗渠になっている。

 明治通りを渡った先、サンパール荒川の前の狭い方の道が旧道の小塚原道と思われる。ここでは広い方の千住間道を通って荒川区役所前の停留所に行く。停留所のホーム屋根の上にスカイツリーが少し見えているが、この辺りは、都電の沿線でスカイツリーが見える場所として、以前から知られていた場所である。この停留所の開業は大正2年。当初の停留所名は千住間道であったが、昭和17年に三河島二丁目に変更され、昭和37年からは現停留所名になっている。

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荒川七丁目から荒川二丁目へ

2011-03-09 19:20:05 | 都電荒川線に沿って

 踏切を渡って北に行き、荒川自然公園の入り口を示す表示に従って右に入る。夜間は閉鎖される道を通って、浄水場の上に架けられた人道橋を渡る。橋の上からは、東京スカイツリーが良く見える。渡った先は荒川自然公園である。

 荒川自然公園は三河島水再生センターの上に作られた公園で、運動の出来る北側のエリアと、池を中心にした庭園風の南側のエリアに分かれている。園内を一回りしたあと、南西側の出口から外に出る。坂を下って、線路の横に今も残っている蔵と、その前を通過する電車を眺めながら、荒川自然公園の下車駅のようになっている、荒川二丁目の停留所に行く。

 荒川二丁目の停留所の開業は大正2年。当初の停留所名は三河島であった。三河島は由緒ある地名であり、荒川区の中心でもあったので、本来なら地名として残しておくべきであったかも知れないが。 

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町屋駅前から荒川七丁目へ

2011-03-05 10:58:59 | 都電荒川線に沿って

 町屋駅前の停留所から南に行き、京成本線のガードを潜って藍染川通りに出る。大正時代、谷戸川(谷田川)下流の藍染川から隅田川に水を流す排水路が作られたが、藍染川通りはその跡である。都電の踏切まで行き、線路沿いに歩いて行くと泊船軒という寺がある。台東区の海禅寺の子院で、関東大震災のあと移転してきた寺だという。寺の名に軒を使うのは珍しいが、無いわけではないらしい。寺に入って左側の隅に山吹の塚というのがある。この近辺が、太田道灌ゆかりの山吹の里であるという伝説から作られたようだが、一時は消え去る運命にあったらしい。山吹の里については、同じ都電荒川線の面影橋の近くにも碑があるが、まともに本家争いをするような事はないのだろう、多分。

 泊船軒を出て右に行き、次の角を左に行くと、左手に荒川七丁目の停留所がある。この停留所の開業は大正2年。当初の停留所名は博善社前で、停留所の位置は現在より三ノ輪寄りだったようだ。この停留所から北に行った所に町屋の火葬場があり、博善社が運営していたため、この停留所名が付いたという。当時、この停留所の乗降客は多かったようで、三ノ輪線の経営には相応の寄与をしていたらしい。なお、停留所名は昭和17年に三河島八丁目となり、昭和37年の三河島七丁目を経て、昭和44年からは荒川七丁目になっている。

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町屋二丁目から町屋駅前へ

2011-02-28 20:09:46 | 都電荒川線に沿って

 次の停留所に行く途中、左の道に入って原稲荷に行く。この稲荷、町屋稲荷ともいい、家康入府にともない三河の農民がこの地に移住した際に創建したと伝えられている。稲荷社の境内を抜けて、稲荷前の商店街を歩き、町屋駅前の停留所に行く。

 この停留所の開業は昭和2年で、停留所名は稲荷前であった。最寄りの京成本線町屋駅が昭和6年に開業しているので、その事を見越して停留所を設置したのかも知れない。停留所名は、昭和26年に町屋一丁目に、昭和52年には町屋駅前となる。

