巣鴨を出て庚申塚(豊島区巣鴨4)から大塚の方へ行き、波切不動尊(豊島区大塚4)の堂を拝んで通り過ぎ、青柳(豊島区大塚2)を下り、護持院(護国寺に隣接していた)の前を横切って音羽町を南に行き、目白坂(文京区関口2)の不動尊(現在は豊島区高田2の金乗院内に移る)を坂の下から拝んで通り過ぎる。さらに、九丁目の橋(現在の江戸川橋)を渡り、早稲田の中道(新宿区山吹町)、天神町、榎木町(榎町)、七けん寺町(弁天町)を通る。嘉陵は、このさき、柳町のねぶつ坂を下りに、合羽坂の下より西へ行くと記しているが、ねぶつ坂を市谷谷町に下る念仏坂(新宿区住吉町)とすると、経路的に不自然なので、念仏坂を下って合羽坂(新宿区片町)の下から来る道に合して西に行くという意味かも知れない。この道を行き、暗闇坂(新宿区愛住町)を上がって、内藤新宿に出て、大宗寺(新宿区新宿2。写真)を参詣する。傍らに、近頃造ったのか金銅の不動尊二童子があったが、凡作と記している。
ここから、新宿の追分(新宿区新宿3)を経て新町(角筈新町。新宿区西新宿)へ向かい、大番町(新宿区大京町)へ行く道を分け、その先を横に折れて、千駄ヶ谷通り(渋谷区代々木2)を行く。現在の道では、全労済会館の横を入って代々木駅方向に行く道である。この道の辺りはみすぼらしく、通る人も稀であったという。さらに行けば千駄ヶ谷八幡(鳩森神社。渋谷区千駄ヶ谷1)で、富士浅間の仮山(富士塚)があった。門を出て少し先に観音堂(聖輪寺。渋谷区千駄ヶ谷1)があり、坂を下った先に立法寺(現在は無し)があった。寺から南に行くと青山原宿の熊野社(熊野神社。渋谷区神宮前2)で、ここから青山通り百人町(港区南青山3)を通り、渋谷八幡(金王八幡。渋谷区渋谷3)の前に出る。しかし、道なお遠く日も傾いてきたので、遥拝して済ませ、渋谷川沿いの道を行き、羽沢の氷川社(渋谷区東2)を伏し拝み、石橋を渡って南に行き、爺が茶屋(跡地は目黒区三田2)に出る。此処の山道で、松虫の声が此処彼処に聞こえてきたのが、妙に寂しくもあり、悲しくもあった。
去年の秋。故宮(伏見宮貞建親王の姫宮で徳川清水家初代重好の継室であった田鶴宮)をお慰めしようとして、ある人が松虫を籠に入れて献上したのを、可哀想に思われたのか、哀れみを洩らされ、ある夜、女官に命じて、全ての松虫を草むらに放させたのだが、一二匹はまだ残っていて籠の中で鳴いていた。それを、枕もとでお聞きになって、何故残しておくのか、早く放せと仰せられたという。その事を後で知ったのだが、病が重い際にもかかわらず、思いやりの御心が虫にまで及ぶという事だけでも、もったいないと思ったのだった。こんな事が思い出されるにつけて、人知れず涙を落とした、と嘉陵は書いている。
ここまで来たところで、午後6時になっていた。月は雲間に隠れたり出たり、野路の露も深い。次の地蔵尊(品川寺)のある鮫洲まで行くべきなのだろうが、草を踏み分けて歩く途中で、マムシに足を噛まれるのも思慮のない話である。またいつか参詣することにして、嘉陵は鮫洲の辺りを遥拝し、ここから帰路についている。白金台(目黒通り)から家路までは良く知った道で、夜道を歩いても面白くないのと、やや疲れてもいたので、塩どめ(港区東新橋1)から舟に乗る。帰り着いたのは午後8時を少し過ぎた頃であった。結局のところ、この日は、六地蔵のうち五ヶ所しか詣でていない。参拝も簡単に済ませただけのようにも思える。ただ、憂き事を忘れんが為に、歩いて歩いて、疲れ果てて家路についた、そんな一日だったのだろう。それでも歩いた距離は40kmを越えていた。
