夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

27.3 六地蔵もうでの記(3)

2009-04-29 14:49:22 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 巣鴨を出て庚申塚(豊島区巣鴨4)から大塚の方へ行き、波切不動尊(豊島区大塚4)の堂を拝んで通り過ぎ、青柳(豊島区大塚2)を下り、護持院(護国寺に隣接していた)の前を横切って音羽町を南に行き、目白坂(文京区関口2)の不動尊(現在は豊島区高田2の金乗院内に移る)を坂の下から拝んで通り過ぎる。さらに、九丁目の橋(現在の江戸川橋)を渡り、早稲田の中道(新宿区山吹町)、天神町、榎木町(榎町)、七けん寺町(弁天町)を通る。嘉陵は、このさき、柳町のねぶつ坂を下りに、合羽坂の下より西へ行くと記しているが、ねぶつ坂を市谷谷町に下る念仏坂(新宿区住吉町)とすると、経路的に不自然なので、念仏坂を下って合羽坂(新宿区片町)の下から来る道に合して西に行くという意味かも知れない。この道を行き、暗闇坂(新宿区愛住町)を上がって、内藤新宿に出て、大宗寺(新宿区新宿2。写真)を参詣する。傍らに、近頃造ったのか金銅の不動尊二童子があったが、凡作と記している。

 ここから、新宿の追分(新宿区新宿3)を経て新町(角筈新町。新宿区西新宿)へ向かい、大番町(新宿区大京町)へ行く道を分け、その先を横に折れて、千駄ヶ谷通り(渋谷区代々木2)を行く。現在の道では、全労済会館の横を入って代々木駅方向に行く道である。この道の辺りはみすぼらしく、通る人も稀であったという。さらに行けば千駄ヶ谷八幡(鳩森神社。渋谷区千駄ヶ谷1)で、富士浅間の仮山(富士塚)があった。門を出て少し先に観音堂(聖輪寺。渋谷区千駄ヶ谷1)があり、坂を下った先に立法寺(現在は無し)があった。寺から南に行くと青山原宿の熊野社(熊野神社。渋谷区神宮前2)で、ここから青山通り百人町(港区南青山3)を通り、渋谷八幡(金王八幡。渋谷区渋谷3)の前に出る。しかし、道なお遠く日も傾いてきたので、遥拝して済ませ、渋谷川沿いの道を行き、羽沢の氷川社(渋谷区東2)を伏し拝み、石橋を渡って南に行き、爺が茶屋(跡地は目黒区三田2)に出る。此処の山道で、松虫の声が此処彼処に聞こえてきたのが、妙に寂しくもあり、悲しくもあった。

 去年の秋。故宮(伏見宮貞建親王の姫宮で徳川清水家初代重好の継室であった田鶴宮)をお慰めしようとして、ある人が松虫を籠に入れて献上したのを、可哀想に思われたのか、哀れみを洩らされ、ある夜、女官に命じて、全ての松虫を草むらに放させたのだが、一二匹はまだ残っていて籠の中で鳴いていた。それを、枕もとでお聞きになって、何故残しておくのか、早く放せと仰せられたという。その事を後で知ったのだが、病が重い際にもかかわらず、思いやりの御心が虫にまで及ぶという事だけでも、もったいないと思ったのだった。こんな事が思い出されるにつけて、人知れず涙を落とした、と嘉陵は書いている。

 ここまで来たところで、午後6時になっていた。月は雲間に隠れたり出たり、野路の露も深い。次の地蔵尊(品川寺)のある鮫洲まで行くべきなのだろうが、草を踏み分けて歩く途中で、マムシに足を噛まれるのも思慮のない話である。またいつか参詣することにして、嘉陵は鮫洲の辺りを遥拝し、ここから帰路についている。白金台(目黒通り)から家路までは良く知った道で、夜道を歩いても面白くないのと、やや疲れてもいたので、塩どめ(港区東新橋1)から舟に乗る。帰り着いたのは午後8時を少し過ぎた頃であった。結局のところ、この日は、六地蔵のうち五ヶ所しか詣でていない。参拝も簡単に済ませただけのようにも思える。ただ、憂き事を忘れんが為に、歩いて歩いて、疲れ果てて家路についた、そんな一日だったのだろう。それでも歩いた距離は40kmを越えていた。

「あつさをも月にわすれて舟の中に しはしかたしく袖のすすしさ」
「けふこそはかくてくらしつあすとても 晴ぬおもひはおなしうき空」

 この紀行文の後に、この日に芝の天徳寺で行われた法要について、翌日、人から聞いた話をもとにした「付記」が付けられている。この「付記」は、嘉永二年(1849)二月 義雄うつす、と記されているが、その経緯は不明である。以下にその概略を記す。

