夢七雑録

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言問コースを歩く

2013-05-25 18:02:42 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「言問コース」は、「浅草寺町散歩(東上野~仲見世)」、「三社まつり・墨堤散歩(仲見世~桜橋)」、「隅田川七福神散歩(言問橋~鐘ケ淵駅)」の3区間のサブコース(ガイド区分)から成り、総延長は7.3kmになる。

(1)浅草寺町散歩

 このコースは、千住コースの途中から分岐しているが、このコースだけを歩くのであれば、上野駅が起点になるのだろう。上野駅の入谷口を出て左に進み、その先で右側の歩道に移り、信号の手前の角を標識Cにより曲がり、昭和通りを渡り、北上野児童遊園を過ぎ、清洲橋通りを渡り、千住コースと別れて直進する。ここからは、スカイツリーを正面に見ながら合羽橋本通りを歩く。合羽は河童に通じるというわけで、この辺りでは河童の像を良く見かけるが、その本拠ともいうべき寺、かっぱ寺こと曹源寺が通りの途中にある。この寺を過ぎると間もなく合羽橋の交差点となり、この辺りから人通りが多くなってくる。交差点を右折し、少し歩を緩めて、かっぱ橋道具街を歩く。やがて、浅草通りの菊屋橋交差点に着く。合羽橋や菊屋橋の名は、ここを流れていた新堀川の名残だが、「江戸名所図会」の挿絵からすると、新堀川は川船が通るほどの川幅であったらしい。

 菊屋橋の交差点を左に折れ、浅草通りの左側の歩道を進むと、左側に東本願寺があり、その近くの浅草通り沿いには歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。東本願寺は、明暦の大火の後に神田から移ってきたが、他にも多くの寺が移ってきたため、この地は新寺町と呼ばれるようになったという。さらに、いつの頃からか、浅草通り沿いに仏壇仏具店が並ぶようになり、浅草通りは仏壇通りと呼ばれるようになった。案内板のルート図に従い、浅草通りを先に進み、国際通りに出て左に折れ、雷門通りを右に折れて、左側の歩道を進んで行くと雷門に出る。ここは、相変わらずの混雑ぶりである。

(2)三社まつり・墨堤散歩

 三社祭はもともと浅草寺の観音像が出現した3月18日を祭礼日としていた。江戸時代の祭礼では、浅草寺の縁起にもとづいて舟祭などが行われていたが、明治になってからは、三社権現(浅草神社)の祭礼として5月に行われるようになり、祭の形も変わってしまっている。それでも、祭の活況は昔と変わらないのだろう。今年も、初夏を彩る行事の一つとして、三社祭は多くの観客を集め、盛況のうちに幕を閉じている。
 
 三社祭の時は散歩どころではないので、別の日に、このサブコースを歩いてみた。普段でも混雑している仲見世を抜け、宝蔵門をくぐって本堂に上がり、参拝を済ませたあと、浅草神社に行くところまでは定番で、その後は、気ままに散策ということになるのだが、今年は大絵馬寺宝展と合わせて、伝法院庭園が公開されているという事なので行ってみた。この庭園は、伝法院通りの鎮護堂から少しだけ覗き見る事が可能だが、やはり、機会があれば入ってみたい庭園である。
 
 二天門から外に出て、馬道通りを渡り、花川戸公園に行く。ここには、歴史と文化の散歩道の案内板があり、花川戸公園の図や説明が記されている。この地には姥ケ池の伝説があり、それに因む池も公園内に作られている。花川戸公園から隅田公園に行くと、入ってすぐの所に歴史と文化の散歩道の案内板が置かれており、隅田川の西岸と東岸を通る二つのルートが記されている。隅田川の両岸は景勝の地として知られ、広重も東都名所隅田川八景として、「今戸夕照」と題する今戸の瓦焼きの絵など、8点の風景画を描いている。公園内を歩いて、標識Aで隅田川の東岸を歩く七福神散歩のルートと別れ、言問橋の下をくぐって西岸を歩く。スカイツリーを眺めながら歩くには、絶好の散歩コースである。ただ、去年来た時には存在していた平成中村座が跡形もないのは、少しさびしい気もする。スカイツリーを眺めながら桜橋を渡れば、隅田川七福神散歩ルートとの合流点になる。


