文化十年八月二十八日(1813年9月22日)。嘉陵(村尾正靖)は、午前10時に浜町の家を出て、浅草から千住に至り、ここで昼食をとっている。そのあと、四家村(足立区弘道)の平蔵の所に立ち寄って少し休み、午後2時に出立。綾瀬川の西岸に沿って北に向かう。綾瀬川の下流部は新たに開削されたため直線的に流れているが、嘉陵もこの点について言及するとともに、綾瀬川は用水と水運を兼ね、水位は千住川(墨田川の上流部)より高いと記している。北に進むと花又村(足立区花畑)に出るが、川端に大きな紺屋が二軒あり、飲食の店や紙漉きの家も数軒あって、貧しそうな家はないと書いている。
さらに行くと鷲大明神社、現在の大鷲神社(写真。足立区花畑7)に出る。嘉陵は、四家村の平蔵の話として、「昔は、祭礼日の酉の日には、人出で道を自由に歩けないほどだったが、今は祭礼日でも人出が多いということはない」と記している。実は、「酉の市」は花又の鷲大明神から始まったのだが、後に浅草の鷲神社でも「酉の市」を始めるようになり、浅草の方が繁盛するようになったのである。この神社は、江戸名所図会にも取り上げられており、「鷲大明神社祭」には付近の農家から奉納された鶏の様子が描かれ、「鷲大明神社」には参詣客がこの社を訪れる様子が描かれている。現在の大鷲神社周辺は、昔の雰囲気を多少は残しているように思えるが、近辺では「花畑北部土地区画整理事業」が進行中で、何年かあとには、新しい市街地に飲み込まれてしまうかも知れない。
嘉陵は、十二、三の時に、今は亡き父に連れられて鷲大明神を訪れている。今年、数えで五十四歳での再訪。昔を思い出して感慨も深いと嘉陵は書いている。帰りは板屋橋(足立区西綾瀬1。伊藤谷橋)から二つ上の、そだ橋を渡って綾瀬川の東岸を歩く。現在の綾瀬川は、江戸時代には無かった荒川(放水路)により、荒川に沿って南流し中川に合流する流路と、旧綾瀬川として墨田川に流れ込む綾瀬橋付近(足立区千住曙町)の流路に分断されている。今の綾瀬川に沿って南に向かえば、荒川に行く手を遮られることになるのだが、江戸時代は、そのまま南に向かえば梅若塚(墨田区堤通2)の裏手に出られた。灯火の点る頃ここを通過し、6時過ぎには家に帰り着いている。この日は千住と四家で休んだだけ、途中でお茶も飲まなかったと、嘉陵は書いている。
(注)この紀行文の文末には文政十年四月という記述があり、紀行文中に記載されている日付とは食い違いがあるが、あとで書き直した時の日付かも知れない。嘉陵の紀行文の文末等に書かれている日付が、執筆日であったとしても、旅行日との差が、あまりないのが普通と思われる。ただ、時間をおいて後から書き加える場合もあったのだろう。
さらに行くと鷲大明神社、現在の大鷲神社(写真。足立区花畑7)に出る。嘉陵は、四家村の平蔵の話として、「昔は、祭礼日の酉の日には、人出で道を自由に歩けないほどだったが、今は祭礼日でも人出が多いということはない」と記している。実は、「酉の市」は花又の鷲大明神から始まったのだが、後に浅草の鷲神社でも「酉の市」を始めるようになり、浅草の方が繁盛するようになったのである。この神社は、江戸名所図会にも取り上げられており、「鷲大明神社祭」には付近の農家から奉納された鶏の様子が描かれ、「鷲大明神社」には参詣客がこの社を訪れる様子が描かれている。現在の大鷲神社周辺は、昔の雰囲気を多少は残しているように思えるが、近辺では「花畑北部土地区画整理事業」が進行中で、何年かあとには、新しい市街地に飲み込まれてしまうかも知れない。
嘉陵は、十二、三の時に、今は亡き父に連れられて鷲大明神を訪れている。今年、数えで五十四歳での再訪。昔を思い出して感慨も深いと嘉陵は書いている。帰りは板屋橋(足立区西綾瀬1。伊藤谷橋)から二つ上の、そだ橋を渡って綾瀬川の東岸を歩く。現在の綾瀬川は、江戸時代には無かった荒川(放水路)により、荒川に沿って南流し中川に合流する流路と、旧綾瀬川として墨田川に流れ込む綾瀬橋付近(足立区千住曙町)の流路に分断されている。今の綾瀬川に沿って南に向かえば、荒川に行く手を遮られることになるのだが、江戸時代は、そのまま南に向かえば梅若塚(墨田区堤通2)の裏手に出られた。灯火の点る頃ここを通過し、6時過ぎには家に帰り着いている。この日は千住と四家で休んだだけ、途中でお茶も飲まなかったと、嘉陵は書いている。
(注)この紀行文の文末には文政十年四月という記述があり、紀行文中に記載されている日付とは食い違いがあるが、あとで書き直した時の日付かも知れない。嘉陵の紀行文の文末等に書かれている日付が、執筆日であったとしても、旅行日との差が、あまりないのが普通と思われる。ただ、時間をおいて後から書き加える場合もあったのだろう。