「この日、桂寿院尼を初めとして、仕えていた末々の男女までが皆、天徳寺にお参りに行ったという。存命であった時に、この寺に神主を置き、亡くなった後は上野にて拝礼するということで、大金を寺に寄付しておいたという事である。どういうわけか、初浦の局に縁のある森山安芸守の子源五郎を法事執行の男の席に座らせ、桂寿院尼は女の席に座って参列者の名を記していた。法事の導師は寺の上人で、三十余人の僧が無量寿経を読み、終わったあと、皆で供物を食べた。参列者の数は従者を含めると数え切れないほどだったが、この費用は桂寿院尼が納めた金を元手にして儲けたものだということだ。参列した者は身の程に応じて香典を出し、皆々ものを食い、酒に酔って夕方には帰っていったという。さらに、昨日のこと、消したはずの灯明が点っていた事を取り上げて、宮の遺骸は上野にあっても、御霊はこの寺に留まっていると大げさに唱えたということである。もともと、この寺には故宮(田鶴宮)の叔母にあたる岩宮(伏見宮邦永親王の子で松平宣維の妻となった光子女王)の墓所があったので神主を置いたのである。世間の僧がよく行う事とはいえ、このような事で、故宮の尊霊を汚し続けるのは恐れ多い事ではないのか。そのうえ供物を食するにしても節度を越えていたのではないか。また、本来の墓所である上野(寛永寺凌雲院か)に参るべきなのに、そちらを差し置いて、こちらに来るのは道理に合わない。そればかりか、名の聞こえた人達が、この日が忌日であると知ってか知らずか、芝の御屋敷の汐入に魚釣りに出掛けたという。故宮の御徳が遍く知られていないためか、それとも、これらの人々が上の空だったのか。痛ましくも思い、恨みにも思うことである。」

コメント

27.2 六地蔵もうでの記(2)

2009-04-26 21:45:02 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 霊巌寺の参拝を終えた嘉陵は、回向院の前を北に、隅田川にそって進み、大川橋(吾妻橋)を渡って、三谷(山谷)の町を通り、東禅寺(台東区東浅草2)に出て地蔵尊(写真)を参拝している。

 このあと、小塚原を過ぎ、三ノ輪の飛鳥の社(素盞雄神社。境内に飛鳥の杜あり。荒川区南千住6)に詣でている。社の東側、木立の中に神の影向石(瑞光石)という石があり、根がどれ程あるか分からないと記す。嘉陵はここでしばらく休憩するが、社前にあった鵬斎の書による芭蕉の句碑が気に入らなかったらしい。いやしくも朱子の道を唱える儒学者ともあろう者が、いかに熱心な俳諧の徒が居るからといって、彼らの為に筆をとるとは笑止千万である、と書いている。

 ここの鳥居を出ると三川島(三河島)に出る。西に向かう一筋の馬道の左右は田で、道沿いの用水を堰きとめて田に注いでいた。思っていたよりは、稲穂が出ていて通常の四分の一ほどの収穫はありそうだったが、高い所の田は穂も出てはいなかった。飛鳥山の末にある田は、ここよりは良い方で通常の半分ほどの収量だろうと記している。この馬道を、日暮里の山までの距離の三分の一ほど行ったところに、岐路があって石の不動があった。さらに行き、日暮里の山下の西福寺(宗福寺。現在無し)を通り、坂を上ると佐竹屋敷(久保田(秋田)藩下屋敷。跡地は荒川区西日暮里4)がある。ここを北に行き田畑(田端)に出るが、にわか雨が降ってきたので、民家に入って休んでいる。

 ここから少し西に十字街があり、石の仁王像を立てた寺(東覚寺。道路工事のため仁王像移設。北区田端2)がある。ここから北に行くと西行庵(現在無し)の先に、鉄砲山焔硝寺という寺があり、家康がこの寺の松に腰掛け、鉄砲で鹿を撃たせたことがあった。家康はこの寺に八石の寺領を与えたが、このことから、腰掛けた松を八石松と呼ぶようになったと、嘉陵は書いている。江戸名所図会に取り上げられている園勝寺(円勝寺。北区中里3)には、家康が腰掛けた松を褒めて五石の寺領を与えたという伝承があるので、焔硝寺とは園勝寺のことかも知れない。この日は道順が悪いため、焔硝寺に行くのは止めて、蛍沢を少し上がり、要源寺(白華山養源寺。文京区千駄木5)に行く。家康がここに御成りなった時、白花の桜を見て山号を白花山にせよと命じた寺なのだが、寺僧の身持ちが悪く、逃げ出したあとに金二千ほどの借金が残った。これを償うために木を伐採し家屋も壊して売り払った跡が、そのままになっていた。要源寺から王子道に出て少し行き、目赤不動尊(南谷寺。文京区本駒込1)を拝んで通り過ぎる。吉祥寺(文京区本駒込3)、富士の祠(富士神社。文京区本駒込5)を見ながら進み、板橋の街道(中山道)に出て北に向かい、真性寺(豊島区巣鴨3)に着く。ここで、地蔵尊をお礼参りしてから、次に向っている。なお、現在は真性寺の地蔵尊が修復中で、身代わりの地蔵尊が置かれている。