(3)隅田川七福神散歩

 隅田川七福神めぐりは、恵比寿と大国を祭る三囲神社、布袋の弘福寺、弁財天の長命寺、福禄寿の百花園、寿老神の白髭神社、毘沙門天の多聞寺の6か所の札所をめぐるものである。公園内の標識Aから言問橋に行き、スカイツリーを正面に見ながら、右側の歩道で言問橋を渡ると、右手の隅田公園への下り口がある。石段を下りて右に行き、高速道路下の歩道で言問橋をくぐって北に向かう。ここから先、眺めはあまり良くないが歩きやすい道が続いている。次の信号で右に入ると隅田川七福神の三囲神社の前に出るが、この道を見送って先に進むと右側に鳥居があり、裏門が開いていれば、三囲神社に入る事が出来る。
  
 高速道路下の歩道を先に進むと、桜橋から高速道路の下をくぐって来る道と合流する。ここから右に下りる事が出来るが、その先の信号を左に折れると弘福寺に出る。長命寺は、弘福寺の先にあり、何れも隅田川七福神の札所になっている。高速道路下の歩道の方は、弘福寺と長命寺の裏手を通ることになるが、裏門が開いていれば長命寺に入る事ができる。
 
 高速道路下の歩道を進み、長命寺の桜餅の店を過ぎると、道は右に曲がっていき、T字路に出る。ここを左に渡ると、左手に言問団子の店があり、少年野球場の前には、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。北斎の絵本隅田川両岸一覧のうち「向島の時雨」と題する絵には隅田川沿いの道が描かれているが、今の道で言えば高速道路とその下の道に該当するだろうか。案内板のルート図を確認してから、野球場に沿って曲がり、墨堤通りの左側の歩道を進み、向島入口の信号で墨堤通りを渡る。渡った先の左側に標識Bがあり、ルートは、ここを右に入るのだが、少々分かりにくいかも知れない。多少の屈曲がある道を道なりに進むと、幸田露伴の住居跡に作られた露伴児童遊園があり、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。この案内板には、江戸の大絵図の上に現在地を記した図が載っているが、当然のことながら、現在地に江戸郊外の田園地帯であった頃を思い起こさせるものは無い。ただ、向島百花園のうちに、広重が花屋敷を描いた頃の面影を残すのみである。

 露伴児童遊園の前の道を先に進むと信号があり、ここを渡って右へ、すぐ左に折れて進むと、次の角に標識Cがある。ここを左に行くと向島百花園の児童遊園の前に出る。ここに標識Bがある。児童遊園内を抜けると向島百花園の入口に出る。百花園は、もともと梅園として始められ、亀戸の梅屋敷に対して新梅屋敷と呼ばれていたが、やがて、詩歌に登場する草木が栽培されるようになり、大名庭園とは異なる文人好みの庭園となる。ここは、隅田七福神発祥の地でもあり、園内には福禄寿が祭られていて、正月には開帳も行われる。

 白髭神社へは、百花園を出て右に行くのが近道だが、本来のルートは、児童遊園前の標識Bから西に行き、墨堤通り近くから弧を描くような旧墨堤を進んで白髭神社に出るようになっている。白髭神社から墨堤通りを北に進むと、白髭橋東詰の交差点に出る。ルートは、ここから墨堤通りの左側の歩道を進むのだが、やや単調なので、東白髭公園を通って木母寺を経由しても良いかも知れない。鐘ヶ淵陸橋の交差点に出たら右に折れ、鐘ヶ淵通りに入る。ここからは、車に注意しながらの歩行で、あまり快適な道ではないが、間もなく鐘ヶ淵駅に着く。ここがコースの終点となる。このルートでは、札所のうち多聞寺が外れているので、多聞寺に行く場合は、鐘ヶ淵駅から10分ほど、追加で歩く必要がある。

(注)当ブログの「社寺巡拝」の隅田川七福神の関連記事がある。



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千住コースを歩く

2013-05-11 16:49:26 | 歴史と文化の道
 東京都の歴史と文化の散歩道のうち「千住コース」は、「下谷縁日散歩(上野駅~鷲神社)」、「たけくらべ千住の大橋散歩(鷲神社~北千住駅)」から成る。距離は7.8kmである。

(1)下谷縁日散歩


 谷中コースの、下町風俗資料館近くの標識Aは、千住コースの起点でもあるのだが、千住コースだけを歩くのであれば、上野駅が起点という事になるのだろう。上野駅の不忍口を出て左へ行き上野駅正面を過ぎる。今は少々影が薄くなっているが、ここが上野駅の玄関口という事になる。その先、JRの敷地に沿って北に向かう道を入谷口通りと言うらしいが、この道の左側の歩道を歩いていくと、歴史と文化の散歩道の案内板がひっそりと置かれている。その内容は、ルート図、上野駅の歴史についての説明、明治時代の上野駅の絵である。案内板の少し先には、上野駅の入谷口があるが、出入りする人は多くなさそうである。ここを過ぎてから、右側の歩道に移って先に進み、信号の一つ手前の角を、標識Cにより右に折れると、正面にスカイツリーが見えてくる。この道を進んで昭和通りを渡り、その先の信号を渡った左側に、道路に挟まれた北上野児童遊園があり、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれているが、今は枠だけになっている。児童遊園東側の清洲橋通りを渡って、直進する言問コースと分かれ、左に折れて、清洲橋通りの右側の歩道を北に向かう。

