夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

滝野川一丁目から飛鳥山へ

2010-12-27 19:41:25 | 都電荒川線に沿って

 滝野川一丁目の停留所の開業は昭和33年頃。谷田川通りがここまで延長された時期にあたる。踏切を渡って坂を上がると、昔は堀割が通っていた道に出る。ここを右に行くと下り坂となる。下りきって直進する細い道が、堀割の通っていたルートで、堀割はその先を折れて、現・明治通りの北側にあった反射炉の敷地内に用水を供給していた。反射炉は結局のところ使用されなかったが、千川上水からの用水は、明治になって、紡績や製紙などに使用されるようになる。その後、工業用水としての需要も減少し、現在は用水も停止され、堀割の跡も道路に変わっている。

 明治通りを歩道橋で渡って、反射炉のあった場所に行ってみる。今は、反射炉はおろか紡績工場などの跡らしいものも見当たらないが、明治37年に設置された醸造試験所(現在は酒類総合研究所)の赤レンガの建物が残っている。その隣にある醸造試験所跡地公園を通り抜け、別の道を通って明治通りに出る。道路を渡った先、明治通りから斜めに入る道は競争横丁と呼ばれていた道で、昔は、多くの店が並んで競争していたそうだが、今は横丁の跡地といった雰囲気の道である。この道を歩いて行くと、飛鳥山の停留所に出る。石神井川に落ちる逆川は、その手前を流れていたらしい。

 飛鳥山の停留所は、王子電気軌道株式会社の最初の路線である大塚線の終点として、明治44年に開業している。行楽客を当て込んでのことだったのだろう。

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西ヶ原四丁目から滝野川一丁目へ

2010-12-23 10:06:45 | 都電荒川線に沿って

 西ケ原四丁目の踏切を渡り、信号の先を左に入って幼稚園の先の角を左に曲がり、道なりに行って突き当たりを右に行き、道音坂を下る。この道は、道幅こそ広くはないが、堀割の通っていた旧六阿弥陀道の続きの道で、西ケ原と滝野川との村境にもなっていた。旧六阿弥陀道は、岩槻街道(本郷通り)を経て六阿弥陀寺の一つ、無量寺に出る道だが、さらにその先、千住や浅草にも通じていたため、千住道、浅草道とも呼ばれていた。この道は、古くは、旧鎌倉街道の中道と下道を結ぶ支道であったとされ、豊島氏の居城である平塚城付近を通り、日暮里付近で台地を下り、三河島、三ノ輪の辺りを経て橋場に出る道であったといわれている。

 坂を下ってT字路を左に行ったところに、西谷戸新道の標石が置かれている。この辺りは、北流して石神井川に流れ込んでいた逆川の水源地帯に当たるが、その南側一帯は谷戸川の源流部にもなっていた。谷戸川は、染井霊園近くにあった長池を水源の一つとして、上野の山に続く台地と本郷の台地の間を流れ、駒込を過ぎ、下流は谷田川、さらに藍染川と名を変えて、不忍池に流れ込んでいた川であるが、源流に近い一帯は水田になっていた。大正5年頃の地図には新道に相当するような道は見当たらないが、大正10年の地図では、すでに水田地帯を抜けてくる道が作られている。この道の周辺に人家が密集するようになるのは、昭和に入ってからと思われるが、結果として、谷戸川の汚染が問題となり、昭和7年からは暗渠化の工事が始まっている。その後、暗渠化された谷戸川(谷田川)跡を利用して商店街が形成されていく。現在、西谷戸新道の標石のある角を曲がった先には、ふれあい通り、西ケ原銀座、染井銀座、霜降銀座と商店街が続いていて、散歩がてら歩くには楽しい道だが、今回は曲がらずに先に進み、谷田川通りに出て左折、滝野川一丁目の停留所に出る。

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新庚申塚から西ヶ原四丁目へ

2010-12-19 09:40:58 | 都電荒川線に沿って

 新庚申塚の停留所の右側の道に入る。この道は栄和通りに続く旧王子道のようだが、今はお岩通りという名が付いている。妙行寺に由来する命名なのだろうが、通りの名としてはどうなのだろうか。次の信号で左に入り踏切を渡ると、その妙行寺に出る。なお、この辺りには寺が多く集まっているが、明治以降に移転してきたものである。

 妙行寺の横の道を行くと少し広い道に出る。この道は旧六阿弥陀道で、古くは旧鎌倉街道の中道と下道を連絡する道であったとされる。幕末、滝野川に反射炉を設置するため、千川上水公園の場所にあった千川上水元枡の溜池から引いた用水が、堀割として、この道を通っていたという。この道を右に行くと十字路に出る。直進する道は旧六阿弥陀道、左の道は堀割が直角に曲がって続いていた道である。この十字路を右に行くと西ケ原四丁目の停留所に出る。開業は明治44年で、当時の停留所名は滝野川であったが、昭和33年頃に現停留所名に変更されている。

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庚申塚から新庚申塚へ

2010-12-15 20:06:31 | 都電荒川線に沿って

 庚申塚の停留所から旧中山道を巣鴨方向に歩き、交差点の角の猿田彦大神に行く。交差点から南に行く道は折戸通りで、江戸時代には大塚道と呼ばれていた道である。また、北へ行く道は栄和通りで、江戸時代は王子道と呼ばれていた。猿田彦大神の中に入ると、庚申塚が祀られているという祠がある。しかし内部を見る事は出来ないらしいので、少し頭を下げただけで外に出る。この交差点を過ぎて、巣鴨地蔵通り商店街を歩いて行くと、次第に人通りが多くなってくる。巣鴨駅近くの真性寺まで行き、修理を終えた地蔵尊を拝観したい気持ちは多少あるのだが、おばあちゃんの原宿にはあまり興味が無く、結局、商店街の中を歩くのは途中で止めにして、猿田彦大神のある交差点に戻る。江戸名所図会には庚申塚とその周辺が描かれているが、茶店が並んでおり、この辺りが当時から賑わっていた場所であったことがわかる。江戸名所図会には田畑の中を通る王子道も描かれているが、当時から人通りはあったようである。