「あつさをも月にわすれて舟の中に しはしかたしく袖のすすしさ」
「けふこそはかくてくらしつあすとても 晴ぬおもひはおなしうき空」
この紀行文の後に、この日に芝の天徳寺で行われた法要について、翌日、人から聞いた話をもとにした「付記」が付けられている。この「付記」は、嘉永二年(1849)二月 義雄うつす、と記されているが、その経緯は不明である。以下にその概略を記す。
「この日、桂寿院尼を初めとして、仕えていた末々の男女までが皆、天徳寺にお参りに行ったという。存命であった時に、この寺に神主を置き、亡くなった後は上野にて拝礼するということで、大金を寺に寄付しておいたという事である。どういうわけか、初浦の局に縁のある森山安芸守の子源五郎を法事執行の男の席に座らせ、桂寿院尼は女の席に座って参列者の名を記していた。法事の導師は寺の上人で、三十余人の僧が無量寿経を読み、終わったあと、皆で供物を食べた。参列者の数は従者を含めると数え切れないほどだったが、この費用は桂寿院尼が納めた金を元手にして儲けたものだということだ。参列した者は身の程に応じて香典を出し、皆々ものを食い、酒に酔って夕方には帰っていったという。さらに、昨日のこと、消したはずの灯明が点っていた事を取り上げて、宮の遺骸は上野にあっても、御霊はこの寺に留まっていると大げさに唱えたということである。もともと、この寺には故宮(田鶴宮)の叔母にあたる岩宮(伏見宮邦永親王の子で松平宣維の妻となった光子女王)の墓所があったので神主を置いたのである。世間の僧がよく行う事とはいえ、このような事で、故宮の尊霊を汚し続けるのは恐れ多い事ではないのか。そのうえ供物を食するにしても節度を越えていたのではないか。また、本来の墓所である上野(寛永寺凌雲院か)に参るべきなのに、そちらを差し置いて、こちらに来るのは道理に合わない。そればかりか、名の聞こえた人達が、この日が忌日であると知ってか知らずか、芝の御屋敷の汐入に魚釣りに出掛けたという。故宮の御徳が遍く知られていないためか、それとも、これらの人々が上の空だったのか。痛ましくも思い、恨みにも思うことである。」
ここから、新宿の追分(新宿区新宿3)を経て新町(角筈新町。新宿区西新宿)へ向かい、大番町(新宿区大京町)へ行く道を分け、その先を横に折れて、千駄ヶ谷通り(渋谷区代々木2)を行く。現在の道では、全労済会館の横を入って代々木駅方向に行く道である。この道の辺りはみすぼらしく、通る人も稀であったという。さらに行けば千駄ヶ谷八幡(鳩森神社。渋谷区千駄ヶ谷1)で、富士浅間の仮山(富士塚)があった。門を出て少し先に観音堂(聖輪寺。渋谷区千駄ヶ谷1)があり、坂を下った先に立法寺(現在は無し)があった。寺から南に行くと青山原宿の熊野社(熊野神社。渋谷区神宮前2)で、ここから青山通り百人町(港区南青山3)を通り、渋谷八幡(金王八幡。渋谷区渋谷3)の前に出る。しかし、道なお遠く日も傾いてきたので、遥拝して済ませ、渋谷川沿いの道を行き、羽沢の氷川社(渋谷区東2)を伏し拝み、石橋を渡って南に行き、爺が茶屋(跡地は目黒区三田2)に出る。此処の山道で、松虫の声が此処彼処に聞こえてきたのが、妙に寂しくもあり、悲しくもあった。
