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夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

入谷朝顔市と浅草ほおずき市

2015-07-11 09:28:52 | あの町この町

(1)恐れ入り屋の鬼子母神

入谷朝顔まつり(朝顔市)は毎年7月6日~8日に開催される。言問通りのうち昭和通りと金杉通りの間の区間が会場で、時間を限ってこの区間が歩行者天国となる。今年(2015)の歩行者天国は夕方からとなり、昼間は鬼子母神を祀る真願寺の境内と南側の歩道が朝顔市となり、北側の歩道には露店が並ぶ。江戸時代、この付近一帯は坂本村に属しており、そのうち真願寺の辺りは入谷と呼ばれていた。坂本町村絵図を見ると、村の西側の奥州街道裏道(現在の金杉通り)沿いは町屋が続く坂本町になっており、その東側には真願寺をはじめ寺社が並び、さらにその東側には田圃(入谷田圃)が広がっていた。江戸時代の終わり頃、変わり咲きの朝顔が評判になり各地で朝顔の栽培が行われるようになると、入谷でも朝顔が栽培されるようになり、明治時代の初めには朝顔市も開かれるようになる。入谷の朝顔市は明治の中頃に最盛期を迎えるが、やがて時代は移り、入谷田圃は入谷の町へと変わって朝顔の栽培も行われなくなり、大正時代に入ると朝顔市も閉じられてしまう。朝顔市が復活するのは戦後のことである。

鶯谷駅で下車し、朝顔市の人込みの中をすり抜け、真願寺に入る。寺では朝顔のお守りを出しているが今回はパスして賽銭をあげるにとどめ、境内の朝顔を見て回り、参拝記念にきびだんごを買い求めてから外に出る。朝顔市には120もの業者が店を出している。行灯つくりの朝顔は統一価格の2000円で、変わり咲きの朝顔や、昔は流行した海老茶色の団十郎は少なく、大半が四色大輪の朝顔を売っている。どの店も同じようなので、たまたま声をかけられた店で曜白の四色大輪を買い求める。昔なら、朝早く朝顔市に行き豆腐を食べて帰るというコースもあるのだろうが、今はその気もなく、速やかに駅へと戻る。

 

(2)何か用か九日十日

7月6日に始まり、7日、8日と行われた入谷の朝顔市に続いて、9日、10日に行われる浅草寺の四万六千日には、ほおずき市が立つ。旧暦の7月10日は千日分のご利益がある観音の功徳日で千日詣と呼ばれていたが、18世紀前期の享保の頃になると千日は四万六千日へと拡大され、さらに9日も功徳日に組み入れられる。19世紀初めの文化の頃になると雷除けの赤とうもろこしが売られるようになるが明治になると衰退し、代わって雷除けのお札が寺から授与されるようになる。一方、芝の愛宕権現(港区の愛宕神社)では旧暦の6月24日を本地仏である勝軍地蔵の特別の功徳日として千日詣と呼び、植木市も立っていたが、18世紀後期の明和の頃に、境内のほおずきに薬効があるという噂が立ち、ほおずき市が立つようになる。その後、浅草寺でも、ほおずき市が行われるようになり、今では、ほおずき市と言えば浅草寺というようになっている。

四万六千日ともなれば仲見世も混雑するが、正月ほどではなく何時もより多少混んでいる程度である。宝蔵門の近くまで来ると、ほおずきを売る店が現れる。店舗数では120店ほどだそうだが、何故か朝顔市の店舗数と同じ。境内には露店も出ているが、その数も朝顔市と同じ100店ほどだという。ほおずき市は後で見ることとし、その前に浅草寺の本堂に上がり、申し訳ないが、賽銭を人様の頭越しに投げ入れて、何事かを祈願する。それから、恒例の雷除けのお札を500円納めて有りがたく戴く。最近は風の被害もありそうなので、そのうち風除けのお札が出るかも知れない。階段を下りて古札入れに持参した去年の雷除けを入れる。それから、ほおずき市を見て回る。風鈴付きで一鉢2500円。統一価格になっている。ほかに、釣り忍を売る店が何店か。買いたい気もするが、今回は見るだけにとどめる。ところで、ほおずきを一鉢買うと風鈴が付いてくるが、これが実は問題で、近頃は、風鈴の音がうるさいと文句を付ける人が居るらしい。何故そうなるのか。人間の脳は左右に分かれていて、左脳は言葉などを分担する言語脳、右脳は言語でない音を感覚的にとらえる音楽脳になっているが、日本人は虫の声など(多分、風鈴の音も)を左脳(言語脳)で処理しているのに対して、外国人の多くは右脳(音楽脳)で騒音として処理しているという事が関係しているらしい。また、暫く海外に居て帰国した場合、風鈴を聴くと左脳に過大な負担がかかるという事もありそうである。風鈴は何かの理由で付けたのだろうが、別売にした方が良さそうな気もする。