コメント

27.1 六地蔵もうでの記(1)

2009-04-24 23:12:54 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政四年八月十一日(1821年9月7日)。この日のことを、嘉陵は次のように書いている。本日は一周忌のため、女官が使いとして上野に御花を捧げに行き、また、元のお付の者も数多くお参りに行っている。利顕、自分、そして直温は、奥の御仏間にて心ばかりの御花を捧げた。近頃は、あれこれ考えることもあり、辛くやりきれぬ思いもある。今日のように殊更に残暑の耐えがたい時は、いかに過ごそうかと、老いの身を扱いかねてもいるが、そんな事を知る人もいない。過日、いま評判になっている何某と、ここの屋敷を預かる近藤某、それに御庭のことを仕事にしている坂間某たちが、我が家の周りを見回り、何か企てていたようだったが、家の南側の空き地を全て菜園にするということで、見積もりをしていたらしい。本日、菜園にする場所の木や草を取り除こうという事になったが、余りに急なことで大騒ぎになり、植えておいた草や木を引き抜いて他所に持って行ったり、切り倒して薪にするなど、騒然としている。萩や薄など、わざわざ植えておいたものを、取り除かせたのだが、ちょうど、萩の花は咲き始め、薄も少し穂が出たばかり、藤袴もほころびかかり、紫苑も匂うばかりである。やむを得ず根こそぎにして移植してはみたが、残暑が殊に強く多くは萎びてしまっている。この庭には桜や山吹もあったのだが、この頃の日照りで、どれも枯れている。こんなことになるとは知らずに、枯れてしまったのかと思うと哀れでもある。数年来、木や草を植え置いて、春や秋に飽きもせずに歌を詠んできたのだが、それも無意味だった気もして、昔の人の言葉も思い出され、むなしくもなる。

 この日が誰の一周忌であるかは明記されていないが、「徳川実紀」の文政三年八月二十二日の記事に、伏見宮貞建親王の姫宮で重好卿(徳川清水家初代重好)の簾中(妻)となった田鶴宮(貞子女王)が亡くなったとあるので、田鶴宮の一周忌であったと考えられる。徳川清水家の御広敷用人であった嘉陵は、殊のほか思いが深かったに違いない。それだけでは無い。嘉陵が折角植えて置いた草木も、菜園のために植え替えざるを得なくなり、それも枯れ始めている有様である。嘉稜は、このまま家に居ても、ますます憂鬱になるばかりと思い、州崎の海辺でも見に行こうかと家を出ている。

 嘉陵は海辺に行く前に、深川の永代寺を参詣するが、地蔵尊を拝み終えたところで、海を見ても心は晴れないと思い直し、六地蔵を巡拝することに目的を変えている。江戸六地蔵とは、地蔵坊正元の発願で、江戸の出入り口六箇所に設けた地蔵菩薩のことであり、次の六ヶ所を指す。この六ヶ所を巡拝するのが、江戸六地蔵参りであるが、順番通りに回る必要はなく、嘉陵も、永代寺を皮切りに、参拝しやすい順番で回っている。

 ①品川寺:東海道に対して設置。品川区南品川3。
 ②東禅寺:奥州街道に対して設置。台東区東浅草2。
 ③太宗寺:甲州街道に対して設置。新宿区新宿2。
 ④真性寺:中山道に対して設置。豊島区巣鴨3。
 ⑤霊巌寺:水戸街道に対して設置。江東区白河1。
 ⑥永代寺:佐倉道に対して設置。江東区富岡1。地蔵は現在無し。

 嘉陵が最初に参詣した永代寺は、明治になって廃寺となり、地蔵尊も消滅している。現在は吉祥院が名前を引き継いでおり、深川不動の門前に永代寺として存続している。さて、永代寺を出た嘉陵は、次に霊巌寺(江東区白河1)に行き地蔵尊(写真)を参拝している。

コメント

26.2 北沢淡島並びに駒ケ原(2)

