関口大洗堰から「船河原橋」までは、以前、江戸川と呼ばれていたが、「船河原橋」から先は、今も昔も神田川である。ここから先の神田川は、水量は増えたが流れは無く、黒く澱んだままである。それと、頭上の高速道路も気になる。歩道が遊歩道風に作られているのが、せめてもの救いだ。まもなく、「小石川橋」。江戸時代は小石川御門の前にあり、「小石川御門橋」と呼ばれた橋である。そのすぐ先で日本橋川が分れている。江戸時代より前、白鳥池から流れ出た平川は、「小石川橋」の東側にあった小石川の大沼に流れ込んでいたが、さらに、この大沼の南側から南流して江戸城の東側を流れ、日比谷入江に注いでいた。やがて、平川から江戸湊に通じる水路となる日本橋川が掘削される。一説に、命じたのは太田道灌だという。江戸時代になり、日比谷入江が埋め立てられると、日本橋川が、平川すなわち神田川の下流となる。その後、お茶の水付近の台地が掘削され、神田川が東に流れて隅田川に出るようになると、日本橋川への水路は不要になり、その上流部が埋め立てられる。明治になって、神田川から日本橋川への水路が再び掘削されるが、それが現在の姿ということになる。少し疲れてきた足と目を労わりながら、「小石川橋」を渡り、ひとまず神田川と別れて、日本橋川を「三崎橋」で渡る。
(133)後楽橋
「三崎橋」の先、神田川に架かる「後楽橋」を渡る。昭和の初めの架橋のようだ。隣に人道橋の「後楽園ブリッジ」が併設されていて、この橋を渡る人が引きも切らない。神田川から離れ、疲れた頭を奮い立たせながら、外堀通りを歩く。江戸時代、市兵衛河岸という荷揚げの場所だったところだ。しばらく歩いていくと、神田川の水面が覗ける場所がある。今は防災船着場になっているが、この辺りで小石川が合流するらしい。小石川は、地下鉄千川駅近くの弁天池を水源とする谷端川の下流で、古くは小石川の大沼に流入していたが、江戸時代は水戸藩邸を通過して、水道橋の上流で神田川に流れこんでいた。今は、すべて暗渠となり、人知れず流れて、人知れず神田川に落ちている。
(134)水道橋
江戸時代の「水道橋」は今より下流にあり、神田上水の掛樋に並んで架けられていたので、水道橋の名が出たという。また、近くにあった寺の名に因んで「吉祥寺橋」とも呼ばれていた。春日通りを渡り、万年樋のレリーフを欄干に填めこんだ「水道橋」を横目に、坂を上がる。神田上水をイメージしたらしい石の造形の横をすりぬけ、分水路の碑を過ぎると、神田上水掛樋跡の碑がある。関口大洗堰で分かれた上水は、後楽園を通ったあと、掛樋で神田川を越えていた。碑がある場所はその跡地だが、今は何の痕跡もない。
(135)お茶の水橋
「水道橋」から「お茶の水橋」へ、交通量の多い道路の横を、ひたすら上がる。緑が割合多く、木々の間から神田川の流れも俯瞰できて、快く歩ける道ではあるのだが、足は疲れ、目も少しかすんでくる。やがて、明治に架橋された「お茶の水橋」。橋の名の由来は、西北の本郷台の南端にあった湧水でお茶をたてたことによる。橋の付近は茗渓と称された深い谷で、左岸の斜面は樹木で覆われている。「お茶ノ水橋」の上からの「聖橋」方面の眺めは、絵になる風景のようで、カメラを構えている人が一人。その横をそっとすり抜ける。
(136)聖橋
JRお茶ノ水駅の南側の道を歩き、「聖橋」に行く。昭和の初めに架けられた美しい橋で、神田川に架かる橋の中で、どれか一つあげるとすれば、この橋をあげたいところ。橋の名は公募で決まったということだが、湯島聖堂とニコライ堂を結ぶ橋の名としては、適切な命名と言えるだろう。橋を渡り石段を下りて、「聖橋」の下をくぐり、もう一度橋を見上げてから、湯島聖堂の塀を見ながら進むと、やがて、「昌平橋」に出る。
(137)昌平橋
江戸時代の「昌平橋」は、今より上流にあり、古くは、新し橋、相生橋、一口橋などと呼ばれていた。その後、湯島聖堂が建造されると、そこに祀られている孔子の故郷である昌平郷に因んで、「昌平橋」と称するようになる。明治になって、この橋が大水で流出した後、しばらくは、橋の無い状態が続いたが、明治の終わりの頃、現在の昌平橋の位置に万世橋という名の橋が架けられる。一方、現在の「万世橋」の近くに、私設の有料橋が架けられ、昌平橋の名を継いだが、昭和になって、この橋が廃止されると、万世橋が「昌平橋」に改称する。ややこしい話は、これくらいにして、次の「万世橋」に行くことにするが、秋葉原の喧騒は避けたいので、神田川の南側の道を歩く。