夢七雑録

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成城・旧山田家住宅を見に行く

2018-11-27 19:28:29 | 東京の文化財

大正14年(1925)、成城学園が雑木林の土地を買収してこの地に移転し、学園用地以外を住宅用地として分譲したのが成城の街の始まりという。この分譲地に隣接し国分寺崖線にある神明の森みつ池特別保護区の上に位置する、旧山田家住宅(世田谷区成城4-20-25)が公開されているのを知り、見に行くことにした。成城学園駅を北口に出て左へ、小田急線に平行する道を西に進むと、不動橋から来る道に突き当たる。ここを右に行き、左に下って行く道を見送って先に進むと、左側に旧山田家住宅が見えて来る。

旧山田家住宅は昭和12年(1937)頃に建てられた洋館を始まりとする。建築主は楢崎定吉という実業家らしい。戦後はGHQによる接収を経て、昭和36年(1960)に山田家の住居となる。この建物は成城学園住宅地の雰囲気を残すものとして価値が高いことから、平成28年(2016)に世田谷区の有形文化財(建造物)に指定され、耐震補強やバリアフリー化の改修工事が行われたうえで、一般公開されている。入園は無料、月曜休である。

建物は南向きで、門に近い南東隅に玄関がある。中に入って受付でパンフレットを貰い見て回る。食堂の階段を上がると客間がある。この部屋はGHQに接収されていた時に壁が青色に塗られたという。2階にはバルコニーに面して寝室が2カ所ある。この日はバルコニーには入れなかったが、公開されている時もあるらしい。

二階の北東側には、八畳の日本間があり床の間と違い棚がある。洋館ではあっても客間として和室が必要であったのだろう。障子を開けると狭い廊下があり、その外側は洋風の窓になっていて、洋館としての外観を保っている。

階段は2か所にある。今回は東側の階段で上がり西側の階段を下る。旧山田家住宅の洋間や廊下は寄木の床になっていて、様々な模様を見せているが、これが見所の一つであるらしい。

階段を下りて居間に出る。左側はベランダだったところで、今は部屋のようになっている。なお、西側に入口がありバリアフリーで中に入れるようになっている。

旧山田家住宅は洋館ではあるが煙突が無い。この住宅では地階に石炭を焚くボイラーを設け邸内をセントラルヒーティングで暖房していた。居室や廊下には今も一部のラジエーターが残っている。

旧山田家住宅は改修工事によって変えられてしまった箇所もあるが、当初の姿に戻そうという努力もなされている。例えば照明器具は古い器具を探し出して入れ替えることもしているらしい。この住宅の当初の敷地は崖下まで及んでいたようだが、今は崖の上だけになっている。神明の森みつ池の様子がうかがえるかどうか。上から覗いてはみたものの、池や流れの様子は分からない。昔は山田家住宅から富士が見えたらしいが、今はそれも難しそうである。行きか帰りに富士見橋か不動橋に寄れば、天候次第で富士を見る事が出来るかも知れないが。

 

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大沢の里の古民家を訪ねて

2018-11-19 19:49:03 | 東京の文化財

調布飛行場からも近い、大沢の里の水車経営農家と古民家を訪ねてみた。最寄り駅は西武鉄道多摩川線の多磨駅である。多磨墓地前駅だったころには、この駅を利用したこともあるが、現在の駅名に代わってからは初めて下車することになる。

 

(1)武蔵野の森公園

現在の多磨駅の改札は西側にしか無いが、近く駅舎が改装される予定で、東口も造られるようである。駅の東側に回ってみると、すでに駅前広場が出来ており、東に向かう道路が作られていた。東に向かって進み東京外国語大学に沿って先に行くと、武蔵野の森公園に出る。公園内には池も造られていたが、その向こうは調布飛行場で管制塔も見えている。

公園内で暫く待っていれば離着陸する小型飛行機を見ることが出来る。この飛行場は東京都港湾局の管轄で、大島など離島へのプロペラ機が発着する空港である。飛行場の開設は1941年で太平洋戦争中にも利用され、その跡である戦闘機用の掩体壕が今も残っている。

 

(2)大沢の里・水車経営農家

武蔵野の森公園を抜けると水車通りで、案内表示により入っていくと都指定有形民俗文化財の「大沢の里水車経営農家」がある。峯岸家はこの地にあって、文化14年(1817)から代々水車経営をしてきたが、洪水対策として野川の川幅を広げ川底を低くする改修工事が行われた結果、野川の水を取り入れて水車を回すことが困難になり、昭和43年(1968)に水車を停止している。峯岸家は三鷹市に母屋や水車などの建造物を寄贈したが、三鷹市では敷地を買い上げるとともに建造物などの整備を行って、「大沢の里水車経営農家」として、一般公開している。「大沢の里・民家」との共通入館券は200円で、火曜休みである。