2009-04-22 22:20:53 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 嘉陵は帰路に渋谷八幡宮(金王八幡神社。渋谷区渋谷3。写真)に立ち寄っている。嘉陵は、文政二年八月にも渋谷八幡宮を参詣しているが、今回は、「江戸砂子」に記載された城跡を確かめようとしたのだろう。「江戸砂子」の記載内容だが、まず、渋谷金王丸城跡が渋谷八幡の西にあり、馬場、的場、築地の形があると記している。次に、河島荘司次郎(河崎庄司次郎?)の館跡が、八幡の西、堀の内にあって古くは大堀や築地ありとし、荘司次郎が六郷の川崎に移った際、山王社は移したが稲荷社は残したと記す。さらに、妹尾平次左衛門光景の館跡も同じ辺りにあり、築地や馬場の跡が残り、馬を冷やした池や馬繋の榎があると記している。しかし、嘉陵が調べた範囲では、これらの旧跡は見当たらなかったという。嘉陵は、「江戸砂子」の記述について、幾つかの疑問を呈している。その一つは、金王丸は祖先の地に住んでいた筈で、祖先の名ではなく金王丸の名を城に付けるのは、おかしいということ。第二に、金王丸の祖先である渋谷六郎基家が住んだのは相模の渋谷庄で、この場所(現在の渋谷)ではないということである。さらに、根拠は無いがと断りつつ、近くに金王丸物見塚という展望の良い場所があるのに、地勢が良くない堀の内に住むとは思えず、単に馬場や弓場や家屋を設けただけではないか。堀の内という地名も古名ではない、と書いている。嘉陵は、渋谷六郎基家の系図も載せている。その概略を示すと、「高望王―良兼(村岡五郎・平良文)―(略)―将恒(将常)―秩父別当・武基―秩父十郎・武綱―下野権頭・重綱―渋谷六郎・基家―渋谷・河島平三大夫・重家―庄司・重国―高重」である。しかし、この系図には金王丸は含まれていない。

 金王八幡神社の社記によると、秩父武綱が源義家に従い奥州金沢柵を攻略した功により、河崎基家の名を賜り、武蔵国谷盛庄(渋谷、代々木、赤坂などの地域)を与えられ、寛治六年(1092)に八幡宮を創建したのが、金王八幡の創始という。また、基家の子の重家が禁裏を衛っていた時、賊徒を捕らえた功により、堀川院から渋谷の姓を賜ったという。重家がこの八幡宮に祈願して授かったのが金王丸で、源義朝に従って保元の乱で大功をたてたが、主君の死後は渋谷に戻って出家し、土佐坊昌俊と名乗ったと記している。一方、金王八幡別当寺の東福寺に残る鐘銘によると、武蔵の豪族河崎基家が源頼義より賜った谷盛庄に八幡を勧請し、別当寺として親王寺を建てたとし、基家の子の重家が、八幡宮に祈願して金王丸を得、親子渋谷氏を称し、八幡宮を渋谷八幡と号したと伝える。ただし、何れの史料も伝説の域を出ず、史実としての信憑性は薄いとされている。

 社記では金王丸を重家の子とするが、この点については異説もあり、土佐坊昌俊との関係も定かでない。渋谷氏の系図には諸説あるが、一説に、基家は武蔵国河崎を与えられ河崎冠者と称したとする(現在の川崎市に河崎氏館跡という地あり)。河崎氏はその後、相模国渋谷庄を賜るが、基家の孫の重国が渋谷庄司を名乗ったのが、渋谷氏の始まりとされる。また、重国の子が金王丸で、この地に移り住んだという説もあるが、はっきりしない。現在、この八幡宮は金王丸の名声に因んで、金王八幡神社と称しているが、もと渋谷八幡宮と称していた事から、渋谷の地名が起こったともいう。なお、東京都遺跡地図では、金王八幡宮を渋谷城(金王丸城跡)とし、その西側を河崎庄司郎(妹尾氏)館跡としている。

コメント

26.1 北沢淡島並びに駒ケ原(1)

2009-04-20 22:36:34 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政三年五月八日(1820年6月8日)、嘉陵は駒ケ原と北沢の淡島社を訪れている。その経路だが、青山通りから道玄坂を越えて、旧滝坂道(淡島通り)をたどったと思われる。嘉陵の略図では、青山から渋谷川に下る坂を道玄坂と記しているが、富士見坂(宮益坂)の誤りであろう。この坂を下って渋谷川を渡ると田圃で、ここを過ぎると町屋の続く坂道になる。この坂を一般に道玄坂と呼んでいた。享保17年(1732)に刊行された「江戸砂子」は、道玄坂について、和田義盛の一族である道玄が岩窟に隠れて山賊をしていたという話を載せているが、嘉陵は登戸の辺ならともかく、この辺の話としては疑わしいとして切り捨てている。坂を上ると、世田谷海道(大山道。現在の玉川通り)から右に駒ケ原への道(旧滝坂道)が分かれている。嘉陵の略図とは異なり、やや下っていく道である。嘉陵の略図では、その少し先で十字路に出るが、三田用水沿いの道と交差する場所であろうか。ここから道は急坂を下っていき、田圃を過ぎて坂を上がる。松見坂である。松見坂の名は、道元の一味が物見に使っていた物見松に由来するという。江戸名所図会の「富士見坂一本松」には、富士見坂から道玄坂を越えて、大山道と分かれる滝坂道が描かれているように思えるが、これが正しいとすると、図会の一本松は物見松ということになりそうである。一本松の前の川は駒場野を水源とする空川で、空川沿いに右に行く道は大山道に出る道、空川を渡る道は、松見坂を上がっていく旧滝坂道ということになる。現在の道で旧滝坂道をたどると、道玄坂上交番の信号から右に入り、旧山手通りを越え、その少し先で三田用水の跡を過ぎ、山手通りを越えて、松見坂の下に出る。