 

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気ままに亀戸散歩(3)

2010-03-22 10:07:54 | あの町この町

 写真は、西側の松本橋から横十間川の向こうの亀島橋を眺めたもので、遊歩道の工事が行われていた頃のものである。現在は亀島橋からさき旧中川合流点まで、竪川は暗渠化され竪川河川敷公園として公開されている。竪川の護岸には、護岸ギャラリーという名で、画家や美大生、生徒、それに一般参加の作品を含む壁画が描かれている。その壁画も年を経るにつれ色も褪せ、壁面にはひび割れが生じ、草が生え木の枝も伸びて、当初の姿を著しく損じているようにも見える。確かに、制作者にとっては、作品を完成した時が最良の状態で、後は退化していくだけなのかも知れないが、受け手にとっては、必ずしも、古いものが悪いという訳ではない。時には、壁面の傷や草や木と、本来の壁画との取り合わせが面白く感じられたりもする。劣化もまた美なりというわけだ。

 少し前のことになるが、完成する前の竪川河川敷公園を歩いていたことがある。当時は丸八通りから東側は未完成で、竪川の水面が顔を覗かせており、川の北側は開発事業が進行中で、造成地の中に由緒ありげな塚が一つ取り残されていた。近づいてみると、塚の場所にあった社殿は既に仮宮に移されていて、参詣者のための仮の道が作られていた。それが、亀戸の浅間神社で、古墳時代の遺跡の上に富士塚が作られ、その上に社殿が建てられたということであった。仮宮をそっと拝んでから北に行き、京葉道路を渡って、さらに北に行き、途中で西に向かった。すると、広い道路にぶつかった。こんな所にこんな道路があるとは知らなかったが、構わずに、その道路を渡った。しばらく歩いたところで、見たような場所に出た。周りを見回してみると、塚があった。一瞬ぎょっとした。浅間神社の塚だったのだ。慌てて北へ行き、京葉道路を渡ろうとしたが、そこで、無限ループに陥りそうな気がして、踏みとどまった。実は、北へ行く積りで北西に行き、西に行く積りで南西に行き、京葉道路をそれと気付かずに渡って、元の場所に戻っただけの事だったのだが、その時は、浅間神社の塚に招き寄せられたような気がした。それから暫くして、この塚を発掘したところ、下から古い塚が現れたという記事を新聞で読んだ。多分、土地の造成工事により塚が消滅してしまうため、事前に発掘したのだろうと、その時は考えていた。

 今回、暫くぶりにこの地に来てみると、浅間神社は現在地に移されていて、富士塚であり浅間神社本殿跡地でもある場所が、整備されて残されていた。この辺りは、オトタチバナヒメの笄が漂着した浮洲で、笄を埋めて祠を立てたという、笄塚の伝承が残っている。この笄塚の上に創立されたのが浅間神社で、その時期は室町時代か近世初期という。笄塚の上に富士塚を築き、その上に浅間神社を建てたということであろうか。明治になると、現在の富士塚が築かれ、浅間神社も改築されている。発掘によって出現した古い塚は、もとの富士塚だということだが、笄を納めた塚がどうなってしまったのかは分からない。なお、ヤマトタケルとオトタチバナヒメについての伝承は、ここだけではなく、近くの北十間川沿いの吾嬬神社や、品川の寄木神社、それに、走水や木更津の周辺にも残っている。

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気ままに亀戸散歩(2)