旧峯岸家の母屋は東向きで、伝承では文化10年(1813)代に建てられたという。母屋は寄棟造り茅葺の屋根で、座敷、広間、部屋、板の間からなる四間取りになっている。母屋の北側は大正の末に建てられたカッテで、その東側には水車小屋があり、さらに北側には明治時代の土蔵と大正時代の物置がある。

峯岸家の水車は文化5年(1808)の創設といい、その後も度々改造されて多機能な水車になっている。この水車は、玄米や大麦を精白する杵や搗き臼と、粉にする挽き臼を水輪の両側に有する両袖形である。以前は、野川の水を引き入れて差蓋という仕切り板で水量を調節して水輪を回していたが、現在は野川の水を使えないため、敷地内で水を循環させて水車を動態保存しているらしい。

大沢の里水車経営農家を出て野川を飛橋で渡る。写真は飛橋から野川の上流方向を見たもので、左側に旧峯岸家の建物が見える。上流に見える相曽浦橋の西詰(左側)には、箕輪家の水車があったという。この水車は天明4年(1784)の建造で、この辺りでは最も古く、大車と呼ばれていた。峯岸家の水車が新車と呼ばれるのは、大車より後に建造されたからのようである。大車は昭和22年頃までは使用されていたそうだが、現在は無い。

 

(3)大沢の里・古民家

飛橋を渡って野川を上流に向かって少し歩くと、相曽浦橋の手前に「大沢の里古民家」があり、今年11月から公開されている。ここにあるのは旧箕輪家住宅主屋で、創建されたのは明治35年(1902)。三鷹市に寄贈されて三鷹市有形文化財に指定されている。屋根は扠首構造の茅葺屋根だが現在は銅板で覆っている。

旧箕輪家住宅主屋の基礎は礎石の上に土台を載せる工法だが、耐震補強のため現在の工法により復元している。主屋の土壁は荒塗りだけで簡素な仕上げになっている。また、創建当時は釘や金物も使わなかったようである。母屋の間取りは四間取りで、養蚕用の屋根裏部屋が設けられていた。

旧箕輪家の縁側には、現在、ガラス戸があるが、もともとはガラス戸が無く雨戸だけだったようである。なお、箕輪家は湧水を利用して代々わさび栽培を行ってきており、縁側の先にはわさび田があったという。今は、その復活に向けての活動も行われているらしい。

 大沢の里・古民家を出て、人見街道を西に向かえば多磨駅に戻れるが、今回は野川公園を通り二枚橋から東大通りに出て東小金井駅に出た。

 

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目白から中井までアトリエめぐり

2018-11-08 19:23:27 | 東京の文化財

文化財ウイークに公開されていた旧島津家住宅アトリエを見に行ったが、これに中村彝アトリエ記念館、佐伯祐三アトリエ記念館、林芙美子記念館を加えて、旧アトリエをめぐる散歩道を考えてみた。

(1)中村彝アトリエ記念館

目白駅から目白通りを西に進み、目白三の交差点を左に折れ、駐在所のある角を右に折れる。道がやや下がりかけたところで、右斜め前方に行く道に入る。この道の左側は林泉園とよばれていた谷の跡で、道の途中の崖際に彝桜と呼ばれる桜の老木があったが、既に枯れてしまっている。道を先に進むと、中村彝アトリエ記念館(新宿区下落合3-5-7)があり、中村彝(なかむらつね)のアトリエが当初の姿に復元されている。

新進の画家であった中村彝(1887-1924)が支援者の援助を受けて、この地にアトリエ兼住居を新築して移り住んだのは1916年のことである。中村彝は芝生の庭に花壇を設け藤棚を造らせたりしていたという。

記念館には管理棟があり展示品や解説パネルが置かれている。管理棟の中を見てからアトリエ棟に入る。建物は当時の部材を利用して復元され、家具や調度品も当時の品の複製品が置かれているという。アトリエの南側は彝の居間で、西側には身の回りの世話をしていた岡崎きいの部屋と台所があった。

アトリエの北側は広い窓で、天窓もあった。中村彝は結核を患っていたため、外出も思うにまかせず、このアトリエで療養を続けながら、制作に励む日々であったらしい。中村彝アトリエ記念館の前の道は、佐伯祐三アトリエ記念館とを結ぶ、芸術にふれる散歩道ということでアートの小路と呼ばれている。

 

(2)佐伯祐三アトリエ記念館

中村彝アトリエ記念館を出て西に向かう。二つ目の角を右に、次の角を左に、その先を右に次を左に行く。小路と呼ぶのが相応しい道を西に進み、下落合公園の横を通り、左に第六天の祠を見て先に進んで右に折れ左に進むと、聖母坂通りに出る。横断歩道を渡って右へ、次の角を左に行くと、佐伯公園への道に出る。今だけだが、左側に佐伯祐三アトリエ記念館と公園の全景が見えている。