 松見坂を上がると、道の左手に五万坪の御薬園(跡地は目黒区大橋2)があった。その御用屋敷の前を北に行き田圃を過ぎると駒ケ原(駒場野。跡地は目黒区駒場3)である。駒ケ原は幕府の御狩場であったが、嘉陵によれば、御用地の外に「無用の者入るべからず」と記す制札を立て、用地内の西側に土を盛って御立場を築き、中には木を植えず周囲には松を植えていたという。地元の言い伝えでは、その南にある胴勢山は、頼朝が胴勢(大軍)を置いた所で、北側の土器塚は頼朝が酒を賜った時の土器を埋めた所ということであったが、嘉陵は、これについては疑問だとしている。ところで、江戸名所図会に「駒場野」という図があり、急坂を下った先に、遥か先まで原野が広がっている様子が写されている。しかし、道玄坂の上から駒場野(駒ケ原)方面を眺めた絵とすると、地形とは合わないように思える。むしろ、道玄坂の先の大坂の上から、目黒川を渡って西に向う大山道の周辺と、背景としての丹沢方向の山並みを描いたとする方が、合っているようにみえる。それとも、駒場野の広さを表現するために、誇張した図になっているのだろうか。

 駒場野から淡島通りに戻って西に行き、淡島通りが左に折れるのを見送って直進すると、北沢の願心寺(森巌寺。世田谷区代沢3。写真)に出る。嘉陵はその境内にある北沢淡島社を参詣している。社は十年ほど前の失火で焼失し、まだ仮の社頭であったという。本堂の前には銀杏樹の大木が二本あったと記しているが、今に残る銀杏樹であろうか。淡島社は諸病に効能のある灸によって知られ、月の三と八の日を灸の定日としていた。嘉陵が訪れた日は、ちょうど定日に当たっていたため、午後2時頃までに二百人余りの参詣客があったという。寺の前には酒飯を商う店が一軒、近くに同じような店が他にもあり、路地には茶屋も各所に出て多少の銭を得ているようであった。寺僧の金儲けだと言って非難する人もいたようだが、すべてが悪いというべきではなかろうと、嘉陵は書いている。このあと、北沢の総鎮守である八幡宮(北沢八幡神社。世田谷区代沢3)を訪れている。ここに、富士の巻狩りを描いた額があったが、色彩も剥げ落ちて形のみ残っていたと記している。

コメント

25.小日向道永寺 柏木村園照寺 桜のつと

2009-04-18 18:19:13 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政三年三月十日(1820年4月16日)、小日向の鳥坂(服部坂の誤りか。文京区小日向2)の上の道栄寺(文京区小日向2)に桜があると聞いて、嘉陵は出かけている。桜は垣根に沿って二本、書院の庭に三本、何れも八重だが、花は散り始めていて、土も見えないほど花びらが積もっていた。日はまだ高かったので、坂を下り、早稲田(新宿区山吹町)から牛込原町(新宿区原町1~3)を過ぎ、若松町(新宿区若松町)を横に折れて大久保(新宿区新宿7)に出る。久左衛門坂の左手に大久寺(大久山永福寺。新宿区新宿7)という寺があり、五葉の松の大木がある。坂を下ると、抜け弁天(新宿区新宿6)があり、桜の老木が一本。眺める人もいないが、花も散りがたいようで、それはそれで趣があると、嘉陵は書いている。その先が、西向天神(新宿区新宿6)で、銅葺きの本社と茅葺の幣殿拝殿があるが、大杉が生い茂り、寂寞として来る人もいない。木の間から覗くと、向こうの山の木立が見渡せた。「江戸砂子」には、ここの続きに七面の社があり、花見の遊覧客が上野の山と同じぐらいあったと書かれているが、嘉陵が訪れた時は、その面影も無かった。
 