2010-03-19 21:00:04 | あの町この町
 広重の江戸名所百景の「亀戸天神境内」の現在の姿を見たついでに、同じく百景の一つである「柳しま」を見に行く。亀戸天神から横十間川に出て北に向かって歩いていくと、北十間川との合流点近くの柳島橋に出る。ここを渡ったところが柳島で、北辰妙見大菩薩を祭る法性寺が現在もある。ただし、当然とはいいながら、百景に描かれた景色は既に無い。それだけ確認したら、横十間川沿いに戻って、萩寺で知られた龍眼寺の横の道を入って天祖神社の前を通りすぎる。この道は亀戸七福神詣での道でもあるのだが、道は少々分かりにくい。それでも、道さえ間違えなければ、梅屋敷跡の前に出る。広重の江戸名所百景の一つでゴッホが模写したという「亀戸梅屋舗」のあった場所だが、今は説明板があるだけである。ここから、東に向かって適当に歩いていけば、多分、香取神社の前に出られるだろう。この辺りは亀島という島で、周囲は海だったそうだが、今は、海と島の境界がどこなのか判別すら出来ない。掘ったら、貝殻ぐらい出てくるかも知れないが、やった人があるのかどうかは分からない。ところで、香取神社で4月に開かれる植木市は都内最古の植木市だそうだが、実は、五月の勝矢祭を盛りたてるために行ったのだという。植木市の方は行った事があるのだが、肝心の勝矢祭の方は、まだ行った事がない。そのうち行ってみようと思いつつ、今もって、そのうち状態になっている。

 香取神社から明治通りを南に行き、亀戸駅を通りすぎて、京葉道路を左に折れると、サンストリートがある。1997年にセイコーインスツル工場跡にオープンした商業施設で、写真は当時の様子を示す。最近はイベントが多く開かれているせいか、けっこう賑わっているように見えるが、この施設、2012年までの期限付だそうで、その後がどうなるかは分からない。このサンストリートに貧乏神社が祀られるようになったのは、いつ頃だろうか。この神社、最初は2階にひっそりと祀られていたが、今は堂々と1階に進出している。貧乏神も受け入れてもらえる状況になったわけだが、さりとて、ついて来られても困るので、ちょいと蹴飛ばしてから外に出る。サンストリートの西側は桜並木の亀戸緑道公園で、春には桜まつりが開催される。この道を南に歩いて行くと人道橋に出る。ここまで来てやっと、この緑道が都電の軌道跡だったことに気付かされる。緑道は、橋を越えた先で大島緑道公園と名前を変えて続いていくが、今回は、人道橋から、もと、竪川だったところに下りる。


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気ままに亀戸散歩(1)

2010-03-15 22:46:16 | あの町この町
 錦糸町に来たついでに亀戸天神に行く。錦糸橋で横十間川を渡ると、右手に江東区水上バスの亀戸乗船場が今もあった。この水上バスは、横十間川から小名木川に入り、扇橋閘門で水位調節をして先へ行くという面白いコースを通っていたのだが、今は廃止になってしまったらしい。定期運航を維持できるほどの利用客がいなかったのだろう。

 
 横十間川に沿って北へ行くと、亀戸銭座旧跡の標柱がある。この場所で公団団地を造成した際、多数の銅銭が発掘されたという話を聞いたことがあるが、銭座、金座、銀座などは各地にあるので、他にも同じような話があったのかも知れない。ついでながら、この標柱の近くに「まちなみ景観賞」の銘板が置かれている。団地自治会が植栽の手入れをしていることが評価され、江東区から表彰されたのだそうだ。横十間川に沿って、もう少し歩くと、天神橋がある。ここで蔵前橋通りを右に折れて亀戸天神に行く。

 亀戸天神の1月の神事にウソ替えというのがある。前年のウソを納めて新しいウソを求めるという事なのだが、一度始めてしまうと、途中では止めにくく、毎年のようにウソ替えに行っていたことがある。そのうち、面倒になって止めてしまったのだが、民芸品としてとっておけば良かったかもしれない。亀戸天神は梅の名所でもあるが、年間で最も混雑するのは藤の季節の方である。この時期には、屋台も出て、境内の料亭はもとより周辺の店も繁盛して、くず餅の船橋屋には行列が出来ていたりする。亀戸天神の池は心字池だが、今は改修されて直線の多い池になっている。改修後、花の勢いが多少衰えたように思ったが、多分、気のせいだろう。亀戸天神の祭事では、このほかに、菜御供、例大祭・献灯明、菊祭りなどの行事があるが、どの行事も、どこか親しみやすい雰囲気を持っている。
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錦糸町雑記・付記