佐伯祐三(1898-1928)は、1921年、当地に自宅兼アトリエを新築して住むようになる。その場所は公園となり、佐伯祐三アトリエの地として新宿区の史跡に指定されている。現存するアトリエは修復され佐伯祐三アトリエ記念館になっており、展示室として公開されている。

アトリエの隣にある小部屋は佐伯祐三自身が建てたもので、現在は展示室になっている。アトリエの南側には母屋が隣接していたが現存せず、テラスがその位置を示している。母屋には東屋風の建物が付属していたが、現在は復元されて管理棟になっている。佐伯公園を出てもとの道に戻り、西に向かって進み山手通りに出る。

 

(3)旧島津家住宅アトリエ

山手通りを南に進み、交差点で新目白通りと山手通りを渡って、新目白通りを左側の歩道で少し行き、道標により左斜め前方に入る坂上通りを歩く。一の坂、二の坂を過ぎて三の坂の道標により左側の細い道に入る。二つ目の角を右に行くと、国登録有形文化財(建造物)の旧島津家住宅アトリエに出る。通常は非公開だが、文化財ウイークに日時を限って特別公開されることがある。公開されていない時は、坂上通りを先に進んで四の坂を左に行けば林芙美子記念館に出られる。

旧島津家住宅アトリエは、島津製作所三代目の島津源吉が、長男で洋画家の島津一郎のアトリエとして建てたもので、昭和7年以前の建築という。設計は吉武東里と考えられている。建物の所有者は何代かの変遷はあるものの、建物は当時の姿を残しているようだ。アプローチを通り、門を入って直ぐのところが玄関で、鉄の装飾金具を付けた板扉があるが、特別公開の時はここからは入らず、南側の庭から入るようになっている。

建物の西側を先に進むと南側の庭に出る。南側の庭は手入れが行き届いており、流れも造られているので人工の庭には違いないのだが、別荘地の自然の一部を切り取ってきたような庭になっている。木漏れ日の中でベンチに座っていると、何となく心が落ち着いてくる、そんな庭である。

旧島津家住宅アトリエは、正面に大きな切妻破風を見せる木造平屋建ての桟瓦葺きだが、屋根に煙突があり洋風のように見える。外壁はモルタル仕上げだが上部は板壁になっている。

建物の中央部分は広いアトリエになっている。南側はベランダで、ガラス格子戸で仕切られ、その上部には中二階がある。北面には大きな採光窓が設けられている。

 建物の東側には書斎と風呂が配置されており、中二階に上がる階段がある。中二階からはアトリエ全体を見下ろすことができる。

西側には玄関のほか、応接室と洗面所・トイレがある。応接室には南側に窓があり、西側には暖炉がある。ほかにホリコタツもあるらしい。

 島津家がこの辺りに所有していた1万坪程の土地は後になって売却されたが、林芙美子も島津家から土地を買い受けた一人であったという。

 

(4)林芙美子記念館

旧島津家住宅を出て西に行くと四の坂通りに出るが、ここを左に下ったところに林芙美子記念館がある。記念館への入口は勝手口に近い北側にあるが、林芙美子を訪ねて来る客は、南側にある門を入って、少し上がったところにある玄関から中に入った。

この家を建てた当時は建坪に制限があったため、林芙美子名義の生活棟と、画家で後に夫となる手塚緑敏名義のアトリエ棟として建て、勝手口でつないでいた。写真の右側は生活棟で、左側がアトリエ棟になっている。林芙美子はこの家を建てるに当たってかなり勉強していたようで、設計者の山口文象にとっては注文の多い施主であったろう。

今回の散歩道はアトリエめぐりなので、ここではアトリエに注目する。林芙美子の家は数寄屋造りの京風と、おおらかな民家風をあわせもつ住いという事だが、アトリエ棟のうち書斎、寝室と次の間、書庫についてはこれに合致する住居になっている。問題はアトリエである。林芙美子も油絵を描いていたから、画室としての条件は要求しただろうが、和風の住宅と調和することも求めたのだろう。結果として、アトリエがあまり目立たない設計になっている。

現在、アトリエは展示室になっていて、林芙美子に関する資料を展示している。展示室内を覗いて見ると、北側は広いガラス窓で天窓も設けられている。

アトリエの外観は敷地北側の斜面の上から見る事が出来るが、大きな窓と天窓もあり、建物も他より高くなっているが、裏手にあたるので問題がないという事なのだろう。帰りは中井通りを東に向かい、山手通りの手前を右に行けば中井駅の入口になる。

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