 ここから嘉陵は、百人町(新宿区北新宿1)に出るが、そこかしこに桜があり、西の木戸を出たところにも、桜があったと書いている。嘉陵のたどった道は、現在の道筋では、職安通りと思われる。この道をそのまま進めば淀橋に出るが、途中で北に行く道をとり、800mほどで園照寺(円照寺。新宿区北新宿3)の前に出る。門を入ると愛染堂と薬師堂があり、その間に八重と一重が混って咲く右衛門桜があった。「江戸砂子」に、この桜は右衛門という浪人が接木した桜とあるが、接木の跡が見えないことから、もとの桜が枯れたので、植え替えたのではないかと嘉陵は推測している。また、園照寺には樅の大木があり、何処からでも見えるので、目印になっているとし、この樅は、雑司が谷四家町先の富士見茶屋(跡地は学習院内)から、真正面に見える木であると記している。訪れたときは、ちょうど、堂の葺き替えの最中で、庭には萱が散らかしたままになっていたが、その有様に、余りに心無いことだと、嘉稜は書いている。現在の境内には、柏木右衛門桜ゆかりの地と刻まれた石柱があり、近くに何代目かの桜が植えられている。

コメント

24.上目黒村に遊ぶ記

2009-04-16 22:13:53 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政三年三月四日(1820年4月16日)、右大将の君(清水徳川家第五代)の麻疹もようよう回復し、花も咲き始めたというので、気分転換に郊外でもと思っていたところ、この日、晴天であったので、嘉陵は当ても無く家を出ている。麻布まで来て、まだ花見に行っていない場所に行こうかと、仙台坂を上り天真寺(港区南麻布3)を過ぎ、南部の屋敷(有栖川宮記念公園)の前を下って、広尾の祥雲寺(渋谷区広尾5)に出る。ここを過ぎて、下渋谷の橋(渋谷橋付近)を渡り、町並みの続く道(渋谷広尾町。恵比寿南1)を行くと世田谷と目黒不動との分かれ道に出た。急に雨が降ってきたので、嘉陵は桜の木がある茶店で休む。亭主から、近頃、富士を二ヶ所築いたという話を聞き、道を聞いて出かけてみることにした。

 教えられた通り、角を西に曲がって世田谷道をしばらく行くと、南の方に富士の築山が見えてくる。山の高さは、四丈(12m)ほど。九十九折の道を上ると、西峯の富士の頂上で、雪をいただいた富士、大山、秩父、武甲が見渡せた。この日は、四、五人の者が土を運んで道をならしているだけで、他には誰も居なかった。この富士は、富士講の先達が願主になって、文化九年(1812)に築かれたもので、後に東の峯が築かれたため、元富士と呼ばれるようになった。広重の名所江戸百景「目黒元不二」には、松の大木が聳え、麓には桜も見えるが、嘉陵が行った当時は、松が一本あるだけで、他には何も無かったという。目黒の元富士はすでに消滅しているが、その場所は、代官山交番近くのキングホームスの付近(目黒区上目黒1)とされ、説明板が設けられている。

 山を下り、細道を東に行くと、元富士に対して新富士と称された東の峯の麓に着く。九十九折の道を上ると山頂で、高さは西の峯と同じ。眺望はやや劣るとはいえ、麓の田圃を見下ろし、道元坂から行人坂の一帯、祐天寺や長元院の山も見渡せた。二つの富士の展望について、嘉陵は、飛鳥山の眺望、志村の熊野権現(熊野神社)の景色と甲乙つけがたいと記している。広重の名所江戸百景「目黒新富士」には、麓の三田用水に沿って桜が植えられている様子が見えるが、嘉陵が行った当時は、西の峯に比べて未整備であったようだ。東の峯は、近藤十蔵(近藤重蔵)が抱え屋敷(別邸)内に、土地の人を集めて築いたものである。近藤十蔵は、嘉陵も良く知っていた人物だったようで、世間に疎んじられるところがあって、書物奉行から大阪の武具奉行(御弓奉行)に転出した事。その際、ここに富士を築いて標柱を建て、「近藤正斎先達白日昇天之所」と書いて出立の日付を記し、標柱の上に鶴一隻を置いた事。出立の日には武士の見送りは無く、浄衣を着た富士講の人が数十人、品川まで見送っただけだった事を記している。近藤重蔵は、新富士に華表(墓所の門)を建てて昇天の場所を示し、数百年後に戻ってきて時代の変遷を見ようとしたのだろうと、嘉陵は書いている。目黒の富士を見終わったあと、現在の八幡通りの道筋をたどり、金王(金王八幡神社)下の板橋に出て、渋谷川沿いに進み、もと来た道を通って、日暮れ前には家に帰り着いている。

 近藤重蔵守重(1771-1829)は、与力の子として生まれるが成績優秀で、後に蝦夷地調査隊に加わり択捉島に渡るなど、蝦夷地、千島の開拓の基礎を築く。その功績により、文化五年に書物奉行に昇進する。しかし、その性格が災いして、文政二年に大坂御弓奉行に転出。さらに文政四年には小普請差控を命ぜられる。晩年は、長男富蔵の殺傷事件に連座して、大溝藩預かりとなっている。近藤重蔵が築いた目黒の新富士は、すでに消滅しているが、恵比寿駅西口から恵比寿銀座を抜け、古い道しるべがある観音坂を上って、別所坂で下る場所(目黒区中目黒2)の近くにあったとされ、説明板が設置されている。