2010-03-08 22:28:33 | あの町この町
(14)錦糸町駅北口のモニュメント

 錦糸町駅北口を出ると、黄金の勾玉を二つ組み合わせたような巨大な輪が宙に浮いているのが目につく。ローレン・マドソンの制作した「ECHO」というモニュメントで、平成9年9月に設置されたものである。勾玉は楽譜のヘ音記号を表し、左右の五本のワイヤは五線譜を表している。二本の支柱に貼られたタイルは、バッハ、モーツアルト、ベートーヴェン、ストラヴィンスキーなどの作曲家の作品を表し、西側の柱は1750年まで、東側の柱は2000年までを受け持っているという。北口再開発の一環としてすみだトリフォニーホールが建てられた事もあり、音楽都市すみだを象徴するものとして、このモニュメントが設置されたのだそうである。ただ、柱のタイルのうち、どれがバッハで、どれがモーツアルトなのか、曲名は何なのかは、よく分からない。

(15)錦糸町周辺の水路

 錦糸町周辺の堀割のうち、北側にあった南割下水は埋め立てられて、今はその痕跡すら無くなっている。東側の横十間川は現在も水流があり、竪川と交差する先では、両川岸に遊歩道が作られている。この遊歩道は、新設されたクローバー橋で小名木川を越え、横十間川親水公園ともつながるようになっている。南側の竪川は、大横川と交差する場所の西側に水路を残して暗渠となり、高速道路の下には竪川親水公園が作られている。錦糸町の夏の名物行事である、錦糸町河内音頭は、この竪川親水公園を会場として開催されている。大横川は、業平橋から撞木橋までは大横川親水河川という親水公園として整備されてきた。この公園は、北から順に、釣川原ゾーン、河童川原ゾーン、花紅葉ゾーン、パレットゾーン、ブルーテラスゾーンに分けられるが、京葉道路・江東橋付近のブルーテラスゾーンは最後まで残り、北口地区開発と同じ時期に整備が行われた。

(16)錦糸町と映画

 昭和61年に建てられた楽天地ビルには、戦前からの江東劇場と本所映画に加えて、リッツ劇場、キンゲキ、錦糸町スカラ座、キネカ錦糸町の4館が入ったが、このうち、西友が運営するキネカ錦糸町は特色ある映画館で、東欧映画を専門として独占上映も行っていた。その一例が、トビリシ生まれのアルメニア人で、民族に根差した独特の語法で映画を制作した、パラジャーノフ監督の作品の上映である。その後、6館の映画館は、時代の趨勢もあって、シネコンに再構成され、現在は4スクリーンで上映を行っている。マイナーな映画作品は、もう上映の機会が無いのかも知れない。

(17)本所七不思議と河童
 本所七不思議とは、①置いてけという声がして釣った魚がいなくなる「おいてけ堀」、②夜中に拍子木を叩くと後ろの方でも拍子木が鳴る「送り拍子木」、③天井から足が出て足を洗えという「屋敷」、④屋台のそば屋の明かりが消える「あかりなしそば」、⑤囃子の音が聞こえるが行っても何も無い「狸ばやし」、⑥葦の葉が片側しか生えない「片葉の葦」、⑦夜中の提灯に近づくと消える「送り提灯」の七つである。なお、「落ち葉なき椎」や「津軽の太鼓」、「消えずの行燈」を入れる場合もある。錦糸町は、このうち、「おいてけ堀」で知られている。おいてけ堀が堀割であったとすると、錦糸堀と称された南割下水が該当しそうだが、池であったとすると、竪川沿いにあった池のどれかが該当しそうである。明治43年の地図に、横十間川の東側にオイテケ堀と記された池があるが、明治13年の地図に、この池は記されていない。明治13年の地図を見ると、現在の錦糸堀公園の近くに池が記されているが、オイテケ堀に該当するかどうかは分からない。所詮、七不思議の場所など、あまり詮索する必要はないのかも知れない。なお、置いてけと声を出したのは河童だと考えて、平成7年、錦糸堀公園に河童の像が建てられている。