 清洲橋通りは、少し先で昭和通りに合流し、言問通りとの交差点に出る。7月の朝顔市の時は、この交差点の西側には出店が並び、周辺一帯が大混雑する。言問通りを渡って昭和通りを進み、二つ目の信号を右に入る。先に進んで国際通りを渡ると鷲神社の前に出る。毎年、酉の市の時は熊手を売る店が並び、境内は人で埋め尽くされるが、今は、がらんとして拍子抜けするぐらいである。なお、鷲神社は、浅草名所七福神の寿老人も祭っている。

(2)たけくらべ千住の大橋散歩


 鷲神社の前を北に少し行くと、右斜め前方に入る道がある。この道に入り、次の角を左折すると、下谷七福神の飛不動がある。飛不動の前を北に向かって進み、信号を右折して次の角を左折すると、その先に一葉記念館がある。時間があれば寄りたいところだが、今回はパスして、記念館の前の道を北に進み、左に折れて飛不動の前の道に戻る。この道を北に進むと、下谷七福神の寿永寺に出る。この道をさらに進むと、明治通りに出る。渡れば、三ノ輪駅の入口がある。


 三ノ輪駅入口から北に行き、次の角を標識Cに従って右に折れる。道は分かりにくいが、投げ込み寺とも呼ばれた浄閑寺の前を通る道がルートである。ここから、左側の歩道を東に向かって歩いていくと、昔の奥州街道(日光街道)、吉野通りに出る。ここを標識Cにより左折し、その先の跨線橋を渡る。橋を下りた左側には小塚原の処刑場跡があり、常磐線のガードをくぐった先には回向院がある。先に進んで、南千住七の信号で左に折れる。ここからは右側の歩道を歩き、日光街道を渡って、その先の千住間道を進むと、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、ルート図、奥州街道と千住宿の説明、江戸名所図会による千住大橋の図である。当初の千住宿は現・北千住駅近くにあったが、次第に拡張され、後には千住大橋の南側も千住宿に組み入れられるようになったという。


 千住間道を西に進むと、荒川総合スポーツセンターに出るので、ここを右に折れる。この辺りは、明治時代に千住製絨所という官営工場があり、戦後には大毎オリオンズの本拠地・東京スタジアムがあった場所でもある。先に進み、次の角を野球場に沿って右に折れ、道なりに左折し、さらに右に折れる。スーパーの横に千住製絨所の煉瓦塀の一部が今も残っている。その先の左側には荒川ふるさと文化館があり、ここも入ってみたいところだが今回はパスして、その先の素盞雄神社に寄ってから日光街道に出る。


 左側の歩道で日光街道を進み、千住大橋で隅田川を渡る。橋を渡った先の左側に、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、広重の「名所江戸百景・千住乃大はし」の図、蕪村の「奥の細道図屏風」の部分図、千住大橋の説明である。蕪村の図は、芭蕉の「奥の細道」を蕪村が書写し俳画を加えた屏風で、案内板には、「月日は百代の過客にして・・」に始まる序章と旅立が取り上げられている。案内板の文章は読みにくいが、8行目は「草の戸も住替る代ぞひなの家」、また、その先の○の後は「いく春や鳥啼魚の目ハ泪」と思われる。


 先に進んで、次の信号で現・日光街道を渡ると、千住宿奥の細道プチテラスがあるが、プチテラスの前の道が旧街道である。この道を進み京成本線のガードをくぐって千住河原町を歩く。ここには千住宿歴史プチテラスがある。この辺り、元やっちゃ場(青果市場)の表示も目につく。もとは堤防であった墨堤通りを渡り、江戸時代には掃部宿と呼ばれていた千住仲町を進むと、東京芸術センターの前を通る道路に出る。この道路は、江戸時代に水路だったところで、その南側には一里塚や高札場があった。この水路を小橋で渡った先が当初からの千住宿(本宿)で、橋の近くには問屋場や貫目改所が置かれていた。ここから先、今は千住本町センター商店街になっている旧街道を進むと、駅前通りに出る。標識Bにより駅前通りを右に行くと、このコースの終点、北千住駅となる。

(注)当ブログのカテゴリー「社寺巡拝」に下谷七福神の記事あり。
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