 交差点から北へ、栄和通りを歩く。旧王子道である筈の栄和通りだが、すでに、昔の道らしい雰囲気は失われている。そのまま進むと白山通りに出る。信号が変わるのを待ちかねて、急いで向こう側に渡ると、すぐ左が都電の停留所・新庚申塚である。この停留所の開業は昭和12年頃である。庚申塚との間の距離は短いが、昭和になって白山通りが開通し、その上を市電が走るようになると、乗り換えのため、停留所の設置を要望する声が出たのかもしれない。
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巣鴨新田から庚申塚へ

2010-12-10 20:54:36 | 都電荒川線に沿って

 次の停留所まで線路沿いには行けそうにないので、都電とは、しばし別れて明治通りの方向へと歩き、二又で右の道をとる。緩やかに上がって淑徳巣鴨高を過ぎると、ほどなく旧中山道に出る。この辺りの旧中山道には、野菜の種を売る店が多かったため、種屋街道と呼ばれていたといい、今もその一軒が残っている。ここを左に行くと明治通りに出るが、近くの千川上水公園は、千川上水の元枡となる溜池があった場所である。幕末、この溜池から滝野川に水を流すための堀割が掘られるということがあり、交差点の名前も堀割になっている。この交差点を越えて旧中山道を進むと板橋宿に出る。また、旧鎌倉街道の中道の東回りルートは、この交差点の近くを通り、王子の西側を通って赤羽方面に向かっていたとされる。

 今回は、旧中山道を右に行き、庚申塚の停留所に向かう。庚申塚の停留所は、明治44年に大塚・飛鳥山間が開通した時の開業である。この停留所は、多少レトロ風にリフォームされているらしいが、旧中山道・巣鴨地蔵通りに位置しているからなのだろう。ここには、ホームと直結している店もあるが、先を急ぐゆえ今回は立ち寄らない。

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大塚駅前から巣鴨新田へ

2010-12-05 17:18:00 | 都電荒川線に沿って

 大塚駅南口から坂を上がり、駅西側の跨線橋・空蝉橋に行く。この橋から大塚駅方向を眺めると、向こうに東京スカイツリーが見える。しばらく眺めたあと橋を渡り、大塚駅北口に向かって坂を下る。大塚という地名は、本来、南側の台地の上にあった地名で、駅のある場所は、昔は巣鴨村に属していた。しかし、大塚駅がこの場所に設けられたため、現在は、駅の北側が北大塚、南側が南大塚という町名になっている。

 大塚の駅前は谷底のように見えるが、かつて、ここには谷端川が流れていて、都電もこの川を渡っていた。谷端川は、地下鉄千川駅近くの粟島神社弁天池を水源とし、千川上水を助水として南流し、西武池袋線椎名町駅の南側を回り込んでから北に向きを変え、東上線下板橋駅の北側を回り込み、大塚駅近くを通って、下流は小石川と名を変えて神田川に流れ込んでいたが、今では全区間が暗渠になっている。この地に鉄道の駅、大塚駅が開業したのは明治36年のことだが、明治44年になると、大塚駅北口に王子電気軌道の停留所が開業し、大正時代に入ると大塚駅南口に市電の停留所が設けられる。これにより交通も便利になった大塚駅周辺は次第に発展し、デパートもあれば花街もある、東京でも指折りの繁華街になっていく。区内最大の繁華街の地位を池袋に譲り渡すのは、戦後になってからである。

 大塚駅の北口で、都電の線路と分かれ、緩やかに曲がりながら上って行く折戸通りを歩く。折戸通りの名は中山道から折れて入る道ということで名付けられたそうだが、江戸時代からあった大塚から庚申塚に向かう道でもある。この道を巣鴨新田入口の信号のところで左折し、巣鴨新田の停留所に出て踏切を渡る。この停留所は、明治44年に大塚・飛鳥山間が開通した時の開業で、当時は変電所や車庫も併設されていたという。また、王子電気軌道の本社もここにあった。

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向原から大塚駅前へ

2010-12-01 22:48:08 | 都電荒川線に沿って

 向原の停留所から、交通量の多い春日通りを渡る。春日通りは、江戸時代から、中山道に代わる板橋宿へのルートとして良く利用された道筋だが、向原から大塚駅に至る一帯は何も無い場所で、ここが市街地へと変わるのは、大正時代以降のことである。

 都電は大塚駅に向かって長い坂を下っていく。線路に沿って下り、右側の桜並木のある道路に入り、次の角を左に折れて天祖神社に行く。江戸時代には巣鴨村の鎮守で神明宮と呼ばれていた神社だが、江戸名所図会では、十羅刹女堂として取り上げている。なお、同書には、この地にあった鬼子母神像が盗賊に盗まれて雑司ヶ谷に移されたという説が載せられているが、疑問符付きの説のようである。

 天祖神社の参道を下って行くと大塚駅の南口に出る。都電は駅前広場を回り込むようにして大塚駅ガード下の停留所に向かっている。大塚駅前の停留所は、明治44年に飛鳥山・大塚間が開通した際の開業で、当時の停留所名は大塚であった。大正14年、路線は大塚から鬼子母神まで延長されるが、大塚駅付近の軌道が急なカーブで危険であったため、飛鳥山から鬼子母神までの直通運転は認められず、乗客は下車して乗り換えていたという。直通運転が可能になったのは、昭和3年になってからである。

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