(注)今回の連載にあたっては、「錦糸町百景1~3」「墨田区史跡散歩」「宝永御江戸絵図」「東京都市地図」のほか、各種の資料やHPなどを参考にしました。

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錦糸町雑記・駅北口再開発の後

2010-03-05 19:49:37 | あの町この町
(11)錦糸町そごうの閉店
 平成12年、錦糸町駅北口地区再開発事業のために結成された組合は、役目を終えて解散した。この年の12月、錦糸町そごうが閉店となる。北口再開発の目玉でもあったデパートの早すぎる撤退は地元に衝撃を与えたが、平成14年になって、そごうの跡はアルカキット錦糸町として再生し、現在に至っている。


(12)半蔵門線とオリナス
 平成15年、半蔵門線錦糸町駅が開業する。また、錦糸公園北側の精工舎工場跡地に、平成18年、オリナスがオープンする。オリナスは専門店の集合体であるモールと、大型店で構成されるコアからなる大型の商業施設である。


(13)錦糸公園の再整備
  現在、錦糸公園の再整備工事が進行中である。公園の北東側では、現在の体育館に代わる総合体育館が建設中だが、計画では公園全体も模様替えになるようである。ところで、公園の西南にある千種稲荷社は、昭和3年に錦糸公園を造成する際に放置されていた稲荷社を祀ったもので、反対意見を押し切って公園内に祠を祀り、千種講を作って今日までお守りしてきたという。今回の公園の再整備で、この稲荷社がどうなるのか、気になるところである。同じく、公園の西南には、熊さんこと篠原勝之氏の制作したオブジェがあるが、こちらの方は、どうなるのだろう。

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錦糸町雑記・駅北口再開発・その4

2010-03-02 22:56:01 | あの町この町
(10)アルカタワーズのオープン
 平成9年3月、最初にアルカイーストがオープンした。同年10月には、錦糸町そごうが開店。また駅北口に「ラガール(現在はテルミナ2)」もオープンした。なお、同月には、アルカタワ-ズ錦糸町の完成にともない、神輿を含む祝賀パレードが行われた。




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錦糸町雑記・駅北口再開発・その3

2010-02-27 18:19:35 | あの町この町
(9)工事の進展
錦糸町そごう、アルカセントラルやホテルの工事が進められた。また、クリスマスには、工事現場にイルミネーションが設けられた。



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錦糸町雑記・駅北口地区再開発・その2

2010-02-23 19:23:19 | あの町この町
(7)再開発事業の概要
 再開発事業は、錦糸町駅北口地区、すなわち鉄道線路と北側の道路(北斎通り)との間に、アルカタワーズ錦糸町とよぶビル群を建設するものである。ビルは東側から、アルカイースト、錦糸町そごう(現在はアルカキット錦糸町)、アルカセントラル、東京マリオネットホテル錦糸町東武(現在は東武ホテルレバント東京)、すみだトリフォニーホール、アルカウエストであり、他に駅北口広場が整備されるとともに、道路が新設される。

(8)工事の経緯
 写真上は、錦糸公園側から見た東側の地区の工事の状況である。写真中は、大横川親水公園側から見た、西側地区の工事の状況である。赤い幟が見えるが、当時は、大横川親水公園において毎月15日にガラス市が開催されていた。余談になるが、大横川親水公園の紅葉橋の近くに、瀧波硝子株式会社が運営するタキナミグラス博物館という博物館があった。墨田区の小さな博物館の中ではピカイチの存在だったのだが、今は、併設のレストラン「ぎやまん亭」ともども、無くなってしまっている。写真下は、ガード工事の状況である。北口地区再開発に伴い、錦糸町そごうとアルカセントラルの間に、新しく道路が設けられることになり、総武線にガードが設けられた。



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錦糸町雑記・駅北口地区再開発・その1

2010-02-20 07:52:05 | あの町この町
(5)錦糸町駅北口地区の再開発
 昭和55年、錦糸町駅北側の操車場跡など駅北側の再開発の機運が生まれ、組合が結成されるが、事業計画が認可されるのは、平成2年になってからである。平成5年になると、駅北側の道路に沿ったビルの取り壊しが進み、操車場の跡地は草ぼうぼうの荒れ地状態になり、北口には仮通路も設けられるようになる。

(6)着工時の状況
 写真は、平成6年、錦糸公園側から見た東側の地区の着工時の状況である。

写真は、平成6年、大横川親水河川から見た西側の地区の着工時の状況である。


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