コメント

23.3 中山道大宮紀行(3)

2009-04-12 21:23:50 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 すでに午後2時。急いで帰途に着く。上尾を過ぎ、大宮に着いたのが午後4時近く。足も疲れてきたのと、ちょうど戻りの馬があったので、それに乗る。途中、馬が止まってしまったため、餅を買って与えるということもあったが、ともかくも浦和宿に着く。浦和には、道の西側に覚心院(廓信院か)と玉蔵院(写真。さいたま市浦和区高砂3)があり、また、浦和坂上の東側に勢至菩薩の森があった。この森は、玉蔵院の持ちということであったが、本社と拝殿は朱に塗られ、瑞籬をめぐらす造りであったので、昔は神社だったのではないかと嘉陵は指摘している。嘉陵は馬上から見ただけであったので、気付かなかったのだろうが、この森は調神社(さいたま市浦和区岸3)の森であったと思われる。調神社の別当寺は、玉蔵院が住職を兼ねていた月山寺で、月山寺の本尊は勢至菩薩であった。

 日が暮れる前にようやく蕨に到着。途中、八官野(八貫野か。さいたま市西区)に行く道が分かれていたと記す。八官野は、上尾や桶川の西、荒川の東畔にあり、紀伊家が御鷹場で鹿狩りを行う時は、八官野から鹿を追い出すということであった。蕨では、中村屋作兵衛の所で食事をする。ここでは、近くに蕨の御所跡という渋川氏の宅跡があり、菩提寺は宝樹院であること、子孫が持っていた系図を松平伊賀守に渡してしまったことなど、作兵衛から話を聞く。蕨の御所跡とは蕨城址(蕨市中央4)の事であろう。渋川氏は清和源氏足利氏の一族であるが、嘉陵は次のような系図を添付している。<義顕―義春―義季―直頼―義行―満頼―義俊―義鏡・・・・>。嘉陵は、この件について詳しくは知らなかったようだが、渋川義行以降、渋川氏は九州探題に任ぜられ、義鏡の時になって関東探題に任ぜられて、蕨城に居住したされている。

 食事が終ると急いで出発。走りに走って、戸田に着いたのは日没前であった。振り返ると、秩父の武甲山の先に、浅間山が見える。妙義や榛名も良く見えた。今日は晴に晴れていたからこそ、数十里先の山々も見えたのだと、心の中にめでつつ、笑いつつ、戸田の堤を行く。黄昏の頃、戸田の渡しを渡り、志村の原を過ぎ、午後6時には板橋に着くが、老いたる足は疲れ果てて、なかなか先に進まない。そして、午後8時を少しまわった頃、やっとの思いで家にたどり着く。この日、嘉陵が歩いた距離は、馬に乗った区間を除いても70kmを越えていた。疲労困憊であったには違いないが、それでも、嘉陵にとって満ち足りた小旅行であったろう。時に嘉陵、60歳であった。

コメント

23.2 中山道大宮紀行(2)

2009-04-10 22:39:58 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 氷川の社から西に出れば中山道に出られるが、嘉陵は一寸した勘違いで、もと来た参道を戻って中山道に出ている。ここから中山道(旧中山道)を北上し、大宮宿を通って吉野原に向う。途中に、黒塚の伝説で知られる東光寺(さいたま市大宮区宮町3)があるが、先を急ぐため見ずに通り過ぎている。その先、天満天神の小祠に由来する天神橋を渡る。この小祠(天満宮。さいたま市北区宮原町4)は道の左側に現在も残っているが、天神橋は既に無く、バス停に名を残すのみである。その少し先が加茂宮である。ここには「木曾街道上尾宿加茂之社」に描かれた加茂の明神(加茂神社。さいたま市北区宮原町4)が、道の右側に現在も鎮座している。嘉陵は先を急いでいたから、参拝は省略したかも知れない。この辺りを大宮の原といい、富士や秩父、八王子の山々が見渡せ、武甲山も近くに見えたが、浅間山だけは、見ることが出来なかった、と嘉陵は書いている。