去年の秋。故宮(伏見宮貞建親王の姫宮で徳川清水家初代重好の継室であった田鶴宮)をお慰めしようとして、ある人が松虫を籠に入れて献上したのを、可哀想に思われたのか、哀れみを洩らされ、ある夜、女官に命じて、全ての松虫を草むらに放させたのだが、一二匹はまだ残っていて籠の中で鳴いていた。それを、枕もとでお聞きになって、何故残しておくのか、早く放せと仰せられたという。その事を後で知ったのだが、病が重い際にもかかわらず、思いやりの御心が虫にまで及ぶという事だけでも、もったいないと思ったのだった。こんな事が思い出されるにつけて、人知れず涙を落とした、と嘉陵は書いている。
ここまで来たところで、午後6時になっていた。月は雲間に隠れたり出たり、野路の露も深い。次の地蔵尊(品川寺)のある鮫洲まで行くべきなのだろうが、草を踏み分けて歩く途中で、マムシに足を噛まれるのも思慮のない話である。またいつか参詣することにして、嘉陵は鮫洲の辺りを遥拝し、ここから帰路についている。白金台(目黒通り)から家路までは良く知った道で、夜道を歩いても面白くないのと、やや疲れてもいたので、塩どめ(港区東新橋1)から舟に乗る。帰り着いたのは午後8時を少し過ぎた頃であった。結局のところ、この日は、六地蔵のうち五ヶ所しか詣でていない。参拝も簡単に済ませただけのようにも思える。ただ、憂き事を忘れんが為に、歩いて歩いて、疲れ果てて家路についた、そんな一日だったのだろう。それでも歩いた距離は40kmを越えていた。
「あつさをも月にわすれて舟の中に しはしかたしく袖のすすしさ」
「けふこそはかくてくらしつあすとても 晴ぬおもひはおなしうき空」
この紀行文の後に、この日に芝の天徳寺で行われた法要について、翌日、人から聞いた話をもとにした「付記」が付けられている。この「付記」は、嘉永二年(1849)二月 義雄うつす、と記されているが、その経緯は不明である。以下にその概略を記す。
「この日、桂寿院尼を初めとして、仕えていた末々の男女までが皆、天徳寺にお参りに行ったという。存命であった時に、この寺に神主を置き、亡くなった後は上野にて拝礼するということで、大金を寺に寄付しておいたという事である。どういうわけか、初浦の局に縁のある森山安芸守の子源五郎を法事執行の男の席に座らせ、桂寿院尼は女の席に座って参列者の名を記していた。法事の導師は寺の上人で、三十余人の僧が無量寿経を読み、終わったあと、皆で供物を食べた。参列者の数は従者を含めると数え切れないほどだったが、この費用は桂寿院尼が納めた金を元手にして儲けたものだということだ。参列した者は身の程に応じて香典を出し、皆々ものを食い、酒に酔って夕方には帰っていったという。さらに、昨日のこと、消したはずの灯明が点っていた事を取り上げて、宮の遺骸は上野にあっても、御霊はこの寺に留まっていると大げさに唱えたということである。もともと、この寺には故宮(田鶴宮)の叔母にあたる岩宮(伏見宮邦永親王の子で松平宣維の妻となった光子女王)の墓所があったので神主を置いたのである。世間の僧がよく行う事とはいえ、このような事で、故宮の尊霊を汚し続けるのは恐れ多い事ではないのか。そのうえ供物を食するにしても節度を越えていたのではないか。また、本来の墓所である上野(寛永寺凌雲院か)に参るべきなのに、そちらを差し置いて、こちらに来るのは道理に合わない。そればかりか、名の聞こえた人達が、この日が忌日であると知ってか知らずか、芝の御屋敷の汐入に魚釣りに出掛けたという。故宮の御徳が遍く知られていないためか、それとも、これらの人々が上の空だったのか。痛ましくも思い、恨みにも思うことである。」