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東尾久三丁目から町屋二丁目へ

2011-02-24 19:12:53 | 都電荒川線に沿って

 東尾久三丁目の停留所から南に入り阿遮院の前に出る。尾久では最も古い寺で、石神もこの寺の持ちであったという。また、この寺に昔あった大門から、大門という地名が出たと言う説もある。この寺を過ぎて、尾久本町通りのT字路に出る。尾久本町通りは、ここから西に尾久橋通りを越えて続いているが、江戸時代の道は、現・尾久橋通りの手前で左に折れて田端に向かっていた。今回はT字路を左に、東に向かって歩く。左折してすぐ、南に向かう道は、新堀(日暮里)に出る江戸時代の道の名残である。尾久本町通りの道を進んで、山門の赤が目立つ満光寺を過ぎ、信号のある道路を渡る。その先の左に入る道は、下尾久と町屋の境をなしていた江川堀の水路跡と思われる。江戸時代、尾久の田畑を潤していたのは、石神井川から分かれた下郷用水(音無川)から分水した用水で、田端から下尾久への道に沿って流れたあと、枝分かれして流れていた。江川堀はこの用水を荒川(隅田川)に流すものだが、下尾久の村絵図には記載が無い。明治と大正の地図では、荒川(隅田川)に流れ込む水路と、尾久の灌漑用水の間が切れており、江川堀の流路は途切れているように見えるが、より詳細な地図を見ると、細い水路ではつながっていたようである。昭和12年の地図には、満光寺の前から、現・第七峡田小近くの荒川(隅田川)に流れ込む江川堀の流路が記されている。ただし、堀として整備されていたのは下流の一部だけで、他は小川のような流れであったらしい。なお、現在は江川堀の全てが暗渠になっている。江川堀の水路跡を過ぎて少し行くと、町屋二丁目の停留所に出る。

 町屋二丁目の停留所の開業は大正2年で、当初の停留所名は町屋であった。町屋という名から、古くから開けた場所であったという説もあるが、江戸時代から明治・大正にかけての町屋は農村地帯であった。町屋に移住する人が急増したのは、関東大震災以降で、その結果、住宅と商店と町工場が混在して密集する地域になったということである。

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熊野前から東尾久三丁目へ

2011-02-20 19:24:08 | 都電荒川線に沿って

 テレビで見たことのある光景が、また見えるかもしれないと思い、熊野前停留所の南側にある熊野前商店街を少し歩くが、途中で引き返し、交差点を渡る。熊野前陸橋と舎人ライナーを一まとめにして下を潜ると、熊野前停留所の三ノ輪橋方面行ホームがあり、その先で道路は右斜め方向に曲がっている。その前方に、東京スカイツリーの上部が見えている。この辺りは上尾久と下尾久の境で、三ノ輪線が開通した頃は、一面の田畑だったところである。少し先で道路を渡り、石門通りという標石のところから入る。石門通りの名は、石神と大門という地名から名付けたという。そこで、その石神を見るため、見当をつけて横道に入り、尾久石尊の祠に行く。石神は自然石ということだが、古くは何か意味のある石であったのかもしれない。

 そのあと、石門通りに戻って尾久の原公園に行く。工場の跡地を、池のある原っぱにした公園で、何も無いのが特徴といえる公園である。この公園の北側、隅田川の近くまで行くと、公園の池越しに東京スカイツリーが見える。 

 公園を後に南に行き、ぬりえ美術館のところから右に入り、曲がりくねった道を歩く。江戸時代の村絵図に記されている道の名残と思われる。この道を歩いて東尾久三丁目の停留所に行く。停留所の向こうのビルの上に、東京スカイツリーが少しだけ見えている。この停留所の開業は大正2年、当初の停留所名は下尾久であった。

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宮ノ前から熊野前へ

2011-02-13 10:25:15 | 都電荒川線に沿って

 宮ノ前の停留所の開業は昭和2年頃。当時、周辺は歓楽地となっていたので、乗降客は少なくはなかったのだろう。当初の停留所名は宮の前であったが、後に宮ノ前となる。その名は尾久八幡神社に由来する地名による。この停留所から先へ行くと、熊野前陸橋が見えてくる。その手前に、熊野前停留所の早稲田方面行きのホームがある。

 熊野前停留所の開業は大正2年で、その名は熊野神社に由来する地名による。この地にあった熊野神社は、明治時代に尾久八幡に合祀されてしまったが、地名だけはそのまま残っていたらしい。現在、この停留所は日暮里・舎人ライナーの乗換駅にもなっている。

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