 午前10時を過ぎて上尾宿(上尾市)に到着。しかし、行けども、行けども山は見えない。富士浅間を祭った小高い場所に上ってみるが、木立が多く見晴らしは利かない。歩き疲れたので道の傍らの店で休息。店主から桶川宿入口の辺から眺められると聞き、それを励みに先を急ぐ。さらに街道を進み、ようやく桶川(桶川市)に着く。ここで、嘉陵は宿場入口の不動尊を参拝している。桶川の絵図を見ると、宿場入口近くの東側に南蔵院があるが、嘉陵が参拝した不動尊は、この寺の不動尊であったと思われる。現在の桶川は多少なりとも宿場の面影があり、古い建造物も幾つか残っているが、南蔵院は明治になって廃寺となったため現存していない。ただ、不動堂だけは近くの浄念寺(桶川市南1)に移され現在に至っている。参拝のあと、教えられた通り、不動堂の近くの畑に出てみるが、日光山や赤城山が眺められたものの、浅間山は見えない。そこに居た男に聞くと、桶川宿の西裏の畑から見えるという。桶川宿から800m程歩いて、北方を見渡すと、それらしい山並みが、うっすらと見える。遠くで畑仕事をしている男の所まで行って、聞いてみると、確かに浅間だと言う。さらに、こちらが妙義、そちらが榛名と言う。全体がぼんやりとしているが、それでも、年来の思いを遂げる事が出来た満足感から、幾首もの歌を詠み、その風景を写生している(図)。

 ところで、嘉陵は、大宮から上尾の間に、街道を横切って流れる用水があったと記し、人から聞いた話として、用水は公費で修理をしていること、水源は岩槻の十数km上流にあり、利根川の水を中条の大沼に引き入れ、その水をこの辺の田圃に注いでいること、千住辺りの用水もこの水であるという事を記している。この用水は、見沼代用水からの分水か排水路であったと思われるが、その場所は書かれていない。また、上尾の辺では、紫根を作っていると記し、奥州南部(秋田県鹿角)産の紫根よりは質が落ちると書いている。紫根とは、ムラサキの根を乾燥させたもので、染料や薬用に用いられるものである。上尾や桶川は紅花の栽培地として知られていたが、紫根も作っていたという事になる。このほか、浦和から上尾にかけて、土地が高く乾燥している場所では、地面を掘って芋を保存する芋櫃があったとも記している。
コメント

23.1 中山道大宮紀行(1)

2009-04-06 21:33:50 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政二年十月四日(1819年11月21日)。嘉陵は、中山道の上尾の辺りで、秋冬の晴れた日に浅間山が見えると聞き、何時かは行ってみたいと思っていたのだが、仕事の都合で延び延びになっていた。この日、急に思い立って、午前4時半、提灯に火を入れて家を出た。中山道の板橋を過ぎる頃は、まだ家々は寝静まっていて、人の動き始めた気配がなかった。志村の坂を下り戸田の渡し(戸田橋の下流)に出ると、水戸家の者が渡し守を起こし舟を出させるというので、同乗させてもらう。川を渡ったあと、元蕨(戸田市)から蕨(蕨市)へ出る。

 旧中山道を現在の道と対応させると、戸田橋の少し先で現中山道と重なり、蕨市に入ってからは、現中山道の右側を並行する道となる。この区間は歴史民俗資料館を中心に旧街道らしい雰囲気の道に整備されている。旧中山道は、その先、錦町三の交差点で現中山道を越えて進み、東京外環の下を通って六辻で再び現中山道を越え、浦和坂(焼米坂)を上がる。この坂を上り詰めたところが浦和宿(さいたま市浦和区)である。

 嘉陵が浦和宿に着いた時、ようやく、あちこちの家に灯が点り、門を開け放って、人々が荷造りや馬の世話をする様子が見られた。この宿場を過ぎる頃、夜はすっかり明け、大宮に着く頃には、朝日が昇ってきていた。街道の傍らには「武蔵国一ノ宮」と刻んだ石が建っていた。大門の入口には石の鳥居があり、松や杉の並木は空が見えぬほどに生い茂り、朝の風が霜の上を流れている。神々しい光景であった。幼い頃、父から見せてもらった「中山道名所記」に氷川の社(氷川神社。さいたま市大宮区。写真)の図があり、一度はお参りしなければと思ったものだった。ふと、そんな事を思い出したが、もう50年も前のことである。参道を2kmほど進み、二ノ鳥居、三の鳥居をくぐると、銅葺屋根の本社があった。御手洗池の橋を渡ると男体女体の社や大社があり、弁財天の社もあった。社を残り無く拝み巡るうち、今日が詣で初めで、詣で納めでもあると思い、涙が溢れ出る思いであった、と嘉陵は書いている。

 徳川清水家広敷用人であった嘉陵は、職掌柄、宮の御方(伏見宮貞建親王の子で徳川清水家初代重好の妻となった田鶴宮か)の平癒を祈願したのだが、実は同時に自分の母についても祈願をしている。また、二人の子息に先立たれていたため、先々の事も心配になり、子孫の繁栄や善縁を祈ってもいる。このあと、神主の所に行って神符を頼み、しばらく客間の縁に腰掛けて休み、真字の神符を受け取って出発している。午前8時を過ぎていた。

コメント